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千日の雨を越えて、あなたの声だけが響いていた〜私がすべてを捧げた彼は、時空を越えて私を守る最強の盾でした〜  作者: 萩雨 柊


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第8話 エレベーターホールと生々しい渇望(九条視点)後編

――オフィスに戻り、彼女がここで業務終わりまで仕事をしていいかと尋ねてきた時、僕は迷わず午後の予定をすべてキャンセルした。

再び二人きりになった小さな会議室で、僕たちの密やかな時間は、緩やかに、しかし確実に密度を増していく。


「あの、水が買いたいんですけど……自販機はありますか?」


「じゃあ、買いに行きましょうか」


彼女が言うので、並んでフロアの自販機まで案内する。いざ買おうとした時、彼女は小銭入れを会議室に置いてきてしまったことに気がついて慌てていた。


「あ……すみません、小銭が……」


「いいですよ。何がいいですか?」


「……では、お水をお願いします」


彼女の冷たいペットボトルと自分の飲み物を買い、手渡す。

暖房の効いた少し乾燥したオフィスの中で、彼女がペットボトルの蓋を開け、無防備に上を向いて水を飲んだその一瞬。


伸びた白い首筋。僅かに開いた艶やかな唇。少し強調された豊かな胸のライン。


そんな無防備な姿から、僕は目を逸らすことができなかった。

無意識に彼女の全身の輪郭を視線で追ってしまっていた。

オフィスという理性的な空間で、ただの「雄」としての強烈な欲情が僕を支配していた。


あわよくば、このあと夕食にも誘えないだろうか。


そんな淡い期待を抱きながら、ビジネスライクな口調で「終わりの時間を設定しましょう」と提案した。

しかし、彼女の口から返ってきたのは「夫と一緒に帰る約束があるから、六時過ぎには出たい」という、僕が一番直視したくなかった現実だった。


「分かりました」


短くそう返したものの、浮かれていた心に、冷水を浴びせられたような敗北感。 「夫」という、彼女を一番近くで支える資格のある存在。

その事実に胸の奥が鋭く痛むが、僕は、彼女がその人と幸せでいることを願わなければならないと自分に言い聞かせていた。

僕の手の届かない場所で、彼女が笑っていてくれるのなら、それでいい——そう自分に言い聞かせる端から、独占欲がその誓いを内側から食い破ろうとする。


平静を装って、僕はプロジェクトの議論を再開した。


狭い机を挟んで白熱する議論の中、僕が投げる抽象的で未完成な思考の断片を、彼女は瞬時に拾い上げ、完璧な論理の結晶へと再構築していく。

その常人離れした高度な情報処理能力と、一切の淀みがない聡明さ。


彼女の知性が鮮やかに冴え渡る瞬間を見るたび、僕はどうしようもなく惹きつけられ、その圧倒的な魅力にひれ伏したいような衝動に駆られた。


話題が他部署との連携という厄介な問題について移っていった時。


「ああもう、本当にいや……」


理不尽な状況に限界がきたのか、彼女がふっと肩の力を抜き、無防備に机に深く身を沈めて突っ伏し、小さい声で弱音をこぼしたのだ。

普段の完璧な彼女からは想像もつかない、子どものような素直な姿。


「そうだよね。……ごめんね」


僕がそう優しく労うと、次の瞬間には、はっと顔を上げて何事もなかったかのように仕事の顔に戻っている。

そのギャップがあまりにも可愛くて、愛おしくて、僕はたまらずふっと笑い声を漏らしてしまった。

その一挙手一投足が愛おしくて、僕は彼女からもう一秒たりとも目が離せなくなっていた。

次はどんな表情を見せてくれるのだろう。 完璧な仕事の顔と、時折見せる可愛らしい少女のような素の顔。

冷静を装って仕事の話を続けている彼女だが、僕に見つめ返してくるその瞳の奥には、隠しきれない動揺と、熱が現れていた。

僕は全神経を集中させて彼女を観察し、彼女のすべてを記憶の中に刻み込もうとしていた。


六時という明確なタイムリミットが設定された後、僕たちはまるで磁石に吸い寄せられるように、互いの瞳から視線を外せなくなっていた。


彼女の長いまつ毛に縁取られた真っ直ぐな瞳の奥に吸い込まれそうになる。


視線が交差するだけで、次に相手が発する言葉が手に取るようにわかる。

僕たちにしか通じない、他者が一切入り込む隙のない特異なシンクロニシティ。


二人だけの閉じた世界で、言葉を交わしながらも、魂の深い部分で触れ合っているような、圧倒的な引力。一秒でも長く、彼女を独占したかった。


先ほど、彼女が身を乗り出した時に届いた、ふわりと漂う甘い匂い。

すぐ隣から伝わってきた、生身の温かい体温の記憶。

それらが正面に座る彼女の姿と重なり、僕の僅かな理性を、今にも焼き切ってしまいそうになる。


――結愛さん


脳内で、僕の声が熱く震えて彼女の名前を呼ぶ。

彼女を強く抱き寄せ、その理知的な唇を強引に塞ぐ。


驚きに見開かれた瞳が熱く潤み、やがて僕を受け入れて、甘く切ない吐息をこぼす。

愛おしさに震えるように僕の後頭部を強く抱きしめ、僕という存在にすがりついてくる――。


彼女の細胞の隅々までを甘く蕩かして、僕なしでは息もできないほどに深く溺れさせてしまいたい。

狂おしいほどの熱と震えで僕だけを求めてくれる彼女の姿が、この心を満たしてくれる。


――真剣に仕事の話をする彼女を見つめながら、僕の脳内ではそんな生々しく、狂おしい妄想が止めどなく繰り広げられていた。


五時間は、残酷なほど一瞬で過ぎ去った。


「そろそろ、時間ですね」


名残惜しさに胸が締め付けられる。エレベーターホールで彼女を見送る時間が来てしまった。


「今後はこうして、定期的に会いましょう」


これ以上彼女との繋がりを絶たれたくなくて、仕事にかこつけた必死の口実を絞り出す。


「はい。私、今日こうしてオフィスで九条さんと一緒に仕事をするの、すごく楽しかったです」


彼女が花がほころぶような無邪気な笑顔でそう答えてくれた瞬間、胸の奥がぎゅっと熱く締め付けられた。 彼女も僕との時間を楽しんでくれていた。


その事実がたまらなく嬉しい一方で、今すぐ彼女が「夫」の元へ帰ってしまうという現実が、どうしようもなく僕の心を狂わせる。


本当はただ、「あなたに会いたい」「あなたが好きだ」と、まっすぐに伝えたかった。

けれど僕は、その一番簡単な言葉を、彼女の前ではどうしても口にできなかった。

彼女には「夫」がいる。僕の想いを告げてしまえば、彼女の今の幸せを壊してしまう。


だから僕は、仕事という口実の檻の中で、不器用に、回りくどく、彼女に手を伸ばし続けるしかなかった。


「できればこちらにも……大阪オフィスにも来てください」


「えっと、それはさすがにハードルが高いですね……」

困ったように苦笑いでお茶を濁す彼女。


紳士的な大人の男を演じることなど、もう限界だった――


エレベーターが到着し、彼女が僕に背を向けて歩き出した瞬間、強烈な喪失感と焦燥感が襲ってきた。


「旅行で京都でもいいです! 私が案内しますから!」


気づけば、彼女の背中に向かって、みっともないほど必死にすがりついていた。

足を止めた彼女が、ゆっくりと振り返る。


「……京都、いいですね。行きたい、です」


潤んだ瞳と、甘く震える声。理性を繋ぎ止めていた最後の糸が、音もなく切れた。


彼女が背を向けて歩き出した瞬間、思考より先に足が出る。

追いかけて、腕を伸ばして、エレベーターの中へ――


『……帰したくない』


密室になった箱の中で、僕は縋るように彼女を抱き寄せる。この刹那を永遠に閉じ込めるように、深く、切なく唇を重ねた。下降するエレベーターの、残酷なほど短い数十秒。

舌を絡ませ、熱を分け合い、互いの存在を確かめ合う。僕の手が背を辿るたび、彼女の漏らす吐息は、別れを拒む悲痛な旋律になって反響した――


――チーン。


無機質な到着音が、脳内で狂おしく膨らんだ甘美な幻を、一息に切り裂いた。


ハッと我に返った僕の足は、ホールの床に縫い止められたまま、一歩も動いていなかった。

伸ばしたつもりの腕は、スーツのズボンの脇で、白くなるほど硬く拳を握り締めていた。


目の前で、冷たい金属の扉が、音もなく完全に閉ざされていく。


こじ開けることも、名を呼ぶことすらできず、僕はただ、その最後の一筋の光が消えるのを見つめていた。

誰もいなくなったエレベーターホール。

ついさっきまで、確かにそこにあったはずの甘い残り香も、ほのかな体温も、扉の向こうへ吸い込まれて消えた。


彼女という存在を永遠に切り離してしまったかのような、冷え切った静寂の中——僕は、握りしめた拳を、まだ開けずにいた。

いつも応援ありがとうございます。萩雨はぎさめ しゅうです。

本作をお読みいただき、本当にありがとうございます。

明日も21時頃に更新予定です。

引き続き、2人の濃密な感情の行方にお付き合いください。

(もし「彼視点も良かった!」「二人の幸せを見守りたい」と思っていただけましたら、ページ下部からの評価やブックマークで応援していただけると、日々の執筆の大きな励みになります!)

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