EP.13 咆哮窟の新入り
「おい、人間の。ちょっと手ぇ止めな」
表口の掃き掃除をしていたリフに声をかけたのは、帳面を抱えた清掃管理係の鼠族ラティだった。
「交代休憩だぞ」
リフはきょとんとした顔で手を止めた。
「俺も、休んでいいんですか?」
「当たり前だ。倒れられても困るしな」
ラティは肩をすくめて笑った。
「そうそう、これ、虎野郎から預かってたんだった」
そう言って、小さな革袋を渡してきた。
中には、消毒液が染み込んだ小さなガーゼ付きのシートが入っている。
「グレンが?ありがとう」
「おう、貼っとけ、左のこめかみ、血ぃついてんぞ」
リフは布の端をめくってシートを貼った。冷たい感触が目尻の上から広がる。
近くを通りかかったモグラ族の獣人が首をかしげた。
容貌は人に近く、リフと並んでも違和感がない。額にはゴーグルが掛けられ、前髪を押し上げていた。
「新入り?」
「あぁ。ヴォルガ様の許可で雇われた、リフだ」
「へぇ、人間か。咆哮窟に、珍しいな」
ノタルは驚いたように眉を上げ、それから穏やかに笑った。
「俺は地下で配管や冷却管の点検とか修繕やってんだ。ノタルっていう」
リフは小さく頭を下げ、それから、ふと通路の方へ目をやった。
「さっき、兎族の子が、通路で掃除してて」
ノタルは額に掛けていたゴーグルを目元まで下ろし、少し考えるように黙り込んだ。
「ちっこいやつか?」
「うん。これと同じ、清掃籠を持ってたかな」
「ミルミだな。獣人に憧れてる」
ノタルは視線を通路の奥へやり、すぐに戻した。
「そういうやつは、ここじゃ珍しくねぇ」
それきり話題を切り替えるように、肩をすくめる。
「ま、ここで一緒に働くなら、種族なんてどうでもいい。よろしくな」
迷いなく差し出された手を、リフは少し嬉しそうに握り返した。
*
咆哮窟の外に出ると、空は既に赤く染まり始めていた。
裏口の壁にもたれていたゼルは、向かってくる人影を見つけ顔を上げる。
「終わったか」
リフは足を止め、その横顔を見た。
ゼルは通りの端に立ったまま、こちらを見ていた。
声をかけるでもなく、急かすでもなく。
(待ってくれてた?)
リフは少し息を弾ませながら頷いた。
陽の傾き始めた通りを並んで歩く。
並んで歩き出すと、リフはわずかに位置をずらした。
左肩を通りから遠ざけるように、半歩だけ。誰かに左側に立たれるのが苦手だった。左肩にある“それ”を隠すための、無意識に庇う癖。
ゼルは気がつくと、リフの左側を歩いていた。
ゼルが隣にいると、あの白い部屋の記憶が少しだけ遠のく気がした。
「今日さ、半日働いただけで、銅貨五枚ももらえたよ」
「あの鼠族、ずいぶん気前いいな」
リフは嬉しそうに頷く。
「掃除管理の鼠族で、ラティっていうんだ。あと、地下の配管を担当してるノタル。モグラ族で、額にゴーグルしてる。それから、兎族の女の子で、ミルミ」
息継ぎも忘れて話し続けるリフに、ゼルの眼差しがふと緩む。本人も気づかぬまま、口元にかすかな笑みが浮かんでいた。
「そっちはどうだった?」
「五戦、五勝」
「すごい!!」
「ただ、過去の負けが多すぎて、まだマイナスだ」
「それでも、勝ってるのはすごいよ、ちゃんと、前に進んでる」
「まぁな」
ふと、リフのこめかみに貼られた小さなガーゼが目に入った。
「それ、どうした」
「ああ、行く途中でちょっと」
リフは指先でそっと触れ、少しだけ笑って誤魔化した。
「まぁ、問題ない」
「そうか」
ゼルの視線が一瞬鋭くなる。問い詰めることはせず、また前を向いて歩き出した。
長屋が見えてきた頃、ゼルはふと立ち止まり、リフの肩に手を置いた。
「先に帰ってろ」
「え?どこ行くの?」
「すぐ戻る」
リフが何か言うより早く、ゼルは踵を返して通りの奥へ消えていった。
通りの奥、蜥蜴族の男が数人の仲間と、壁にもたれて笑っていた。
ゼルはその前に無言で立ち、冷えた視線でただ見下ろした。
「なんだ、何の用だ。見ねぇ顔だな」
蜥蜴族はあざけるように顎をしゃくった。
「通りたいなら、通行料だ。銀貨でも置いてけや」
ゼルは一歩、ゆっくりと踏み出した。
「おい、聞こえてんのか?」
胸ぐらを掴まれた瞬間、ゼルの拳が音もなく頬にめり込んだ。蜥蜴族の身体が浮き上がり、壁に叩きつけられるようにして派手に倒れ込む。
仲間の一人が慌てて声を上げる。
「な、なにしやがる!!」
ゼルは冷ややかに一瞥をくれ、更に一歩、踏み込む。
男の顎を左手で掴み上げ、低く言い放った。
「二度と、あいつに触るな」
目の奥が一瞬だけ、真紅に光った。
蜥蜴族は息を詰まらせ、声も出せないまま地面に崩れた。
ゼルは振り返らずに外套の裾を翻し、何事もなかったように、背を向けた。




