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歴史上初の女性騎士と、愛で結ばれた姫の物語  作者: 風見 咲良


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【第三話】泉での雨、近づくキョリ


 第三話 泉での雨、近づくキョリ


~ ルカ side ~


「ルカ様。姫さまから、お部屋に来て欲しいとのご伝達です」


朝礼が終わり、午前の訓練に向かっていると爺やが私の前に現れて、そう言った。騎士団長にも報告済みとのことで、すぐさま向かうようにと。


「承知しました」


姫さまの護衛としてお仕えするのは、まだ少し先の話だと聞いている。


「一週間後ぐらいが目安だろう。あらためて正式な発表があると思うが、騎士館から城への引越し準備をしておけよ」


姫さまの自室から退出した後、廊下で団長からそう言われたことを思い出す。


姫さま専属の護衛ともなれば、いつ何時でも出向けるよう城に住み込むことになる。そのため、私はいま住んでいる騎士館の部屋を出るために、身辺の荷物を整理するなど諸々の準備をする必要があるのだが。


それとは別に、またしても急になんの要件だろうかと考えながら、私は姫さまの部屋へと向かった。


◇◇◇


 城内の廊下を歩きながら姫さまの部屋の扉を探す。


あった、ここだ。


 騎士団に入団した際に城内の見取り図を記憶してはいたけれど、実際に姫さまの部屋の扉の前に立つと緊張して体が自然と強張る。この国で一番、権力をを持つ人なのだから。分厚い扉からはなにも聞こえてこない。軽く深呼吸をしてから、もう一度大きく息を吸う。


「失礼いたします!」


敬礼とともに大きな声で、部屋のなかにいるであろう姫さまに呼びかける。が、返事がない。私の声だけが目の前に立ちはだかる扉や廊下の隅々に吸収されていき、残ったのはただ静寂ばかりだった。勝手に扉を開けるワケにはいかず、どうしたものかと扉を見上げていると真横に人の気配がした。


「早いのね」


振り向いたのと同時に姫さまがそこにいた。真横に来るまで、まったく気配を感じなかった。まるで風のように、なんの物音なく、でも確かにそこに存在していた。


「すぐさま向かえとの御伝達だったので」


敬礼をしながら、私は向こうの天井を見て答えた。下から姫様の視線を感じる。


「特段、急ぎってワケでもなかったのだけれど」


姫さまが、困ったように笑いながらそう言う。敬礼したまま、どう返事して良いか分からず私は固まる。


「ここで立ち話もなんだから、どうぞ部屋に入って」


そう言いながら、姫さまが重たそうな分厚い扉を開ける。私はその後ろに続いて、姫さまの部屋へと入った。


 あたたかく柔らかい空気が漂う部屋だと思った。


部屋に入ると真正面に大きな窓があり、そこに面して机と椅子が置かれている。さらに、その机と椅子も守る門番かのように、両側には天井まで続きそうな大きな本棚がある。どの家具も柔らかい色をした木で作られており、暖かみを感じさせる。


机は、おそらく重要な書類などに目を通したりする場所なのだろうが、どちらかといえば子ども部屋の読書机のような印象を持った。すぐそばに大きな本棚が二つも挟んで置いてあるからそう感じたのかも知れない。


本棚には様々な書物が規則正しく並べられており、重厚な背表紙からその本の重要度が分かるようだった。また、通番が降ってある書物は背表紙の色が揃っているので分かりやすい。が、この数をすべて読んだのだろうか。


あまりジロジロ見るのも不躾だと思いながらも、その部屋の心地よさに思わず酔いしれる。


「護衛としての任務が始まったら、ここに置いてある本も自由に読んで良いからね」


心のうちを見透かされたように、姫さまが本棚に目を向けながら言う。姫さまの言い方に、私は図書部屋での出来事を意識した。


「ありがとうございます」


すべて読まれたのですか? と野暮なことを続けそうになるのをグッと堪える。

相手はこの国の姫さまなのだ、私が気軽に口をきいて良い相手ではない。


姫さまが、仕事机の椅子をひいて座る。


「馬を手配してほしい」


上半身だけをこちらに向けてそう言った。うま? 突拍子もない言葉に、疑問を抱いた表情をしてしまったのだろうか。姫さまが話し続ける。


「行きたいところがあるので、お供してほしい」


行き先は? 時間は? 私たちだけで? 次々に疑問が浮かんだが、必要最低限事項の時間だけを尋ねる。


「かしこまりました。出発はいつ頃に?」


「少し遠いところだから、陽の時間に」


「では、陽の時間に西門でお待ちしております」


姫さまは頷いて、それが会話の終わりの合図だというように仕事机へと向き直った。

私もすぐさま準備を進めなければならないため、敬礼をして部屋を後にした。





~ 姫エルサ side ~


 背中にルカの視線を感じながら「馬を手配してほしい」と伝えた。


どんな顔をするだろうかと、振り向きながらその表情を伺う。まるで顔に「うま?」という文字を書いたようの疑問が色濃く浮かんだのがおかしかった。


状況が把握し切れていないからか戸惑いながらも、すぐさま了承の返事をしてくれた。もうすぐ護衛になるのだから、当たり前だ。


それがルカの仕事なのだから。そう、仕事なのだから。


「行きたいところがあるので、お供してほしい」


そんなふうに、こちらから願いを伝えるのが、なぜか恥ずかしい気分になる。その恥ずかしさは要望を伝えることではなく、ルカを指名しているという事実に対してなのだろうか。私はルカを気にしている。どうしても意識してしまう。


「では、陽の時間に西門でお待ちしております」


そんな恥じらいの気持ちを悟られぬよう、静かに頷いて机に向き直す。敬礼をする気配が伝わってきた。部屋を後にするルカを背後に感じていると、ふと背中に言葉をかけられた。


「あっ、マントをお忘れなく。三時を過ぎると急に風が変わって冷えますので」


細かなところまで気遣いができる繊細な心。思いやりがある心。それは女性だから? いや、ルカだから? 私はその性格が好きだと思った。そう。ただ、それだけなのだと自分に言い聞かせた。


「分かった。ありがとう」


私は表情を読まれないよう、肩越しに返事だけを放ち、いっそう背筋を伸ばして机に向き直った。扉が静かに閉める音がして、ルカのかすかな足音が静かに遠ざかっていった。


また、たったいまの部屋でのやりとりを最初から最後まで、反芻してしまう。自分が言った言葉、ルカの表情、声や仕草、そのすべて。


もうじき、ルカが護衛に就いたら、こんなふうに反芻することも必要なくなるほど、一緒にいられるのだろうけれども。反芻する暇もないほど、その瞬間ごとを一緒に過ごして、「今」その瞬間ばかりが積み重なって未来へと繋がっていく。


なんて幸せで贅沢なことなのだろう。そんなことを考えながら、私は机に突っ伏す。木の匂いが鼻腔をくすぐる。朝陽によってほのかに暖められた机の木の香り。幾度となくこれまでにも嗅いできたはずなのに、今朝だけは特別な匂いに思えた。それは、あなたが現れたから。


◇◇◇


 陽の時間までまだ少し時間があるため、自室を出て図書部屋に進む。


やった、今日はルカとと二人で馬に乗って外に出かけられるのだ。それも私の役目の一つ。大切な任務の一つに違いないのに、自然と胸が高鳴って高揚した気分になり、陽の時間が待ち遠しくなる。はやく、陽の時間にならないだろうか。そんなことを、生まれて初めて思った。


 図書部屋の扉を開く。


重厚に密閉された空間と外の空気が入れ混じるように、扉が開く。

ここにいると自分の思考が落ち着く感じがする。自分の思考が渦巻いて止まらなくなってしまうとき、私はよくここに来る。


他の人たちの思考が詰まった本たちを読んでいると、また違った見方や考え方に触れて、純粋な自分に戻れる気がするから。結局は、本を読み終わってもまた自分の思考と睨めっこをすることになっても、本を読んでいる間は落ち着く瞬間が必ずある。


 今日は一冊だけ持ち出そう。どれか小さな本を。


あ、これ。


小さい頃に繰り返し読んだ本。『猫王国』という題がついた、ネコたちの王国の話。主人公はネコなのに、まるで人間が築く王国に住む物語。主人公がネコという事だけで、人間の王国がいかに不自然ておかしなものに見えてくるか、それが興味深くて何度も読んだ本だ。サイズも持ち運びやすいため、旅のお供はこれにする。


 あともう一冊、読み終わってしまったとき用に選びたい。うーん、どれにしようか。

これ、にしようか。本棚に並んだ背表紙を指先でなぞって取り出す。


『ふたりのマーニ』仲良し姉妹の話。ずっと二人で一緒にいて、人生の様々なことを語り合い、歳を重ねながら成長していく、瓜二つの二人の話。


 私は、幼い頃に兄上たちがみな他の国へと旅立って行ってしまったから、姉妹が欲しいと思っていた。

どこにも行ってしまわない存在が恋しかった。私の周りの人たちは、いつだってどこかへ行ってしまったから。


家族よりも、国の任務を優先しなければならない運命だから。

私は自分のことを置いていってしまわない存在に恋焦がれていた。


自分にも相手にとっても、唯一無二の存在。


この本を読んでいたら、いつもそんな感覚に襲われた。そんな存在を願っていたのはもう幼き頃の夢なのに、今でもこの本を好きだということは、いまだに、そんな気持ちが私のなかにあるからなのかもしれない。


 選んだ二冊を小脇に携えて部屋を出る。幼きころはよくここで本を読んで過ごしたけれど、大人になってからは任務に関する学問書を読むことが多くなってしまった。学術書や地政学、地図や難しい契約書と睨めっこする時間が必然的に多くなった。だから、そう言った意味ではあまり本を読めていない。私にとって本を読むとは、ファンタジーや物語といった心躍るものだから。


 陽の時間までに終わらさなければならない役目が、実はたくさんある。


 自室へと廊下を歩いて急いでいると、裏庭を見下ろせる窓のレース越しに人影が見えた。ソッと窓に近づいて目を凝らしてみる。


 騎士団の制服を着た両肩と片手だけが見えた。肩口には、山々を赤く染めて燃えるような夕陽の色をした赤い髪が見える。


ルカだ。


勢いよく動くときには髪の毛が揺れる。そこまで長くもないけれど、そこまで短くもない長さ。肩にはつかない長さで自由に動く毛先。中間から毛先にだけほのかに出現するウェーブ。


よく見ると、右手には綱下を持っており、馬たちのほうを見ながら、ゆっくりと手綱を引っ張っている。


左手も見える位置まで来ると、両手に手綱を持っていることが見て取れた。ルカが歩くにつれて、庭の木々の間から揺れる馬の黒い頭が二つ見えてきた。


わざわざ裏の馬舎から馬を手配してくれているのだろう。よく手入れされた馬は、朝日の木漏れ日が当たって二頭ともツヤツヤと黒光りしている。思わず触りたくなるほどの滑らかな毛流れだ。


 動物は大好きだ。どこまでも純粋で愛情をちゃんと知っているから。そんなことを思いながら見ていたら、ルカが急にこちらを見上げた。


 私は咄嗟にしゃがんで身を隠す。

隠れる必要などないのになぜ? と自分で思いながらも、いまさら立ち上がって姿を見せればなおおかしいと思い直す。なぜ隠れてしまったのだろうと、心臓がバクバクと動き出す。


不審な人影を見たルカは、確認するためすぐにここまで来るに違いない。このまま跡形も残さず立ち去れば、あの人影は一体だれなのかを探り始めるだろう。


そうなっては余計に大ごとになってしまう。

どうしよう。そうだ、なにか置いていこう。なにか手元にあるもの、本しかない。


この二冊持っているうちの一冊をここに置いていこう。図書部屋から本を持ち出せるのは私だけだから、それで分かるだろう。早くしなければ。


 『ふたりのマーニ』を窓枠に置いて、私は早足で自室に向かう。


すでに一番近くの外階段を急ぐ、衣服の擦れる音をかすかに感じる。


 廊下の突き当たりを曲がって自室の扉を押し開ける。わずかな隙間から素早く部屋に滑り込み、静かに背中で扉を閉める。ふぅ~、なんとか姿は見られなかった。いったい私はなにをしているのか。


『猫王国』を置いてくるのはなんだか幼く恥ずかしいように思えて、『二人のマーニ』を置いてきてしまったけれど、あの話も子ども向けのものだ。なにか天体学とか、哲学とか、そう言った類の本を持っていればよかったなんて思いながら、イスをひいて机に向かう。


どうして隠れてしまったのだろうかと自問を始める。インクの蓋を開けて、羽ペンを手に取る。

覗き見をしていたことを知られたくなかったから?それとも、見惚れていたことが恥ずかしくて?

いや、咄嗟に身を隠すのはこの身分だと当たり前の習慣になってしまって身に染み付いているからだ。きっとそうに違いない。


もう片方の手で身近に置いてあった書類を手に取る。約束の時間までに必ずこの書類の作成を完成させなければ。咄嗟に身を隠した言い訳など必要ないはずなのに、私はルカに会ったらどう弁明しようなんて考えては、自然と頬が緩んでいた。





~ ルカ side ~


 公ではない遠征となっては、馬の手配も自分一人でやらねばならない。


どの馬にしようかと考える。やはりルークとルーチェにしよう。私が騎士団に入ってから、特に手塩をかけて大事にしている馬たち。


城への帰りは日没後になることも想定すると、やはり黒い馬でないと目立ちすぎる。式典では白い馬ばかりが連れ出されるが、私は黒い馬の方が好きだ。闇夜でも月の僅かな光を吸収して反射させるし、なによりもその様子がなんとも甘美で見惚れてしまう。


 どんな旅路にも備えられるようにあれこれと考えを巡らせながら、裏庭の隅にある馬舎に向かう。公の遠征ではないことから、たとえ城内であっても、あまり人の目に触れない方がいいだろう。そう考えて、あまり人の通らない茂った裏道を通ってひっそりと裏庭に出よう。そこまでは城の回廊を進んでいかなければならないが、いまの時間帯であれば、すれ違う者は少ないはず。


 ただ、念には念をで外階段の下を通って行く。耳を澄ませながら、頭で先回りして考えながら、些細な変化に神経を集中させながら城内の回廊を進む。


人の気配を感じれば、物陰に姿を隠して息を潜めてやり過ごす。革靴の足音さえ立てない。城内の窓からも姿が見えないよう中腰で進む。その調子で進み、外の階段へと通じるところまでやっと出た。


 人気がないことを確認して、外階段の真下を縫うようにしてしゃがみながら歩き、草木で茂った裏道をモゾモゾとかき分けながら進んで裏庭に出る。身を隠しながら、人の気配がないか神経を集中させる。だれもいない。


無事、馬舎の大きな扉の前についた。


 重厚な木で出来た馬舎の扉にソッと手をがざす。手のひらを右から七番目の木板の下のほうへと移す。少し力を入れると木板が奥へと動き、わずかな隙間が出現する。そこから指を差し入れて上に向かって曲げる。すると、指先にぶら下がった鉄リングが当たる。指先に全神経を集中させて力を入れてそのリングを下に引っ張る。すると、カチャンというわずかな音とともに開錠される。


指だけで開錠しなくてはならないため、結構な力がいる。だが、仮に力づくで動かそうとしても開かない。扉の鍵は知恵の輪のような仕組みになっているため、力だけでは解放することは不可能なのだ。強引な力だけでは開かず、わずかなテクニックとコツが必要となる。


そんなふうに私と、馬の共同管理者だけが知る方法で馬舎の扉が開いた。


 ここには個人で世話をして飼っている数頭の馬しかいない。騎士団が管理する馬たちとは異なる管轄だ。

元々はイーリスという者が、一人で管理をしていた。


 イーリスは、元々は戦闘で負った傷が原因で現役を引退した騎士団員だと言う。その噂通り片目が潰れていたが、残ったもう片方の瞳は温かい眼差しをしているのが印象的だった。


私が騎士団に入団してから、なぜかイーリスと気持ち面での馬が合ったことがキッカケで、ここの馬舎を案内してもらった。手入れが行き届き、イーリスから十分な愛情が注がれた馬たちはツヤツヤと毛並みが良く、その顔にも表情が豊かだった。


 黒光する馬たちに見惚れてしまい、私もここの馬舎に通うことが密かな楽しみになり日課となった。そんな日々が重なり、いつしか馬の世話や管理に私も加えてもらうことになったのだ。


 イーリスが他の任務で来られないときは私に馬たちの世話が任され、私が遠征訓練などで来られない日はイーリスが相変わらず世話をする。ここにいる馬たちはイーリスと、私が手塩をかけて愛している馬たちだ。


「あれ、どうしたんだ。こんな時間に」


カチャンという開錠の音をさせてなかに入ると、イーリスが馬の世話の手を止めずに私に言う。


「実は、先ほど姫さまから遠征のご依頼を受けて」


いつもとは違う時間の急な訪問でビックリさせないよう、馬たちに自分の手の匂いを嗅がせながら近づく。


「えらく急な話だなぁ」


しゃがんで、樽に入った水に布を浸しながらイーリスが続ける。


「姫さまの依頼ってことは、出発は今日の陽の時間とかだろう?」


どうして分かったのかという表情を私がしていたのか、イーリスが笑って続ける。


「昔からよく『気分転換に遠くへ行きたいから馬を貸して』って言われたからね。姫さまは、ここの解錠の仕方だって知ってる」


そうだったのか。私が知らない姫さまをイーリスはたくさん知っている。城に務めている年数や立場から考えても当たり前のことなのに、私はもっと姫さまのことを知りたいと願った。


「ルークとルーチェなら、いつでも準備万端だ」


先ほど水に浸していた布を硬く絞って、イーリスが立ち上がった。それを合図に二人でそれぞれに手綱をつける。ルークとルーチェ。どちらも黒い馬で、最初は見分けがつかないほど似ていると思った。だが、実際にお世話を続けていると、それぞれに性格や見た目の差がこれほどまでにあるのかと分かった。


「ルーク、ルーチェ。今日は初めての任務だ。頼んだよ」


私はルークに手綱をつけながら、つい興奮気味に話しかけてしまう。繊細な馬に興奮が伝わってしまわないように、心を落ち着けて平常心を装おうとしたのに、どうしても声が上ずってしまった。


 イーリスがその様子を見ながら、ルーチェに手綱を丁寧に付ける。私の方を見ながら、へぇといったふうな表情を浮かべていたが、私はそれを見ていないふりをした。


 陽の時間までに西門へ二頭を連れていかなければならないことを考えると、早めにここを出た方がいい。陽の時間に近づくと、城内の見回りが増員されるから。


 そろそろ連れて行かねばと思い、馬舎の扉を開ける。それと同時に扉から爽やかな風が舞い込んできた。

最後の仕上げにルークとルーチェの毛並みをブラシで撫でて整える。隆々とした筋肉に張り付くように生えた繊細で柔らかい毛。光を抱いて放つ黒々とした肉体。


 どちらにも頬擦りしてから手綱を引いて馬舎を出る。まずはルークから、次にルーチェ。


 その瞬間に視線を感じた。


上か!


そう勢いよく頭上の窓を見ると、窓のカーテンレースがフワッと下から上に微かに揺れた。見ていた人物は咄嗟にその場にしゃがんだのだろう。髪色と毛先のカール具合、そして一瞬見えた肩。おそらく、姫さまだ。


 まだしゃがみ込んでいるのか、窓のほうに気配を感じる。私はすぐさまルークとルーチェを馬舎に落ち着かせて、その場へと向かう。外階段を上がればすぐに着く。


あの窓から見える範囲には私しかいなかったはずだ。つまり私を見ていることを、私が気付いては困ることがおありなのだ。


 もし姫さまが身を隠さなければならない理由があるとすれば、おそらく三つ。

一つはなにか私に隠している事項があること。

二つ目は私を見張っていなければならない理由があること。

三つ目は馬舎になにかを隠していること。もしくは、城内でなにか起きたか。


 とにかく私は姫さまの身の安全を確認するために急いで駆けつけなければならない。いまの私にとってそれが最優先事項なのだから。外階段を静かに急いで駆け上がり、城内へと入る。


 先ほど見上げた窓を確認するよりも早く姫さまの部屋の扉を確認する。きちんと閉じられていて、異変はない。先程の窓がある廊下を見渡せるところまで急ぐと、そこにはだれの姿もなかった。姫さまは部屋に戻られたようだ、良かった無事だ。


 窓枠になにかが置いてあるのに気が付いて近づく。本だ。


 本を手に取り、表紙の文字に目をやる。『二人のマーニ』

おそらく、これは姫さまのものだろう。部屋の扉に異常はなかった。遠征までに役目を進められているだろうから、いますぐ部屋に行っては、お邪魔になってしまう。


 陽の時間にお会いするのだから、そのときにお渡ししようと考え直して、私は制服の内側ポケットに本を大切に入れ込み、ルークとルーチェの元へと戻った。






 ~ 姫さま side ~


 ようやく、陽の時間になった。


待ち遠しかった様子が悟られぬよう、落ち着き払った振る舞いで西門へと向かう。


 廊下で窓枠の掃除をしていたガールと目が合う。私に向かって姿勢を正して腰を曲げるので、私も普段となんら変わらない様子を装って軽く手をあげて挨拶をする。任務に行くことには間違いがない。領地の偵察。これはれっきとした姫としての任務だ。誰に詰められているわけでもないのに、自分を納得させるかのように心のなかでそう言い聞かせる。廊下を歩きながら、さっき本を咄嗟に置いていった窓が目に入った。


はっ、そうだ。


 どこか浮かれた気分に覆い尽くされてしまっていたけれど、先ほどの出来事を思い出す。


恥ずかしいという感情と、どう言い訳をしようかと焦る気持ち。外側の落ち着き放った様子からはだれにも想像が付かないほど、私のなかは大騒ぎだった。ただ、とりあえず西門へ行かなくては。これは任務なのだから。れっきとした任務なのだから。何度も同じ文言を自分のなかで繰り返して、心を落ち着かせる。


 外階段まで出て、外気を吸い込み、そのはずみで一気に駆け降りる。

西門へたどり着くにはこのルートが一番の近道。階段を駆け降りたら、草が膝下まで伸び切った裏庭へと通ずる方向へと歩みを進める。裏庭に入る。


 ここは私が大切にしている隠れ小部屋の窓にちょうど面している。最小限の手入れしか施されていない裏庭の草木をかき分けて、その部屋の窓の前を通過する。窓が閉まってカーテンも閉められた状態の私の隠れ部屋。なかは狭くて質素な内装。だけど、私は一人きりになりたいとき、考えごとをしたいとき、感情に浸りたいときには必ずそこの部屋に籠る。


 部屋にこもって考えごとをしても、いい考えなど浮かばないと人は言う。


じゃあ、どうすればいい。私はその方法しか知らないのだ。だれにだって心の内を打ち明けられないのだ。


 誰に聞かれたわけでもないのに、そんな言い訳を頭のなかで言いながら、裏庭の端っこの扉に着いた。石垣の塀に無理やり嵌め込んだようなその木の扉を手で押す。ギギィと音を立てて扉の金具が軋む。雨が降ると、ここの扉は開かなくなってしまう。水分で木の扉が膨張してしまうためだ。今日のように快晴な日でも、扉の軋む音がギギィと響いた。


 その音に反応してか、扉を開けると、馬の鼻を撫でながら手綱を握ったルカがこちらを見ていた。目が合う。まだ心の準備ができていなかった私は、不意打ちを食らう。


ルカがすかさず、敬礼をする。


「お待ちしておりました。準備はできております」


「ありがとう」


声のトーンも言い方も、なにもかもが自分で想定していたものと異なって出てしまった。うわずった声だと悟られていないだろうか。


 それに比べてルカはいたって冷静で、透き通るような声で話しかけてくるものだから、勝手に少し腹が立ってしまった。こちらは精一杯になってしまっているのに。この短時間で一体どれだけの言葉と感情が私のなかで生まれて消えていっているのか、数えてみたくなってしまうほど頭の声がうるさい。


 そんな頭のなかで一人で喋り続ける声を強制的にかき消すかのように、私は毅然とした態度で仕切り直す。


「では、出発しましょう」


今度は凛とした声を出すことに成功した。


「はい」


頷きながら手綱を引いて、ルカが私に少しずつ近づいてくる。さっきまでルカに撫でられていた馬の鼻先が、鼻息とともに私に近づいてくる。鼻息の匂いが顔にかかり、しっかりと生きている命を感じる。


「ルーク」


そう呼びながら、鼻先に手のひらを当てて撫でてやる。


「ルークとルーチェとは、どのぐらいの付き合いに?」


私はなにか会話をしようとルカに話しかける。


「騎士団に入団した月のから世話をするようになりました」


ルカが考えながら答える。


「そう、じゃあよく懐いているのもそれで」


そう呟きながらルークとルーチェの顔を撫でる。優しい眼差し、長い睫毛、顔周りの柔らかい毛質。それらすべてから体温が伝わってくる。あたたかい。心地よい。


「イーリスとはどう? 仲良くできてる?」


そうルカに尋ねると表情が少し明るくなった。良い関係が築けているのだろう。


「はい。ルークとルーチェの世話のことはもちろんですが、色々と相談できて心強い存在です」


イーリスは私が幼いときからこの城で働いている。まだ私が幼きころは、現役の騎士団員として良き遊び相手となってくれて、馬たちと一緒に出かけたものだった。ただ、年齢を重ねるにつれ、姫という重圧のかかる立場を実感するようになってからは、幼き頃のように自由に出歩くことは難しくなっていった。だから今日は、久しぶりに馬で出かけたいと思った。その口実として、ルカに領地の偵察に行く任務として伝えた。


「ルークもルーチェも、私が名付けたの」


すでに知っていたようで、ルカが話の先を促すようにこちらを見ている。


「生まれたときは本当に見分けがつかなかったけれど、大きくなるにつれて性格も気性も全然ちがって。乗りこなすコツも違うかったから、とても楽しかった」


「……どうして、その名前にしようと思われたのですか?」

ルカが遠慮がちに聞いてくる。


「ルークは、ラテン語で『光をもたらす人、光を導く者』を意味する。ルーチェは『光、星』という意味。国を導くには、光だけではダメ。光を導いてくれる存在がないと。この子たちが生まれたとき、なぜか二頭の強い結びつきを強く感じたから、そんなふうにお互いを支え合う名前にした」


真剣な眼差しのまま、ルカはなるほどといったふうに頷いた。


「貴方も、良い名前よね。ルカ」


私はルカの目をまっすぐに見ながら、そう言った。


質問の意図が見透かされたことへの驚きなのか、ルカは一瞬だけ目を見開いた。


「ありがとうございます。姫さまからのお言葉。この上ない光栄です」


胸に手を当てながら、少しお辞儀をしてルカは言う。


ルカ。


ラテン語で『光を運ぶもの』


騎士団にこの国の歴史上初の女性騎士が入団した。


その名前はルカ。


その名前を初めて聞いたとき、私はまるで運命のようだと思った。


◇◇◇


 話がひと段落ついたところで、私はルークの背中に乗ろうと体勢を整えた。


しっかりとルークの手綱と背中を押さえる。手綱を掴みながら、左足を金具に引っ掛けてルークの背中にフワッと乗る。その反動を逃すようにルークが二、三歩だけ少し動く。


「姫さま、マントはお持ちですか」


あ、しまった。忘れてきた。気持ちが舞い上がっていた私は、それどころではなくなってしまって、それを持ってくるのを忘れてしまった。


「もし無いようでしたら、いまから私が取りに行って参ります」


そんなことをしていたら行動できる時間が少なくなってしまう。


「いえ、このまま出発する。時間が迫っているから」


心配そうな顔で見上げるルカに向かって半ば命令のような口調で伝える。せっかく言ってくれたのに、姫である立場から言い方が少しキツくなってしまう。嫌な言い方だったかなと思う。


「分かりました。ではすぐに出発いたしましょう」


ルカは支えていたルークの手綱を完全に私に託し、急いでルーチェの方へと踵を返した。流れるような動作でルーチェに乗る。まるで飛び乗ったかのように見えるのに、反動は一切ない。ルーチェも乗る前と乗った後で微動だにしないほどだった。スラリとした身を軽々と翻す、その様子があまりにかっこよくて見てしまう。黒々と光るルーチェに跨ったルカの姿が眩しかった。制服からのぞく細い手首や、スラリと伸びた長い足。肩につかない程度まで伸びた赤色の髪。


 ルーチェの手綱を掴みながら、背筋を伸ばして姿勢良く、私の方を見ている姿がそのまま肖像画のように、私の脳裏に焼きつく。白い城壁と緑の草原を背景に、陽の時間の淡い光に包まれて、青い空には風が吹き渡っている。なんて素敵な瞬間だろう。


「姫さまの後に続きます」


静止画のように見えていたルカが喋り出して、私は我に返る。


「ハイッ」勇ましい掛け声をかけて、私はルークの横腹をポンッと蹴った。


それを合図にルークが走り出す。そのすぐ後ろをルーチェが駆けてくる。チラリと横目で確認したらルカと目が合い、私に優しく笑いかけてきた。


風に揺れる赤い髪。


それはまるで、風に漂う炎のようだった。


「私たち、まるで風になったみたい!」


後ろに続くルカに大声で話しかける。


「そんなに飛ばしては危ないですよ!」


足音と風音に負けじと、ルカの大きな声が背中に届く。


「大丈夫! だってルークとルーチェだもの!」


ルカはとても乗馬が得意だった。スラリとした長身と長い手足をうまく活かし、軽い体重のためもあってか身のこなし方に機転が効く。私は自分のスピードについて来れているルカを確認して、さらに先を急ぐ。


 こんなに速度を出して馬に乗るのは久しぶりだ。幼いころ以来かもしれない。全身が風になったような感覚に陥る。全身を風が巡って、混じり合って溶けていくような。髪の毛一本一本を風で撫でられていくような感覚。


 こんな感覚になったのは、いつぶりだろう。いつもは毅然とした態度を見せておかなければ、どう見られているだろうかという心配ばかりが頭を埋め尽くして、こんなにも無防備に楽しむ余裕なんてなかった。ずっと気持ちも身体も張り詰めていて、強張っていた。


周りからどう見られているか、ちゃんとした自分を演出できているか、それをずっと気にしなければならない。

表舞台の、さらにはこの立場と責務を守らなければならないから。もっとずっと多くの人のために。


 こんなにも飾らない表情に解ける私を、後ろに走るルカには見られていないはず。


なんと穏やかな心が解放される時間だろう。いっそのこと、このままどこかに二人で走り去りたくなる。現実逃避。


 でも、果たしてその先にはなにが待っているのだろう。このまま私は、一体どこに走り去りたいのだろう。

 

 自分自身から逃れるように、多くの人々からの目から逃れるように、重たい責務から逃れるために。逃れた先で私は一体なにをするだろうか。

 

 なにをしたいだろうか、どうすれば満足するだろうか。そんなことを考えながら、私はただ走り続けた。まるで風になったように。





~ ルカ side ~


 姫さまの、あんなにも無邪気な笑顔を初めて見た。


この人には感情がないのだろうかと疑うほど、姫さまを頭のなかで思い出すときには、いつも固く口を結んで遠くの一点を見据えた表情だけが思い浮かんでいた。


 それなのに、いま目の前を走る姫さまは全身から軽やかで楽しく明るい感情がほとばしっていて、それがまるで光のように見えた。キラキラと光を振りまきながら、風を切って進んでゆく。


姫さまに視線で合図を送る。ルークに乗った貴女の姿。

まるで絵画のようだった。


気品あふれる表情と高貴な佇まい。


発光しているかのように、黄金色に見える髪の毛。


青い空に風で流れる白い雲。勇ましい掛け声とともにかけてゆく。


この国の光を、ルークが運んでいる。


ワンピースの裾が光を含んではためいて、まるで光と風を可視化したようだ。


黄金に煌めいて風に溶ける黄金の髪。それはまるで、風に揺らめいて溶ける光のようだった。


この光の筋に着いていけば、一体どんな素晴らしい景色が見えるのだろうと想像を巡らせた。地球に舞い降りてくる星が光の筋になるように、まるで彗星の如く走っている。


城では、どれだけ抑圧されてプレッシャーに苛まれているのだろうかと考えを巡らせるほど。玉石混合。色々なことを囁いてくる人たち、敵か味方かわからない人たち。忠誠を誓っていたのに寝返る人たち。裏で不正を働く人たち。


もちろん、真面目に勤勉に忠誠を誓って働いている人たちもいるはずだ。でも、そんな人達にですら心を開けられるほど、無防備ではいられないのが現実なのだろう。


だから私は、姫さまに信じてほしいなんて思っていない。それすらも重荷になってしまうだろうと考えるから。


ただ、たまにはこうして自分を解放して、自由な気持ちを味わってほしいと願ってしまう。それがきっと、いつか国のためにもなるはずだから。自由で解放された状態でないと、成し遂げられないことがある。抑圧された環境では、力尽くでは成し遂げられないことがあると思うから。


だから、もしその自由と解放された気持ちを味わうために付き添いだけでも、護衛だけでもお力添えできたらなんて、そのときおこがましくも思った。


貴女には、笑顔が似合うと思ったから。笑顔でいてほしいと強く思ったから。


見えない風を追いかけるように、私は姫さまの後ろを必死で追っていた。





~ 姫エルサ side ~


 たしか、この辺りだったはず。


一面に広がっていた草原に出現する小さな森のような木々が集まった茂みへと入り、それらの間をゆっくりと縫い歩く。枝に身を引っ掛けてしまわないよう、ルークの律動に合わせて慎重に身を屈める。


 ここは、まるで神聖な泉を人目から守るように、木々が覆い隠す不思議な場所だ。

泉までたどり着くと、そこだけが少し開けていて、日光が差し込む広場のようになっている。ピンと張り詰めた厳かな空気が流れており、まるで聖域のようになっている。


 ここが幼い頃からの、私のお気に入りスポットだった。


悩みごとや考えごとがあるとき、よく来た。


 木々のざわめきや雲の流れる様子をただ見ていると、なんとなく心穏やかになったから。


 足しげく通っていた頃は、自然と草木が踏みしめられて、うっすらとした道のようなものが出来ていた。だが、いまとなっては人がほとんど立ち入らないためか、その道すらも、もはや跡形がない。


 そんなことを思い出しながら、昔のおぼろげな記憶を頼りに木々の隙間をすり抜けていくと、パッと開けた場所に出た。太陽の光を反射した水面がキラキラと輝いている。あの泉だ。


「あった」


無事に見つられけた喜びから、思わず言葉が口から出る。


「ここ、幼い頃によく一人で来ました」


えっ、と思い、後ろに続くルーチェに乗ったルカを振り返る。


「貴方も?」


今度はルカが、えっ? という表情になる。

まさか、ルカもここへ来ていたことがある? こんな領地の末端の辺ぴで隠れた場所に?


「姫さまも、よく来られていたんですか?」


開けた場所まで二人で出てから、ルカと横並びになる。


「ええ。まだ小さい頃だったけれど、よくここに」


「そうだったのですね。驚きました」


時期が異なっていたのかもしれないが、もしかしたらずっと前にルカとすれ違ったことぐらいはあるのかも知れない。


「久しぶりに来てみると、お城からここまで結構な距離がありますね」


「そうね。イーリスと二人で来ていたときは、その距離がちょうど良かったのだけれど」


自分の身分や定められた将来の運命から距離を置きたいときには、うってつけの場所だったから。一気にそこまで言ってしまいたい衝動に駆られる。


姫である以上、泣き言や後ろ向きな言動は慎まなければならない。幼き頃から教えこまえれたこと。それらが爆発しそうになったとき、私はここに来て自然に癒されていた。


 一瞬の間があってから「そうですか」とルカはそれ以上は詮索しないでいてくれた。


 幼いころ、自分にどんな悩みがあったのかはもう覚えていない。

ただ、子ども心にでも、自分が持って生まれた運命や定められた将来のことはもうすでに分かっていた。


 生まれてくる準備が整っている人なんてそうはいないだろうけれど、私はまだ生きるために準備不足な感じがしていた。この世にまだ慣れていないと感じていた。変だ、と人から後ろ指を刺されないよう、誰にも言わず、本心を隠してずっと自分の内にだけ秘めていた。


 だから、それ以上聞かれても困るのだ。いまの私にだって、その答えは見つかっていないのだから。


 どうして私は私自身が抱く気持ちを変えられないのだろう。生まれてから物心がついた頃にはもうそうだった。私にとってはごく自然なことなのに、この世ではそれが通用しない。そう痛感したのは、意外にも幼い頃からだった。


「小さな泉の近くで、ひとまず休憩しますか?」


ルカにそう言われて、目の前の現在にへと意識が戻る。


「うん。少し休憩しましょう。ルークとルーチェも休ませてあげなきゃ」


ルカと並んで、広場の少し奥にある泉へと向かう。ほんとうに、こじんまりとした小さな泉。ここから見ても、水面がキラキラと光っている。どこか懐かしいような癒される場所。


 水面のゆらめきで風を感じたり、ポチョンと木の実が水面に落ちる音で季節を実感したり、葉っぱを浮かべてその行方を眺めたりしていた。


時間を気にせず、他人の目も気にせず、自分が心地よいと思うままに身を任せる大切な時間。その時間が大好きだった。


 いまはもう、そうんな時間を取れなくなってしまった。

そんな時間があるのであれば、責務を一つでも片付けなければ、と思うようになった。

それはそれで大切なことなのだけれど、どこかに寂しさが漂う。


木々の隙間から、水面の煌めきを見た。

もうすぐそこだ。





~ ルカ side ~


「ここ、幼い頃に一人でよく来ました」


思わずそう口にしてしまうほど、私にとってこの泉は思い出の場所だった。


 当時、家族で住んでいた家がここの近くにあったため、よく一人で遊びに来たのだ。私にとって、息苦しい家を飛び出してくつろげる、唯一の秘密基地のような場所だった。


 いま姫さまと二人並んで湖を見ていると、当時よく見かけた小さな女の子のことを思い出した。

フラッと湖に立ち寄るとき、たまに小さな女の子がいて、当時はそれが人間なのか妖精なのか分からず、ひっそりと遠くの木の陰から見守ることがあったのだ。


 いつも白色のふんわりとしたワンピースを着ていたから、妖精なのではないかと子ども心に信じてしまった理由かもしれない。そのワンピースには上等な生地がふんだんに使用されていて、遠くからでも上質で上等なものだと分かった。


 何度か見かけるたびに、その子の身長が伸びるにつれて、その都度ぴったりのサイズに作られているものを着ていた。


子どもに着せる服と言えば、少し大きめにしておかないと、すぐに小さくなってしまう。それなのに、わずか少しの変化でも、その都度ぴったりのサイズに仕立てられたそれを見て、高貴な家の子だろうなと分かった。


一人の時間を存分に楽しんで、全身が開放されている様子だったから、なんだか声をかけるのも悪いような気がして、その子を見つけたときは、少しの間だけ木陰から見守って、来た道を戻って家にソッと引き返したこともある。


 当時は妖精だと信じていたあの子は、もしかしたら姫さまだったのかも知れない。そう思ったが、それ以上はなにも聞かなかった。


もしそうであれば、ここに一人で来ていた理由が、なんとなく、分かるから。


 ここの泉は小さいけれど、いつでも水が澄んでいる。

というのも、木々が開けており太陽の光が指すからだ。泉の水は十分に日光に照らされて、水が澱むことはない。水面にキラキラと光が反射する様子は、どんな季節でもうっとりと見惚れてしまう。


形を変えるガラスのように煌めく水面にそっと手を入れる瞬間。冷たさと清らかさが手の先から全身に広がっていくような感覚。手を洗ったり、足をつけてみたり、顔を洗ったり。

水に触れていると、余計な土埃などが心身からともに洗い流されるような感じがして、よく水浴びをして遊んだ。


 そんなことを思い出しながら、いまは姫さまとルークとルーチェがいる現実を不思議に思う。


まったく別々の人生の道筋を歩んできたのに、こうして出会った私たち。


光と、その光を運ぶものたち。


私自身にとって、そして姫さまにとっての光とは一体なんだろうと湖を見ながら思った。





~ 姫エルサ side ~


 泉の水面に、ポツポツと雨粒が落ち始めた。


「あっ、雨です」


ルカのその声に私も水面を見て、耳を澄ませる。輝く太陽は出ているのに、クリアで大粒な雨粒だけが空から降り始めた。

日除け用の大判の布を雨よけとして使用しようと、荷物に手を伸ばしているルカに言う。


「木陰に移動しましょう。通り雨なのですぐに止むはず」


こういったときに判断を下して、すぐに命令のようなく口調になってしまう。可愛くないと自分でも思うものの、もはや仕方がない。これが私の生まれついた立場の定めなのだから。


「承知しました」


そう言うなり、ルーチェから降り立ったルカが手を差し伸べてくる。

私はその手を取って、ルークから降りる。

ひんやりと冷たく、滑らかな感触。思ったよりも繊細で華奢な手だった。


 それぞれルークとルーチェの手綱を取りながら、雨をしのげる木陰へと移動する。


「ここなら、濡れなさそうです」


 大きな木が重なり合った木陰に私たちは腰を下ろした。

ルカは荷物入れから大判の布を取り出し、馬たちが濡れないようそれらを被した。空中で器用に布を広げて、大きな馬たちに覆い被せる。スラリとした長身を上手に生かして。


その姿はまるで、幼きころに遠い地で見た闘牛士が振りかざすマントのように芸術的だった。


「姫さまも、冷えるといけないのでこれを」


ルカが私に毛皮のマントを差し出す。


「大丈夫。すぐに止むだろうから」


せっかくの気遣いを断ってしまったのに、ルカは気にせずといった様子で私に一歩近づく。


「遠征で、お体に触っては困りますから」


そういって半ば強引に、私の両肩を包む混むようにマントを被してきた。先ほどのルークとルーチェにマントを被すのはまた違った、優しい手つきで。


私はなんと答えていいか分からず、両肩から滑り落ちそうになったマントをとっさに掴んだ。


マントを掴んでいたルカの指先と、触れ合う。


たったそれだけのことなのに、全意識がそこに集中してしまう。


 あたりには雨音だけが響き渡り、草木や土に雨が染み込んだ匂いが立ち込めている。

出たままの太陽の光に、すべての水滴に光が反射して、世界がどこまでも輝いていた。


「雨が止むまで、座りましょう」


私は冷静さを装いつつもそう言い、両肩にかぶさったマントを掴みながら、濡れていない地面に腰を下ろす。私が腰を下ろしてから、ルカもすぐ隣に腰を下ろす。

ルークとルーチェを含めて、雨に濡れない範囲に収まるため、普段以上に距離が近い。


「不思議なお天気ですね」


雨粒が落ち続けている真っ正面の景色を見ながら、ルカがそう言う。まるでスコールのような雨の降り方は、季節の変わり目に起こることが多い。


「また、季節が巡るから」


私の右肩に大きな雨粒が木から落ちる。ビックリして反射的に目を瞑り、両肩が上がる。


「もう少しこちらへ」


マント越しに右肩を掴まれて、ルカの方へと引き寄せられる。


私の上半身が一瞬で移動するほどには、力が強い。


私の右肩を抱いたまま、ルカが話し続ける。


「もうひと回り大きなマントを持ってくれば良かったですね。申し訳ありません」


間近で私の顔を見ながら、ルカがそう言う。吐息から体温が伝わってくるほど、近い。熱い。


「季節が、変わるから」


私は赤くなっているであろう顔を隠すように少し俯いて、静かにそう呟いた。





~ ルカ side ~ 


 だんだんと雨が小降りになってきた。


あたり一帯を十分に水滴で覆い尽くしたためか、辺り一体が太陽の光を含んで輝きを増したように見えた。空気もスッキリと澄み渡り、私は姫さまの右肩を抱いていた手をそっと離して、ルークとルーチェの大きな布を仕舞おうと立ち上がる。


「ルカは、どうして騎士団に入ろうと思ったの?」


作業をしている背中にそう語りかけられる。突然の姫さまからの問いに、答えを巡らせる。表情を見られていなくて良かった。その時の私は複雑な表情をしていただろうから。


「……この国に、お仕えしたいと強く願ったからです」


私の定型文のような答えに対して、姫さまからなんの返答もないことを、本当の理由を話せという合図だと捉えて、話し続ける。


「少しでも自分の力が、この国のためになればと願ったことに偽りはありません」


「貴方は、この国の歴史上初めての女性騎士として名を残すことになる。そのことについてはどう考えている?」


姫さまからの声色が変わったトーンに、振り返って、姫さまに向き合う。


「大変名誉なことだと思っています。それに相応しいよう、精進し続けなければならないとも」


姫さまは私の答えに満足していないのか、もっと正直に話してほしいというように、語り始めた。


「姫である私は、生まれたときから定められた運命が存在している。そこから背くことは、国に背いて、人々を裏切ること。私一人では自由に生きられない部分が多い。だけど、私はこの国を末長く繁栄させて、国の人々たちを守り切りたい。それが私の使命だから。その使命を果たすことが私の目標であり、夢でもある」


覚悟を決めた者の言葉には迷いがない。何度も自分の心の内でも復唱しているのだろう、スラスラと一切の迷い無く姫さまが言う。


「貴方の目標はなんですか? 夢と呼べるようなものは?」


姫さまがこんなにも話してくださったのだから、私も包み隠さずに答えなければと思う。


だが、私の本当に理由なんて。

私には国にこの身を捧げたいという姫さまのように高い志があるわけではなかった。


一番の目標はエクセスの称号が欲しいということ。その理由だって自分勝手なものだ、周りに認めてほしい、そして自分で自分を認めたいからという理由だ。


「私の目標は、エクエスの称号です。国家にお仕えして、手柄を立てるという意味でもあります」


「それは、自身の名誉のためでは?」


真っ直ぐに見つめあったまま、姫さまが問うてくる。そこには責めるような雰囲気は含まれていなかった。


「正直、いまは分かりません。まったく無いと言えば嘘になると思います」


姫さまが思わず笑う。 


「正直者なのね、そこまで正直に話してくれるとは思わなかった」


私は自分の立場を軽んじてしまっているのでは無いだろうか。言ってしまった手前、もう巻き戻すことはできないが。数日後にはこの国で最も重要な立場にいる姫さまの護衛となるのに。


私の心は揺らいでいる。


 私の出身は平民だ。平民が貴族となるために唯一、残された道は騎士になるということだった。だから、私は騎士を目指した。


女性では前例がなく、たとえ前途多難な道になろうとも、私は両親を安心させたかった。いや、安心させたいというよりは、認めて欲しかったのかもしれない。両親からも、そして自分自身でも。自分のことを認めたかったのだ。


だから、騎士団に入団するため、エクセスの称号を得るために、こうして姫さまの護衛も引き受けた。正直には打ち明けられない胸の内も、自分の頭のなかでではいくらでも言葉にできる。


するとそこで、姫さまが口を開いた。


「みな、人間だもの」


え、と思い姫さまを見る。


「名誉のため、自分のため、家族のため。周りから期待される自分を演じたい、それらの期待に応えたい。そう思うのは自然なこと」


姫さまは遠くを見るような目をして、続ける。


「私は、それも愛だと思っている。不器用な愛かもしれないけれど、いつなんどきも純粋潔白になんて生きられない。なにも間違いを起こさず、濁った点が一切ないようになんて思っていると、それこそ身動きがとれなくなってしまう。一切の行動をせず、悩むこともなく、良いも悪いもない人生。それでは、せっかく生まれてきた意味も薄くなってしまうと思うから」


私は自分の心の揺らぎや渦巻いていた考えが見透かされたようで、思わず目を逸らして地面を見てしまった。


「貴方が正直に話してくれたから、私も安心して護衛を任せられそう」


えっ、と思い姫さまの顔を見ると、今までにはなかったような心開いた笑顔がそこにあった。


「私だって、姫という間違いを犯してはいけない立場でありながらも、一人の人間です。いつも迷って悩んで考えて、その末に間違ってしまうことだってある。間違えを犯したくて犯す人なんていない」


姫さまが遠くを見るような目をして続ける。


「答えを探しているとき、他人のためなのか、自分のためなのか、それすら分からなくなってしまうこともある。いつも迷いながら進んでいる」


少し間を空けてから、なにかを覚悟したように私に言う。


「……姫である手間、こんなことを公には決して言ってはいけないけれど、私は未熟な人間です。だから精一杯もがいて生きて、少しでも良い人間になろうと、少しでも国をよくしようと努めているのです」


「姫さま」


姫さまの瞳の奥は、いまに泣き出してもおかしくないほど潤んでいた。


けれど、絶対にそんな風には見せない気丈な姫さまを目の当たりにして、一体どれだけの葛藤があるのだろうと思う。重圧的な立場と、責任の重さ。自分の決断一つでこの国が、大勢の人々が揺れ動くその重さ。


私は、少しでもその重さを軽くできたらと願わずにはいられなかった。


「貴方という人間が、また少しだけ分かったような気がする。それが嬉しい」


姫さまが優しく笑いかけながら、私にそう言う。


「さ、そろそろ城に戻りましょう」


その言葉を合図に姫さまがパッと立ち上がる。私も追いかけるようにすぐさま立ち上がる。


 姫さまをルークに乗せるために、手を取った。思ったよりも温かく、柔らかな手だった。その手をしっかりと握って、ルークの背中へと押し上げる。


 ルークに跨った姫さまを見上げる。


雨によって浄化された空間はどこまでも澄み切っており、そこに頭上から光が差し込んできている。対等に降り注いだ水滴がキラキラと反射し、木々の間から一筋の光が私たちを貫いていた。


我が国の姫、エルサ・ミストラル・マエストラーレ。


エルサは、ラテン語で『光』


その護衛となったルカ。それはラテン語で『光を運ぶもの』


どこまでも、私たちで光を拡大させていく。

私はそのとき強くそう心に誓った。

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