EP.8 紫の瞳からの頼みごと
水桶の縁にかがみ込み、リフは無言で肌を擦っていた。
流しても流しても、喉の奥に残る獣の匂いと、身体の芯に沈んだ鈍い痛みが、さっきまでの行為を否応なく引き戻す。
何度水を替えても消えないそれに、奥歯を噛みしめる。
「……っ、痛……」
思わず手が止まる。浅く息を吐き、何かを押し込めるように唇を噛む。
――そのとき。
かすれた声が耳に触れた瞬間、リフはびくりと肩を震わせた。
「……おい、水……まだ残ってるか……」
慌てて振り返った視線の先に現れたゼルは、ひどい姿だった。
右の脇腹が深く裂け、滲む血が黒いシャツを濡らしている。
片足を引きずり、ひどく不自然な歩き方でこちらへ向かってくる。こめかみから流れる血は、乾ききらずに額を伝っていた。
「……倒れなかっただけ、マシだろ」
乾いた声で強がるように吐き出す。その足取りはすでに限界を超えていた。
急いで立ち上がりかけたリフは、自分の肩にある《それ》に気づいて、反射的に背中をかばうように手を添えた。
濡れた肌に貼っていた医療テープが、いつのまにか端から剥がれかけている。
左肩にはっきりと残る古い漆黒の焼印と、焼印を取り囲むように刻まれた、鮮やかな赤と金の尾羽を模した紋様が、かすかに外気に晒されていた。
(見られた?!)
咄嗟に手近の上着を引き寄せ、半ば乱暴に肩へ被せる。
ゼルは地面に手をつき、痛みを耐えるように唇を食いしばっている。
「待って、今、タオル……水と、あと何か薬を!!」
慌てて駆け寄ろうとするリフに、ゼルは苦しげに手を伸ばした。
「……平気だ、まだ死んでねぇ」
「その傷が、平気なわけない!」
「寝れば治る。明日には動ける」
「嘘つけ!立ってるのもやっとなのに」
リフは傍らへ膝をつき、濡れた布でゼルの血を拭った。
「大丈夫だ。だから、頼みがある」
その声は、限界ぎりぎりの低さだった。
リフはゼルが次に言う言葉を、黙って頷いて待った。
*
暗い石畳に、鉄の靴音が重く響く。
咆哮窟最奥──
この地下格闘技場の全てを取り仕切る、総元締の部屋へと続く廊下。
薄暗い照明の下、通路の壁際にしゃがみ込む影がふたつあった。
ひとりは、粗末なフード付きの布を深くかぶり、下を向いたままの小柄な影。
もうひとりは、痛む身体を押して無理に身を屈めたまま、その耳元に低く囁く。
「あの棚の、後ろに飾ってある瓶。わかるな?あれを、盗んできてほしい」
リフは動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
通路の先、半ば開いた扉の奥で、煌びやかな棚に飾られた瑠璃色の瓶が目に入る。
美しいフォルムの瓶には、金糸の装飾が、場違いなほど慎重に巻かれていた。
部屋の前には、刺青の刻まれた腕を組んだまま動かない、屈強な虎族が二人、黙したまま立っている。
「頼みごとってもしかして、あれ?」
「ああ」
「はは……冗談だよね?」
乾いた声でリフが笑うと、ゼルは少しも崩さずに頷いた。
「本気だ」
リフはゼルの片足が少し引きずられていることに、今更のように気づいた。
「欲しいのは、あの綺麗な瓶?」
「ああ、手に入れば、もうこんな場所に縛られる必要はなくなる」
ゼルは口角をわずかに上げた。
「で、もし失敗したら?」
「入口に立ってる用心棒に半殺し。で、済めばいい方だな。下手したらその場で喉を裂かれる。盗人は、見せしめにされる」
「簡単に言ってくれる」
リフはその目を見つめた。熱を帯びた濃い紫の瞳が、じっとこちらを捉えている。
「……あの時、割ったルーメンの分」
リフは手にした掃除道具を強く握り直す。
「返す」
そう言って、立ち上がる。
フードを深くかぶり直し、背を丸めたまま通路の奥へと向かった。




