対策のない一行
危険の一覧は、四十七行になった。
準備室の長い作業卓に、清書した紙を広げる。マルタが、赤い鉛筆を握って、一行ずつ、上から読んでいった。
「席札の取り違え。対策、札の裏に卓番号と席番号を小さく記す。よろしい」
「はい」
「呼名の誤り。対策、典礼官が読み上げる名簿と、席札の名簿を、別々の書記が作り、前日に突き合わせる。よろしい」
「はい」
「給仕の動線の混乱。対策、通路の幅を再測量、前日に給仕長と空の広間で通し稽古」
マルタは、そこで鉛筆を止めた。
「通し稽古に、料理を載せた盆は、使いますか」
「……いえ。空の盆で、考えていました」
「盆は、重い。料理が載れば、曲がれる角度が変わる。水を入れた皿で、やりなさい」
「はい。追記します」
私は、慌てて余白に書き込んだ。
マルタの鉛筆は、止まっては動き、動いては止まる。一時間ほどで、赤い印が、十五か所ついた。
「最後。この一行」
マルタが、紙の末尾を指した。
「『ザルツ側の随行者が、円卓を、序列の否定と受け取る恐れ』。対策の欄が、空です」
「……はい」
「なぜ」
「対策が、思いつかないのです。受け取る側の気持ちは、こちらで決められないので」
「そうですね」
マルタは、鉛筆を置いた。
「対策のない危険は、危険ではなく、言い訳です。空欄のまま出すくらいなら、『対策なし』と、堂々と書きなさい。ヴァイス伯爵は、隠した穴より、見せた穴の方を、ずっと信用します」
そう言って、マルタは、眼鏡を押し上げた。
「あの人は、あなたを試しているのです。落とそうとしているのではない」
「……はい」
その夜、準備室の灯りは、遅くまで消えなかった。
私は、赤い印を一つずつ直しながら、時々、窓の外を見た。
隣の部屋にも、灯りがある。長官の部屋だ。
書状の写し、広間の改装の見積もり、近衛との連絡。私が預かったのは、そのうちの一部にすぎない。
十時の鐘が鳴った。
私は、ペンを置いて、立ち上がった。
「ベル書記官」
「何です」
「長官を、止めてもよろしいでしょうか」
マルタは、書類から目を上げた。
しばらく、私を見て、それから、口の端を、わずかに上げる。
「局の内規、第十二条。局員は、連続して三晩を超えて、局に泊まってはならない。長官を含む」
「そんな規則が、あるのですか」
「二十年前に、できました」
その一言で、胸の奥が、ぎゅっと締まった。
二十年前。ルドルフ様の、帰らなかった夜。
私は、長官の部屋の扉を叩いた。
「入ってください」
長官は、机に向かっていた。上着は、椅子の背にかけられている。目の下の影が、昨日より、濃い。
「長官。今夜は、お帰りください」
「まだ、確認が残っています」
「それは、明日の朝でも、間に合います」
「間に合うかどうかは、私が判断します」
声は、丁寧だった。けれど、わずかに、固い。
私は、息を吸った。
「内規第十二条です。長官は、すでに、三晩目です」
「……内規を、よくご存じですね」
「先ほど、ベル書記官に、教わりました」
長官の手が、止まる。
「長官が不在の間に、誤りが出たら、どうするのか。そうお考えでしょう」
「……ええ」
「記録します。事実のとおり」
自分でも、驚くほど、はっきりした声が出た。
「そのうえで、翌朝、お知らせします。長官が戻られたとき、どこまで進み、どこで止まっているのか、一枚の紙にして、机に置いておきます」
「それは、私の仕事を」
「いいえ。長官の仕事を、取るのではありません。長官が戻る場所を、整えておくのです」
扉の隙間から、マルタの咳払いが聞こえた。
長官は、長い間、黙っていた。
やがて、ペンを、置く。
「……父の言葉を、思い出しました」
「お父上の」
「書記を信じなさい、と。そう言っていた人でした。自分では、できなかったのに」
長官は、苦笑のような表情を浮かべて、上着に手を伸ばした。
「帰ります。明朝、七時には、戻ります」
「八時で、構いません」
「七時です」
「……では、お待ちしています」
それが、私たちの、精一杯の折り合いだった。
長官が、階段を下りていく足音を聞いてから、私は、深く息を吐いた。
扉の陰から、マルタが、顔を出す。
「悪くありませんでした」
「それは」
「今夜のうちは、最高の評価です。明日の朝には、忘れなさい」
そう言って、また、扉の向こうへ消えた。
翌朝、七時より少し前に、私は、長官の机の上に、一枚の紙を置いた。
『昨夜の進捗。①危険の一覧、四十七行、清書済み(ベル書記官の確認一回目終了)。②改装の見積もり、三項目のうち二項目の数字を照合済み、残り一項目は午後。③ザルツへの照会状、草案の写しを添付。未決は、ヴァイス伯爵への提出日のみ。——セシリア』
七時ちょうどに、長官が、扉を開けた。
昨日よりは、顔色が、ましだった。
机の紙を、無言で読んで、それから、小さく頷く。
「字が、読みやすい」
「……ありがとうございます」
「それから、紅茶を」
「すぐに」
湯を沸かしに行く途中、トビアスが、そっと寄ってきた。
「ローレン様。昨日の午後、クレイン伯爵家の家令が、局に来たのです」
「クレイン家の」
「茶会の席次について、助言をいただけないか、と。局は、私的な茶会の席次には関与しない、と、規定どおりお断りしました」
「そうでしたか」
「『ローレン様に』とは、一言も、おっしゃいませんでしたよ」
「……ええ。そうでしょうね」
私は、小さく息をついて、給湯室へ向かった。
胸に、ちくりとしたものが、あった。同情と、呼べるかもしれない。けれど、それを引き受けてはいけないのだと、思った。
あの席次表は、もう、私の仕事ではなくなったのだ。
五日目の午後、ヴァイス伯爵は、約束の時刻より、四半刻も早く、準備室に姿を見せた。
長官も、私も、マルタも、すでに席に着いていた。
四十七行の一覧を、伯爵は、一言も発さずに、読み進める。
ときどき、指が、ある行の上で止まる。
読み終えるまでが、ずいぶんと、長く感じられた。
「この、通し稽古の盆」
伯爵が、顔を上げた。
「水を入れた皿を使う、とある。誰の発案ですか」
「ベル書記官の、助言です」
私は、迷わずに答えた。
「私が、気づかなかった点です」
ヴァイス伯爵は、わずかに、目を細めた。
「自分の穴を、他人の功として、隠さずに書く。これは、なかなか、できないことです」
伯爵は、末尾の行へ、指を滑らせた。
「そして、この一行。『対策なし』とは」
「はい。ザルツ側が、円卓を、序列の否定と受け取るかどうかは、こちらでは決められません。ただ、事前に、こちらの意図を、文書で、丁寧に説明することは、できます。それが、今できる、すべてです」
「失敗する可能性を、認めるのですか」
「はい。認めたうえで、続けたいと思っています」
伯爵は、長い間、私を見つめていた。
「……条件を、出します」
準備室の誰もが、息を詰める。
「一つ。建国祭の三週間前までに、小規模な模擬晩餐を行い、円卓の席次が、実際に機能するか確かめること。二つ。ザルツからの返答が、建国祭の二十日前までに、得られなかった場合、円卓案は撤回し、従来の長卓に戻すこと」
「承知いたしました」
長官が、頭を下げる。
「それなら」
ヴァイス伯爵は、そこで、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「この案に、賭けてみる価値は、あるでしょう」
賭け。
その言葉が、重く、腹の底に落ちた。
伯爵が帰っていったあと、マルタが、小さく言った。
「条件つきの賛成。この局で、二番目に、いい評価です」
「一番目は」
「条件のない賛成です。滅多に、出ません」
私は、思わず、笑ってしまった。
書類を揃えながら、長官が、ぽつりと呟く。
「検討会のとき、あなたを、かばえませんでした」
「かばわなかったのだと、思っています。必要なことでした」
「……そうですか」
長官は、少し、困ったような顔をした。
「次は、もう少し、うまくやります」
「いえ。あのままで、結構です」
そう答えると、長官は、一瞬だけ、目をしばたたかせた。
その翌朝。
出勤すると、トビアスが、封書を一通、両手で捧げるようにして、私の机へ駆けてくる。
「ローレン様。ザルツ大公国からの、返書です」
「もう、ですか」
「早馬が、夜のうちに、届けてくれたそうです。長官は、先にお読みです」
長官の部屋へ行くと、マルタと長官が、すでに、机を挟んで向かい合っていた。
書状は、机の中央に、広げられている。
差出人は、ハインリヒ・フォン・ザルツ。
丁寧なヴェルデン語だった。けれど、最初の書状よりも、さらに、癖が強い。
マルタが、低い声で、読み上げる。
「『ご照会の件、承知いたしました。我が国の七柱の序における母方の家系は、文書には残さぬ習わしです』」
息が、止まった。
「『名簿は、到着の日、使節団長自らが、口頭にて、貴国の典礼官にお伝えします。事前に、お示しすることは、できません』」
「……つまり」
声が、かすれた。
「序列は、当日まで、分からない。席次表が、事前に、作れない」
「はい」
長官は、書状から、目を上げなかった。
「しかも」
マルタが、続きを、読む。
「『なお、二十年前の晩餐会の記録を、貴局が、今もお持ちであれば、拝見したく存じます。使節団長として』」
静まり返った部屋に、書状を置く音だけが、響いた。
ハインリヒ公は、あの記録を、知っている。
そして、それを、見たがっている。
私は、手元の一覧の、末尾の行を思い出した。
『対策なし』。
その空欄が、今、はっきりと、輪郭を持ち始めていた。
二十年前の記録は、あの地下の棚に、今も眠っている。
その鍵を、預かっているのは、私だ。




