【第十一話】隠居
第十一話 隠居
〜 女王エルサ side 〜
ハッ、ハッ、ハッ。
心臓がはち切れそうだ。
肺も、もう限界だと言わんばかりに痛い。
裸足の足裏に感覚はすでになく、乾いた硬い地面が直接骨に響く。
腕に擦れた草木は痛かった。
私は必死に走った。
できるだけ早く、どこまでも遠く。
晩餐会で最後に飲んだ、いや、誘導されるように飲まされたといってもいい杯が罠だった。おそらく、あれに睡眠の香草が入っていたのだろう。
貿易交渉の話を進めていたコンカ国の重鎮であるモッタから「前向きに検討します」との言葉に安堵して、一瞬でも気を許してスキを見せた私に落ち度がある。
遠征でずっと緊迫していたなか、初めて外交に手応えを感じた私は少し気が弛み、大胆になっていたのかもしれない。
「これからの未来のために」という言葉と共に交わした、あの杯を口にした後、かすかな眩暈を覚えた。
最初は、連日の疲労からだろうと思った。だが、部屋に戻った途端、半ば意識を失うようにしてベットへと倒れ込んでしまった。私が疲れて寝てしまったのだと思ったであろうメイドが、私の体を整え最後に布団をかけてくれたのが遠い記憶の隅に残っている。
次に意識が戻ったのは、皆が寝静まる夜中だった。
まるで金縛りにあったように体が動かず、目を開けることもできず、意識だけが覚めていた。耳をそばだてていると、布団を掛け直そうと近づいてきたメイドの気配に気がついた。
だが、私は一切身動きが取れなかったのだ。
それを不審に思ったのだろう。額にメイドの髪の毛先があたり、私の息を確認している様子があった。すぐさま焦った様子で右手首が掴まれ、脈を確認するように握られたが、そのとき私の呼吸は浅く、脈も頼りなかった。ただでさえ焦っていた様子のメイドは、早とちりしたのか、私が死んでいると思ったのだ。
勢いよく部屋から飛び出していく様子が音から伝わってきたが、彼女を呼び止めようにも掠れた声しか出なかった。
扉の前に護衛たちは立っているものの、声も出せない私が部屋に一人きりの状態ではまずい。精一杯集中して意識を向けると、指先が少しずつ動いた。そこから一気に起き上がろうと必死に全身に力を込める。
少しずつではあったが、身動きが効くようになり、そのまま私は起き上がった。
人の話す声と足音が近づいてくる。それが敵か味方かすら、もはや分からない。
このまま、ここにいては殺されると悟った私は、すぐさま持てるだけの所持品を着ていた服の内側に詰めて、部屋の大きな窓を開けた。
すると、幸いなことに、すぐ近くに大きな木を見た。もうすぐ部屋の扉が開かれる、その瞬間に捕えられて殺されると考えた私は、決死の覚悟でそれに飛びついた。
たじろぐ高さではあったものの、木の葉が茂った枝まで移動して息を潜める。
すぐさま窓から人々の声が聞こえ、部屋から色んな物音がしてくる。
急いで私は半ば落下するように木から降り、裏庭へと這うようにして急いだ。
どうやって脱出しようかと思っていた矢先に、干し草を満載にした馬車の荷台が放置されているのを見つけたため、そこに潜り込む。
そのとき、城の警告を示す鐘が鳴り響くのを聞いた。すでにそのときには、また意識が飛び始めていた。
その鐘の音を境に、バタバタと忙しく兵士たちが走るなか、私はじっと息を潜めてやり過ごした。
いつの間にかまた眠ってしまっていたのか、再び目を覚ますと鳥の音色が耳に入ってくる。
そのうちに人間の気配をすぐ近くに感じ、馬車の持ち主である農夫の声が近づいてきて、私を含んだ荷台ごとガタゴトと揺られながら動き出した。一国の女王が干し草に紛れているとは誰も思いもしなかったのだろう。
そのまま城の敷地から出る橋を進み、さらには街の石畳を縫うように通り抜け、周りに人気のなくなった路地に入ったとき、私は飛び降りた。
着地した際に足首が激しく傷み、そこで足首を負傷していることに気がついた。だが、足を引きずりながらも私はひとまず市場へと急いだのだ。噂が回る前に、どうにか変装しなければと必死だったから。
持ち出た装飾品たちを少しずつ小分けにして店に売り捌き、手にできるだけの食料を買い込む。
人々に悟られぬよう、未亡人の格好をして、頭の先まですっぽりと黒いスカーフに身を包み込んだ。
身元が分かってしまうのを避けるため、街の宿泊所や見ず知らずの人の家などに泊まり込むことはできない。一箇所に留まり続けることも避けたほうがいい。私はできるだけ遠くの牧草地まで行こうと、痛む足を引き摺りながら歩き続けた。
ある夜は、大きな木の下に寄り添うように眠り、またある日は、岩の影に隠れて朝日が差し込むまで身を隠して眠った。森の奥深くに流れる小川で体を清めて、乾いて硬くなったパンとチーズを頬張り食事を摂る日々を過ごす。
新しい光が差し込むまで、しかるべきときが訪れるときまで、細々とでも良い。どうにかして私は自らの命を生きながらえようと必死だった。国のために。まだ自分にも出来ることがあると信じていたから。
そんな日々を過ごしていた、とある嵐の夜だ。
雨に濡れた体では、風が吹くたびに体温が奪われていき、さらにはきちんと眠れていないせいか、意識が朦朧として体力の限界を感じていた私は、どこか安全に身を隠せる場所がないかと必死に探していた。
そんな真っ暗ななか、ポツンと建つ一軒家にたどり着いたのだ。
一目で空き家だと分かる静かな家だった。扉には鍵がかけられており、なかには入れなかったが、裏庭にある牛舎の扉を試しに押してみるとギィと音を立てて開いた。雨風が凌げるだけでありがたい。
私はそのまま牛舎のなかへと滑り込み、濡れて重たくなった服を脱いで部屋の隅に置いてある農具にかけて干し、さらには部屋の奥に積み上げられていた干し草に身を預けて横になる。
雨が打ちつける音が部屋から響き、風が吹き抜ける音が聞こえる。だが、私は風に吹かれず濡れずにいられている。そんな久しぶりの屋根と壁がある場所に安心したのか、私はいつの間にかぐっすりと眠りに落ちていた。
再び目を開くと、嵐が過ぎ去ったのだろう。周辺から鳥たちの声が響いている。
どうにかここにしばらく身を隠して居られないかと、まだ湿った服を確認しながら考えていたとき。すぐ近くで人の足音が聞こえた。それも複数人。
私は干していた服たちを掴んで、咄嗟に牛舎の隅にあった大きな木箱のなかへと隠れる。
ぬかるんだ土を踏み締める足音が近づいてくる。
ギィイ。
扉の軋む音と共に、木箱に空いた隙間に光が差し込んできた。
真っ暗だった空間に朝日が差し込み、私は目を細めて外の様子を伺う。逆光でよく見えない。が、背の高い男性と老夫婦の三人の姿が見える。
「少し手を入れる必要がありますが、このように牛舎もついおります。自給自足の足しにするため家畜を飼われるのも良し、庭仕事などの道具入れにも便利かと」
背の高い男性が、この物件の購入を検討している老夫婦に対して案内をしているようだ。
扉付近で三人は立ち止まり、部屋のなかを見渡している様子が窺える。
「そうですか」
老人の声に、思わず心臓が跳ねる。聞き慣れた声。
そんなことはないと、隙間に張り付き、目を細める。
覚えがある背格好。
まさか、爺やなのか。
案内人の男性が背を向けたのと同時に、老夫婦もこちらに背を向けた。
ギィイ。
古びた扉の音が鳴り響き、また暗闇と静寂が訪れた。
爺やがここにくる可能性について考えを巡らせた。
どうして。
もしも本当にいまの人物が爺やで、この家を購入したとしたら?偶然が重なれば、それはもはや運命であると、昔に読んだ本に書いてあったことを思い出す。
私は、いま目の前に訪れようとしている、もはや運命とも奇跡とも呼ぶべき現実に胸が高鳴った。
◇◇◇
「私は死んだ、と。そういうことにしておいて」
久しぶりに再会した爺やは、私を見るなり、力の限り抱きしめてくれた。
雨に濡れ、風に吹かれ、まともに体を清められても居ない私は、もはや一国の女王のようには見えなかったはずだ。未亡人のフリをして、全身を黒いスカーフで巻いていたから。
だが、そんな些細なことよりも、爺やは顔をクシャクシャにしながら、私との再会を心から喜んでくれた。
爺やに思い切り抱きしめられた後、爺やがまた私の顔を両手で包み込み、マジマジと見た。
死んだと知らされていた人間が生きていたのだ。
まるで死人が目の前で生き返るのを目の当たりにしたように、目を見開いて驚いていた。
信じられないと言ったように、口に手を当て、また言葉なく涙が両目から溢れ出る。
たがいに交わさなければならない言葉はあまりにも多いのに、私の口からは真っ先にその言葉が出た。
涙を拭いながら爺やは、困惑している。
「っ、しかし……」
そう戸惑った表情で言葉を発した爺やも、私の目を見て押し黙った。そのときの私は、鋭い目をしていたと思う。
それは、これから先ずっと、まさに死んだように生きることを意味するのだから。
誰にも知られず、誰にも見られず、この世界にどんな影響を与えてもいけない。
孤独に、この世界にひっそりと存在していくこと。
でも、私がそうすることでコンカ国を騙せるのなら。
自分の国を守り切る確率が少しでも上がり、可能性が残るのであれば。
そんな孤独は耐え忍んでみせよう。
私は、そう覚悟を決めたのだ。
……ルカ。
もし後になって真実を知ることがあれば、ルカは悲しむだろうか、そんな意地悪で利己的な考えが頭をよぎる。ルカを悲しませたいわけではない。だが、これ以上、私の秘密につき合わせたくもなかった。
ただ、もし貴女が悲しんでくれるのであれば、私は十分にこの世で意味のある存在になれたということでもある。そんなどこまでも自分勝手で、自己陶酔的な感情が渦巻く。
あんなにも人間離れした行動をとりながらも、まだ人間らしい感情が私にも色濃く残っていたことに安堵して、私は決意を貫くと決めたのだ。
爺やは城での任が解かれたのを機に、田舎で余生を過ごそうと、夫婦二人でこの家を買い取ったのだと言う。それがまさか、その裏庭に私が潜んでいただなんて。
運命というものは、本当に存在するのかも知れないと痛感した出来事。
一目散に必死に逃げ出したあの日から、まともな人間らしい生活ができていなかった私に対して、二人は栄養のある食事を提供してくれ、私が身を隠しやすいようにと考慮した環境を作り出し、眠り心地のよい部屋を整えてくれた。
長年の任期が、やっと終わったところだというのに。
「女王様を支えられること、それが私たちにとって至上の喜びなのです」
そんなふうに二人は語ってくれ、それがたとえ表面上の言葉だったとしても、私の心には痛いほど染み入った。
ほぼ生涯を通して城に仕えていた爺やの貯蓄と、私の装飾品を換金した分で、当面の生活費の心配は不要だったが、私一人と年老いた爺やたちとでは身動きができない。
いくらコンカ国の中心部である城から離れてはいるものの、わが国へ帰るのを試みている間に我が身を捕えられては、我が国にとって不利な条件が増えるだけだろう。
私は誰にも知られず、家から出ることすらせず、ひたすらにひっそりと、いつか巡ってくるかもしれない運命を掴めるよう、ただただ日々を潜んで生きた。
もはやその頃には、部屋の窓から見える季節によって移り変わる景色だけが、私の生きる意味となっていた。




