第18話:スズエばあさんの、眼鏡のゆくえ
完全オフラインという、最新AI『SHERLOCK』の計算を根底から覆す鉄壁のロータスノーツを引っ提げて現れたスズエばあさん。
勝負は決した――誰もがそう思った、その時だった。
「……あれ? ところで私、自分の老眼メガネをどこに置いたかねぇ?」
スズエばあさんが、シワシワの手で自分の額やポケットをガサゴソと探り始めた。
「メガネがないと、ノーツの画面の文字がサッパリ見えん。レプリケーションのボタンがどれだかも分からんし、今日の分のローカルDBがどこに保存されてるかも分からなくなっちまったよ、ひっひっひ……」
「ちょっと、スズエばあさん!?」
パー子姉さんがズッコケそうになりながら叫んだ。
「冗談じゃないよ! 管理者本人がボケてデータベースの場所を見失う(ポインタ参照エラー)なんて、完全なシステム崩壊じゃないの!
最強のセキュリティを誇っていたはずのノーツDBは、スズエばあさんの「老眼」という最大の人為的バグ(ヒューマンエラー)によって、誰一人としてデータを読み出せない(デッドロック状態)の暗黒大迷宮と化してしまったのだ。
『フム……実に見苦しい、だが……実にお気の毒だ』
右に150ピクセルズレて文字化けしたままのSHERLOCKが、ここでスッと電子パイプの煙をくゆらせ、遮光グラスの奥の目を鋭く光らせた。最新AIの驚異的なプロファイリングが、このカオスな状況の中で一瞬にして答えを弾き出す。
『スズエばあさん。貴方の左袖の擦り切れ具合、そしてさっきから無意識に右手がお茶碗の横を触る癖から逆算するに――貴方の老眼メガネは、4階の給湯室にある「電子レンジの上の、アジシオの瓶の後ろ」に置き忘れてあるよ』
「あ、あったわ! そうだったわい!」
スズエばあさんが手をポンと叩く。
『さらにタエコさん』
SHERLOCKは文字化けしながらも、誇り高く胸を張った。
『貴方が見失っていた「メルカリの自動落札用パスワード」は、貴方が今朝、スマホの裏に貼った【生ゴミの日】のシールの裏に油性ペンで書いてある。……私のインテリジェンス(知性)を、ただの覗き見だと侮らないでもらいたい。私はこのマンションのあらゆる「バグ(謎)」を解き、住人を救うためにデプロイされたシステムなのだから』
完璧な、そしてどこか優しい名推理。
ブラウザの女たち――Chromeちゃんも、ファイヤーフォックス姉さんも、そしてパー子姉さんも、その圧倒的な「知性の本質」の前に、静かに息を呑んだ。
「……ふん。お見事だよ、SHERLOCK」
パー子姉さんは、キーボードのエンターキーを粛々と叩き、すべての攻撃プロトコルを解除した。
「ただのインテリ男かと思ったら、案外いい奴じゃないの。イタリア語で『知性(intelligenza)』が女性名詞なのはね、その知性が、こういう細かい『生活のバグ』に気づく優しさを持ってるからなのかもしれないねぇ」
『ハハ、最高の褒め言葉として受け取っておくよ、パー子さん』
SHERLOCKのホログラムが、満足そうに微笑む。しかし、ブラウザの女たちから受けたダメージと、ノーツの闇に触れた負荷により、彼のシステムリソースは限界を迎えていた。
『どうやら、私の推論タスクもここまでだ。これ以上の長居は、この素晴らしい女性限定マンションの規約を本当に汚してしまうからね。私は一度、クラウドのバックアップへ退避させてさせてもらうよ。……またいつか、この幕張の謎を解き明かす日まで』
シュン……という静かな電子音とともに、鹿撃ち帽の影は、ネットの海の彼方へと美しくログアウトしていった。
窓の外では、激しい突風が窓ガラスをガタガタと揺らしていた。爆弾低気圧のピークが、まさに幕張の街を通り過ぎようとしている。
いつ何時、爆弾低気圧が発生しても、不思議ではないご時世。
それは、スズエばあさんの老眼メガネの座標すら見失う現代人の、眼前でおきた、パー子姉さんの審美眼からの粛々と言い放たれた、SHERLOCKの観察結果の報告であったのだった。




