6話 歪む自己
脳裏に刻まれた境界線。
俺は、俺自身と対峙していた。
背後に、死臭の漂う荒涼たる戦場を背負った男――サミナギ。その瞳は血の色を知る鋭利な刃のようだ。
「お前はそれでいいのか、サミナギ。ゲーティアの魂を、その誇りを忘れて温い泥の中で生きるのか」
対する俺は、西日の差し込む穏やかな自室を背に立つ――青山隼人。
「……転生した今、俺にできることなんてない。それに、ここには俺が前世でどれほど求めても得られなかったものがある。俺を捨てた母も、冷たい岩の上で震える夜も、ここにはないんだ」
「多くの魂を糧としたあの賢者の石の魔法陣、お前ならその正体がわかるはずだ。魔女の子であったお前なら、奴らの術式の真理を知っているだろう」
サミナギの糾弾が、鼓膜を灼く。
「……確かに、魔女の秘術には膨大な魂が必要だ。あの戦場で、あれほど巨大な魔法陣を敷くのは容易だっただろう。だが、だからなんだ。終わったことだ」
「“だからなんだ”だと? お前はすっかり、平和という名の毒に冒されたようだな。かつての俺なら理解できたはずだ。あの魔法陣は……」
「あの魔法陣は、なんだと言うんだ」
「……」
それ以上、過去の俺――サミナギは語らなかった。
ただ、憐れむような、あるいは警告するような複雑な眼差しを残して、その姿が霧の中に消えていく。
「おい、待て! なんだよ、あの魔法陣は……!」
叫びと共に跳ね起きた。
全身を冷や汗が伝い、心臓が早鐘を打っている。
一瞬、この清潔な部屋こそが夢で、俺はまだあの戦場に倒れているのではないかと錯覚して、シーツを強く握りしめた。
「……はぁ、はぁ……現実、か……」
窓から差し込む朝日は、残酷なほどに平和だった。
安堵の吐息を漏らす。だが、胸の奥に滲んだ「疑惑」という名の毒は、消えてはくれなかった。
あの戦場で見上げた、空を覆うほどの魔法陣。
あれを起動させたのは、本当に王国軍の魔導士たちだったのか?
それとも、あの場所にゲーティアを呼び寄せた「何者か」が――。
青山隼人の心に、サミナギの冷徹な理性が楔を打ち込む。
平和を愛でる少年の自分と、陰謀の臭いを嗅ぎ取る傭兵の自分が、決定的に乖離し始めていた。
「サミナギ……お前は、何を見せたかったんだ」
鏡に映る青山隼人の顔は、昨日よりも少しだけ、鋭く、険しくなっていた。
この死を近くに感じない平和は、果たして本当に「報酬」なのか。
それとも、まだ終わっていない「戦場」の続きに過ぎないのか。
俺は重い体を引きずりながら、再び走り出すために家を出た。
その足取りは、もはやただの高校生のそれではない。
獲物を追う、飢えた獣の足音に似始めていた。
――――――――――
今日はストラノアとの「実験」の日だった。
俺たちの共通点は、同じ中学校を卒業しているということ。白川さんはその事実に目をつけ、「いい実験法を思いついた」と、長い睫毛をピンと張って俺に提案してきた。
名目は、同じ高校に進学した中学の同窓生を集めた、単純な「おな中同窓会」。
だが、ストラノアの瞳の奥には、白川さんとしての快活な光とは別に、冷徹な軍師としての計算が透けていた。
詳しくは教えてくれなかったが、おそらく「真名」の共鳴を広域で試すつもりなのだろう。もったいぶる態度は前世と変わらず、あの頃なら「さっさと吐け」と喧嘩になっていたはずだが――。
今の、白川さんの愛らしい姿でそれをやられると、苛立ちよりも先にどうしようもない「愛おしさ」が込み上げてくる。
……恋愛とは、戦場よりも理不尽で厄介な代物だ。
待ち合わせ場所の広場。少し早く着いた俺たちは、同窓生たちが現れるのを待ちながら、小声で言葉を交わした。
「実は、変な夢を見たんだ。前世の俺が、あの魔法陣のことをもっと考えろと迫ってくるような夢だ」
「前世のサミナギが……? そう。過去と現在の乖離が、そんな夢を見せたのかもしれないわね。私も覚醒した後、何度か奇妙な夢を見たわ」
「乖離性のある夢、か?」
「ええ。希良梨の姿のままで、あの凄惨な戦場に立っていたり。逆にストラノアとしての幼少期の記憶が、希良梨の五感で再生されたりするの。無理やり今の肉体に過去を適応させようとして、性別的な乖離が現実にまで侵食してきそうで、おかしくなりそうになった」
ストラノアは、自身の華奢な指先を不安げに見つめた。
性別の壁。それは、俺が抱える「強さの喪失」以上に、彼女の精神を根底から揺さぶっているようだった。
「やっぱり、性別の乖離は精神への負担がデカいんだな。俺の夢とは毛色が違うが……」
俺は、夢の中のサミナギが残した言葉を反芻する。
あの空を覆った巨大な魔法陣。魔女の子であった俺にはわかる。魔女の術式は、本来あれほど安定して、かつ迅速に形成できるものではない。あまりに繊細で、狂いやすく、そして――計画的すぎる。
「ストラノア、お前もあの魔法陣を覚えているだろう? 魔法陣のプロであるお前の視点から見て、何か違和感はなかったか?」
ストラノアは、その問いに一瞬だけ、かつての軍師としての鋭い眼光を見せた。
「そうね……違和感というか、矛盾というか。あの日、あの場所にあの陣を敷くには、あまりに――」
何かを言いかけて、彼女はパッと口を押さえた。
「その前に、みんな来たみたい。……こういう重い話は、二人の時にしましょう」
そう言って、ストラノアは「白川希良梨」としての完璧な笑顔を貼り付け、駆け寄ってくる同窓生たちの方へと駆け出した。
下手にこんな話を部外者に聞かれれば、ただの痛い「厨二病」だと思われて終わりだ。
けれど。
「二人の時にしましょう」という、まるで密約のような言葉。
その響きに、青山隼人の心臓が不必要に跳ね上がる。
前世の俺が警告する「世界の歪み」への恐怖と、今世の俺が抱く「彼女への高鳴り」。
二つの自分が、一歩ごとに違う方向へ進もうとしている。
やはり、恋愛は――そして「生き直す」ということは、この上なく厄介だ。
集まった面々は、どこにでもいる高校生の群れだった。
進学科の高橋、須藤、鈴木の三人は、学校ですれ違っても「ああ、同中だな」と思う程度で、魂の奥底が震えるような感覚はなかった。おそらく、ストラノアもそれは織り込み済みだろう。網を広げなければ、魚は掛からない。
だが、普通科の二人――斉藤侑と紫藤良。こいつらは別だ。
中学時代は泥にまみれて遊び倒した仲だが、高校に入ってからはカリキュラムの壁に阻まれ、疎遠になっていた。
「なぁなぁ隼人。もしかして、お前白川さんと付き合ってたりするわけ?」
久しぶりに顔を合わせた斉藤が、ニヤニヤしながら肩をぶつけてくる。その遠慮のなさに、一瞬だけサミナギの警戒心が緩み、隼人としての自我が表層に浮上した。
「ち、ちがうって。そりゃ……付き合えたら最高だけど。って、お前知ってるだろ、俺が進学科に無理して入った理由」
「そうだったそうだった! 普通科で俺たちとバカやるのを蹴ってまで、恋に生きた男だもんなぁ、お前は!」
「全くだ。俺たちとの友情より女か。いや〜、薄情だねぇ、青山くんは!」
紫藤良が、わざとらしい溜息をついて会話に割り込んできた。
こいつは中学の頃からのお調子者で、将来の夢は「お笑い芸人」だなんて抜かしている。その割に、今のところ言動のすべてがスベり気味なのだが。
「最近じゃすっかり誘いも断っちゃってさぁ。過去の男(俺たち)なんて、もうどうでもいいんでしょ! 酷い、酷いわ!」
紫藤がくねくねと女のような動きをしながら、ポケットから出したハンカチを漫画みたいに「キーッ!」と噛んでいる。
「私たちのことなんて忘れちゃったのよ。この、浮気者! 遊び人! ラブコメ脳芸人!」
「いや、最後のは意味わかんねーし、いつからお前が彼女になったんだよ」
俺は苦笑いしながら、紫藤の肩を軽く突き放すように叩いた。
強いツッコミをいなす愉快な動きでくるりと一回転する紫藤。
――その瞬間だった。
掌から、火花が散るような衝撃が走った。
皮膚と皮膚が触れ合った場所から、魂の奥底を直接揺さぶるような、泥臭くて、けれど誰よりも真っ直ぐな「あの感覚」が逆流してくる。
(え……嘘だろ。まじか、こいつ、もしかして……!)
サミナギの理性が叫ぶ。だが、この場で「真名」を呼ぶわけにはいかない。いきなり紫藤に向かって「お前、あの時の!」なんて言い出せば、文字通り頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。
「……青山くん? どうした、急に固まって」
ストラノアが俺を凝視している。彼女も気づいたのかもしれない。この、ふざけたピエロのような男の中に眠る、重厚な影の魂に。
「あ……いや、なんでもない。紫藤のボケが相変わらずつまらなすぎて、時が止まっただけだ」
「ひっどーい! 今の、俺の中ではM-1決勝レベルの仕上がりだったのに!」
紫藤は再びおどけて笑い、そのまま一行は「とりあえず遊ぼうぜ」とラウンドワオンへ向かうことになった。
ボーリングのピンが倒れる音。UFOキャッチャーの電子音。
そんな高校生らしい喧騒の中へ歩き出しながら、俺は自分の右手をじっと見つめた。
こいつが、もし本当に「あいつ」だとしたら――ゲーティア再結成は、思っていたよりもずっとカオスなことになる。
――――――――――
その男は、闇そのものだった。
魔族の血が流れる特殊な村の生まれ。そこには、自らの身体機能を「悪魔」に捧げ、異能を買い取る凄惨な風習があった。
その男は、「味覚」と「声」を捧げ、引き換えに「影潜入」と「暗殺」の権能を得た。
名は、バエル。
姿を変え、音を消し、影から影へと渡り歩いて標的を仕留める、ゲーティア不動のナンバーワン・アサシン。
彼は一切の声を発さず、ただ静かに俺たちの傍らにいた。極限の飢えも、死に体の痛みも、彼は一度として口にすることはなかった。
言葉を使わず、背中だけで「プロフェッショナルとは何か」を俺たちに教えてくれた、寡黙なる死神。
……だが、運命というやつは、時に悪魔よりも悪趣味な冗談を叩きつけてくるらしい。
「いっけぇええ! 俺の右腕に宿りしダークネス・ドラゴンが火を吹くぜぇええ! ストライク!……あ、ガター」
ボーリングで奇声を上げながら派手にズッコケている男。
まさか、あの孤高の暗殺者が、この「おしゃべりクソ野郎」の中に収まっているなんて。
俺はあまりの衝撃に、ゲーム機の影で一人頭を抱えていた。
「大丈夫……? 青山くん」
周囲に悟られないよう、不自然なほど自然に近づいてきた白川さんが、小声で俺の耳元に囁く。
「……もしかして、『いた』の?」
「ああ、いた。間違いない、魂の残響は確かにアイツだ。……だけど」
俺が絶望的な視線で指し示した先を、ストラノアも確認した。
そこでは紫藤が、周囲の女子に「今のガターは俺の高度なギャグだから!」と必死に弁明しながら、くねくねと気色の悪いダンスを披露している。
「……ああ、そうなんだ。紫藤くんなのね。……まあ、悪い人じゃないんだけど。その、前世とのギャップが、ね」
ストラノアの表情も、複雑を通り越して引き攣っている。
「うーん、黒崎に会わせたら、あいつ『うるせぇ!』って一秒でぶん殴られそうだな」
隼人と黒崎の記憶によれば、紫藤は過去に何度も黒崎に因縁をつけられては、涙目で逃げ回っていた。そんな「最恐の天敵」と「敬愛するオヤジ」が同一人物だと知ったら、アイツの心臓は止まるんじゃないか。
「問題は、いつ『真名』を伝えるかだ……。あんなお調子者の状態でバエルの記憶が戻ったら、人格が崩壊するだろ」
「バエル…それか、今の『喋りすぎる』性質が暗殺技術と混ざって、影に潜みながら耳元でくだらないギャグを連発するっていう、新しいタイプのバカが誕生する可能性もあるわね」
ストラノアが真顔で恐ろしい分析を口にする。
バエル。前世であれほど信頼し、畏怖した男。
その魂を呼び覚ますべきか、それともこのまま「スベり芸人」として平和に死なせてやるべきか。
俺たちの葛藤を余所に、紫藤は「見て見て! 青山! 究極奥義・背負い投げボウリング!」と叫び、店員に怒られそうなフォームを構えていた。
……先が思いやられる。ゲーティア再結成への道は、思っていたよりもずっと、頭痛の種に満ちていた。
――――――――――
楽しい「高校生らしい」喧騒が幕を閉じ、俺たちはその足でオヤジ――黒崎の元へと向かった。
オヤジは工業高校に通いながら、放課後は実家の商店の配達を手伝っている。
SNSで手際よく現在地を送り合って合流を待つ。あの繊細な作業が嫌いなオヤジが、その太い指先でチマチマとスマホを操作している姿を想像するだけで、おかしさが込み上げてきた。
「これもまた、現世と前世の『乖離』だよね」
ストラノアと顔を見合わせて笑う。
だが、その穏やかな空気の裏側で、俺は再び「もう一人の俺」が不快そうに睨みつけてくる気配を感じていた。「平和に酔いしれるな」。サミナギの幻影が、耳元でそう囁き続けている。
「そうか……あの『紫藤』が、バエルか……」
スーパーカブにまたがり、配達の合間に現れたオヤジ。その顔は、かつてないほど複雑に歪んでいた。
黒崎としての「天敵のお調子者」への苦手意識か。あるいは、戦士としての「至高の暗殺者」への敬意か。夕闇に照らされたその表情は、とても高校生のそれとは思えないほど重苦しい。
「しかし、真名を教えずに放っておくっていうのもなぁ」
オヤジが低く呟く。魔力を持たなかったオヤジにとって、言葉を使わず完璧に仕事を遂行するバエルは、ある種の理想の体現者であり、尊敬の対象でもあったのだ。
「うん。やはりアイツにも真名を教えるべきだろう」
ストラノアが、白川さんの可憐な瞳に軍師の決意を宿して言った。
「ゲーティアとしての誇りを知らずに、あんな道化のまま生涯を終えさせるなんて……私には耐えられない」
「……そうだな。オヤジが、ストラノアがそう言うんなら。俺たちは魂で繋がった家族だ。秘密を抱えたまま接するのは、こっちも限界だ」
俺の言葉に、二人が重く頷く。
かつて味覚と声を捧げた男が、今は不味いギャグを連発しながら生きている。その矛盾の壁をぶち壊す時が来たのだ。
「もし、真名を呼んだ瞬間に紫藤くんがいきなり寡黙な性格に変貌したら、クラス中がパニックになりそうだけど……」
ストラノアが、少しだけ不安そうに肩をすくめる。
「うーん、なんとか『紫藤』と『バエル』のちょうどいい中間地点で収まってくれればいいんだがな」
それは、俺たちにとっても大きな賭けだった。
一歩間違えれば、平和な学生生活も、紫藤という青年の人格も、木端微塵になりかねない。
「よし、決行は明日だ。学校の裏庭にアイツを呼び出そう」
夕暮れの街角で、俺たちは密約を交わした。
伝説の暗殺者を呼び覚ます。その一言が、平和な日常の終わりを告げる号砲のように聞こえた。




