第2話:お家には誰もいない
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どうしてだろう。
なぜか見知らぬ男の子と自宅に辿り着いてしまった。
私が玄関の鍵を開けた瞬間、彼は待ってましたとばかりに、片手を扉に添え、反対の手で玄関の中をスッと差し示した。
「さぁ、お先にどうぞぉ」
「お邪魔します……?」
なんで私の家なのに、こんなにおどおどしなきゃいけないんだろう。そんなことを考えながら、薄暗い玄関へと一歩踏み出した。
「ただいま……」
いつものように家の中へ声をかける。けれど、返ってくるのは相変わらずの静かな反響だけ。
もっとも、期待なんかしていない。家族の中で一番に帰ってくるのは、いつだって私なのだから。
その静寂を裂くように、彼が閉めたドアの鍵の音が玄関に響いた。
「華、とりあえず着替えてきぃ」
その言葉にうなずき、脱いだ靴のかかとを揃えてから、玄関へと上がる。そして、手洗いうがいを済ませて階段を登り、自分の部屋のドアを後ろ手にぱたりと閉めた。
「なんで素直に家に入れちゃったんだろう……」
ドアを背に脱力しながら、思わずため息と独り言が漏れてしまった。
普通に考えて、すごく怪しいはずのあの男の子。自分でも自分が信じられない。だけど――だって、耳や尻尾があまりにもふわふわだったから。
そう、私はふわふわなモノに目がないのだ。
ぬいぐるみで埋め尽くされた私の部屋は、ふわふわでもふもふな最高の癒し空間だ。本物の動物を家で飼えたらなぁ……なんて思うこともあるけれど、今の我が家には現実的ではない。本物は、友達の家の犬を撫でさせてもらって我慢している。
あれやこれやと考えながら階段を降りると、いつもは暗いリビングから明かりが漏れていた。
温かな光へと誘われるように向かうと、彼は我が物顔でソファに座ってくつろいでいた。私の視線に気が付くとぱっと振り返り、ソファの背に片腕を預けたまま、嬉しそうに微笑んだ。
そして――
彼の口から、私が何より欲しかった言葉が向けられた。
「おかえり、華」
その声を聞いた途端、雷に打たれたような衝撃が走った。何かが全身を駆け巡り、私の身体が小さく震える。
この家でこの言葉をかけられたのは、いつぶりだろう。
五歳の時にお母さんを事故で亡くしてから、いつだって家の中は静かだった。
小学生の時の放課後は近所のおじいちゃんの家にいたりもしたけれど、それも次第になくなった。私が中学生になってからは、お父さんもお兄ちゃんも仕事や大学にと、さらに忙しくなって帰りが遅くなった。
空っぽのリビングへと「ただいま」と零すだけだった私の日常。
それは家庭の事情であり、仕方のないことだった。
――そう思っていた。
誰かが待っていてくれる。
そんな感覚は、記憶の底で色褪せていたはずなのに。
彼のたった一言が、忘れていたはずの寂しさまで、強引に引きずり出してしまった。
「今日の擦り傷、消毒しよ。僕がやったるわ。ソファ、座って」
硬直する私の手の甲へ視線を落とした彼は、ポンポンと手でソファを叩いて座るよう促した。
私が座るのと入れ違いに、彼はすくっと立ち上がり、迷いなく救急箱を取り出した。どこに何があるのか、まるで自分の家のように分かっている様子で、手際よく消毒の準備を進めていく。
「ここに手、置いてな」
ソファに座る私の足元に、まるで騎士のように膝をついて、彼は身をかがめた。差し出された大きな手のひらに導かれるまま、私は自分の手を彼の膝の上へと預ける。驚いたことに、彼は手際よく傷を消毒し、その上から優しく絆創膏を貼ってくれた。
傷は痛くなかった。
けれど、絆創膏をじっと見つめていると、視界の輪郭がじわりとぼやけていった。
「ど、どうしたんや。痛いんか!? それとも、絆創膏にうさぎさんか!? 上手いこと、描かれへんと思うけど……」
彼はそう言いながら、慌ててペン立てから油性ペンを取った。
貼ってくれた絆創膏へ絵を描き始め、難しい顔をしながら出来上がったのは、ふにゃふにゃの線で描かれたうさぎさん。
「うさぎ、描いてみたけど……華のおかあみたいには、出来んかったなぁ」
申し訳なさそうに頭の上の白い耳をペタンと下げる彼。笑顔を返そうとしたけれど、私の目からはなぜか涙がボロボロとでてきた。
「ふふ……下手、だなぁ……」
うさぎさんが見えないくらい、視界が滲んだ。
身の回りのことは、すべて一人でこなせる年齢になった。
だけど、それは好きでそうしていたわけじゃない。
もう大きくなったんだから、自分で出来る。
その言葉通り、確かに今の私には出来てしまう。
でも……。
やっぱり本当は、ずっと寂しかったんだ。
彼から差し出された温もりに触れた瞬間、ダムが決壊したように感情が溢れ出した。止めようとすればするほど、涙はとめどなく零れ落ちる。
ふいに、ふわっと全身を包み込まれた。彼の胸元へと抱き寄せられ、背中を優しく、とんとんと叩かれる。
「よーしよし。泣いてる子には抱っこ、やでぇ」
まるで小さな子をあやすような、そのリズム。彼の顔は見えていないけれど、優しい笑顔のイメージが浮かぶ。
温かくて、まるでお日様みたい。
昔、お母さんがお布団を取り込んでいた時と同じ匂いだ……。
記憶の奥底に眠っていた思い出の匂いが、ふわりと蘇る。
意識が一瞬、遠のきかけた、その時。
ふと頭が重くなり、私の頭が左右に揺れ始めた。
「こうすると、嬉しいやろ?」
パッと顔を上げると、とびきり嬉しそうな笑顔が目の前で揺れていた。
……いや、私の頭が揺らされているからだ。
その表情を見るに、どうやら本気で『これが華の喜ぶ撫で方だ』と信じ込んでいるらしい。
あまりに豪快な手つきに、私の頭はもじゃもじゃだ。
「これは……動物の撫で方だよ……」
苦笑いで伝えると、彼はきょとんとして、慌てたように手を止めた。
「えっ、そうなんか? いや、だって華も触ると嬉しそうやったし、触られとる奴も嬉しそうやったから……」
そんな彼の言動に、さっきまであんなに張り裂けそうだった心の痛みも、涙も、すっかり引っ込んでしまった。
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