第2話:お家には誰もいない
私が家の鍵を開けると、彼はドアノブを持ち、まるで自分の家であるかのように堂々と扉を開け、それから私を玄関の内側へと促した。
「お先にどうぞぉ」
「お邪魔します……?」
なんで自分の家なのにこんなにおどおどしなければならないのかと疑問に思いながら、薄暗い玄関へと一歩踏み出す。
「ただいま……」
一応、家の中に声をかけてはみるが、室内はしーんとしていて静かだ。
そりゃそうだ。いつも一番先に帰るのは私なのだから。
お母さんが事故でいなくなってからは、お父さんもお兄ちゃんも忙しくて帰りが遅かった。特に中学生になってからは、いつだってリビングは静まり返っていた。
「とりあえず、着替えてきぃ」
彼に促され、いつも通りに手洗いうがいをすませて、階段を登り、自分の部屋へと入る。
ドアを閉めながら、つい、心の声が漏れてしまった。
「なんで素直に家にいれちゃったんだろう……」
普通に考えてすごく怪しいはずのあの男の子。うーん……耳とか尻尾がふわふわだったからかなぁ……。
そう、わたしはふわふわなモノに目がないのだ。私の部屋はぬいぐるみだらけ。友達の家の犬にもいつも触らせてもらってホクホクしている。家で飼えたらなぁ……なんて思うこともあるけれど、それは今の生活だと現実的ではない。
ぐるぐると考えを巡らせながら、階段を降りていく。
電気の付いたリビング。勝手にソファに座ってくつろいでいた彼はこちらを向き、私を見つけると顔全体をほころばせて微笑んだ。
「おかえり、華」
その彼の声を聞いた途端、なにかが全身を駆け巡るようだった。
お家に帰ったとき、いつも空っぽのリビングに「ただいま」と零すだけだった私の日常。
何をするにも自分でするのが当たり前で、誰かが待っていてくれるなんて感覚は、記憶の底で色褪せていたはずなのに。
――この言葉をかけられたのは、何年ぶりだろう。
そんな私にとって、彼の何気ない「おかえり」という言葉は、心の奥底で凍りついていたはずの温もりを、強引に引きずり出すには十分すぎた。
「今日の擦り傷、消毒しよ。なんでかわからんけど、触れるようになっとるから、僕がやったるわ。ソファ、座って」
ポンポンと手でソファを叩いて私を座らせ、救急箱を取り出し、消毒の用意をした。彼は、何故か、私の家の中のどこに何があるのかが分かっているようだった。
「ここに手、置いてな」
彼の手のひらの上へ私の手を重ねるよう促し、手際よく傷を消毒し、手の甲へ絆創膏もペタリと貼ってくれた。
痛くはない。でも、手の甲に貼られた絆創膏をじっと見つめていると、視界がじんわりと滲んで、なんだか涙が溢れそうだった。
急に静かに俯いてしまった私を見て、今度は彼の方が激しく狼狽え始めた。
「ど、どうしたんや。痛いんか!?それとも、絆創膏にうさぎさんか!?上手いこと、描かれへんと思うけど……」
そう言いながら慌ててペン立てから油性ペンをとり、絆創膏へと絵を描き始めた。
出来上がったのは、ふにゃふにゃの線で描かれたうさぎさんだった。
「……華のおかあみたいには、出来んかったなぁ」
申し訳なさそうに、頭の上の白い耳をペタンと下げた。
「下手……だなぁ……」
ふふと笑うつもりが、何故か涙がボロボロとでてくる。
もう大きくなったんだから自分でなんでも出来る。実際できるのだが、そう思いながらも、多分、少しだけ寂しかったのだ。
止めようとすればするほど、目に溜まった水が溢れては零れ落ちる。
不意に、ふわっと全身を大きな温もりに包み込まれる感覚があった。
「よーしよし。泣いてる子には抱っこ、やでぇ」
その顔は見えていないけれど、優しい笑顔のイメージが浮かぶ。温かいな……まるでお日様みたい。昔、お母さんがお布団を取り込んでいた時と同じ匂いだ……。
記憶の奥底に眠っていた母の匂いがフワリと蘇り、心地よさに意識が一瞬遠のきかけた、その時。
ふと頭が重くなり、私の頭が左右に揺れ始めた。
ワシャワシャと豪快に撫でまわされている私の頭。
「こうすると、嬉しいやろ?」
パッと顔を上げると、彼はこれ以上ないくらいのニコニコ笑顔を浮かべていた。もの凄く嬉しそうなその表情を見るに、どうやら本気で『これが華の喜ぶ撫で方だ』と信じ込んでいるらしかった。
彼のあまりに豪快な手つきに、私の頭はもじゃもじゃ。
「これは……動物の撫で方だよ……」
私が苦笑しながら指摘すると、彼はきょとんとして、それから慌てたように手を止めた。
「えっ、そうなんか? いや、だって華、昔からふわふわしたもん見ると凄く嬉しそうやったから……」
さっきまであんなに張り裂けそうだった心の痛みも、涙も、すっかり引っ込んでしまった。




