EP.1 リフ
小雨が石畳を濡らしていた。
表通りの喧騒から外れた裏路地には、人の気配がほとんどない。軒先に吊るされた鈍い灯りが、古びた建物の壁をぼんやりと照らしていた。
やがて、二階の裏口の扉が静かに開く。
先に外へ出てきたのは、亜麻色の髪の間から獣耳を覗かせた、狐族の獣人だった。
人とほとんど変わらない整った顔立ち。
細く縁取られた金の瞳が、後ろに続く気配へ一瞬だけ向けられた。
「手慣れてんな。悪くなかった」
遅れて姿を現したのは、どこか頼りなげな、華奢で小柄な人間の青年だった。
「ほら、いつまで固まってんだ。さっさと出てこいよ」
「……すぐ行きます」
慌てて衣服の乱れを整える青年──リフの様子に、狐族は口元だけで笑った。
明るい茶褐色の髪は湿気を含んで頬に張り付き、血の気の薄い顔立ちは年若さの割にどこか疲れて見えた。
獣人や半獣人、獣が当たり前に行き交うこの街では、その細い体つきはあまりに心許なかった。
「素直だし、顔も整ってるしな」
リフは俯いたまま、小さく息を飲む。
「……また頼むかもしれねぇ」
何でもないことのように続けられた言葉に、指先がさらに強張る。袖を整える指先には、古い傷跡がいくつも走っていた。
屋根の下で待っていた蜥蜴族の雇主が、降りてきた二人へゆっくり視線を向けた。
「もういいのか」
全身を覆う鈍い緑の鱗が、灯りを受けてくぐもった光を返す。前へ張り出した口元と、乾いた質感の皮膚、蜥蜴の面影をはっきりと残した──半獣人。
細い瞳が、リフをじっと見つめる。
「失礼はなかったか。逆らってはいないだろうな」
「……はい」
蜥蜴族の細く長い舌が、ぺろりと覗いては引き込まれ、獲物の匂いを探るように空気を舐める。
「はは、失礼どころか、ちゃんと躾けてあった。気に入った」
狐族は懐から銀貨を数枚取り出した。
「なかなか楽しかった。無駄に抵抗しないのがいい」
軽く投げ渡された銀貨を、蜥蜴族が片手で受け取る。鱗に覆われた指先で重さを確かめるように弄び、口の端を歪めた。
「毎度」
短いやり取りだけを残し、狐族は振り返ることもなく歩き去っていく。
「客受けは悪くなかったみてぇだな」
蜥蜴族は銀貨を迷いなく皮袋へ落とし、別の小袋から銅貨を何枚か取り出して指先で弾いた。
投げられた銅貨が石畳を跳ね、水たまりへ沈む。
リフは静かにしゃがみ込んだ。濁った水の底に沈んだ銅貨を拾い上げ、指先で確かめる。
「これだけ……?」
一度は言葉を飲み込み、それでも小さく続ける。
「……また、減ってる」
「なんだ、文句あるのか」
蜥蜴族の細い瞳がわずかに歪む。
「登録証も持てねぇ人間に、まともな金が回ってくると思うな」
リフが何か言いかけた途端、胸倉を掴まれた。
抵抗する間もなく、背が壁へ叩き付けられる。
「選べる立場か?」
鈍い衝撃に衣服が引かれ、左肩の肌に貼りつけていた薄布がほんのわずかにずれた。
リフの全身が強張る。
「やめッ……」
「なんだ、その目は。立場分かってんのか?」
爪先が食い込み、上着の越しに肩が軋む。鋭い感触が、骨の近くまで届いた。
上着の襟元が引き下げられ、露わになった肌の隙間から、左肩に刻まれた烙印が覗きかける。
(見られる!!)
血の気が引く。
「い、いいです……この額で」
かすれた声が思った以上に小さく響く。
「すみません……」
「人間の分際で口答えするな。文句があるなら、明日は来なくていい」
「明日も……来ます」
蜥蜴族は鼻を鳴らし、苛立たしげに尾を床石畳に打ちつけた。
「次はもっと早く終わらせろ。雨が止む前にな」
足音が遠ざかり、雨音だけが残った。
視線を落とすと、濁った水たまりの底で、銅貨が鈍く光っていた。
指先が、わずかに震える。
──まだ、終われない。
胸の奥に浮かんだのは、顔も輪郭も曖昧なままの記憶だった。実験施設を逃げ出したあの日から、何度も思い出してきた声。名前も、行方も分からないまま、探し続けてきた獅子族の気配。
(生きていれば、いつか──)
リフは水たまりに手を伸ばし、銅貨を拾い上た。
手の中のそれを握ったまま、静かに背を向ける。
裏路地の石畳を抜け、歩を進めながら、肩にかけていた古びた布のフードを深く被った。
その細い体つきでは、この街で生きていくための選択肢は多くなかった。
噴水広場に差し掛かった時、薄暗い空気がざわりと揺れた。黒豹族の巡視兵の影が、通りの奥から迫ってくる。
「全員足を止めろ!逃亡した実験体がこの区画に紛れた可能性がある」
怒声が響き、仕事帰りで混み合う通りの人間たちが足を止めた。
「さっさと出てきて並べ!」
人間たちがひとり、またひとりと広場に集まり、肩を寄せ合うように列が作られていく。
獣人、半獣人、獣、人間。
この世界で、人間はいつも最後に並ばされる側だった。
列の後ろで、誰かが低く呟いた。
「そんなに人間を捕まえて、何がある」
「あるさ。向こうの施設が空いたんだろ」
「登録証がなくても、難癖つけりゃいい。どうせ、人間なんて余ってる」
列に並んだものたちの囁きは、互いの肩越しに、押し殺されるように交わされていた。
「ぐずぐずするな、登録証の照合だ!」
その言葉に、リフは息を呑み、無意識に唇を噛む。
(登録証……)
胸の奥が、すうっと冷えていく。
(持って、いない)
逃亡中の終身奴隷であることが露見すれば、また、あそこへ戻される。
あの白い部屋──
手足に食い込む金属の輪。
腕に刺さった管を流れる液体は、焼けるように熱く……
戻されるくらいなら、いっそ、殺されたほうがましだった。
「立ち止まるな、順に並べ!」
怒鳴り声に背を押されるように、リフも列の端へ歩み出た。小さく息を飲み、視線を落とす。
逃げるか。
逃げないか。
どちらを選んでも、待っているのは同じ結末。
リフは、息をひとつ殺し、列を離れた。
気配を悟られぬように、静かに横へ抜ける。
そして、次の瞬間。
石畳を蹴り、全速力で駆け出した。




