EP.9 測れぬもの
廊下の奥で、重たい鉄扉が軋んだ。
咆哮窟の総元締、黒豹族の獣人ヴォルガが半獣人の部下を引き連れ姿を現す。
闇に溶けた漆黒の身体の中で、金の瞳だけが鋭く光る。
「金は?」
低い声に、伝令たちは慌てて袋を差し出し、深々と頭を下げていく。
「ヴォルガ様、昨夜の収益です」
「いつもの場所だ。遅れたら耳を落とす」
それだけ言い捨て、ヴォルガは足音も威圧的に去っていった。
(今だ!!)
物陰から、リフは静かに歩み出た。
顔の半分以上を隠すように、フードを深く被り、視線は床へ。ごく自然な歩幅で廊下を進む。
部屋の前に立つ用心棒たち──虎族の巨漢二体は、異物を嗅ぎつけるようにこちらを睨みつけてきた。
「なんだお前。見ねぇ顔だな」
「掃除です、部屋の。さっき指示があって」
用心棒は数秒、見下ろすようにリフを値踏みしたが、ふっと鼻を鳴らして道を開けた。
数秒の沈黙、やがて鼻を鳴らし、扉が開いた。
リフはそっと部屋に入る。
部屋の中は、乱雑極まりなかった。
打ち捨てられたコート、皮袋、煙草の匂い。
その奥、棚の一角。
そこに、例の瓶があった。
金の装飾が巻かれた瑠璃色のガラスの中で、薄青色の液体が蠱惑的に揺れている。
(……これか)
リフは掃除袋を肩にかけ直し、何でもない動作のふりをしてゆっくりと近づく。
ひとつ深呼吸をしてから、静かに足先を立てた。
指先がガラスをかすめる。
(よし!!)
慎重に、ゼルの言っていた瑠璃色の瓶を、掃除袋の底に、そっと滑り込ませた。
そのまま何事もなかったようにモップを取り、汚過ぎると、呆れながらも、床を丁寧に拭きはじめた。
すべてを当たり前の作業のように手際よく繰り返しながら、無言で時間が過ぎていく。
やがて、すべての掃除を終え、道具をまとめて扉へ向かった。
「終わったのか?」
虎族の低く響く声に、肩が跳ねそうになる。
「……はい」
用心棒は部屋の中を一瞥し、床を見渡してから鼻を鳴らした。
「丁寧だな。いつもよりすげぇ綺麗じゃねぇか。おい、今度俺の部屋も頼めるか?」
ぐいと肩を抱かれ、リフは思わず身を固くしたが、すぐに頑張って笑みを浮かべた。
「もちろん、機会があれば」
「よし。忘れんなよ」
軽く背中を叩かれ、ようやくその場を離れる。
扉を閉めた瞬間、リフは小さく息を吐いた。
廊下の奥には、壁際に寄りかかるようにして立つゼルの姿があった。その視線と交差した瞬間、リフは安堵してわずかに唇を緩めた。
刹那、左の廊下の奥から、複数の足音が近づいてきた。
総元締ヴォルガが部下達と、ゆっくりと通路を戻ってくる。
リフはちょうどその一行と交差するように歩いていた。フードを深くかぶり直し、視線を床に落として横を通り抜けようとした。
そのとき。
「…………ん?」
総元締ヴォルガの足が止まる。
「おい、待て。お前、」
鼻先が鋭く動き、瞳が細くなる。
「匂うな。俺のコレクションの匂いがする」
「しまっ……」
「捕まえろ!!」
怒声で廊下が震えた。
側近たちが一斉に動き、リフは走り出した。
だがすぐに腕を掴まれ、床に押し倒される。
掃除袋が転がり、中から瑠璃色の瓶が音を立てて転がり出た。
(……っ!)
リフは全身の力を振り絞り、その瓶を拾ってゼルへと投げた。
「受け取れ!!」
ゼルは反射的に手を伸ばし、美しい放物線を描く瓶を受け止めた。
「てめぇ、何してるかわかんねぇのか!そのルーメンは、触れただけで焼け死ぬ代物だ」
ゼルの視線が動く。
ほんの一瞬、空気がきしんだ。
リフの目にも見えた。
ゼルの背筋を中心に、“何か”が揺れた。
影が大きく広がる。
空気の層が震え、獣たちの耳が一斉に伏せられる。
(……ゼル?)
総元締ヴォルガでさえ、本能的に後ろへ一歩退いた。
「なんだ、こいつ」
ゼルは淡く笑い、静かに瓶の栓を開けた。
「心配すんな」
「やめろッ!!王の血か、神獣の加護でもなきゃ、一滴だって耐えられねぇ。蝙蝠族が飲めば一瞬で灰になるぞ!!」
「試してみりゃ分かる」
ゼルは中身を、一滴残らず飲み干した。
喉に流れ込んだ瞬間、ゼルの全身が強く震えた。
胸を押さえ、膝をつき──
次の瞬間。
ゼルの眼が、深紅に閃いた。
そしてゆっくりと立ち上がった。
側近達の毛が一斉に逆立つ。
「っ、こいつ蝙蝠族じゃねぇ。この気配、分類できねぇ。なんだ、これ?」
「総元締、擬態です。この気配、まさか神獣?!」
総元締ヴォルガの瞳が揺らぐ。
「馬鹿な、神獣なんざ、この地上にいるわけ──」
誰かが息を呑む音だけが、場違いに響いた。
ヴォルガは、訝しむように唸る。
「なんだ、てめぇ。下級蝙蝠族の癖に、何を、背負ってやがる?」
ゼルはゆっくりと視線を戻しながら、低く言った。
「これは、お前らのルールじゃ測れねぇ」
ゼルは、ゆっくりと顎を引いた。
静寂の中、誰よりも自然な動きで、一歩、そしてもう一歩。リフを押さえつけている側近たちの方へと、何のためらいもなく歩み出す。
側近たちは、近づいてくるゼルを目にし、わずかに身じろいだ。
(こいつは、なんだ)
リフの傍へと立ったゼルが、静かに片膝をついた。
「無事か」
手を差し伸べられたその指先が、そっとリフの頬に触れた。
不意に、視線が絡む。
リフの目に映ったのは、底の知れない真紅の瞳だった。
そこから目を離すことが、なぜかできなかった。
近くで見たゼルは、どこか光を含んで見えた。
リフは距離を測り損ねたように、ゼルを見つめる。
「立てるか?」
ためらいもなく差し出された手を、リフは、ごく自然に、掴んだ。
「立てる、よ。これくらい、なんでもない」
掴んだ指先に、互いの体温が重なる。
黒豹族の総元締ヴォルガが、ゼルの佇まいに喉を唸らせる。
「てめぇ、一体何者だ」
ゼルは、肩をすくめるようにして静かに応じた。
「今日の試合を組んでくれ。今度こそ、勝ってやるから」
「ふん、面白ぇ。どうせすぐ転がるさ。熊族、用意しといてやれ!」
ヴォルガが指を鳴らすと、部下達も動き始めた。
「あの瓶ひとつが、てめぇが今日から死ぬまで、毎日勝ち続けても届かねぇ額なんだよ。死ぬ気で稼げよ、負け蝙蝠が」
ゆっくりと背を向けると、黒豹族の総元締は顎をしゃくった。
次の試合の支度をしろという無言の合図だった。




