第13話 歪みゆく「盾」と高い「塔」(結愛視点)
彼との精神的な結びつきは、現実の枠を超えていた。
夢の中で見た、真っ白なソファ。私の肩を抱き寄せる彼。微風が吹く真っ白なベッドで、そっと交わした優しいキス。
肉体が触れ合わなくとも、遠く離れていても、寂しさは皆無だった。
ただ、「ああ、私は彼に守られているんだな」という確信だけがあった。
彼が私を特別に想ってくれているのは、痛いほど伝わってくる。
それが仕事上のものなのか、恋愛なのか、それとも別の形の愛情なのかは分からない。
それでも、その名前のつかない感情の中にいること自体が、絶対的な安心感となっていつも私を温かく包んでいた。
東京での対面を経て、私たちの距離はさらに境界線を失っていった。
毎日のオンライン会議は、もはや業務の枠を超え、互いの存在を確かめ合うための密やかな儀式のようになっていた。
画面越しに目が合うだけで、あの日、会議室で感じた肌を焦がすような熱が鮮明に蘇る。
やり取りを重ねてすっかり心を許しきっていた私は、雑談の中でふと、過去の個人的な恐怖体験を彼に打ち明けたことがあった。
過去に、夜道で知らない男に付きまとわれたこと。
実家に私宛の卑猥ないたずら電話が何度もかかってきたこと。
そして……九条さんと一緒に仕事を始めたばかりの頃、担当営業の男性から「家の近くまで行くから会おう」と執拗にチャットが送られてきて怖かったこと。
他愛はないかもしれない誘いについて九条さんにずっと相談したかったけれど、できずに一人で悩んでいたこと。
私の話を聞いた彼は、すぐにその担当営業と私が一緒に仕事をする場面を作らないよう、細やかで徹底した配慮をしてくれた。
しかし、私の隙をついて近づいてくる男たちから私を護ろうとする彼の強固な意志は、やがて、少しずつ歪な形を帯び始めていく。
ーーーーーー
モニターの明かりだけが、深夜の暗い部屋に白く浮き上がっていた。
果てしなく続くタスクの山と、鳴り止まない通知音。
私の抱える業務量は、とうに一人の人間が処理できる限界を超えていた。
「もう無理です。人を入れてください」
私は何度も九条さんに懇願し、泣きつき、時に怒りをぶつけた。
限界を迎えてボロボロになった私が彼にすがりつくこと自体、彼にとってはどこか救いでもあったようだ。
私が声をかければ、彼は他の予定をすべて投げ打ってでも、私のためだけに時間を作ってくれた。
時に何時間も、夜遅くまで。私が笑顔を取り戻すまで、彼はどこまでも熱心に私の言葉に耳を傾け続けた。
私との対話に集中するあまり、「……次の会議は、調整しておくから大丈夫。今は水瀬さんの話を聞かせて」と、私を優先してくれることすらあった。
私から頼られ、必要とされることに静かな充実感を見出しているのは明らかだった。
もっとも、彼がこれほどの熱量を注ぐのは、私自身や、私の仕事の直接のパートナーとなる人に対してだけだった。
その他のチームやスタッフに対しては、「あとは水瀬さんたちでやって」と普通に一任して突き放している。
だからこそ、私と、私の周囲にだけ向けられる彼の執着は、ひときわ異彩を放っていた。
自ら進んで相談に乗り、私の笑顔を見るまでは引き下がらない。
しかし、実際に「人を補充する」という根本解決となると、彼は極端に動きが鈍くなった。
私が本気で怒りをぶつけてようやく、彼はしぶしぶ重い腰を上げ、新しいスタッフをプロジェクトに連れてきた。
彼が自ら人を手配してくれたのだから、これでようやく私の負担も減るはずだ。
私はそう信じていた。
しかし、そこから奇妙で歪な物語が始まった。
新しく入ったスタッフに私がプロジェクトの具体的な指示を出しても、なぜか彼らは一向に動こうとしない。
明確なタスクを振っても、まるで私の声だけが彼らの耳に届いていないかのように、作業は停滞した。
「あとは2人に任せるから、水瀬さんの指示で動いて」と、彼がそのスタッフに一言伝えてくれれば、それだけですべてが円滑に回るはずの現場だった。
しかし、彼はその簡単な一言を決して口にしなかった。
困り果てた私が彼に相談すると、彼は待っていましたとばかりに、柔らかく微笑んでこう言った。
「担当者に仕事を依頼する時は、僕が代わりに指示を出してあげるから、いつでも相談して」
その言葉通り、私が彼に相談し、彼を経由して指示が出されると、スタッフたちは途端に迅速に動き始めた。
なぜそうなるのか、私には全く理由が分からなかった。
ただ確実に言えるのは、誰が新しく入ってきても、いつも同じ現象が繰り返されるということだった。
私が誰かに仕事を依頼するためには、必ず一度、九条さんというフィルターを通さなければならない。
彼は自ら連れてきたスタッフと私の間に立ち、私に直接負担がかからないようにと、見えない壁を作っているようだった。
結果として、スタッフたちは私の指示ではなく、すべて九条さんの管理下へと吸い寄せられていった。
そうしてスタッフが私から完全に切り離されると、今度は九条さん自身が彼らを「求める基準に達していない」という理由でプロジェクトから遠ざけるのだった。
自分で人を入れ、自らその間に立ち、そして遠ざける。
そのループの意図が掴めず、私にはただ奇妙な出来事として映っていた。
その奇妙なシステムが、決定的な戦慄に変わったのは、四人目のスタッフとして配属された業務委託契約の木下さんのことだった。
彼はまだ若く、経験が浅いように見えた。
ある日、九条さんも同席する大人数の会議の席で、「水瀬さん、この件について少しだけ相談に乗ってもらえませんか」と、木下さんが私に声をかけてきた。
「あ……はい。いいですよ」
実のところ、高度なデータ分析要員として入ってきた彼のスキルは私が見ても未熟で、依頼している仕事を一人でこなせるレベルには到底達していないのは明らかだった。
それでも、私の右腕として、素直で覚えが早い彼を、これから少しずつ育てていけばいいと、姉のような気持ちで考えていた。
――しかし、その私の無防備で甘い対応そのものが、九条さんの過剰な『守護本能』を刺激してしまったようだった。
その瞬間、九条さんがすかさず厳しい口調で言葉を挟んだ。
「何の件ですか? 僕は必要ないですか?」
場に冷ややかな緊張が走った。
そして、その会議の直後。
その件について木下さんと二人だけでオンライン会議を開き、詳細を詰めていた時のことだ。突然、九条さんからチャットが入った。
『今少し話せますか?』
『木下さんと会議中です』
私がそう返すと、間髪入れずにメッセージが返ってきた。
『何の話ですか? 僕も参加します。招待してください』
断る隙など与えられないまま、ふらりと彼が通話に参加してきた。
モニター越しの彼は、木下さんに向かって優しく、けれど有無を言わさぬ理路整然とした口調で語りかけた。
「木下さんの教育係は、私が直接引き受けます。水瀬さんは、木下さんのサポートをするためにここにいるわけではないです。木下さんのサポートは水瀬さんの仕事ではありませんから、今後は私に相談してください。僕はこのまま水瀬さんと話があるので、木下さんは先に退出してください」
そう言って、早々に木下さんを会議から退出させた。
「水瀬さん、お忙しい時に余計な仕事を増やしてしまい、すみません。彼は高度な専門人材として高い報酬を払って契約しているので、僕の期待にどこまで応えられるか、直接見極めたいと思います。今後は僕が直接彼をサポートして、絶対に水瀬さんの負担にならないようにしますね」
完璧な正論でコーティングされた、絶対的な隔離。
それは、のちに私を激しい疲弊へと追い詰めていく過保護の始まりだった。
画面の向こうの穏やかな声は、木下さんだけでなく私に対しても、ある絶対的な特権を告げているように聞こえた。
私に仕事を頼み、私からのサポートを受け、私の時間を独占していいのは自分だけなのだ、と。
軽々しく距離を詰めてくる男たちから、そして無能なスタッフがもたらす過労から私を護れるのは、全幅の信頼を向けられている自分だけなのだと、私にも、他者にも明示的に宣言しているかのようだった。
しかし、彼という巨大な盾のなかに囲われている安心感は、私の理性を心地よく痺れさせる麻酔のようでもあった。
ビジネスとしての正しさを前に困惑しながらも、私の心の奥底は、そのソフトな束縛にどこか甘い疼きを覚えていた。
それからの日々は、彼が自ら泥を被って振るう、苛烈な『盾』の連続だった。
木下さんの共有カレンダーには、毎朝7時半から『九条との朝会』という予定がブロックされるようになった。
私がCCに入れられたメールのやり取りの中で、彼が木下さんに投げかける言葉は一見すると丁寧だったが、その実態は、「絶対に水瀬さんに迷惑をかけさせない」という九条さんの強烈な意志が込められた、妥協を許さないプロとしての厳しい要求だった。
画面越しに見る木下さんの顔色は日を追うごとに蒼白になり、発言のたびに声が微かに震えるようになっていった。
「大丈夫?」と私が裏でメッセージを送っても、返ってくるのは「九条さんの期待に応えたいので頑張ります」という、言葉だけだった。
そして、配属からわずか数週間後。
木下さんのチャットアイコンがグレーになり、オフラインのまま二度と緑色に点灯することはなくなった。
後から九条さんに伝えられた話では、彼から依頼された仕事の締め切り間際、九条さんの求める高い基準とプレッシャーに耐えきれなくなった木下さんは、会社支給のPCのモニターを破壊してしまったのだという。
物理的に仕事の継続ができなくなり、彼はそのまま会社を去っていった。
九条さんの口から淡々と語られたその壮絶な顛末に、私は言葉を失った。
彼が「私の負担を減らすため」に、自らが悪者になってまで囲い込んだ後輩が壊れて消えたことで、その業務のシワ寄せは、結局すべて私の肩に重くのしかかってきた。
私が何度も泣きついて入れてもらったはずの人間は、すべて彼の過剰な庇護とコントロールによって、消えていった。
仕事を進めるためには、もう彼に頼るしかない。
彼に意見を求め、彼のフィルターを通さなければ、私はこの会社で自ら問題を解決することも、助けを求めることもできない。
彼と私だけを繋ぐ、太く、逃げ場のない一直線の導線。
彼は彼なりのやり方で、私を守っていた。その役割に、使命感を見出しているのだ。
「水瀬さんの才能を誰よりも理解しているのも、感情を分かってあげられるのも、支えになって笑顔にしてあげられるのも、僕だけだから」
彼のそんな切実な思いを、私は痛いほど理解していた。
だからこそ、私は何も言えなかった。
彼によって外界から完全に隔離された「高い塔」の中に守られていると気づきながらも。
私を不純なものや過労から遠ざけようとする、そのあまりにも不器用で盲目的な庇護の下で、私はただ甘い麻酔に浸るように、言葉を飲み込むしかなかった。
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【完結まで執筆済み】
最終話まで毎日21時に更新予定です。
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