第17話:沈み、沈む
「――そうしたら、とりあえず。せっかくここに来たし、香に挨拶させてもらうわ」
そういってブンタさんはすっと靴を脱ぐと、家の中へとズカズカと上がり込んできた。
私がどこにあるかも教えていないのに、リビングの横の和室、お母さんの仏壇の前へ、粛々と座った。そもそも、どうして私のお母さんを『香』と親し気に呼ぶのだろうか。
ブンタさんが両手を合わせて数分が経ち、彼の後ろに座っていた私たちへと向き直った。
「シロのことも見えとるんやったら、香の話もせなあかんな」
狸の妖、ブンタさんは、そう言って、覚悟を決めたように頷いた。どこか懐かしそうに、けれど悲しそうに、彼は『全て』を話し始めた。
◇
風来坊のこの俺が、大妖怪のこのお狸様が、今や、何が悲しゅうて幼稚園の子供のお守りなんかしとんやろ。
……まぁ、かわいいもんやけど。
おままごとなんか、何がおもろいんや。
おお、上手に包丁持って、切るやんか。
はぁ、煙草も吸われへんし、雨脚も強くなってきたし……昼寝でもしよかな。
教室の隅で、ウトウトし始めた途端、何か、とてつもなく嫌な気配を感じ、俺は駆けだした。
◇
「華ちゃん、今日はお家の人のお迎えが遅くなるから、先生とあそぼっか」
「うん! せんせいも りんごきってー」
いつものせんせいじゃないせんせいと、おままごと!
おともだちはみんなかえったのに、おむかえにきてくれない。
もう、おかあさんったら!
おひるねしてて、おねぼうしちゃったのかな。
おかいもので、とってもならんでいるのかも。
あめもザーザーふってて、おそとでもあそべない。
りんごと、にんじんと、ぴーまんを、まぜまぜ。
おままごとなら、ぴーまん、たべられるよっていわなきゃ。
まだかなぁ。
まだかなぁ。
◇
雨がしとしと降る中、私はいつものように娘を迎えに幼稚園へと向かっていた。少し早めに家をでたのは、雨音を楽しみながらゆっくりと歩いて行こうと思ったからだ。
川にかかる小さな橋を渡りきると、娘の通う幼稚園が見えてくる。
その時だった。
視界の端、川のほとりで黒い影が散ったように見えた。私は不思議に思い、思わずそちらへと目をやった。
川の真ん中で、白いものが浮いたり沈んだりを繰り返している。目を凝らしてみると、それは一匹の白い狐だった。どうやら溺れているようだ。
この川は膝くらいの深さで、人間なら渡ることができる。私は迷うことなく、急いで川へと足を踏み入れた。
白い狐のもとへ駆け寄った。まだ幼い、小さな白狐。その小さな足が、水草に絡まっている。子狐はバタバタと必死に暴れているけれど、もがけばもがくほど水草はより強くその小さな足に絡みつく。
焦れば焦るほど、空から降り注ぐ雨は勢いを増し、川面を叩きつけていく。
「大丈夫だよ」
そう声をかけて子狐を抱いた瞬間、私は背筋が凍るような感覚に襲われた。気付けば、腰の辺りまで水位が上がっている。さっきまでの穏やかさはどこへ消えたのか、荒れ狂う濁流が、私と腕の中の小さな命を飲み込もうとしていた。
あぁ、華を迎えに行かなくちゃいけないのに。
濁流は容赦なく私たちを飲み込み、深い闇の中へと引きずり込んでいった。
◇
「普通の狐は狐色!茶色!お前は真っ白、弱い色!」
「昔から白狐は長生きしない。弱い奴ってお父さんもいってたもーん!」
違う!僕は、弱くないもん!みんな、そんなこと言わないでよ!
「じゃあ、ここから向こう岸まで一度も足を付かずに泳ぎ切ったら、弱くないって認めてやるよ」
絶対に、絶対に、向こう岸まで行ってやるんだ!
ぜんぶの足で水をかき、水しぶきが顔にかかっても、必死に前へと進む。
あと半分のところで、いやな感触が後ろの脚に絡みついた。もがけばもがくほど、だんだんひどく絡まり、水中に引きずり込まれちゃう。
ごぼり、と大きな泡が口からこぼれた。たくさんお水を飲んじゃった。おめめも開けられない。
苦しい……息が……できない……。
意識が消えていく途中、冷たい水の中で、温かいものにそっと包まれた気がした。
「……お家……かえ……」
暗闇に沈んでいく途中でだれかの声と大きな水の音が聞こえて、全部の音がなくなった。
◇
四つ足になった方が早い、と狸の姿になり、俺は嫌な予感を振り切るように走る。
しかし、俺は見つけてしまった。
小さな橋のかかった川の真ん中で、浮いている塊。
見紛うはずもない、あの華奢な背中。
生の気配のない、それは――
――香!?
慌てて、川へと入る。
嘘やろ……嘘やって言うてくれ……。
人のかたちへと戻り、無我夢中で彼女を抱きかかえ、川岸へと引き上げる。
その腕にあったのは、優しく守るように包まれた、白い子狐の亡骸だった。




