EP.11 名を呼ぶ夜
三人は黙って廊下を進んだ。
黒豹族の総元締の部屋に続く地下通路は、格闘技場の熱気は届かずひどく静かだった。
リフは小さく息を呑み、隣を歩く虎族に視線を向ける。そして、ぽつりと漏らした。
「……その傷、もしかして、」
虎族の頬には、深く裂けたような痕が走っていた。
足を止めず、ちらりとリフを横目に見てくる。
「なんだ。言ってみろ」
その低い声音に、ゼルがすぐ反応する。
「やんのか?」
声は静かだったが、明確な挑発だった。
間に入るように、リフが慌てて手を伸ばす。
「違う、そうじゃなくて!その傷、俺が盗みに入ったせい?」
虎族は無言のまま、ゆるく首を傾けた。
「やっぱり、俺のせい、だよね」
その言葉に、虎族はわずかに戸惑ったように眉を動かし、短く息を吐いた。
「掃除が丁寧すぎて、怪しいとは思った」
かすかに口の端が持ち上がる。
「見抜けなかった俺が悪いさ」
そして、呆れたように笑いながら続ける。
「お前泥棒のくせに、なんであんな綺麗に掃除してんだよ」
「なんとなく、汚れてたから」
「ははっ、まじか……」
虎族は再び歩き出し、肩越しに呟く。
「気にしてねぇよ。ただ次やったら、容赦しねぇけどな」
リフは一瞬、きょとんとしたのち、小さく「……うん」と頷いた。
そのまま、三人は黒豹族の総元締の間へと歩を進めた。
重い扉の前で、虎族が無言のまま立ち止まった。
黒豹族の総元締ヴォルガは、部屋の奥の椅子に深く凭れたまま、二人を軽く見つめてきた。
指先を軽く弾くと、その合図に応じ、部屋の脇に控えていた山猫族が、一冊の帳簿を抱えて進み出る。
山猫族は金糸のしおりを挟んだ箇所を静かに開いた。
「現在まで、全57試合中、敗北51、勝利6。
直近の戦績は7連敗。一転して今日の3連勝です」
ゼルは面白くなさそうに、視線を逸らす。
「連敗野郎が、さっき俺の大事なコレクションを盗み飲んで、いきなり勝ち出したってわけか」
総元締はゼルを見据え、問いかける。
「なぁ、お前。擬態だろ?」
ゼルは答えなかった。
「まぁいい。訳ありの奴なんて、ここには掃いて捨てるほどいる」
山猫族はそそくさと、総元締に帳簿を差し出す。
「で、今日の三連勝で、借金がちょっと減った程度か。まだまだ足りねぇな」
総元締ヴォルガは笑っていたが、その目の奥は獣そのものだった。
「次も勝ち続けろ。せめて、俺に貸しを作るくらいにはな」
「あぁ、勝つだけだ」
低く告げると、ゼルはゆるやかに背を向けた。
リフを促してそのまま扉へ歩み出る。
部屋を出ようとした刹那、
「待て」
ヴォルガが声を掛けたのは、ゼルではなく、リフに向かってだった。
「えっ?」
驚いたように足を止めたリフが振り返る。
ゼルがすっと身をずらし、前に出ようとしたが──
「取って喰やしねぇよ」
ヴォルガは愉快そうに牙を剥いて、顎でリフに近寄るよう促した。
リフは一瞬だけゼルを見上げた。
「ビビんな、噛みつきゃしねぇから、手を出せ」
おそるおそる差し出したリフの手の中に、ヴォルガは銀貨を三枚、無造作に置いた。
「えっ?」
「ここ掃除したのお前だろ、いつもの掃除係は雑でたまらねぇ。今日の部屋、久々に落ち着いて座れた」
リフは銀貨と総元締を、交互に見つめた。
「こんなに?」
雑用や清掃の仕事で礼を言われたことなど、一度もなかった。
叩かれ、罵られ、人間は使い捨てられるのが当たり前で。
「雇ってほしけりゃ、次は盗みに入らず、明日からその蝙蝠と一緒に正面から来い」
「あ、ありがとう!!」
「礼はいい。さっさと消えろ」
ぶっきらぼうに言い捨てる声を背に、リフは銀貨をそっと握りしめた。
嬉しくて見上げたゼルの目は、ほんの少しだけ柔らかくなっている気がした。
*
長屋の帰路、石畳の小道の脇に広がる露店通りの前で、リフは、ふと足を止めた。
「寄ってく?」
「そうだな」
短く返して、ゼルは肉を焼く煙が立ちのぼる屋台の前で、立ち止まる。
肉の焼ける香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
「ここにする?ゼル、」
リフは嬉しそうに懐から銀貨を取り出し、見せてくる。
「俺が払う。ほら、さっきの……!」
手のひらに載せた三枚の銀貨。
この街で人間が銀貨を手にできることは、リフにとっては信じがたいほどの出来事だった。
以前、蜥蜴族に雇われていたときは、一日中こき使われて、せいぜい銅貨が一枚か二枚。
それが今日は、盗みの後始末どころか報酬まで貰えた。信じられない気持ちと、妙な誇らしさがないまぜになっていた。
だが、店の前に立った人間に、相変わらず山羊族の店主は一瞥もくれない。
「あの、すみません」
控えめに声をかける。だが、反応はない。
徹底的に、無視される。
リフがもう一度、今度は少しだけ声を強めて呼びかけようとしたその瞬間、
「……」
ゼルがリフに気付かれぬよう、背後から無言で、山羊族の店主を鋭く睨みつけた。
その視線が殺気を孕んでいたのか、それとも無言の威圧だったのか、店主の山羊族はビクリと肩を震わせ、顔を引きつらせた。
「へ、へいらっしゃい!どうぞ、見てってください!」
ようやく向き直った山羊族に、リフは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。じゃあ、ゼル、好きなの選んで」
そう言って微笑むリフに、ゼルはふと目を向けた。
リフに名前を呼ばれるたびに、
胸の奥を、言葉にならない感覚がかすめる。
「……ああ」
短く応じて、視線を肉へと戻す。
焼きたての香ばしい肉がいくつも並ぶ中で、店主は上機嫌で勧めてきた。
「へい、こっちは今ちょうど焼き上がったばかりですよ、どうです?」
ゼルは、少し視線を彷徨わせたあと、端のほうに積まれた干し肉の束を指さした。
「そっちのをくれ」
「えっ、そっち?そりゃあ硬いし、そもそも保存食で、焼きたてに比べたら……」
戸惑う店主に、ゼルは目を細めて一言。
「構わない。それを寄越せ」
リフは意外そうにゼルを見上げた。
「ホントに?焼いたの美味しそうだけど」
「いや、これでいい」
リフは迷いながらも、店主が差し出した包みを受け取った。
銀貨をしっかりと握りしめたまま、ゼルの隣に並んで歩く。
誰かのために何かをすることが、こんなに嬉しいことだと初めて知った。
そして今、初めて誰かのために何かをした。
*
混雑した露店通りを抜け、いつもの粗末な長屋に戻った。
リフの前には、布袋から出したコアレットがひとつ。向かいでは、ゼルが黙ったまま干し肉を裂いていた。
「……何も聞かないんだな」
ふいに、ゼルが口をひらいた。
リフは少しだけ首をかしげる。
「なにを?」
「いや、あんなことがあって、普通なら色々聞くだろ。どういう事情か、とか」
「うん、でも、話したいなら、自分から話すと思って。知るべき時がくれば、嫌でも知る。そういうもんだと思う。それに、知らないほうがいいことも、あるよ」
ゼルは少しだけ目を伏せて、干し肉を口の中へ放り込んだ。
「じゃあ、ひとつ訊いていい?」
「なんだ」
「なんでその固い干し肉選んだの?遠慮した?」
ゼルの口元に、かすかに笑みが浮かぶ。
「お前、俺が肉食ってるとき、少し顔しかめるんだよな。匂い、苦手なんだろ?」
リフは目を丸くして、それからふっと吹き出した。
「よく見てるね」
「気になるんだよ。狭い部屋だし、目の前にいるしな」
ゼルは干し肉の小片を指で転がしながら、ぽつりとつぶやいた。
「俺も、聞きたいことがある。今さらだけど、名前、聞いてなかったな」
「え?あ!そうか。うん、言ってなかったね」
リフは照れくさそうに笑う。
「リフ。……ただのリフだよ」
「俺は、ゼルだ」
「知ってるよ、ゼル」
「知ってても、ちゃんと名乗ってなかっただろ」
「律儀だね、」
「それと、」
ゼルの視線は、黒く沈む夜の向こう側へと向いている。
「お前が、もし、」
ゆっくりと、言葉を選ぶように続けた。
「なにかに追われてるとしても。夜は、心配すんな。俺は人間より、ずっと感覚が鋭い。見えないものの気配も、遠くからでも嗅ぎ取れる」
リフは、わずかに息を詰まらせた。
「だから、風の音に怯えず、安心して眠っていい」
ゼルの言葉が、あまりに静かで、重たくて、胸が熱くなる。
ゼルはそれ以上なにも言わず、「寝るわ」と小さく呟くと、いつものようにリフの寝るスペースをしっかりと空けて、背を向けた。
そのまま壁の方へ顔を向け、静かに目を閉じる。
部屋の外では、風が木々をゆらしていた。
枝と葉が擦れ合うその音も、いつもとは違って気にならず、リフは安心して自分も横になった。
ゼルの背中をそっと見つめ、
今夜は何者かの気配に怯えることなく、眠れる気がした。




