5話 地獄のような、あるいは天国のような矛盾
どうやら、俺がその名を放つまで、彼女――ストラノアの魂は深い眠りの中にあったらしい。
「真名」という鍵が、厚い氷を砕くようにして白川希良梨の意識の下に眠っていた軍師を呼び覚ましたのだ。
「……今まで、欠片も思い出せなかったよ。真名による魂の共鳴がトリガーだったのかな。これが禁忌の副作用だとしたら、仲間を見つけるのにも骨が折れるね」
白川さん――いや、ストラノアが、可憐な指先で額を抑えながら深くため息をつく。
よりによって、俺が密かに想いを寄せていた少女が、皮肉屋の魔導士ストラノアだったとは。このあまりに数奇な巡り合わせに、俺の理性が悲鳴を上げている。
「……参ったな。さすがにこれは、想定外すぎる」
「どうして? 偶然にせよ、再会できたことは最良の結果だと思うけど」
「いや、それは……まあ、そうなんだけどさ」
言葉を濁すしかない。「実はずっと前からお前のことが好きだったんだ」なんて、中身がストラノアだと判明した瞬間に言えるはずがない。前世の戦友が、今世の初恋の相手。この“地獄のような、あるいは天国のような矛盾”をどう処理すればいい。
「……サミナギ。君、妙に動揺していない? 視線が泳いでるよ」
鋭い。外見は可憐な少女になっても、魔導士としての観察眼は健在だ。
「別に、大したことじゃない。ただ……なんていうか、その……とにかく複雑なんだよ!」
「ふーん。まあ、言いたくないなら無理には聞かないけど。だけど、私の方こそ複雑だよ。よりによって女子高生になっちゃうとは……。記憶が戻った今、この『スカート』に恐ろしい違和感を感じる」
「頼むから具体的に言うな! 想像したくないことまで想像しちまうだろうが!」
「何を想像したの?相変わらず面白いね、サミナギは」
「お前こそ……口調まで随分と変わったみたいだがな」
「器に魂が引っ張られているみたい。まだ『ストラノア』としての感覚は二割くらいかも。さっきまで、白川希良梨としてあまりに平和に生きすぎていたからかな。――で、さっきの話だけど。記憶が戻らなかったのは、どうやら『名』に魂が固定されていなかったせいみたい」
「なるほどな……。魂を呼び戻すには、名前を呼んでやる必要があるってことか」
「ああ。つまり、私たち以外にも『未覚醒』の仲間がこの世界に紛れている可能性は高いわね」
白川希良梨と、ストラノアと。
ストラノア――いや、白川さんは、長い睫毛を伏せて沈黙した。
隼人として見てきた彼女の優雅な読書姿と、ストラノアとして見てきた冷徹な術式構築。その二つの残像が、俺の中で激しく火花を散らす。
「じゃあ……探そう。他の仲間たちも」
「……ああ。だがその前に、もう一人と合流させたい」
「もう一人? すでに誰か見つけたの?」
「それは……会ってからのお楽しみだ」
「えー、気になる。教えてよ、サミナギ」
「……っ、急に白川モードに戻るな! 心臓に悪い!」
「仕方ないでしょ! ついさっきまで、これが私の『日常』だったんだから!」
そう言って、彼女は照れ隠しのようにいたずらっぽく笑った。
その笑顔は、紛れもなく俺の好きだった“白川さん”のもので――けれど、その瞳の奥には、死地を共に潜り抜けた“ストラノア”の揺るぎない理性が光っていた。
参ったな、本当に。
目の前の彼女が、愛すべき少女なのか、信頼すべき戦友なのか、今の俺にはもう判別がつかない。
けれど、そのどちらであっても。
俺の胸のざわめきは、春の嵐のように激しく、そして心地よく吹き荒れていた。
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「ガハハハハハ! 腹が、腹が痛ぇ……ッ!」
公園の片隅、夕闇に紛れるようにして集まった俺たちの間に、オヤジの野太い爆笑が響き渡った。
トレーニングウェアに身を包んだストラノア――いや、今の白川さんの姿を認めた瞬間から、この「血塗れの将軍」は呼吸を忘れたかのようにツボにハマってしまったらしい。
「お前……なんだその格好は! あははっ、く、苦しい……! 可愛すぎて別人じゃねえか! あの不愛想な魔導士が、今じゃ学校中のマドンナ様かよ!」
「う、うるさいっ、オヤジ殿! 私だってこの器の勝手な反応に戸惑っているんだからっ!」
顔を真っ赤にして反論するストラノア。だが、羞恥に震えるその仕草さえも、今の彼女がやると「可憐な少女の照れ」にしか見えない。横で見ている俺としては、かつての軍師の威厳が音を立てて崩れていく様に、眩暈がするほどの混乱を覚えていた。
歪で奇妙な、魂を共鳴させる「同級生」たち。
「まさか、あの白川がストラノアだったとはな……」
オヤジ――黒崎は、ようやく笑いの波を収めると、感慨深げに目を細めた。
そう、白川希良梨は俺たちの学年では有名な存在であり、不良の頭である黒崎にとっても「別世界の優等生」として認識されていた。そんな二人が、前世では共に戦場を駆けた戦友だったのだから、運命というやつは本当に質が悪い。
「……いやぁ、でもよ。正直に言えば、めちゃくちゃ嬉しいぜ。姿形はどうあれ、またお前とこうして言葉を交わせたんだからな」
涙を拭いながら、オヤジの顔からふっと「黒崎竜二」の荒っぽさが消え、最年長の「父親」としての柔和な表情が戻った。
ゲーティアを家族と呼び、誰よりも仲間を愛していた彼にとって、生存の確認は何よりの福音だったのだろう。
「オヤジ殿……」
ストラノアも、その言葉に毒気を抜かれたように俯いた。
彼にとってもオヤジは育ての親であり、自分を地獄から救い出してくれた英雄でもあるのだから。
白川希良梨の長い睫毛が震え、彼女はこぼれそうになるものを隠すように、乱暴に目元を拭う。
「……うん。私も、あんたのそのバカでかい笑い声を聞けて、少しだけ安心したよ」
夕暮れの公園。
屈強な不良と、可憐な美少女、そして俺。
およそ接点のないはずの三人の間に、あの日、戦場で分かち合った熱い絆が確かに蘇っていた。
「よぉし、これで三人だ」
オヤジが自分の拳をパチンと鳴らし、俺とストラノアを交互に見た。
「サミナギに、ストラノア。そして俺だ。……残るは、あの『真っ赤な団長』と、あと数名。この調子なら、案外早く揃うかもしれねぇな」
「そうだな。俺たちがこんな近くにいたんだ、希望はある」
俺は頷き、かつての軍師を見た。
彼女はまだ少し照れくさそうにしていたが、その瞳の奥には、すでに次なる仲間を見つけ出すための、鋭い知略の光が宿り始めていた
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「それにしても……黒崎くんが“オヤジ殿”だったなんて。なんだか、すごく変な感じ」
「それはこっちの台詞だ。そのツラと声で言われると、背筋がゾワゾワして落ち着かねぇわ」
ベンチに座り、所在なげに指先を絡めるストラノア。……いや、もはや“彼女”と呼ぶほうが、今のこの空気にはしっくりきてしまう。
言葉の端々に混じる柔らかな響き、伏せられた睫毛の揺れ。そのすべてが、かつての冷徹な軍師の面影を少しずつ上書きしていく。
「希良梨としての感覚が……すごく強い。正直、ストラノアとしての記憶は、霧の向こうにある遠い夢みたいに感じることもある。今の私は……いや、俺は……もう、八割くらいは『白川希良梨』なんだと思う」
「……なるほどな」
俺やオヤジは、目覚めた瞬間から前世の熱が全身を支配していた。青山隼人や黒崎竜二という名は、あくまでこの世界を渡るための「仮面」に過ぎない。
だがストラノアは逆だ。器との適合、そして性別の相違――肉体が魂に及ぼす変質は、俺たちの想像以上に彼女を「現在」へと引き寄せているらしい。
「身体の構造が違えば、魔力の循環も魂の定着も変わる。適合率に差が出れば、記憶の鮮明さだって混濁して当然か……」
「……厄介な話だぜ、全くな」
オヤジは昔の癖で、今はもうない髭を撫でる仕草をしながら、複雑そうに唸った。
その横で、俺は言葉を失ったまま、ただストラノアの横顔を見つめていた。
死地を共に潜り抜けた、無二の相棒。
そして、青山隼人が人生のすべてを賭けて想い続けてきた、光の中の少女。
今、その二人が、目の前で残酷なまでに重なり合っている。
サミナギとしての『信頼』と、隼人としての『恋心』。
それがどろりと混ざり合い、胸の奥で得体の知れない熱となって渦巻いていた。
(……ややこしすぎるだろ、これ)
動揺しすぎて、肺の酸素が足りない。
前世、数多の戦場を駆け抜け、死の淵さえも冷徹に見つめてきたはずの俺が、たかだか少女一人の視線に射抜かれ、無様に狼狽している。
「この状況……マジで厄介だぞ……どうしよう、オヤジ! 俺、前世じゃ恋なんて、一秒もしたことないんだよ……ッ!」
「お、俺に恋の相談を振るんじゃねぇ!!そう言うのはアズムンドに聞け!」
オヤジの顔が一瞬で沸騰したように真っ赤になる。
巨大な魔物を一撃で屠ってきた拳が、今は行き場を失って宙を泳いでいた。
「……待てよ。ってことは、これ、部隊内で初孫が見られるんじゃねぇか……?」
「だから気が早すぎるっての! ってか相手ストラノアだぞ!? 『星界の悪夢』と恐れられた、あの冷酷無比な男だぞ!?」
自分で口にして、余計に脳が焼け付くのを感じた。
思い出せ、あの魔導士の瞳を。冷徹に戦局を支配し、容赦なく紫電を放っていたあの姿を。
それなのに、目の前にいるのは、春の陽光のような微笑みを浮かべた白川希良梨なのだ。
混濁する「俺」を見たストラノアがハッとする。
「ちょっと待って、こっちも整理できてないんだけど……。私って、青山くんの『好きな人』だったの……?」
ストラノアが、頬を染めて上目遣いで俺を伺う。その仕草はあまりに希良梨で、けれど声の芯にはストラノアの理知が潜んでいる。
「違う! いや、違わない……けど、今は違うってことにしてくれ! 頼むから!」
「やっぱり一緒じゃん……」
俺が真剣に人生最大の窮地に立たされているというのに、ストラノアはどこかほっこりとした、恥じらうような笑顔でこちらを見ていた。
俺の中にいる『サミナギ』が叫んでいる。義兄弟をそんな目で見るな、と。
一方で『青山隼人』が抗う。彼女こそが、俺がこの世界で唯一見つけた光だ、と。
かつての自分と今の自分。その乖離が激しいノイズとなって、俺の自我を激しく揺さぶる。
「ガハハハ! おお、なんかみなぎってきたぞ! よし、今日は祝杯代わりに、トレーニング2セット追加だァ!」
「なにその地獄のノルマ……!」
鼻で笑いながら、文字通り「お祭り騒ぎ」で手を叩いて喜ぶオヤジ。
女の子になったかつての参謀と、初恋の重圧に押し潰されそうな俺。
――この再会、どう考えても波乱しかない。
感情の整理なんて、戦場での乱戦以上に困難だ。
俺は熱くなった頬を隠すように、沈みゆく夕日に目を逸らした。かつての『戦友』が、守るべき『思い女』へと変質していくこの奇妙な均衡を、俺はどう受け止めればいい。
「……ま、とりあえず、今はそれでいいんじゃねぇか」
沈黙を破ったのは、オヤジのどこか達観したような声だった。
「お前が『白川』だろうが『ストラノア』だろうが、ここにいるのは俺たちの仲間だ。中身が八割だろうが二割だろうが、変わりゃしねぇよ」
「……オヤジ殿。ふふ、そうだね」
希良梨として、ストラノアとして。彼女は優しく、けれどどこか寂しげに微笑んだ。
その笑顔を直視できず、俺はただ強く拳を握りしめる。
これから始まる「再結成」の道のりは、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
サミナギとしての矜持が、青山隼人としての情動に食いつぶされていく。このまま「俺」という存在がどこへ向かうのか、その答えはまだ見えない。
けれど、夕闇が迫る公園で響く三人の声は、冷え切っていた俺の胸に、新しい「生きる理由」を熱く、そして残酷なまでに、けれど暖かく刻み込んでいた。




