第2話 深夜のオンライン会議と、囁き声の引力
画面越しに広がる深夜の静寂は、昼間のオフィスにはない特有の親密さを孕んでいた。
コロナ禍という異例の事態がもたらした、オンラインでの繋がり。
窓の外はとうに暗く、部屋にはノートパソコンの青白い光だけがぼんやりと浮かんでいる。
「水瀬さん、聞こえますか」
画面の向こうから、彼——九条さんの声が響いた。
数日後に控えた、オンラインでの講演会。そのリハーサルとして、通しで話すのを聞いていてほしいと彼から頼まれていた。主催者側から専用のマイクを用意するよう強い要望があり、彼は新調したばかりのヘッドセットを身につけている。
「はい、聞こえます。とてもクリアな音質ですね。ただ……」
私は少しだけパソコンの画面に顔を近づけた。新しいマイクの性能が良すぎるのか、彼の声が耳の奥まで直接響きすぎて、少し鼓膜が震えるような感覚があったのだ。
「九条さんの声、今まで以上にはっきりと聞こえます。でも、少しだけ音量が大きいようです」
そう伝えた数秒後だった。
画面の向こうの彼が、ふっと息を吐く気配がした。
「……水瀬さんの声も、よく聞こえます」
一段階、声のトーンが下がった。
鼓膜を撫でるような、かすかに掠れた、ハスキーで柔らかい声。それは昼間の会議で聞く「組織を率いる有能なリーダー」の張りのある声とは全く違う、甘く、熱を帯びた響きだった。
背筋にぞくっとしたものが走った。
まるで、すぐ隣に彼がいて、私の耳元に唇を寄せて囁いているような錯覚。オンラインという物理的な距離があるはずなのに、声だけが私のパーソナルスペースを軽々と飛び越え、心臓の柔らかい部分を直接撫で上げられたようだった。
「……マイクの感度、これくらいでどうですか」
「あ、はい。……ちょうど、いいと思います」
私も無意識のうちに、彼に合わせるように声のトーンを落としていた。
二人だけの秘密を共有するような、ひそやかな声。画面の向こうの彼が、微かに目を細めて笑ったような気がした。
その後の時間は、どこか現実離れしていた。
画面に映し出されたスライドの構成について。質疑応答のシミュレーションについて。交わしている言葉の表面は、どこをどう切り取っても「仕事の話」でしかない。
けれど、声のトーン、言葉と言葉の間に落ちる静寂、相槌を打つ時の吐息。そのすべてから、甘い引力が漂い続けていた。
仕事の打ち合わせという完璧な仮面の下で、私たちは間違いなく、声と空気だけで互いを口説き合っている。
少しでも長く、この甘美な空気に浸っていたかった。私たちは互いに「念のための確認」という理由を見つけては、いつまでもこの深夜の会議を終わらせることができずにいた。
―――
イヤホン越しに、彼女の澄んだ声が直接脳内に響く。
講演会のリハーサル。新しいマイクのテスト。主催者からの要望というのは事実だったが、そんなものはどうとでもなることだった。本当は、講演会の内容なんてどうでもよかったのだ。
ただ、彼女を自分だけの空間に引き留めておくための、もっともらしい口実が欲しかった。
「少しだけ音量が大きいようです」
画面の向こうで、彼女が真面目な顔で指摘する。その生真面目さが愛おしくて、僕はわざとマイクの距離を近づけ、声を低く落とした。
「……水瀬さんの声も、よく聞こえます」
僕が意図して声を落とすと、彼女もそれに同調するように、ひそやかなトーンで返事をした。
「あ、はい。……ちょうど、いいと思います」
その瞬間、彼女の吐息混じりの柔らかな声が、まるで僕の耳元で直接囁かれているように響いた。
鼓膜を優しく撫でるようなその音色に、思わずため息が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
このまま、ずっと彼女の声だけを聞いていたかった。
彼女と二人きりになるこの深夜のオンライン会議だけが、今の僕にとって息継ぎができる唯一の空間だった。
完璧な自分を演じなくていい。ただ、彼女の声を聞き、自分の声を届ける。
仕事の話を隠れ蓑にして、彼女との時間を一秒でも長く引き延ばそうとする僕は、まるで初めて恋を知った中学生のように滑稽で、情けなかった。
誰にも邪魔されない、この耳元での繋がり。絶対に踏み越えてはいけないと分かっているのに、彼女の賢さも、その震えるような声も、すべて自分だけのものにしたいという黒い欲望が、境界線の手前で静かに、けれど確実に膨らみ始めていた。
もう、後戻りなどできるはずがなかった。
コロナ禍の深夜、オンライン会議という密室でのやり取り。
物理的な距離があるからこそ伝わってくる熱や、声の引力を少しでも感じていただけていたら嬉しいです。
次回も明日21時頃に更新予定です。
引き続き、完璧な仮面の下に隠された二人だけの秘密の時間にお付き合いください。
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