EP.2 裏路地の邂逅
——即位の儀より数年前
【黒豹族領 ノクスパルダ王国・外縁市街】
小雨が裏路地の隅々を濡らしていた。
排水路に溜まった泥を、線の細い青年──リフは、膝をつき、黙々と掻き出していた。
明るい茶褐色の髪は雨に濡れて頬に張り付き、袖を捲った腕には、古傷がいくつも走っていた。
路地の奥、屋根下から、鈍い緑の鱗を頬に残した、半獣人── 獣の気配を色濃く残す、獣人になりきれなかった蜥蜴族の雇主が、その様子を見下ろしていた。
突き出た口先と、鱗に縁取られた瞼が、人でも獣でもない半端な存在であることを、否応なく示している。
「まだ、終わらねぇのか」
リフが顔を上げる間もなく、蜥蜴族の手が肩を掴み、壁際へと押し付けた。
押しつけられた拍子に、左肩に貼りつけていた薄布がかすかにずれた。
それだけで、リフの全身が強張る。
(やめッ……)
「なんだ、その目は。立場分かってんのか?」
さらに指が食い込み、布越しに肩がきしむ。
上着の襟元がわずかに引き下げられた。
覗いた肌の隙間から、左肩に刻まれた烙印が覗きかける。
(見られる!!)
血の気が引く。
「い、今終わったところで……」
「使えん人間だ」
蜥蜴族は舌打ちして手を離した。
懐から銅貨を二枚取り出すと、ひとつを指先で弄び、わざと投げ捨てた。
金属の音が水たまりを弾き、泥に沈む。
「文句があるなら、明日は来なくていい」
膝をつき、リフは何も言わず銅貨を拾い上げた。
「明日も来ます」
蜥蜴族は鼻を鳴らし、苛立たしげに尾を床に打ちつけた。
「次はもっと早く終わらせろ。雨が止む前にな」
小さく頷き、リフは静かに背を向けた。
手の中の銅貨を握ったまま、裏路地の石畳を抜けていく。
ゆっくりと歩を進め、肩にかけていた古びた布のフードを深めに被った。
噴水広場に差し掛かった時、薄暗い空気がざわりと揺れた。
黒豹族の巡視兵の影が、通りの奥から迫ってくる。
「全員足を止めろ!逃亡した実験体がこの区画に紛れた可能性がある」
怒声が響き、仕事帰りで混み合う通りの人間たちが足を止めた。
「さっさと出てきて並べ!」
人間たちがひとり、またひとりと広場に集まり、肩を寄せ合うように列が作られていく。
獣人、半獣人、獣、人間。
この世界で、人間はいつも最後に並ばされる側だった。
列の後ろで、誰かが低く呟いた。
「そんなに人間を捕まえて、何がある」
「あるさ。向こうの施設が空いたんだろ」
「登録証がなくても、難癖つけりゃいい。どうせ、人間なんて余ってる」
列に並んだものたちの囁きは、互いの肩越しに、押し殺されるように交わされていた。
「ぐずぐずするな、登録証の照合だ!」
その言葉に、リフは息を呑み、無意識に唇を噛む。
(登録証……)
胸の奥が、すうっと冷えていく。
(持って、いない)
背筋が冷たくなり、一気に血の気が引いた。
逃亡中の終身奴隷であることが露見すれば、また、あそこへ戻される。
あの白い部屋──
手足に食い込む金属の輪。
腕に刺さった管を流れる液体は、焼けるように熱く……
戻されるくらいなら、いっそ、殺されたほうがましだった。
「立ち止まるな、順に並べ!」
怒鳴り声に背を押されるように、リフも列の端へ歩み出た。
小さく息を飲み、視線を落とす。
逃げるか。
逃げないか。
どちらを選んでも、待っているのは同じ結末。
リフは、息をひとつ殺し、列を離れた。
気配を悟られぬように、静かに横へ抜ける。
そして、次の瞬間。
石畳を蹴り、全速力で駆け出した。
「逃げたぞ!あそこだ!!」
巡視兵数名が槍を構え、追う足音が迫る。
風が耳を切る。
喉が焼けるほど息が苦しい。
それでも走る。
走るしかない。
曲がり角へ飛び込んだその瞬間、硬い胸板にぶつかった。
「──っ!」
「おい、どこ見て、」
ぶつかった拍子に、低い声が落ちた。
顔を上げたリフの視界に、背の高い獣人の青年が立っていた。
整った顔立ちは、どこまでも人と変わらない。
それでも、その奥に宿る鋭さだけは、人のものではなかった。
長い黒髪が肩にかかり、白い肌に映える濡れたような紫の瞳が、間近でこちらを見下ろしている。
近い。
思わず一歩引きかけて、
そこで初めて気づく。
背中に広がる、大きな皮膜の翼。
波打つ血管が透け、呼吸に合わせてわずかに動いていた。
獣人の蝙蝠族、
だが、どこか異様だった。
街の荒んだ空気には似つかわしくない、どこか凛とした気配。
リフは一瞬だけ息を飲み、すぐに横へ抜けようとした。
「どいてっ!!」
肩をすり抜けようとした瞬間、蝙蝠族の青年──ゼルは、無意識に華奢な手首を掴んできた。
反射的に、リフは左肩をかばうように身体をひねる。それは誰かに触れられた時に出る、癖のような動きだった。
「おい、ぶつかっといて無視かよ」
ぐい、と手首を掴まれた拍子に、袖がずり落ちる。
露わになった細い腕。
無数の、切り裂かれたような古傷。
掴んだ指が、ほんの一瞬だけ動きを失った。
(……なんだ、この傷)
言葉にはならず、ただ紫色の目の奥がわずかに揺れた。
「離せ!!」
リフは弾かれたように必死で腕を振り払う。
その直後、
「そっちだ!その角を曲がったぞ!!」
巡視兵の怒鳴り声がすぐ背後まで迫っていた。
リフは怯えたように一歩下がった。
掴んだ腕から、かすかな震えが伝わる。
「頼む、離して!!」
「離したら逃げるだろ」
蝙蝠族の青年は冷静にそう告げ、巡視兵との距離を一瞥する。
近づいてくる巡視兵の気配に、リフの胸は痛いほど跳ねた。
「お、お礼なら……何でも、する!!だから!!」
脳裏に、さっき掴んだ腕の感触がよみがえる。
布越しでも分かるほどの細さと、不自然な傷痕。
「離して、頼む!」
彼は短く吐き捨てるように言い、リフの腕を強く引いた。
「……チッ、」
細い肩を押さえるように抱え込み、路地の奥へと視線を向ける。
「来い!!」
迷いなく、裏路地の奥への抜け道へと駆け出した。
背後の怒号が遠のいて行き、二人の影は薄暗い路地へと吸い込まれるように消えた。




