7話 凍りつく空気
俺たちは放課後の裏庭に紫藤を呼び出した。
「白川さんから呼び出し」という、この世の男子なら誰もが夢見るシチュエーションに、紫藤は案の定、地面から数センチ浮いているんじゃないかと思うほどの浮かれっぷりでやってきた。
遠目からでもわかる、あのお調子者特有の軽薄なスキップ。
物陰で待機していた俺、ストラノア、そしてオヤジの三人は、同時に深い、深いため息をついた。
……あれが、あの「静寂の死神」バエルなのだ。
「何何? 白川ちゃん。もしかして、俺に愛のラブレター、略してラブ注入してくれる感じ? 困るな〜、俺、一途なタイプだからさぁ!」
独特すぎる言い回しと、顔文字のようなニヤけ面に、ストラノアの頬がぴくぴくと引き攣る。
いたたまれなくなった俺が、そっと横から姿を現した。
「えっ? なに、青山も一緒? ……もしかして、二人で『私たち、結婚します!』的な報告? で、俺に神父役をやれってこと? 友情の押し売りじゃん、それ!」
「いや、違う。お前にどうしても伝えたいことがあるんだ。……ちなみに、ゲストもいる」
俺が合図を送ると、建物の陰から、奥歯で苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしたオヤジが、のっそりと姿を現した。
「ひっ、……く、くくく、黒崎竜二……ッ!?」
その瞬間、紫藤の顔から血の気が失せ、まるで絶望を絵に描いたような表情に変わった。
そりゃそうだ。黒崎の記憶でも、隼人の記憶でも、紫藤は常に「黒崎」という天敵から逃げ回るネズミのような存在だったのだから。
「な、何!? 俺、何か悪いことした!? 記憶にないけど、とりあえず謝るから! 土下座でも何でもするから許してくれよぉ!」
流れるような動作で地面に膝をつき、即座に土下座の姿勢に収まる紫藤。
あの孤高でプロ意識の塊だったバエルが、こんなにも臆病に、こんなにも情けなく……。
可哀想すぎる。この不名誉な「道化の枷」を、今すぐ外してやらなきゃならない。
俺たちは三人で固く頷き、アイコンタクトを交わした。
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。紫藤、お前の本当の名前だ」
「な、名前……? 俺の名前が、何だよ……?」
紫藤は、半分泣きべそをかきながら、縋るような目で俺を見上げてきた。
俺は一歩踏み出し、彼の魂の核へ届くように、その名を紡いだ。
「――お前は、バエルだろ」
「……バエル? バエ……ル……」
その真名が空気を震わせた瞬間。
紫藤の輪郭がぶれ、一瞬だけ、その背後に「かつての姿」が半透明に透けて見えた。
黒い装束を纏い、感情を削ぎ落とした、あの無慈悲な暗殺者の幻影。
「…………」
紫藤は、急にピタリと動きを止めた。
土下座の姿勢のまま、憑き物が落ちたように表情が消える。
そして、ゆっくりと、機械仕掛けのように空を見つめ、無言で立ち上がった。
彼の瞳から、先ほどまでの怯えや軽薄さが霧散していく。
代わりに宿ったのは、深淵のような、底知れない「静寂」だった。
「俺も、転生……したのか」
それは、かつて自らの声を悪魔に捧げた男の、初めて聞く「生の声」だった。
低く、少し掠れているが、深い響きを持つその声。バエル本人が一番驚いているようで、彼は信じられないものを見るかのように自分の両手を見つめた。
「お、俺は……俺はなんてことを……ッ!」
次の瞬間、バエルは膝から崩れ落ち、頭を抱えて激しく震え出した。
紫藤良として過ごしてきた、あの「おしゃべりクソ野郎」としての羞恥に満ちた記憶。それがバエルとしての理知と衝突し、強烈な精神的乖離となって彼を打ちのめしているのだ。
「……気にするな、バエル。誰もがお前を責めやしねぇよ」
オヤジがそっと歩み寄り、その大きな手でバエルの背中を無骨に撫でた。
その手の温もりに、バエルはゆっくりと顔を上げる。
「……今ならわかる。グラシアス、あんただ。……それに、そこにいる二人はサミナギ、と……す、ストラノアなのか……?」
その視線が白川さんに止まった瞬間、彼を襲ったのは更なる絶望――いや、戦慄だった。
「『星界の悪夢』が、こんな……非力そうな美少女に……? 恐ろしすぎるぞ、サミナギ。お前の転生魔法は、神の摂理すら弄ぶというのか……」
「いや、俺のせいじゃないって! 結果的にこうなっちゃっただけだ!」
かつての沈黙の死神との初の会話が、こんな内容になるとは。
裏庭に流れる、なんとも形容しがたい微妙な空気。けれど、バエルの瞳からは先ほどまでの軽薄な光が消え、深い忠誠を誓う暗殺者の輝きが戻っていた。
「……フン、相変わらず一言多い野郎だ。だが、その器でも腕が鈍ってねぇなら、文句はねぇ」
オヤジはまだどこか「紫藤良」への苦手意識が抜けないのか、少しだけ顔を顰めていたが、その口元は僅かに綻んでいた。
「ああ。魂の家族との再会だ。何よりめでたい」
俺たちは、夕闇に染まり始めた裏庭で、四人目の再結成を静かに噛み締めた。
サミナギとしての俺が「陰謀の影」を追えと囁き、隼人としての俺が「今の平穏」を喜んでいる。
その矛盾を抱えたまま、俺たちの「ゲーティア再編」は着実に、そして確実に加速し始めていた。
――――――――――――――
夕闇が深まる裏庭で、俺たちは今までの経緯をすべてバエルに打ち明けた。
先ほどまで土下座していた男の姿はもうない。無言で情報を咀嚼し、最適解を導き出そうとするその横顔は、まさしくゲーティアの「目」と呼ばれたバエルそのものだった。
俺は、夢の中でサミナギが残した警告と、魂の乖離性について二人に伝えた。
「俺も不思議な夢は見たが、お前たちほど深刻じゃねぇな。むしろ戦場が懐かしいとすら思ったぜ」
オヤジが腕を組んで鼻を鳴らす。
「それは、黒崎竜二とオヤジの波長が合いすぎていたからだろうな。黒崎は今世におけるオーガみたいなもんだし」
俺の軽口にストラノアが小さく笑い、バエルの肩を優しくさすった。
「バエルも、これから強烈な乖離に襲われるかもしれないけれど、あまり落ち込まないでね」
「……いや、そうじゃない」
バエルが低く、重い声を出す。
「俺が今考えているのは、サミナギ。お前が言った魔法陣の違和感の話だ」
オヤジが怪訝そうに眉を寄せた。
「魔法陣か。暗殺者のお前にも、何か思うところがあるのか?」
「……実はあの戦いの直前。俺が張っていた情報網が、一瞬にして、かつ完璧に絶たれたのだ」
「バエルの情報網が? どういうこと?」
ストラノアの顔から余裕が消える。バエルは暗殺者であると同時に、大陸全土に根を張る情報工作のプロだったからだ。
「俺の網を潜り抜けるのではなく、元から断つ。そんな芸当ができるのは、この世に数人もいない。ましてや、あの決戦前という極限状態で、俺の全ての『指』を正確に潰すことができる存在がいるとすれば……」
バエルは一度言葉を切り、俺たち三人を射抜くような鋭い視線を向けた。
「俺たちゲーティアの内部事情を、詳細に把握している者だけだ」
ゾゾゾと、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走った。
「……つまり、俺たちの中に、裏切り者がいたってことか?」
俺の声が震える。
その瞬間、オヤジが弾かれたようにバエルに掴みかかった。
「ふざけんじゃねぇ! 俺たちの中に裏切り者がいたって言うのか!」
激昂するオヤジ。前世のバエルならひらりとかわしていただろうが、ひ弱な紫藤の肉体では避けられず、背中を強く壁に叩きつけられた。
「ぐっ……落ち着け、グラシアス。あくまで仮定の話だ」
「違う……!」
オヤジはバエルの襟元をさらに強く締め上げた。
「お前の話に……理がありすぎるから、俺は腹を立ててんだよ……!」
オヤジも、気づいてしまったのだ。
バエルの影を封じ、軍師の裏をかき、全滅の魔法陣へと誘導できるのは、背中を預け、安心しきっていた「家族」だけだという事実に。
「私たちの中に、裏切り者が……?」
ストラノアが青ざめた顔で力なく座り込んだ。今の彼女は、白川希良梨の心と混ざり合っている。かつての鉄の精神は、最愛の家族に背後から刺されていた可能性という絶望に耐えきれなかった。
俺たちが誇り、命を懸けて守ってきたゲーティア傭兵団。
それが全滅したのは、王国軍の強大さゆえでも、魔女の術式のせいでもなく、俺たちの「誰か」の手引きだったというのか。
もし、この世界にまだ転生していない仲間がいるなら、そいつは戦友なのか。
それとも、地獄へ突き落とした仇なのか。
再会の喜びで満たされていた裏庭の空気は、一瞬にして疑心暗鬼の闇に塗り潰された。
俺たち四人は、出口のない絶望の縁に立たされていた。
――――――――――――――
あの日、家族同然の絆を誓った七十二人の顔。一人ひとりの笑顔、交わした言葉、背中を守り合った戦火の記憶。それらすべてを「裏切り」という冷たい泥で塗り潰さなければならないのか。
一睡もできぬまま迎えた朝、世界はどこまでも白々しく、そして寒々しかった。
通学路の雑踏の中、いつもの光を失った背中を見つけた。ストラノア――白川さんだ。
普段なら周囲を惹きつける彼女の輝きは、霧に包まれたように霞んでいる。
「おはよう……」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その瞳には深い隈が浮き、生気のない色が淀んでいる。
「……おはよう、サミナギ」
いつもの「白川さん」としての仮面を被る余裕すらないのだろう。
俺たちは、言葉を失ったまま並んで歩き出した。春の陽光が、今は肌を刺すように不快だった。
前世において、奪われ続けた幼年期。俺たちにとって、ゲーティア傭兵団は単なる職能集団ではなかった。
それは、呪われた運命の果てにようやく辿り着いた、唯一の「聖域」だったのだ。
俺は、幼少の頃に親にすら愛されず、路地裏でパンよりも安価に奴隷商へ売られた。人の温もりを知る前に、鎖の冷たさと鞭の痛みを知った。
ストラノアは、その魔法の才能よりも先に、神が呪ったとしか思えないほどの美貌を貴族たちに見出された。闇の娼館。薄汚れたシルクの上で、獣のような男たちの慰み者として、魂をすり減らしていた。
俺は奴隷商からゲーティアに買い取られ、彼は闇の娼館を灰にし、支配者の喉を裂く戦乱の中でオヤジに拾われた。
泥水を啜り、尊厳を弄ばれてきた俺たちに、初めて「愛」という概念を、名前を呼ぶという慈しみを教えてくれたのが、あの傭兵団だった。
「ねえ、サミナギ……。私たちは、また売られたのかな」
掠れた声で、ストラノアが呟いた。
かつて実の親に売られた俺。自らの美しさに売られた彼。
あの絶望の淵から救い出してくれたはずの「家」に、またしても裏側から扉を閉ざされ、奈落へ突き落とされたのか。
裏切り。その二文字は、単なる作戦の失敗を意味しない。
俺たちが生きてきた全人生の全否定。
信じた温もりさえもが、最期に俺たちを効率よく殺すための仕掛けだったのではないかという、身を切るような疑念。
「……わからない。だけど、もしそうだとしたら」
俺は震える拳を強く握りしめた。
「俺は、そいつを……地獄まで追いかけてでも、報いを受けさせてやる」
冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
かつて戦場で感じたどんな死の予感よりも、隣を歩く彼女の沈黙の方が、今は耐え難く痛かった。
「よっ! お二人さん! 朝からアツアツだねぇ〜!」
背後から飛んできた、心底能天気な声。
そこには、昨日までの沈鬱な空気を微塵も感じさせないほど「紫藤良」になりきった、バエルがいた。
「アツアツあつもり! 麺は冷めてもハートは茹でたて! お熱いのは結構ですが、昨日のアレのせいで僕のメンタルはもうキンキンに冷やし中華ですよっと!」
あまりの温度差に、俺とストラノアは呆然と立ち尽くした。
「え……?」
「バエル……だよな?」
「まごうことなき紫藤ことバエルだよ。何? 売れっ子芸人のオーラが隠しきれなかった?」
唖然とする俺たちの顔を見て、バエルはふっと、困ったような、けれどすべてを包み込むような優しい笑みを浮かべた。
「……前世のことで落ち込んでるんだろ。何があったって、もう終わったことだ。今の俺たちがここで頭を抱えたって、あの戦場の色が変わるわけじゃない」
「……だって」
ストラノアが、震える拳でスカートの生地を強く握りしめた。
「悲しいじゃない。悔しいじゃない……! 信じていたのに。私たちは……」
「確かに裏切りはあった。俺たちは命を落とした。だがな」
バエルは足を止め、真っ直ぐに俺たちの目を見据えた。
「今世は今世だ。この平和で、何を食べても美味い、泥水を啜らなくていい世界に俺たちは転生できた。何が不満なんだ? 少なくとも、今の俺には夢がある」
バエルは、自分の胸を拳で叩いた。
「『紫藤良』としてお笑い芸人になるっていう夢だ。前世じゃ、自分の名前すら重荷だった。いつか路地裏で野垂れ死ぬと確信して生きていた日々が、そんなに大切か? 俺は今世を大事にしたい。……お前たちはどうなんだ? 夢はないのか」
バエルの問いかけに、俺は言葉を失った。
「サミナギ」にも「青山隼人」にも、誇れるような夢なんてなかったからだ。
だが、隣を歩く少女の口から、微かな、けれど確かな決意が零れた。
「……お医者さん。私は、小児科のお医者さんになるのが夢」
ストラノアの瞳に、微かな、けれど瑞々しい光が戻る。
「そうだった……。私は、救われなかった子供たちを救うために、勉強していたんだわ」
「そうだろ? 過去に、しかも前世に囚われるなんて時間の無駄だぜ。ほらサミナギ、お前も何か言ってみろ」
「俺は……」
相変わらず、何も思いつかない。戦うこと以外、何も知らなかったから。
「ああ、お前はもう目の前に『夢』が叶っちゃってるか。ハハハ! お熱いねぇ! 放射冷却で俺の心は氷河期突入だよ!」
バエルが再びつまらないギャグを飛ばしながら、俺と希良梨を冷やかすように指差した。
その瞬間、俺の顔は沸騰したように赤くなった。
そうだ。青山隼人の夢。白川希良梨。
それが、こんなにも親密に、今、俺の隣で一緒に歩いてくれている。
「なっ、バカ、言うなよ!」
魂の影で「サミナギ」が冷たい視線を送っているのを感じる。「忘れるな、使命を忘れるな」と。
だが、バエルの笑い声と、希良梨の少し照れたような微笑みが、その影を日向へと追いやっていく。
今は、それでいい。
前世よりも、今世。
裏切り者が誰だろうと、俺たちが地獄から戻ってきたのは、また絶望するためじゃない。
きっとこの眩しい朝日の中で、新しい夢を見るためなのだから。




