8話 回帰の理
サミナギの幻影が、なおも俺の脳裏で執拗に問いかけてくる。
「あの魔法陣の真実を知りたくないのか」と。
確かに、俺はその答えに限りなく近づいていた。バエルがもたらした「裏切り」という凄惨なピースを嵌め込めば、あの絶望の儀式の全貌が見えてしまう。
けれど、俺は思考の迷宮に鍵をかけた。
すべては過客のごとし。過ぎ去った嵐を数えたところで、今の俺を温めてくれるわけではない。
俺はストラノア……いや、希良梨の「医者になる」という夢を隣で守りたい。バエルの言う通り、泥水を啜った昨日を惜しむより、母の作った飯の味に感動できる今日を信じることに決めたのだ。
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放課後の河川敷。俺とオヤジは、相変わらず木剣を打ち合わせていた。
あの日以来、オヤジは「仲間を探そう」とは口にしなくなった。裏切り者の影が、この再会の喜びに冷や水を浴びせたのだ。誰が味方で、誰が仇か。それを疑いながら生きるくらいなら、今ここにいる者だけを信じる。それが不器用なオヤジなりの、今の「正解」なのだろう。
「バエルの野郎は、今日も来ねぇのか」
オヤジが鋭い踏み込みと共に剣を振るう。
「今はお笑いの修行中だってさ。俺たちみたいな体力バカに付き合ってられるかって笑ってたよ」
「ケッ、あの芸人気取りが。……ほら、脇が甘いぞ!」
鈍い衝撃。誘ったつもりだったが、オヤジの剣は俺の二手先を無慈悲に叩いた。
「なんの……これは誘い……の、つもりだったんだけどな」
「その戦法を教えたのはどこのどいつだ。さらに三手、四手先を読め、サミナギ」
「……押忍」
俺たちは苦笑し、どちらからともなく稽古を終えた。
前世の最期がどうだったか、誰が裏切ったのか。そんな話はもうしない。
特訓の後に、駅前のチェーン店でオヤジと食う牛丼は、前世のどんな豪華な戦勝祝いの宴よりも、五臓六腑に染み渡るほど美味かった。
「……美味いなぁ、オヤジ」
「ああ。白米ってのは、味もしねえのになんでこんなに体に染み入るんだろうな」
黒崎竜二としての屈強な面構えに、グラシアスとしての豪快な笑みを浮かべて、オヤジは丼をかっ込む。
今は、これでいい。
俺たち四人、欠けた心を寄せ合ったこの小さな「家族」がいれば、他に何もいらない。
運命の導き
だが――。
俺たちの意志とは無関係に、歯車はすでに回り始めていた。
俺たちが放った禁忌。多くの魂を一つの檻に閉じ込め、時空を超えて再編する“レメゲトンの魂器”。
その術式に刻まれた「回帰」の理は、どれほど逃げようとも、俺たちを一つに集める過酷な運命へと引き寄せていた。
静かな日常の裏側で、俺たちの「過去」は、すぐそこまで足音を立てて近づいていたのだ。
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月明かりの下、河川敷の空気は一瞬にして凍りついた。
最近の俺たちは、この平和な世界でも「闘気」を練る感覚を思い出しつつあった。それは肉体のリミッターを外し、魂の熱を物理的な破壊力へと変換する戦士の技。
だが、その力に応える器がない。俺たちが木刀に闘気を込めれば、標的を斬るより先に、安物の木材が自重に耐えられず爆ぜてしまう。
「前世みたいにミスリル鋼の武器があればなぁ……」
「贅沢言うなよ。あっちの常識をこっちに持ち込むのは宝の持ち腐れだっての」
そんな、平和に毒されかけた冗談を交わしていた時だった。
背筋を焼くような、鋭利な「殺気」が闇を裂いた。
「サミナギ、伏せろ!」
オヤジの怒号と同時に身体が跳ねる。直後、俺たちが座っていたベンチに、鈍い音を立てて鉄斧が突き刺さった。
「……何だ、今の。っ、こいつは!」
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。前の中学校の同級生、上原。
冴えない印象だったはずの彼が、今は狂気に染まった目で俺たちを睨みつけている。
「お前、上原だな! 何のつもりだ、本当に殺す気か!」
オヤジが鋭い闘気を放ちながら身構える。だが、上原――その身体を借りた「何か」は、冷酷な笑みを浮かべた。
「……やはり、生きていたか。忌々しいゲーティアの傭兵ども。俺はウィリアム。あの大戦で王国の翼を担った、竜騎士の一人だ」
「竜騎士だと……!?」
俺の脳裏に、あの地獄の戦場が蘇る。空を覆う巨大魔法陣の下、死を恐れず、咆哮と共に俺たちの陣営に突っ込んできた勇猛果敢な精鋭たち。その一人が、なぜ今ここにいる。
「死ね! 異界の賊ども!」
ウィリアムを宿した上原が斧を振り上げ、咆哮を上げながら突進してくる。
だが、その一振り一振りに、かつての竜騎士としての洗練された重みはない。ただの高校生の肉体に無理やり「全盛期の力」を強いているのだ。
ガギン、と木刀で受けるたび、上原の腕の筋肉が断裂するような悲鳴を上げるのが分かった。
「はぁ、はぁ……なぜだ……なぜ、身体が動かん……!」
「……無理もない。お前のその体は、お前の魂の重さに耐えられてないんだよ」
次第に速度が落ち、息を乱す上原。
俺はその隙を見逃さず、闘気を纏わせた手刀で彼の手首を鋭く打った。
「ぐあっ!」
手首の神経を遮断され、斧が地面に転がる。
上原は体力の限界を迎え、そのまま糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……クソ、が……。なぜ……俺たちだけが、こんな……不完全な形で……」
酸素を求める魚のように口をパクつかせ、上原――ウィリアムは、土の上で動けなくなった。
俺とオヤジは顔を見合わせた。
裏切り者の影に怯えていた俺たちの前に現れたのは、仲間ではなく、あの日、共に滅びたはずの「敵」だったのだ。
「……サミナギ、まさかこれって……」
オヤジの震える声が、最悪の可能性を示唆していた。
あの儀式で転生したのは、俺たちだけではなかったのかもしれない。
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上原の意識が戻るまで、俺たちは静寂の中で待っていた。
もちろん、護身のためにその手足は手近なロープで縛り上げ、逃げも隠れもできない状態にしてある。
「おい、ウィリアム。……いや、上原か。答えてもらおうか。なぜ俺たちがゲーティアだと分かった」
オヤジが低く、威圧的な声で問い詰める。縛られた状態でも、上原の瞳には折れない騎士の矜持が宿っていた。
「数日前だ。前世を思い出したのは……。あの忌々しい極光に飲み込まれ、すべてが終わったあの日をな」
メガネの奥の瞳が、憎悪で赤く燃える。
「俺たちがどれほど苦しみ、あの戦場で散っていったと思っている。だというのに……貴様らゲーティアときたら、何だ! あの惨劇がなかったかのように、この世界を謳歌してやがる! 許せん、のうのうと平和を貪る貴様らを、俺は断じて許さん……!」
「言いがかりだ。俺たちだって、この身体に馴染むまで必死だったんだよ」
「黙れ! この身体を見ろ! お前たちのような恵まれた身体ではない、呪いを受けたかのようなこの貧弱な器を! これも貴様らが放った禁術の呪いだろう!」
「おいおい、それじゃ元の主の上原に失礼だろ。せっかく転生したってのに……」
オヤジが呆れたように肩をすくめるが、事態は冗談で済まなくなっていた。
上原とウィリアム。肉体と魂が全く噛み合っていない。いや、それどころか、強大な騎士の魂が、貧弱な現代人の器を内側から食い破ろうとしている。
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「これは……俺たちどころじゃない拒否反応が起きるぞ……」
俺の予感が的中した。
突如、上原の身体が弓なりに反り返り、白目を剥いて激しく痙攣し始めたのだ。
「お、おいおい! これ、ヤバくないか!?」
さっきまでの殺気はどこへやら、オヤジが狼狽して上原の肩を掴む。
「救急車を呼ぶか……!? いや、でも斧で襲ってきたこいつを通報したら、上原が逮捕されちまうし……」
「そんなこと心配してる場合か! 命が優先だろ!」
俺がスマホを取り出し、画面をタップしようとしたその瞬間だった。
痙攣はさらに激しさを増し、上原の肉体から「青白い光の霧」が溢れ出し始めた。
(……魂が、剥がれていく……!?)
ウィリアムという強固な意志が、上原という器を拒絶し、文字通り魂の結合がバラバラに砕けていく。
「おのれ……ゲーティア……貴様ら、だけは……許さ……ん……」
恨み言は次第に掠れ、形を失っていく。ブルブルと震えるたびに、ウィリアムの記憶と魔力が霧散し、異様な光を放ちながら夜空へと吸い込まれていった。
俺たちはただ、息を呑んでその光景を見守ることしかできなかった。
あまりに魂と肉体の適性が低いと、輪廻の理から外れ、強制的に排斥される。それは「死」よりも残酷な、存在の霧散。
やがて光の粒が天へと昇り切り、浄化されたかのような静寂が戻った。
そこには、ただ眠っているだけのように静かになった、本来の「上原」の身体だけが横たわっていた。
「……消えた、のか」
オヤジが呟く。
敵として対峙したはずの相手の、あまりに呆気なく、そして悲劇的な結末。
俺の胸には、ウィリアムへの憎しみよりも、転生という術式が孕む「底知れぬ危うさ」への恐怖が刻まれていた。
「……ウィリアム。お前の狂気は一体何のための狂気だったんだ…」
俺は、夜空を見上げた。
この街のどこかで、同じように器との乖離に苦しみ、狂気に染まっている「敵」や「味方」が、他にもいるのではないか。
俺たちの再会は、もしかしたら救いではなく、新たな地獄の始まりに過ぎないのかもしれない。
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上原はその後、まるで深い眠りから覚めたような顔で、ゆっくりと上体を起こした。
「あれ、俺……なんでここに? 青山くん……? それに……く、黒崎さん……っ!?」
案の定、オヤジの顔を認めた瞬間に上原の表情は凍りついた。昔から大人しい上原にとって、不良の頭である黒崎竜二は、夜の河川敷で遭遇していい相手ではない。
「お前、大丈夫か? 体に違和感はないか、痛むところは?」
いつになく真剣に、そして優しく案じるオヤジの様子に、上原は戸惑いと恐怖が入り混じった顔をする。
「あ……え? う、うん。なんともない……けど、全身が酷い筋肉痛だ。あれ、なんでだろう……。部活もやってないのに……」
どうやらウィリアムとしての記憶は、魂の霧散と共に綺麗に消え去ったらしい。ここ数日の出来事も断片的で、本人に言わせれば「何か狂気じみたものに取り憑かれていたような感覚」があっただけだという。




