悪魔の書
シューエンは何年経っても、亡くなった娘のことばかり思っていた。悲しみの底なし沼に、足を取られ、抜け出せないまま。
料理をすれば、これはあの子が好きだった、嫌いだったと思い出し、手が止まる。ぼうっとすることが増え、この数年で、幾つも鍋を焦がした。
しかも恐ろしいことに、娘の顔が薄れていく。声が消えていく。どれだけ忘れたくないと思っても、日々の生活が、娘との思い出を上書きしていく。だからシューエンは上書きしないよう、近所づきあいを減らしたり、外出を控えたり、閉じこもるようになった。
そのことをライデンは心配して何度か忠言したが、シューエンは毎回娘を忘れろと言うのかと怒鳴り返してきた。なだめることに疲れ、最近はなにも言わなくなったが、そんな夫の変化にシューエンは気がついていない。
「ママ、もうすぐパパが帰ってくるんじゃない?」
ただぼんやり椅子に座っているだけの母に向け、夕方に迫れば毎日のようにシュールは呼びかける。
そこで我に返ってくれれば良いのだが、日によっては返事だけなので、シュールは見様見真似で適当に切った具材を鍋で煮込むようになった。初めて料理をした日は、勝手に包丁を持って火を使うなんて危ないとライデンから叱られたが、最近はなにも言われない。
今では包丁の使い方にも慣れてきたが、母に比べると下手で手際が悪く、疲れて帰宅したライデンに待ってもらう日も珍しくない。
シュールが同年代の子と比べ、家事に割く時間が多いことがライデンは気になっていた。しかし仕事で疲れて帰宅し、料理を一から作る元気はなく、娘に甘える形になっていた。それでも後片付けを率先し、娘の負担を減らす努力はしている。
本来こういう話は夫婦で解決するべきだが、元凶は妻である。シュールのことを言っても生返事ばかり。すっかり妻の心は、亡くした娘で占められている。酷い時は、シュールは生きているだけで幸せなのだから、我慢するべきだと言い、会話が終わったこともある。それを聞いたシュールの気持ちを考えてやれない妻は、今ではライデンの思う母親像からかけ離れている。
きっと妻は精神が病んだのだろう。だが、誰に相談すれば良いのか分からない。妻がそんな状態になったことは恥に思え、打ち明けることが難しい。
近所の者には、娘を亡くしてから体調を崩すことが増えたと言っているが、心の不調とは言っていない。しかし感づいている者はいるだろう。近所がどういう目で自分たち家族を見ているのか、知るのが怖かった。だからライデンはなにも知らぬと、以前と変わらぬ姿勢を貫いている。
シュールも母の心を、亡くなった妹が独占していると分かっている。妹だけではなく、自分のことも気にかけてほしいと思うが、寂しいと言った時、妹は一人ぼっちで土の中にいるのに、なんて贅沢なことを言うと叱られて以来、寂しいと言わなくなった。慰められず、逆に怒鳴られ……。心が傷ついたが、それでも母への愛は消えない。母を求めてしまう。
(妹がいなくなったのは、あたしだって悲しい。でも、ママが笑ってくれなくなったことも悲しい。なんであたしの家は、普通じゃないの?)
友人たちに比べ、自分の家はなにか違うと感じていた。変な家と言われたくなくて、誰にもシューエンのことを打ち明けられない。父親と同じく恥ずかしいという思いが働いていた。だがそれを、父親と共有することはないまま過ごしている。家族同士でも、言えないでいた。
あの年、家族を亡くした者は近所にも大勢いる。傷つきながらも皆、前を向いて生きている。母だけが、あの年の冬に囚われている。なぜ、母だけ違うのか。それに個人差があると理解するには、シュールはまだ幼かった。
夫と娘から心配されているシューエンは、たまに思い出したように買い物へ出かける。母や妻という立場を、完全に忘れてはいないからだ。この日もふらりと、買い物に出かけた。
「レックス領も似たような被害を受けたのに、すぐに復旧できた理由を知っているかい?」
旅の商人の品を見ていると、商人が煙草を吹かしながら尋ねてきた。
レックス領は隣の領だと知っているが、今のシューエンに興味はない。隣の領がどうなろうと、自分には無関係だからだ。だが隣にいた女性が返事をする。
「悪魔の書を使って、領を復興したという噂なら聞いたわ」
「悪魔の書? おとぎ話でしょう?」
会話に参加するつもりはなかったが、思いもしなかった単語が聞こえたので反応してしまった。
――――――悪魔の書。
子どもでも知る、おとぎ話と言われている書物。
その書を使い悪魔を呼び出せば、どんな願いも叶えてもらえると言われている。ただし代償を悪魔に支払う必要がある。その代償とは、悪魔を呼び出した本人の魂と言われている。つまり悪魔の書を使えば死んでしまう、禁断の書。
「本当の話さ、悪魔の書は実在した。だからあの領はこの領と違い、平和だね。悪魔に頼った領主も生きているが……。最近、ちと狂ったようでね」
そう言うと商人は煙草を加えたまま、自分の頭を指で軽く叩く。
「生きている? 悪魔の書を使えば、死ぬのでしょう? どうやって悪魔から逃れたの?」
驚いたシューエンに向かって、商人は言う。
「そこがよく分からないんだよ。伝承とは違うが、でも代償は求められた。それが花嫁。選ばれたのは当主の孫娘で、十六歳になるまでに迎えに来るそうだ」
「信じられない、孫娘を差し出したの?」
「いいや、逆だ。孫娘が産まれたのは契約以降。たまたま孫が女だから花嫁に選ばれたが……。当主は、自分の命を捧げるつもりだったらしいから、余計に堪えているようだ」
商人の吐き出した煙が漂い、消えていく。
「悪魔は産まれてくる孫が娘だと知っていたのかもしれないな。女が産まれないと、いつまでも代償を払えないから」
「代償を払えなかったら、どうなるのかしら」
噂を知っていた女の疑問に、商人は肩をすくめる。この男は肝心なことをなにも知らないのだなと、シューエンは思う。
「さあね。悪魔の考えることなんて、人間の俺には分からんよ。レックス当主が、自分の命と引き換えに願いを叶えてくれと言ったのかも、俺は知らねえ」
それを聞いたシューエンは、もし自分が悪魔の書を入手できたらと考える。
悪魔はどんな願いも叶えてくれると言われている。つまり、死んだ娘も生き返らせることが可能ではないか。沈んでいた心に、光明が差す。
大切な家族を一方的に、ナニモノかに奪われる。その恐怖、怒り。顔を知らぬレックス当主に同情する。孫娘を奪われるなら、自分の命を取られた方がましだと、今頃苦しんでいるのだろう。
(私なら……)
例えば、罪人の命と引き換えに娘を生き返らせろと望む。罪人は、何人でも構わない。そうすれば悪人は減り、世の中は平和になる。娘も取り戻せ世界は幸福になり、なんて素晴らしい閃きだと、シューエンの口元が緩む。
人の命を奪うことは死刑制度があるからか、それともライデンの予想通り、精神に異常をきたしたからか、今のシューエンにとって、自分に無関係の者の命は無価値も同然だった。殺すことに躊躇いがない。
「でも、レックス当主がおかしくなるのも仕方ないわ。自分が命がけで願ったのに、孫娘を奪われるなんて、正気を保てるはずがないもの。しかも花嫁と言っても、どんな目に合わされることやら……。だって、悪魔よ? きっと私たちの想像できない酷い目に合うに違いないわ」
そう言うと名も知らぬ女は己を抱き、体を震わせる。そんな女の声はシューエンに届いていなかった。すでに彼女の脳は、悪魔の書で占められていたからだ。
一刻も早く悪魔の書を探さなくては。シューエンは露店から、駆け足で離れる。
長く亡くなった娘が占めていた心と脳に、やっと変化が起きた。
しかしそれは喜ばしいものなのか。本人は、気にもせず判断しようとしない。
もしここで立ち去らなかったら。己の世界に没頭していなければ。その後、商人たちの会話に飛びついただろう。
「いやだ、それ、本物なの?」
「分からんよ。ただずっと昔から我が家に伝わる、悪魔の書と言われている品だ。俺は命が惜しいから、試そうとは思わんがね」
「偽物でもそんな不気味なモノ、この町に持ちこまないでほしいわ」
「この町の人は、あいかわらず信心深い者が多いね。分かった、この町でこれを見せるのは、あんたで最後にするよ」




