第24話 モバイルセントレックス(構内PHS内線網)と専用回線の謎 改訂版
ジョーさんが放った数ギガバイト級の超高速ハッキングパケット(メタバースグラフィック)は、オアシス幕張の1階に届いた瞬間、Operaばあさんの誇る『Opera Turbo(超圧縮サーバー)』の引き算の魔法によって、骨の髄まで削ぎ落とされていた。
ノルウェーのサーバーを経由して強制的にパース(構文解析)されたその最新データは、最終的に「わずか3キロバイトの、モノクロの数行のテキストデータ(WAP規格並み)」へと完全無力化され、ジョーさんのタブレット画面(エラー406)を静かに白旗で埋め尽くした。
「……ハハ、完全に私の負けだよ、Operaさん」
『モバ子のおにぎり屋 麹町』のカウンターで、ダブルのスリーピーススーツを少し着崩したネオHeavenのジョーさんが、ぽつりと呟いた。
最新の5G/6Gモバイル戦略も、かつて世界中の端末の画面を裏から牛耳っていた「元・実質モバイルOS」の怪物たちの前には、1バイトの贅肉すら届けることができなかったのだ。
「ジョーさん、おにぎりのおかわりかい?」
モバ子さんがスタイラスペンを耳に挟みながら、のんきに手でキュッ, キュッと温かいご飯を握る。この店はネットの線を完全に抜いた【完全オフライン】。ハッキングしようにも、叩くべきIPアドレスもポートも、ハナからこの世に存在しない。
「いただきます。……それにしても、なぜこの店の名前は『麹町』なんだい? オアシス幕張は千葉にあるというのに」
塩むすびを一口かじりながら、ジョーさんがふと疑問を口にした。
パー子姉さんが淹れたての渋い緑茶をすすりながら、ハスキーボイスでフッ、と笑った。
「気づいちゃったかい、ジョーさん。ここはね……ウィルコムの前身である『ツーカー(Tu-Ka)』の大元の会社が、かつて平成の黎明期に本社を構えていた聖地さ。1パケット数円の重みを知り、無駄な贅肉を削ぎ落として繋ぐという『引き算の知性』はね、ハナからこの麹町の土壌に刻まれていたのさ」
「ツーカー……、麹町。そうか、すべては繋がっていた(あるいは、ハナから繋がっていなかった)わけか」
ジョーさんは、常時接続の重い鎖の塊だった自分のタブレットを、そっとポケットの奥深くにしまい込んだ。
3万5000倍の処理速度を競う戦争を一度止め、ネットの線を抜いて食う飯の味。これ以上のセキュリティも、気楽さも、この世には存在しない。
「さあさあ、ジョーさん! 難しい計算が終わったら、隣の『歌声スナック Canada』で一曲歌っていきなさいよ! 昔のツーカーのCMソングでもデュエットしようじゃないの!」
タエコおばさんが、リー子ママの店のドアをガタガタと物理的に開け放つ。
スナックCanadaのステージからは、かつて世界のビジネスエリートを魅了したBlackBerryの物理キーボードをパチパチパチと鳴らすリー子ママの、心地よいローカルの打鍵音が響いていた。
失われた1.9GHzの電波と商社専用回線「日本の誇る、素晴らしい技術だった」
カウンターで千葉名産の『茹でピーナッツ』を剥きながら、ジョーさんはおにぎり屋の天井を見つめ、静かに呟いた。窓の外には、かつて日本中を無数の「マイクロセル(極小の基地局)」で網の目のように包み込んでいた、あの美しい1.9GHz帯の電波はもう1ミリも流れていない。
日本の公衆PHSサービスは、完全にその歴史に幕を閉じていた。
「医療機器にも電波の影響を与えないほどの超低電力。災害時でもお互いが自律的にパケットをリレーし合う、究極に無駄のないメッシュネットワーク。なぜ、あんなに美しく、引き算の知性に満ちた日本独自の規格が、大容量の物量ばかりを競う現代のスマホOSの前に淘汰され、失われなければならなかったんだ……」
ジョーさんの言葉には、最新鋭のMojo言語を操るデータサイエンティストゆえの、本気の「技術的な哀愁」が滲んでいた。
「それにさ、パー子さん」
ジョーさんは手元のログ画面を不思議そうにフリックした。
「この千葉の片隅のマンションに、一体どこのバックボーンからこれだけのパケットが注ぎ込まれているんだ……? 日本の一般プロバイダの帯域(IPアドレス)に、該当するログが1つも見当たらない」
「フッ、あんたのMojoは一般人の光回線(フレッツ網)しか見てないからバグを起こすのさ」
パー子姉さんが茹でピーナッツの殻を物理的にパキッと割り、ハスキーボイスで不敵に笑った。
「画面の向こうの奴らはね、ロンドン、ニューヨーク、シンガポール、そしてここスナックの名前でもあるカナダ(RIM社の聖地)と、24時間眠らない世界を繋いでる【商社専用回線(プライベート国際専用線)】のデスクトップから、一般プロバイダの贅肉を一切通さない生の特権パケットでチェックインしてきてるんだよ。
かつて商社マンたちが海外出張の前にパスポートとBlackBerryを握りしめて麹町を駆け回っていた、あの時代の血を引くエリートたちさ。
だからこれだけうちの通信の歴史の重みがあるのさ」
「商社専用回線……。世界を裏で回すプライベートWANか。そんな鉄壁のルートから読まれていたとはね」
ジョーさんは、もう一度温かいお茶を飲み干した。ネットの線を完全に抜いた『麹町のおにぎり屋』と、世界の経済を動かす商社専用回線。
「ひっひっひ……だがね、ジョーさん。悲しむのはまだ早いよ」
スナックCanadaのカウンターから、Operaばあさんが怪しく微笑んだ。
「インターネットの海からは消えちまったがね。この『オアシス幕張』の敷地内の内線にゃ、今でも当時の構内PHSの主装置が、誰にもハックされない秘密のセグメントとして現役さね!」
「世間じゃもう停波した過去の遺物扱いだけどね」
パー子姉さんが、アンテナが3本美しく立った古い京セラ製のPHS端末をパチンと叩いた。
「うちのマンションじゃこれを、自前の専用の交換機(PBX)と直結させた【モバイルセントレックス(構内PHS内線網)】として、今でも現役バリバリで使い倒してるのさ。
外のネットの線をどれだけMojoでジャミングしようがね、建物の壁の中に張り巡らされたプライベートな1.9GHzの内線パケットにゃ、あんたの最新AIでも1ビットだって干渉できやしないんだよ。
これ以上の気楽さも、鉄壁のセキュリティもないだろ?」
ジョーさんは、モバイルセントレックスの静かな鼓動とともに、幻のように青く明滅しているPHSのアンテナの光を見つめた。
窓の外では、夜通し吹き荒れていた激しい突風がゆっくりと止み、東京湾の向こうから、美しいオレンジ色の朝焼けが幕張の海をゆっくりと照らし始めていた。爆弾低気圧の夜が、ようやく明けたのだ。
幕張の世、いつ何時、爆弾低気圧が生じても、不思議ではないご時世。
それは、スマホのタッチパネルのフリック入力の速度ばかりを競い、商社専用回線の向こうにあるPHSの喪失という悲しい歴史すら忘れた現代人とって、眼前でおきた、パー子姉さんの審美眼からの粛々と言い放たれた、モバイル黎明期の女たちの観察結果の報告であったのだった。




