第9話 京都の観光案内と夕暮れの散歩
東京から関西へ戻る新幹線の中、そして家族の待つ家へ帰ってからも、僕の時間はあのエレベーターホールで完全に止まっていた。
静かに閉ざされていく金属の扉。その向こう側で、彼女は「夫」という、僕には決して超えられない絶対的な存在の元へ帰っていった。
その現実が、胸の奥底に消えない熱をまとったまま静かに沈殿している。
「……京都、いいですね。行きたい、です」
彼女がポツリとこぼした、微かな、けれど確かなその一言が、僕の脳内に強烈な極彩色の幻影を立ち上がらせた。
車内の喧騒は急速に遠のき、僕の意識は、まだ見ぬ春の京都の光と影の中へと、吸い込まれるように没入していった。
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四月の、少し冷たい春の風が、肌を優しく撫でる。
京都駅の古い南北自由通路。西吹抜から差し込む斜陽が、無数の旅行客の影を長く床に引いている。
その喧騒の渦のなかに、小さな革製の旅行鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて立つ彼女の姿が、あまりにも鮮明に僕の視界を捉えた。
白いブラウスの袖口から覗く細い手首。少し緊張したように周囲を見回す、その立ち姿、衣服の微かな皺にいたるまでが、僕の網膜に焼き付いて離れない。
僕の姿を見つけた瞬間、彼女の瞳がふっと安堵に和らぎ、小さな唇がかすかに綻ぶ。
僕は一歩踏み出し、彼女の細い指先をそっと包み込むようにしてその手を取る。
指先から伝わる、彼女の微かな体温の伝播。
それは僕たちの肉体が別のものであるという境界線を、じわじわと融解させていく最初の合図だった。
「行きましょう」
そう囁いて、僕は彼女を引き連れ、日常のすべてが届かない洛北の静寂へと逃げ込む。
頭上を覆い尽くす青紅葉の、目に焼き付くほどの鮮烈な緑。
市街地の喧騒が嘘のように消え去った清滝川沿いの小道は、湿った土と、青々とした木葉の匂いに満ちていた。
さらさらと、時に激しく岩を噛む川の水音が、彼女を縛り付けていた都会のノイズ、義務、責任、そのすべてを綺麗に洗い流していく。
不意に強く吹き抜けた川風が、彼女の柔らかな髪を大きく揺らし、白い首筋が露わになる。
その瞬間、僕の鼻腔を支配したのは、青臭い新緑の匂いではなく、彼女の体温と混ざり合った、酷く甘い、狂おしいほどの彼女自身の匂いだった。
一歩一歩、濡れた石畳を踏みしめるたびに、僕たちの衣服が擦れ合う微かな音が、耳の奥に心地よく響く。
歩調を合わせるたび、彼女の華奢な肩が僕の腕に不意に触れる。
そのたびに走る微小な熱が、僕の皮膚をじりじりと焦がした。
「本当に静かなところですね」
見上げる彼女の瞳には、鮮やかな青紅葉の緑と、傾きかけた太陽の柔らかな光が美しく反射していた。
彼女が見つめているその景色も、その瞳に映る無防備な光も、いまこの瞬間は、僕の抱える底知れない空洞を、嘘のように優しく埋めてくれていた。
やがて太陽が完全に沈み、青紅葉の緑が夜の帳に溶けていく。
僕は彼女の手を引き、誰にも邪魔されない古都の深い闇へと、静かに歩みを進めた。
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