EP.12 小さな日常
昼下がりの光が、長屋の入口の粗末な幌の裂け目から差し込んでいた。冷えた床がじんわりと温もりを含み始めている。
リフは、目を開けて初めてその明るさに気づいた。
珍しく、昼過ぎまで眠っていたようだった。肩には、ゼルの外套がかけられていた。
いつのまに、と小さく息を吐く。部屋を見渡すが、ゼルの姿はなかった。きっと、もう咆哮窟へ出掛けたのだろう。
昨日、総元締の黒豹族ヴォルガが口にした言葉を思い出す。
『雇ってほしかったら、次はあの蝙蝠と一緒に来い』
リフは簡単な支度を済ませて、外に出た。
街路は、いつもと変わらない。濁った風、行き交う獣族たちの喧騒、疲れ切った人間達の様相。
通りを曲がり掛けた、その時だった。
「おいッ!!」
聞き覚えのある声に、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。振り返ると、数メートル先に元雇主の蜥蜴族の男が立っていた。
「生きてたのかよ。てっきり、くたばったと思ってたぜ」
鉄の棒を肩に担ぎ、冷たく笑ってくる。
「ピンピンしてんなら、なんで顔出さねぇ?予約、全部流れたんだぞ」
「えっ、いや……」
長い尻尾が地面を打ちつけ、乾いた音が響く。
その音に、リフの肩がびくりと震えた。
「この前の狐、また指名入ってたんだぞ。例の三人も、もう一回寄越せってよ」
その手に握られていたのは、人間を躾けるときに使われる折檻棒。蜥蜴族は手の中で楽しそうに軽く弾ませる。
「勝手に消えてんじゃねぇ。今すぐ戻って相手しろ」
蜥蜴族は怒鳴りながら、鉄の折檻棒を横に薙いだ。
鉄の先端がこめかみを打ち、足元がもつれて、リフはその場に崩れ落ちる。
「……痛っ……、」
掴まれた腕を強く引かれ、通りの脇へと引きずられ、荷の影に叩きつけられる。
「やめ……っ」
振り払おうとする。だが、首元に食い込む手がそれを許さない。息が詰まる。身体ごと前へ押し出され、石畳に顔を押しつけられた。
「何だこいつ……」
声は、頭上から降ってきた。
「ああ、例の稼ぎ頭か。生きてたのかよ」
顔を上げると、薄暗がりの中にいくつもの光があった。縦に裂けた瞳が、揃ってこちらを見下ろしている。蜥蜴族が三人、壁にもたれたり、腕を組んだりして立っていた。
「躾が足りてねぇみたいでな。好きに使って、抵抗する気がなくなるまで、分からせてやれ」
乾いた笑い声が、上から重なる。
「そりゃいい。言うこと聞くようになるまで遊べるのか」
「離せ……」
「ほら、相手してやるって言ってんだろ」
腕を引き抜こうとしても、体重を乗せられて動かない。地面に手をつき、リフは石畳の隙間に爪を立てる。
「無駄に力使うなよ。せっかくなら、楽しい方がいいだろ?」
「……やらない……」
かすれた声が震える。
「もう、その仕事は……しない……」
言葉の途中で、鉄が背を打った。息が詰まり、声が途切れる。
「やらない、だぁ?選べる立場だと思ってんのかよ」
容赦のない打撃が続いた。
「おいおい、気持ちよく使わせる前に壊すなよ」
「使い物にならなくなったら元も子もねぇぞ」
遠のく音の中で、視界が揺れる。石畳の輪郭が滲み、息を吸おうとしても、うまく入らない。意識が、ゆっくりと沈んでいく。
「そのくらいにしとけよ。蜥蜴のおっさん」
ふいに、暴力の嵐が止んだ。
頭上から聞こえた声に、リフは恐る恐る顔を上げた。蜥蜴族の手首を掴んでいたのは、見覚えのある咆哮窟の、虎族の用心棒だった。
「は?なんだてめぇ」
虎族は気だるげに首を鳴らし、引き締まった口元に、鋭い犬歯を覗かせた。
「別にてめぇの邪魔をする気はねぇよ。ただ、そいつ、ウチで雇ってるんだ」
「寝ぼけたこと言ってやがる」
蜥蜴族は鉄棒を握り直す。
「こいつは俺のもんだ。勝手にしゃしゃり出てくんじゃねぇ」
「おいおい、丁寧に話してるうちに、分かれよ」
低い声とともに、虎族は重い足音を軋ませ、一歩踏み込んだ。
蜥蜴族は舌打ちをして、鉄の棒を放り投げた。
「チッ……勝手にしろ」
吐き捨てると、くるりと背を向ける。壁にもたれていた連中も笑いながら離れ、尾を引きずる音だけが遠ざかっていった。
「あの、」
リフはゆっくりと顔を上げ、息を整えながら口を開いた。
「……ありがとう」
「気にすんな。あいつら爬虫類はねちっこいからな、また絡まれたら面倒だろ、一緒に行くか?」
リフが軽く頷いたのを見て、虎族は歩を進めつつ名を告げた。
「グレンヴァルドだ。面倒ならグレンでいい」
「俺はリフ」
「そうか、リフ。で、蝙蝠のやつはどうした?俺が通りかからなきゃ、大変なことになってた」
「いや、俺が寝坊してただけで」
「ふうん、冷てぇ相棒だな」
グレンは苦笑しながら前を向く。
「起こさなかったのは、きっと優しさなんだと思う……」
「優しさね、」
グレンは安心した様に笑んだ。
*
通りを抜ける途中、甲冑姿の巡視兵が二組、視界を横切った。黒豹族が王として統べる、この国の獣人とは明らかに違う。鎧の縁に、赤と金の尾羽でかたどられた紋章が鈍く光る。
「最近、巡視兵がやたらと多いな。それに、さっきの、見ねぇ紋章だ」
リフは何も答えず、フードを深く引き下げる。
「絡まれると面倒だな。人間に難癖つけて、ルーメンの実験施設に送り込むのが、あいつらの仕事だからな」
リフの歩幅が、わずかに乱れる。
「離れるなよ」
歩調を落とし、グレンは自然とリフを自分の影に入れる。
咆哮窟へと続く地下への入口がすぐそこに見えてきた。
リフはふと立ち止まる。
「ちょっと、待って」
足元に咲いた小さな草を摘み取り、指先で葉を折り取る。
「それ、どうするんだ?」
「手当てに使えるんだ、お茶にもできる」
こめかみの血が滲んでいるのを見て、グレンは怪訝そうに眉をひそめた。
「そんな道端の草なんかより、咆哮窟にゃ手当て用のキットがある。お茶なら、質のいい香り茶もあるから、あとでやるよ」
「ありがとう。でも、慣れてるから」
「慣れてるとか言うなよ」
グレンは視線を逸らし言った。
「この街は確かに人間に冷てぇ。獣人も、半獣人も、酷い奴が多い。けど、全員がそうじゃねぇ」
リフは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「そう、だね」
わずかに息を吸い込み、そっと目を伏せる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、貰おうかな、その香りの良いお茶っての」
「傷薬もあとで届けさせてやるよ」
「ありがとう!!グレン」
グレンはリフの背をひとつ叩き、豪快に笑った。
*
咆哮窟の格闘技場の裏手の通路を、グレンは慣れた足取りで進み、小さな受付台の前に立った。
灰色の毛並みをした鼠族の半獣人が帳面を広げ、忙しなく尻尾をぱたぱたと揺らしている。
「こいつ、今日からここで働く」
鼠族の半獣人は片方の耳をぴくりと動かし、帳面から顔を上げた。短い毛に覆われた顔の奥で、口元のヒゲをわずかに震わせながら、真っ黒な瞳がリフを見据える。
「人間が?誰の許可取ってんだ、グレン」
「総元締だよ」
「ヴォルガ様か!はっ、あの人も物好きだな」
鼠族は鼻を鳴らし、リフに向かって告げる。
「ここは咆哮窟の、清掃や管理の統括窓口だ。俺はラティ。とりあえず清掃班に混ざれ、出来るか?」
リフは短く頷く。
「昼のうちはリング周りの清掃だけでいい」
そう言って、鼠族の男ラティは、布切れと刷毛、木製モップが入っている籠を手渡してきた。
ラティが差し出した籠を、リフは両手で受け取った。
「がんばります」
横で見ていたグレンが、軽く肩を叩く。
「初日だから適当にな、荒い奴が多いが、命まで取られやしねぇ」
「まぁ、慣れりゃ他の仕事も回してやる」
「助かります」
リフはラティから渡された籠を抱え、薄暗い通路を進んだ。
*
昼を過ぎた咆哮窟は、まさに戦いの熱気の只中にあった。観客席の通路は、興奮した観客の投げ捨てたゴミで溢れ返っている。
リフは小さな身体を折りたたむようにして、打ち捨てられたゴミを一つずつ拾い集めていった。
観客席の段の合間を縫うように進んでいると、少し先で、真っ白い毛に覆われた長い耳が揺れた。
座席の下に伏せた誰かが、自分と同じように、散らばったゴミを拾いながら手を動かしているらしい。
「邪魔だって言ってるだろ」
苛立った声とともに、座席の縁から突き出された脚が、足元で動いていた身体を蹴り払った。
小さな身体が通路へ転がり出る。
散らばったゴミの中に、白く柔らかそうな毛に覆われた小さな身体が横たわっていた。
床に伏せた頭の横で、長い耳が遅れて持ち上がる。
赤く丸い瞳が大きく開かれ、短い鼻先の脇で、細いひげが震えた。
人の子に近い輪郭をしているのに、その顔立ちは獣の血を否応なく示していた。兎族の、半獣人の少女。
目が合った途端、赤い瞳は伏せられ、慌ただしく床に手を伸ばして、散らばったゴミを拾い始める。
リフは籠を持ったまま、その場に屈み、兎の子と並んで床のゴミを拾い始めた。
「……ひ、と……?」
「今日から、ここで働くことになったんだ」
兎の子はちらりと顔を上げ、すぐに視線を落とした。
リフは何も言わず、屈んだまま床のゴミを拾い続ける。兎の子も、少し遅れて手を動かし、散らばった欠片を掴んだ。
「あの……」
兎の子が小さく息を吸う。
「……ミルミ、っていうの」
拾っていた手を止めたまま、また視線を床に落とす。
「俺は、リフだよ」
ふいに、観客の歓声と怒号が一際大きく響き渡った。
リフは手を止め、顔を上げる。
観客の隙間から、リングの中央に立つ漆黒の翼の背が見えた。
──ゼル。
照明を受けたその背は、動かないまま、場の熱気を押し留めているように見えた。
歓声と衝撃音が混じる中で、リフは呼吸を忘れていた。
観客の歓声がさらに高まる。
隣で、ミルミの耳がぴんと立つ。赤い瞳が瞬きもせず、その姿を追っている。
ミルミは、リングから目を離さないまま、小さく呟いた。
「……いつか、あんなふうに」
そう呟くと、ミルミは籠を抱え直し、そのまま通路の奥へ走り去った。




