VI-EP.1 水鏡の都
麒麟属の領域を遠く離れ、幾つもの境界を越えた頃、見知らぬ湿った風が肌にまとわりついた。
霧は一歩進むたびに濃くなっていく。
白い靄が視界の輪郭を溶かし、三人の足音を飲み込んでいった。
「疲れたか?」
先頭を行くゼルが肩越しに振り返った。
リフは少し遅れて顔を上げる。
「……大丈夫」
何気なく答えたつもりだったのに、語尾が頼りなく揺れる。
隣を歩いていたルシアーナが、冗談半分、本気半分の笑みを浮かべてリフの顔を覗き込んだ。
「無理なら、おぶってやろうか」
「だ、大丈夫だって。まだ歩けるよ」
やがて風の音も途絶えた静寂の只中、先頭を行くゼルが足を止めた。霧が裂け、白の向こう側に水の壁が姿を現す。
ゼルは壁へ向けて右手を伸ばす。指先が触れるより先に、水の壁が脈動し、静かに左右へ割れた。音もなく開いたその奥に、内側へと続く細い道が形作られていく。
「……この先が、龍の国?」
リフは思わず息を呑んだ。
割れた水の向こうには、薄青の鱗を持つ龍族の衛士たちが、道の両側に静かに並んでいた。
ルシアーナは気安い仕草で、片手を上げる。
「よ、相変わらず堅いな」
衛士たちは一斉に剣を鞘に収め、膝を折って頭を垂れた。
「……え?」
ルシアーナが苦笑を漏らす。
「何度か来たことあるからな。気配でわかるんだろ。同族だって」
頭を垂れたまま、衛士たちの視線がほんの一瞬だけリフに向いた。
リフは、一歩引く。
場違いなものを計るような目だった。冷たく、静かで、はっきりと拒む色をしている。自分だけ歓迎されていない。そう分かるほどには、その視線は鋭かった。
「……俺の客だ」
低く告げると、ゼルはリフの腕を取って自分の隣へ引き寄せた。
「俺のそばにいろ」
「……うん」
水の回廊を抜けると、白く閉ざされていた視界が不意に開けた。その先に、街が広がる。
石畳の道の両脇を、透き通る水が絶え間なく流れている。
建物の壁面にも薄い水の膜が張りつき、揺れる光が街全体を淡く染めていた。反射した光が空中にキラキラと虹を散らしている。
「綺麗な街だね……」
リフは街へ視線を巡らせる。
目の前を行き交うのは、薄青の鱗をまとった龍族ばかりだった。ほかの種の姿は、どこにも見当たらない。すれ違う者たちは誰もが、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。澄んだ水をそのまま人の形にしたような、静かな美しさがあった。
「擬態のままだと、かえって目立つな」
ゼルは足を止め、自分の影を一瞥した。
壁面を流れる水面に映るのは、漆黒の皮膜の翼と、闇を溶かしたような黒髪の輪郭。淡く青い光に満ちたこの街の中では、あまりにも異質だった。
隣でルシアーナも、水に映った自分を見て肩をすくめる。揺れる水に揺らぐのは、やけに目に痛いピンクの髪。
石畳に揺れる虹の滴を足先で蹴散らしながら、ルシアーナは軽い足取りでくるりと振り返った。
「さっさとシャンロウのとこ行って、ルーメンもらおうぜ」
「それって……少し前に言ってた、友人の?」
リフが肩越しに首を傾ける。
「シャンロウ=レン=シュイロン……俺の友だ」
ゼルがそう言い終えた瞬間、水の流れがわずかに変わった。蒼銀の甲冑をまとった龍族の衛士が、三人を取り囲む。
輪の正面から一人が進み出て、膝をつき、低く頭を垂れた。
「ゼルファルド様、ルシアーナ様」
澱みのない声が水面を震わせる。
「王は、すでにご到着を承知しております」
「……王?」
使者は伏せたまま告げた。
「シャンロウ陛下は、先王陛下の崩御に伴い、龍王の座を継がれました」
「……そうか」
「陛下が、水鏡宮にてお待ちです」
伏せていた使者たちが、音もなく立ち上がる。動きに無駄はなく、揃えられた所作がそのまま儀礼の形をなしていた。
リフは無意識に、ゼルの袖へ身を寄せた。こんなに美しい街なのに、自分の居場所だけがどこにもないように思えた。
「水鏡宮、王の御前へとご案内いたします」
三人は導かれるまま、水の回廊を辿り、王宮の奥へと進んだ。




