第6話 瞳の中の宇宙と、不器用な口実(結愛視点)後編
オフィスに戻り、「この後、ここで仕事をしてもいいですか?」と尋ねると、彼は一切の迷いなく頷いた。
目の前で手元のスマートフォンを操作し、さりげなくその後の予定をすべて空けてくれる。私と一緒に過ごすための空白を作ってくれたことに、胸が甘く締め付けられた。
再び二人きりになった小さな会議室で、ふっと一息ついた時。
「あの、水が買いたいんですけど……自販機はありますか?」
「じゃあ、買いに行きましょうか」
並んで自販機まで歩き、いざ買おうとした時、小銭入れを会議室に置いてきてしまったことに気がついた。
「あ……すみません、小銭が……」
「いいですよ。何がいいですか?」
申し訳なさに言葉を濁す私を遮るように、彼はごく自然な動作で財布を取り出し、優しく微笑んでくれた。
「……では、お水をお願いします」
彼が買ってくれた冷たいペットボトルを受け取る。
暖房の効いた少し乾燥したオフィスの中で、私は蓋を開け、無防備に上を向いてこくりと水を飲んだ。
ふと、水を飲む私の身体のラインに、目の前にいる彼の視線がじっと注がれているのを肌に感じる。
まるで、服の上からそっと撫でられているような感覚がして、背筋に甘い痺れが走った。
冷たい水で潤したはずの身体が、その見えない接触に反応するように、内側から熱を帯びていく。
そんな密やかな空気をふっと解いたのは、不意に通りかかった彼の同僚の声だった。
その日常からの声によって、二人だけのほんのわずかな隙間はあっけなく現実のオフィスへと引き戻される。
何事もなかったかのように、いつもの穏やかな仕事の顔で同僚と言葉を交わす彼の横顔。そのすぐ隣に立ちながら、私の中には行き場を失った熱だけが、甘く静かに疼き続けていた。
自席に戻り、先ほどの熱を悟られないようどうにか平静を装って、二人でプロジェクトの話を進めている時のこと。ふと彼が「終わりの時間を設定しましょう」と提案してきた。
私が夫と一緒に帰る約束をしていることを伝え、六時過ぎにはここを出たいと告げると、彼は「分かりました」とだけ静かに頷いた。
その短い言葉の奥に微かな翳りのようなものを感じ、胸の奥がチクリと痛む。
(いっそ、夫との約束をキャンセルしてしまおうか……)
ほんの一瞬でもそんな考えが頭をよぎってしまった自分の中の揺らぎを払うかのように、目の前の議題に話を戻した。
彼と淀みなく意見を交わし、議論が進む中で、話題は以前から頭を悩ませていた他部署との厄介な調整ごとへと移っていった。
なかなか埋まらない方向性の違いにふっとため息が漏れ、私は思わず机に深く身を沈めて突っ伏してしまった。
「ああもう、本当にいや……」
「そうだよね。……ごめんね」
無意識にこぼれ落ちた甘えのある自分の声にはっとして、顔を上げる。
とっさに次の議題を取り繕おうと言葉を探していると、斜め向かいに座る彼が、ふっと楽しそうに笑っていた。
体をこちらに向け、長い足を組んで背もたれに深く腰掛けている。少し首を傾けながらじっと私を見つめるその姿から、男としての余裕と色気が静かに滲み出していて、ふと一時的に思考が止まってしまう。
「えーと……」
さまよう視線のまま言葉に詰まる私に、彼はさらに目を細め、穏やかな声で静かに先回りをした。
「マーケティングプランの件ですよね?」
それは、まさに私が頭の隅から引っ張り出そうとしていた議題そのものだった。私の思考の先まで完全に把握されている心地よい敗北感に、私はただ「……はい。それです」と小さく頷くことしかできなかった。
議論が進むにつれ、私たちの間には特異な空気が満ちていった。
言葉を最後まで紡がなくとも、互いが何を考え、何を求めているのか、視線を交わすだけで完全に理解する。二人が揃うことで無限にアイデアが湧き上がる。まるでひとつの思考を共有しているかのような、わたしたちだけの「聖域」がそこに存在していた。
その心地よい共鳴の中、私は磁石に吸い寄せられるごとく、彼から目を逸らすことができなくなっていた。
穏やかに弧を描く目元の奥には、すべてを優しく受け止める静寂がある。そこには、彼がこれまでくぐり抜けてきた痛みや喜びが、確かな年輪として刻み込まれていた。彼が歩んできた人生の重みそのものが、目の中に深い宇宙となって広がっている。その深淵に何があるのかもっと知りたくて、ずっと見つめていたかった。
視線を絡ませ、彼と同じ空気を吸い込むたびに、私の中の防護壁が音もなく溶け落ちていく。彼の話す声が、私の身体の奥深くに直接響く。
このままひとつの思考に完全に呑み込まれ、自我の境界線を奪われてしまってもいい。
狭い会議室、至近距離で交わされる視線と息遣い。夫の元へ帰らなければならないというタイムリミットが、逆に、今この瞬間に彼にすべてを奪われたいという狂おしい衝動を加速させる。
――もしも今、彼が完璧な理性を手放してくれたなら。
『……結愛さん』
甘く掠れた声に名前を呼ばれた瞬間、私の中で張り詰めていた最後の糸がふわりとほどけた。
どちらからともなく手を伸ばし、気づけば互いの唇が重なり合っていた。彼の大きな手が私の柔らかい頬を両手でそっと包み込み、慈しむようにゆっくりと引き寄せる。
最初は触れるだけの、羽のように軽い口付け。けれど、お互いの温もりが交わった瞬間、堰を切ったように想いが昂っていくのが分かった。
優しく触れるだけだった唇を、引き寄せ合うようになぞり、さらに深く重ね合わせる。
吸い込まれるような吐息のなか、ゆっくりと唇が開き、お互いの吐息を分かち合うようにじっくりと口付けが深まっていった。
重ねるごとにじわじわと熱を帯び、彼の熱い舌の先が私の甘い内側へと滑り込み、切なく、そして濃厚に絡め合ってくる。
『んっ……、あ……』
彼の大きくて温かい腕の中にすっぽりと包み込まれ、スーツ越しにダイレクトに伝わってくる彼の心地よい体温と、トクトクと刻まれる確かな心臓の鼓動。
私に触れれば触れるほど、彼の中に抑え込まれていた私への熱情が、堰を切って溢れ出すように。
羽のように私を包んでいた優しい口付けは、次第に彼の全てを私の内側へと注ぎ込み、溶かし合わせていくような、深く濃密なものへと変わっていった。
密着した身体の境目が曖昧になるほどきつく抱きしめられ、お互いの熱を貪り合うように求め合う口付けは、次第に甘く深い融解のなかへと私を溺れさせていく。
このまま時間が止まってしまえばいい。ただ彼の優しさにすべてを溶かして、魂ごと一つに重ね合わせてしまいたい。
そんなあられもない妄想が、目の前にいる彼から放たれる熱を感じながら、会議中ずっと私の頭の中を支配していた。
――五時間という時間は瞬く間に溶け去り、気がつけば、約束の六時を迎えていた。
「そろそろ、時間ですね」
ふいに落ちてきたその静かで柔らかな声に、私は弾かれたように顔を上げた。 ふと机の上のスマホに目を落とすと、夫からメッセージが届いていた。
『急がなくていいからね。結愛さんのペースでいいよ』
いつも通りの穏やかな気遣い。
まるで深い水の底から引き上げられたかのように、甘い麻痺がすーっと引いていく。
「……はい、そうですね……急がないと……」
私は、ゆっくりと机の上の資料をまとめ始めた。
どこかひどくぎこちなく動く私の手元を見て、視界の端で彼がすっと立ち上がる。
降ってきた穏やかな気配とともに、彼の手が伸びてきた。PCのコンセントを抜き、私の手元へとそっと差し出してくれる。
私がそれを受け取ったその瞬間。
指先が触れ合わないその数センチの距離に視線を落としたまま、彼は動きを止めた。 その張り詰めたような沈黙が、再び甘く痛い余韻を落としていく。
何も言わず、それを見つめていると、彼は静かに手を離した。
帰り支度を終え、二人でエレベーターホールに向かう。
「今後はこうして、定期的に会いましょう」
並んで歩きながら、彼がふと真剣な声でそう切り出した。
「はい。私、今日こうしてオフィスで九条さんと一緒に仕事をするの、すごく楽しかったです」
心からの素直な気持ちを伝え、彼を見上げて微笑むと、彼も嬉しそうに私の目を見つめ、目を細めた。
「できればこちらにも……大阪オフィスにも来てください」
「えっと、それはさすがにハードルが高いですね……」
苦笑いでお茶を濁したタイミングで、到着を知らせる音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。
小さく会釈をし、私が彼に背中を向け、乗り込もうと扉へ歩き出した、その時だった。
「旅行で京都でもいいです! 私が案内しますから!」
背後から投げかけられたその声に、私はゆっくりと振り返った。余裕をかなぐり捨てたようなその不器用な声が、私の胸の最も柔らかい場所を正確に射抜いた。
「……京都、いいですね。行きたい、です」
結局、傘を開くことはできなかった。気がつけばあっという間に、私は彼という存在に、すっかり心を濡らされてしまっていた。
彼という強烈な引力圏の奥深くに足を踏み入れてしまったことを、その時ようやく悟り、私は静かに微笑んで頷いていた。
いつも応援ありがとうございます。萩雨 柊です。
2人の濃密な時間は、冷たい金属音によって現実に阻まれてしまいましたが、明日は、この夜を彼の視点でお届けします。
明日も21時頃に更新予定です。
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