VI-EP.2 見知らぬ横顔
水の回廊が途切れた先で、視界がひらけた。
目の前には、静謐に満ちた空間が広がる。天井も壁も、すべてが透き通る水の層に覆われていた。左右には二階へ続く階段が弧を描き、その先で白い回廊が幾筋にも枝分かれしている。
薄く張られた水面が幾重にも重なり 床には無数の光の波紋が散っていた。
水鏡宮——
その名の通り、世界そのものが水に映されているかのような王宮だった。足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。音が遠のき、わずかな水音だけが耳に残る。
三人を、白と蒼の衣を纏った侍女たちが迎えた。長い上布は水のように滑らかに揺れ、動きに合わせて光を弾く。
彼女たちは一斉に膝を折り、深く頭を垂れた。
「お待ちしておりました」
ただ、伏せられた視線の奥に、わずかな揺らぎがあった。
好奇。警戒。そして、測るような冷たい眼差し。そのすべてが、リフに向けられ、すぐに逸らされる。
「……俺は」
言いかけて、リフは言葉が続かない。
こんな場所にいていいはずがないと、左肩の烙印が疼き、苦い感覚が静かに目を覚ました。
「外で待ってるね……」
踵を返しかけたリフの腕を、ゼルが掴む。
「いくぞ」
「俺は、いいよ。街を見てまわりたいし……大丈夫だから」
「お前は、俺の客だ」
低く告げて、ゼルは掴んだ手に力を込める。
横でルシアーナが肩をすくめた。
「こいつは私たちの連れだ」
軽い口調のまま、周囲へと視線を流す。
「失礼な真似はするなよ」
「……承知いたしました」
侍女たちは即座に、頭を深く下げ直した。
逃げ場を失ったような感覚と、引き戻される感覚が、リフの胸の奥でぶつかる。
「ご案内いたします」
静かな声とともに、侍女たちは、それぞれ一歩ずつ前へ出る。ゼルを先導する者。ルシアーナに付き従う者。
そして、リフの前にも、ひとりの侍女が静かに膝を折った。
「あとでな、リフ」
ルシアーナが、何でもないことのように手を振る。
三人は、それぞれ別の侍女に導かれ、別々の廊下へ歩き出した。
*
煌びやかな廊下を、リフは無言で歩く。
先を行く侍女たちの蒼い髪が揺れ、淡い光がそのたびにこぼれた。整えられた足取り。揃いすぎた気配。その背を追いながら、リフは少しだけ息が浅くなる。視線を上げれば、すぐに逸らされ、刺すような気配だけが、残った。
「どうぞ」
通された先は、淡く白い湯気に満ちた室だった。
「お風呂……?」
「まずは、お体をお清めいたします」
「こちらは、汚れておりますので処分を——」
「だめ!」
思ったより大きな声が出た。
一瞬、空気が止まり、侍女たちの視線が鋭くなる。
「……すみません。大事なものなんです」
ナトカがくれた白のコート。少し汚れたけど、大切なものだった。
短い沈黙のあと、侍女のひとりが静かに口を開いた。
「汚れを落とし、後ほどお返しいたします」
「……ありがとうございます」
「では、湯浴みのお手伝いを——」
「一人で、できます」
「ですが、ゼルファルド様より、しかとお世話するよう申し付かっております」
「本当に大丈夫なので。お願いします」
「承知いたしました」
不要な手間が省けたとでも言うような、安堵の息が漏れ伝わる。
「では、お一人で。お済みの折に、お声がけいただければ」
侍女たちは、その場を辞した。
ひとりだと分かった途端、リフの肩に入っていた力が少しだけ抜ける。
(……見られずに済んだ)
布越しに触れる感触を確かめてから、リフは汚れた衣服を脱ぎ、足元へ落とした。
視線が、自然と前へ向く。水鏡に映った自分の姿が、そこにあった。肋の浮いた、どこか、借り物のように見える身体。
肌には、無数の傷痕が残っていた。
浅いものと、深いもの。古いものと、まだ色の抜けきらないもの。何本も、何本も。
獣の爪で引き裂かれたような痕や、噛み跡に似た新しい傷も混ざっている。食べるため、寝床を得るために、身体だけを値札の代わりにしていた頃の、名残。
無意識に腕で隠そうとして、途中で止めた。隠したところで、消えるものじゃない。
そして——左肩に刻まれた、漆黒の烙印。
焼けたように沈んだ色。消えない証。その周囲をなぞるように、赤と金の線が絡み合い、歪んだ形で、鳳凰属の紋様を象っていた。
リフは沈みかけていた思考を、振り払うように、小さく頭を振った。
奥へと続く空間は、想像以上に広かった。白い湯気がゆるやかに満ち、淡い花の香りが、空気に溶けている。縁も奥行きも曖昧なほどに広く、静かにたゆたう水面が、天井の光を柔らかく映していた。
「……すご」
小さく漏れた声は、すぐに湯気に溶ける。
「いいのかな」
誰にともなく、呟き、少しだけ迷ってから、足先を湯へと沈めた。温かさが、じわりと広がり、冷えていた感覚が、ゆっくりとほどけていく。
湯からは、ほのかに甘い草花の香りが立ちのぼっていた。
肩まで沈み込むと、思わず息が漏れた。
「……いい匂い。あったかい」
身体の力が抜ける。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
けれど——どこかで、意識は沈んだままだった。
*
湯から上がると、肌に花の香りが残っていた。
水気を拭い、用意されていた衣に袖を通す。触れたことのない柔らかさに、わずかに指が止まった。
扉の外には、侍女たちが控えていた。一定の距離を保ったまま、静かに頭を下げてくる。
「こちらへ」
促されるままにリフは歩き出す。
「あの……どこへ」
声をかけるも、返事は返らず、それ以上は、何も言えなかった。
やがて通されたのは、ひときわ広い一室だった。
柔らかな光に満ちた空間。整えられた調度。沈み込むようなソファ。
「しばしお待ちください」
扉が閉まる。——誰もいない。
リフはソファへ腰を下ろした。身体を包み込むように沈むソファは心地よく、張り詰めていたものがゆるんで、いつの間にか瞼が閉じかける。
……少しだけ。ほんの少しだけなら、眠ってもいいよね。
そう思ったところで、扉が開いた。
やや強めの音に、リフははっと顔を上げる。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。流れるような銀の長い髪が、腰のあたりまでまっすぐに落ちている。光を受けるたびに、わずかに色を変えるように見えた。
背には、鋼色の翼が静かに広がっている。
金属のような硬質な光沢を帯びながらも、わずかな動きでしなやかに形を変え、呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
血を溶かしたような真紅の瞳が、逃げ場を与えないまま、まっすぐにこちらを捉えてくる。
「……っ」
思わず、息を止めた。
これまで見てきたどの獣人とも違う。整いすぎた輪郭と、無駄のない身体。美しく、ただそこに立っているだけで、空気が少し変わった。
リフは反射的に背筋を伸ばし、慌てて立ち上がる。
「えっと……人を待ってるので」
一瞬だけ迷ってから、付け足す。
「よかったら、座りますか」
男は答えなかった。腕を組んだまま、壁に体を預けた。
(……聞こえてなかった?)
そっと様子をうかがうと、わずかに目が合うも、すぐに逸らされた。
けれど——また、見てくる。敵意は感じなかった。ただ、無視しているのに、完全には視線を外さない。
どうしていいか分からず、リフはさっきよりも、少しだけ端に寄って、元の位置へ戻るようにソファへ腰を下ろした。
(……ゼル、まだかな)
この場に似つかわしくない、黒い皮膜の翼を思い出すと、落ち着く気がした。
「……?」
不意に、気配が近づいた。
顔を上げる間もなく、目の前に影が差す。
気づけば整った美しい顔が、すぐ目の前に立っていた。
見下ろすように、じっとこちらを見てくる。思わず身を引きそうになるのを、リフはこらえた。
「……あの」
逃げる間もなく両側から手が伸び、頬を包まれた。
「……っ」
強くはないのに、逃がさないように固定されて、無理やり顔を上げさせられる。間近にあるのは、深い血の色の瞳。底の見えない色が、まっすぐにこちらを覗き込んでくる。
「俺だ」
触れている手の感触が、やけに馴染んだ。
こんな距離で、こんなふうに触れてくる相手なんて、ひとりしか、思い当たらない。
「……ゼル?」
目の前の姿と、記憶の中のそれが結びつかない。
けれど、声と、体温と、空気だけが一致している。
「え、でも」
もう一度、まじまじとリフは見上げた。
銀の髪、真紅の瞳、鋼の翼、整いすぎた繊細な輪郭。
「……誰」
その瞬間、頬に添えられていた手に、力がこもった。
何かを飲み込むような間があってから、ゼルはゆっくりと息を吐いた。
「俺に決まってるだろうが」
不機嫌そうな声に、抑えきれなかった苛立ちと、どこか拗ねたような感情が滲む。
「……なんだ、その反応は」
「え、あぁ、擬態じゃなくなったのか」
「そうだ」
ゼルはためらいもなく隣へ腰を下ろし、逃げ場を残さないような位置に体を寄せてきた。
「ちょ、近い」
「いつもこんなもんだろ」
「だって、なんか違うし」
「何がだ」
「その……慣れてるのは黒髪のほうの、……なんか、そっちの方が……好きって言うか」
言い終えた途端、自分でも変なことを言った気がして、リフは少しだけ顔を赤く染める。
「ずいぶん整えられたな」
「えっ?」
ゼルは何気ない調子で言いながら、少し湿ったリフの髪の先や、清潔な衣に目をやる。
「お前こそ、さっきまでとは別人みたいだ」
「そうかな」
思わずリフは自分の袖を見下ろした。
確かに、着せられた薄い蒼色の衣も、身体に残る花の香りも、全部が場違いな気がして落ち着かない。
「……変?」
「いや」
真紅の瞳は、見慣れない顔のまま、それでもどこか知っている気配を残してリフを見ている。
「ここは、少し居づらいだろうが」
その横顔を、リフは思わず見つめた。
「俺の側にいればいい」
「……うん」
小さな返事に重なるように、扉が静かに開き、蒼い衣をまとった侍従が腰を折った。
「ゼルファルド様、シャンロウ陛下がお待ちです」
ゼルはリフの隣から立ち上がり、何も言わずに手を差し出した。リフはいつも通り、その手を取る。
見慣れない姿でも、手の温度は知っているものだった。




