EP.7 名前のない感情【⭐︎挿絵】
朝の露店通りは、すでに熱気を帯びていた。
鉄鍋の焦げる音、獣族の怒鳴り声、干した果実を並べる子獣の笑い声。
広い通りに立ち並ぶ露店の天幕が風に煽られ、赤や黄の布が陽を受けて揺れている。
ゼルの足は、幾つかの雑貨売りの露店の前で止まった。
「人間用のルーメン、置いてるか?」
無言で顔を上げたのは、黒斑の混血虎族だった。
ゼルの顔を一瞥するなり、鼻を鳴らす。
「蝙蝠族が人間用のルーメン?うちじゃ扱わねぇよ」
「そうか」
返事を待たずに離れる。
次の露店では、干からびた蛇族の老婆が声を潜めて笑った。
「人間用のルーメンだってさ。んなもん、今どきどこも仕入れちゃいないよ。儲かんないからね」
ゼルは無言で背を向けた。
苛立ちが滲む足取りのまま、通りを抜ける。
背後でまだ笑い声が続いていた。
さらに数軒、同じようなあしらいが続いた。
「あー、人間用のルーメン?青い看板の露店にあったな。南通りの角だ。あそこの店主は変わり者でな何でも揃えてやがる」
ゼルは何も言わずに頷き、肩をひとつだけ揺らすと歩き出した。
角を曲がった先、青く塗られた看板が目に入った。
露店の主は痩せたヤマネ族の若者で、木箱の中の商品を整理している最中だった。
「人間用のルーメンか?あるぜ、ひとつ銅貨三枚な、幾つ欲しいんだ」
ゼルは懐から銀貨を取り出して台の上に置いた。
店主は錠剤の入った瓶を棚から下ろしながら、不意に片手で棚の上を指差した。
「なあ、ついでにコレはいらないのか?」
ゼルが目を向けると、そこには無造作に積まれた小さな灰色のブロックが並んでいた。
「……何だ、それ」
「コアレット。人間の食い物だろ。お前、飼ってるのに知らねぇのか。あいつら、それしか食えねぇだろ」
「飼ってねぇよ」
「じゃあ、そういう趣味か。ああ、いるんだよな、具合がいいって言う変態野郎が」
店主の薄笑いを見て、ゼルは無意識に机を叩いた。
「いいから、黙ってよこせ」
店主は肩をすくめ、商品を袋に詰める。
「幾らだ」
「セットで買うなら銀貨一枚で十ずつ、どうだ」
ゼルは黙って頷き、銀貨を押し出した。
粗末な紙袋に包まれたそれを掴み、振り返ることもなく歩き出した。
「物好きもいるもんだ」
背後で、店主のぼやき声がかすかに聞こえた。
*
長屋に戻ると小さな影は、出かけた時と同じ場所で同じように横たわっていた。
ゼルはたった今買ってきた袋を床に置き、しゃがみ込む。
「おい、生きてるか」
呟きに、返る声はない。
革袋の水を少し器に注ぎ、買ってきた錠剤のルーメンを取り出す。
人間用の錠剤を指先で割って、水の中に落とすと、白い粒がゆっくりと溶けはじめた。
「……口、開けろ」
ゼルは額に手をあて、喉元を撫でる。
微かな反射を頼りに、もう一度、器を口元に押し当てた。
少しだけ、喉が動いた。
ゼルは慎重に、時間をかけて薬を流し込んでいく。
何度か繰り返すうち、リフの呼吸にほんの僅かな変化が見えた。
「くたばんなよ」
空になった器を傍らに置き、ゼルは背中を壁に預けて座り込んだ。
ふと目に入った、灰色の硬い塊──コアレットをひとつ袋から取り出し、指先で弄んでから枕元に静かに置く。
「肉より、こっちなのかよ」
つぶやくように零して、ゼルは深く息をついた。
リフが目を覚ましたのは昼を少し過ぎたころだった。
幌の薄布の隙間から差し込む光が、床に細い線を引いている。
喉の奥が乾いて、舌が貼りついていた。
腕を動かそうとしたが、すぐには思ったようにはいかない。
それでも、少しずつ身を起こす。
布の感触。硬い床の冷たさ。
まだ、生きている。
「……ぅ、うぅ」
かすれた声で呟く。
ここは……長屋の、いつもの狭い部屋。
記憶が、途中で途切れている。
ふらつく足で幌の布をくぐると、薄く明るい空が、視界にじわりとにじんだ。
その先に、背中に大きな皮膜の翼を背負った長身の蝙蝠族──ゼルがいた。
光を受けたその横顔が、形の良すぎる線を描いていた。
昨夜、自分を抱き上げた腕の感触が、ふいに蘇る。
あのときの体温がまだ胸の奥に残っている気がして、喉の奥がひどく乾いた。
ゼルは手のひらでなにかを弄んでいたが、リフの気配に気づくと、そちらへ顔を向けた。
「遅ぇんだよ、起きるのが」
「……なんで」
「さぁな」
ゼルは指先で弄んでいたコアレットを指先でつまみ上げた。
「なぁ、人間ってのは、こんなものしか食えねぇのか?」
リフは少しだけ目を伏せてから、首を縦に振る。
「人間は、効率よく使うために、それひとつで一日もつようにされてる。俺も、同じように処置されてる」
「へぇ」
ゼルは手の中のコアレットを、そのまま口に放り込んだ。
「不味ぃ」
数度咀嚼してから、眉をしかめる。
「ここは、ろくでもねぇ世界だな」
ゼルは小さく鼻で笑った。
「それでも、自由があるだけマシかな」
「この生活が、自由か?」
ゼルは、口の中のコアレットを噛み砕いてから、ぼそりと呟いた。
「俺の国には、人間なんていなかった。だから、よく分からねぇ」
「分からなくても、いいと思う」
「知らなきゃ、せっかくの肉、無駄にするだろ」
リフは、少しだけ瞬きしてから、空を仰ぐようにして目を細めた。
「ありがとう」
二人の間に、少しの沈黙が落ちた。
風が幌の端を揺らし、陽の光がすこし角度を変えた。
「国を追い出されて、行き場もねぇし、食い物もねぇし、金も、なくなった」
ゼルは眉をひそめて、リフを見返した。
「しばらくここに住むけど、いいよな」
思わず零したその声に、リフが噴き出しそうに笑った。
「無言で押しかけといて、今さら」
ゼルは上着の内ポケットから小さなタブレットケースを取り出し、リフに向けて軽く投げ渡した。
放物線を描いてリフの膝の上に落ちたのは、見慣れた錠剤ケース。空だったはずのそれ。
蓋をスライドさせると、中には整然と並んだ小さな錠剤のルーメンとコアレット。
リフの目が大きく開かれる。
指先でそれを撫で、ゆっくりと目の前の蝙蝠族を見上げた。
縮まった距離の分、なぜか落ち着かなかった。
抱き上げられていたときよりも、ずっと近い気がした。
「あの、これ」
壁にもたれたまま、ゼルは「別に、」と少しだけ目を伏せた。
照れ隠しでもなんでもなく、本当にそれしか言えなかった。名前のない感情が、胸のどこかをゆっくりとかすめていった。




