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この世界で、君だけが獣を王にした  作者: そよら
フェーズI 裏路地で獣は奪う
8/50

EP.8 紫の瞳からの頼みごと

 水桶の縁にかがみ込み、リフは無言で肌を擦っていた。

 流しても流しても、喉の奥に残る獣の匂いと、身体の芯に沈んだ鈍い痛みが、さっきまでの行為を否応なく引き戻す。

 何度水を替えても消えないそれに、奥歯を噛みしめる。


「……っ、痛……」


 思わず手が止まる。浅く息を吐き、何かを押し込めるように唇を噛む。


 ――そのとき。


 かすれた声が耳に触れた瞬間、リフはびくりと肩を震わせた。


「……おい、水……まだ残ってるか……」

 

 慌てて振り返った視線の先に現れたゼルは、ひどい姿だった。

 右の脇腹が深く裂け、滲む血が黒いシャツを濡らしている。

 片足を引きずり、ひどく不自然な歩き方でこちらへ向かってくる。こめかみから流れる血は、乾ききらずに額を伝っていた。


「……倒れなかっただけ、マシだろ」


 乾いた声で強がるように吐き出す。その足取りはすでに限界を超えていた。


 急いで立ち上がりかけたリフは、自分の肩にある《それ》に気づいて、反射的に背中をかばうように手を添えた。

 濡れた肌に貼っていた医療テープが、いつのまにか端から剥がれかけている。 


 左肩にはっきりと残る古い漆黒の焼印と、焼印を取り囲むように刻まれた、鮮やかな赤と金の尾羽を模した紋様が、かすかに外気に晒されていた。


(見られた?!)


 咄嗟に手近の上着を引き寄せ、半ば乱暴に肩へ被せる。

 ゼルは地面に手をつき、痛みを耐えるように唇を食いしばっている。 


「待って、今、タオル……水と、あと何か薬を!!」


 慌てて駆け寄ろうとするリフに、ゼルは苦しげに手を伸ばした。


「……平気だ、まだ死んでねぇ」


「その傷が、平気なわけない!」


「寝れば治る。明日には動ける」


「嘘つけ!立ってるのもやっとなのに」


 リフは傍らへ膝をつき、濡れた布でゼルの血を拭った。


「大丈夫だ。だから、頼みがある」


 その声は、限界ぎりぎりの低さだった。

 リフはゼルが次に言う言葉を、黙って頷いて待った。


 *


 暗い石畳に、鉄の靴音が重く響く。 


 咆哮窟最奥──


 この地下格闘技場の全てを取り仕切る、総元締の部屋へと続く廊下。 

 薄暗い照明の下、通路の壁際にしゃがみ込む影がふたつあった。


 ひとりは、粗末なフード付きの布を深くかぶり、下を向いたままの小柄な影。

 もうひとりは、痛む身体を押して無理に身を屈めたまま、その耳元に低く囁く。


「あの棚の、後ろに飾ってある瓶。わかるな?あれを、盗んできてほしい」


 リフは動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。

 通路の先、半ば開いた扉の奥で、煌びやかな棚に飾られた瑠璃色の瓶が目に入る。

 美しいフォルムの瓶には、金糸の装飾が、場違いなほど慎重に巻かれていた。


 部屋の前には、刺青の刻まれた腕を組んだまま動かない、屈強な虎族が二人、黙したまま立っている。


「頼みごとってもしかして、あれ?」


「ああ」


「はは……冗談だよね?」


 乾いた声でリフが笑うと、ゼルは少しも崩さずに頷いた。


「本気だ」


 リフはゼルの片足が少し引きずられていることに、今更のように気づいた。


「欲しいのは、あの綺麗な瓶?」


「ああ、手に入れば、もうこんな場所に縛られる必要はなくなる」


 ゼルは口角をわずかに上げた。


「で、もし失敗したら?」


「入口に立ってる用心棒に半殺し。で、済めばいい方だな。下手したらその場で喉を裂かれる。盗人は、見せしめにされる」


「簡単に言ってくれる」


 リフはその目を見つめた。熱を帯びた濃い紫の瞳が、じっとこちらを捉えている。


「……あの時、割ったルーメンの分」


 リフは手にした掃除道具を強く握り直す。


「返す」


 そう言って、立ち上がる。

 フードを深くかぶり直し、背を丸めたまま通路の奥へと向かった。


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