EP.2 裏路地の邂逅
「逃げたぞ!あそこだ!!」
巡視兵数名が槍を構え、追う足音が迫る。
風が耳を切る。喉が焼けるほど息が苦しい。それでも走るしかない。リフは息を噛み殺し、角を曲がった。
次の瞬間、視界いっぱいに迫った影に、身体ごとぶつかった。
「──っ!」
「おい、どこ見て、」
言葉の途中で、低い声が途切れた。
衝撃と同時に、すぐ近くで何かが砕ける音がした。
硬い破片が石畳を跳ね、足元へ散らばる。
割れた小瓶から、淡い青灰色の液体が滲み出し、雨に濡れた石の溝へと細く流れていった。
「……チッ」
顔を上げたリフの視界に、背の高い獣人の青年が立っていた。
整った顔立ちは、どこまでも人と変わらない。
それでも、その奥に宿る鋭さだけは、人のものではなかった。
長い黒髪が肩にかかり、白い肌に映える濡れたような紫の瞳が、間近でこちらを見下ろしている。
近い。
思わず一歩引きかけて、
そこで初めて気づく。
背中に広がる、大きな皮膜の翼。
波打つ血管が透け、呼吸に合わせてわずかに動いていた。
蝙蝠族。
だが──
違う、と本能が告げた。
街で見てきたどの獣人とも異なる。
静かで、冷たく、そして、どこか異質な気配。
「ふざけんな」
リフは一瞬だけ息を飲み、すぐに横へ抜けようとした。
「どいてっ!!」
肩をすり抜けようとした瞬間、蝙蝠族の青年──ゼルは、無意識に華奢な手首を掴んできた。
反射的に、リフは左肩をかばうように身体をひねる。
それは誰かに触れられた時に出る、癖のような動きだった。
「おい、ぶつかっといて無視かよ」
掴まれた胸倉に、強い力が入る。息が詰まり、リフの足がわずかに浮いた。
「離せ……!」
振りほどこうとして、腕に力を込める。
だが、ぴくりとも動かない。
蝙蝠族の視線が、掴んだままの手元へ落ちる。
ずり下がった襟元から、白い肌が覗いていた。
刻まれた線。
古く、深く、何度も繰り返された傷の跡。
紫色の瞳が、止まった。
目が、離せない。
見慣れているはずだった。
この街には、傷を持つ者などいくらでもいる。
だが、違った。何かが、違った。
胸の奥が、わずかにざわつく。理由は分からない。
それでも、視線を外せなかった。
(……なんだ、この傷)
言葉にはならず、ただ紫色の目の奥がわずかに揺れた。
「離せ!!」
リフは弾かれたように必死で腕を振り払う。
その直後、
「そっちだ!その角を曲がったぞ!!」
巡視兵の怒鳴り声がすぐ背後まで迫っていた。
リフは怯えたように一歩下がった。
掴んだ腕から、かすかな震えが伝わる。
「頼む、離して!!」
「離したら逃げるだろ」
近づいてくる巡視兵の気配に、リフの胸は痛いほど跳ねた。
逃げれば捕まる。
捕まれば──終わりだ。
「お、お礼なら……何でも、する!!だから!!」
必死な声。
その言葉よりも、腕に伝わる震えの方が、強くゼルの意識に残った。なぜか、放っておけないと思った。
脳裏に、さっき掴んだ腕の感触がよみがえる。
布越しでも分かるほどの細さと、不自然な傷痕。
理解するより先に、身体が動いていた。
「離して、頼む!」
舌打ちと同時に、ゼルはリフの腕を強く引いた。
「来い」
細い肩を引き寄せ、裏路地の奥へと駆け出す。
背後の怒号が遠ざかっていく。
なぜ助けたのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの傷から、あの目から、
目を離すことができなかった。
二人の影は、薄暗い路地へと吸い込まれるように消えた。




