9章 《目覚め》
僕は目覚めた。
ベッドの上だった。
最初に感じたのは、
光だった。
眩しい光。
それから、
消毒液の匂い。
遅れて、
自分の呼吸の音が聞こえた。
ひゅう、
ひゅう、
と。
呼吸器が、僕の口元に繋がれていた。
自分の身体から出ている音なのに、
どこか遠くで鳴っているみたいだった。
身体が重い。
指を動かそうとしても、
うまく動かなかった。
まぶたも重い。
ゆっくり動かす。
あまりの眩しさに、目の奥が痛んだ。
僕は咄嗟に、瞼を強く閉じた。
今度は少しずつ瞼を開けていった。
焦点の合わない視線を、
ゆっくり動かす。
徐々に浮かび上がってくる。
白い天井。
透明なパネル。
壁際のモニター。
細く点滅する光。
そして、
色々な所から伸びる、
何本ものコード。
腕。
胸。
首元。
こめかみ。
頭の奥へ、
何かが繋がっているような感覚があった。
それを見た瞬間、
胸の奥が冷たくなった。
思い出す。
凪と同じだった。
白いベッドの上で、
何も言わず、
何本もの線に繋がれていた凪。
その姿を、
僕は見ていたはずだった。
見ていた。
たぶん。
でも今は、
僕がそこにいた。
「朝倉さん」
声がした。
葉室だった。
彼女は端末を片手に、
ベッドの横に立っていた。
いつものように冷静で、
いつものように少し疲れた顔をしていた。
でも、
その目だけが少し違っていた。
僕を見ているのに、
僕ではないものを見ているようで、
怖かった。
「大丈夫ですよ」
葉室は言った。
「抗がん剤が、少し効きすぎたようです」
僕は、
その言葉の意味が分からなかった。
「抗がん剤?」
自分の声が、
ひどく掠れていた。
喉の奥に、
砂が詰まっているみたいだった。
葉室は僕を見た。
「覚えていませんか」
覚えている。
気がする。
いや、
覚えているというより、
自分ではない誰かが経験した映像を、僕が思い出した気がした。
そう言えば、
重い病気にかかっている。
そう言われた。
いつか。
誰に。
どこで。
それが思い出せなかった。
抗がん剤で、
頭にコードを繋ぐのだろうか。
そう思ったはずなのに、
その疑問はすぐに霧のように消えた。
「そういえば」
僕は眩しさに慣れてきた目を、
今一度、細めながら言った。
「何か、重い病気にかかってるって……言われてたな」
葉室は何も答えなかった。
ただ、
端末に視線を落とした。
その沈黙が、
かえって答えのようだった。
僕はゆっくりと視線を動かし、辺りを見た。
凪がいた。
僕の隣のベッドで、
眠っていた。
相変わらず目を開けない。
相変わらず何も言わない。
それでも、
そこにいるだけで安心できた。
凪の隣に、
小さなベッドがあった。
そこに、
赤ちゃんが眠っていた。
けれど。
違っていた。
僕が思っていた、
僕と凪の子供とは違っていた。
生まれたばかりの、
赤い小さな身体ではない。
大きいのだ。
頬に、
柔らかい肉がついている。
胸が小さく上下している。
寝息が、
規則正しく聞こえる。
僕は息を止めた。
「……詩音?」
名前を呼んだ。
今度は、
ちゃんと思い出せた。
けれど、
そのことがなぜか怖かった。
名前を思い出した瞬間、
それ以外の何かが、
僕の中でひとつ沈んだ気がした。
「葉室さん」
僕は詩音を見たまま言った。
「今、いつ?」
葉室は答えなかった。
「僕は、どのくらい寝てた?」
モニターの電子音だけが、
部屋の中に響いていた。
一定の間隔。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
その音を数えているうちに、
自分が呼吸しているのか、
機械が僕の代わりに呼吸しているのか、
分からなくなった。
「三ヶ月です」
葉室は言った。
「三ヶ月?」
「はい」
僕は詩音を見た。
三ヶ月。
その言葉は、
ぜんぜん理解できなかった。
眠っていた感覚はない。
夢を見ていた感覚もない。
昨日の次に今日が来たように、
僕はここにいた。
でも世界だけが、
僕を置いて先に進んでいた。
「僕は」
声がうまく出なかった。
「ずっと寝てたの?」
「正確には、覚醒していた時間もあります」
葉室は淡々と言った。
「ただ、その記憶が残っていないだけです」
「記憶が?」
「薬の影響です」
薬。
葉室はその言葉で、
僕の中の穴に蓋をした。
けれど、
その蓋の下で、
何かがまだ動いていた。
「薬って」
言いかけて、
やめた。
聞いてしまえば、
戻れなくなる気がした。
詩音が、
小さく身じろぎをした。
僕は自由の利かない身体を、
無理に少しだけ起こした。
コードが引っ張られ、
胸のあたりが痛んだ。
葉室が何かを言おうとした。
その前に、
詩音が目を開けた。
黒い瞳が、
僕の方を見た。
赤ん坊の目だった。
何も知らないはずの目だった。
なのに、
その奥に、
僕は何かを見た。
それは、
言葉ではなかった。
映像でもなかった。
もっと曖昧で、
もっと近いもの。
僕は、
僕を見ていた。
低い位置から。
白い天井の下で、
管に繋がれた男が、
こちらを見ている。
頬がこけている。
目だけが、
ひどく怯えている。
その男が、
僕だった。
「詩音」
僕が呼ぶと、
詩音は声にならない声を出した。
その瞬間、
僕の喉の奥が震えた。
でも、
震えたのは僕ではなかった。
小さな手。
白い天井。
葉室の白衣。
眠る凪。
僕を見下ろす、
僕の顔。
目を閉じたはずなのに、
見えていた。
目を開けたはずなのに、
見えているものが変わらなかった。
「朝倉さん」
葉室の声で、
意識が戻った。
「無理に起きないでください」
僕は息を吸った。
自分の肺が、
遅れて動いた気がした。
「今のは?」
「何がですか」
「僕、今……」
言いかけて、
やめた。
説明できる言葉がなかった。
葉室は僕を見ていた。
驚いた顔ではなかった。
困った顔でもなかった。
最初から、
そうなることを知っていたような顔だった。
「詩音くんは、順調です」
葉室は言った。
「あなたも、順調です」
僕は笑いそうになった。
順調。
これが?
凪も順調。
詩音も順調。
僕も順調。
ここでは、
壊れていくことさえ、
順調と呼ばれるのかもしれない。
その日から、
僕は何度も眠り、目覚めた。
僕にとっては、一日だった。
けれど、詩音にとっては違った。
僕が一度眠るたびに、詩音だけが先へ進んでいた。
目覚めるたびに、
詩音は少し大きくなっていた。
次に目覚めた時、詩音は寝返りを打っていた。
その次に目覚めた時、詩音は凪の胸に抱かれていた。
眠ったままの凪の身体が、母親として反応していた。
その光景は、幸福というより、奇跡に似た異常だった。
さらに次に目覚めた時、
詩音は葉室の声に反応するようになっていた。
有葉井の工具の音を聞くと、
泣きそうな顔をした。
矢古部の足音には、
なぜかすぐ慣れた。
比良坂が端末を叩く音には、
じっと耳を澄ませた。
凪のベッドの横へ連れていくと、
詩音はいつも黙った。
赤ん坊なのに、
そこだけは泣かなかった。
凪の眠る顔を、
じっと見つめた。
凪は何も言わない。
詩音も何も言わない。
その二人を見ていると、
僕の存在が、
余計な音を立てているように思えた。
僕が目覚めるたびに、
詩音は大きくなっていく。
そのかわりに、
僕の中から何かが減っていた。
東京の雨の匂い。
凪の子供の頃の顔。
凪の声の高さ。
初めて会った日の服。
母の作った味噌汁の匂い。
自分の誕生日。
昨日、
何を話したのか。
少しずつ、
輪郭が薄れていく。
忘れたものは、
完全に消えるわけではなかった。
ただ、
僕のものではなくなっていった。
誰かの奥へ、
沈んでいく。
僕が手を伸ばしても、
届かない場所へ。
だから僕は、
忘れないようにしようと思った。
まだ残っているうちに。
眠る前に。
次に目覚めた時、
何が消えているか分からないから。
僕は、
思い出そうとした。
凪のことを。
僕のことを。
僕たちが、
まだ何者でもなかった頃のことを。
幼い頃の記憶は、
もうすでに朧げだった。
凪の家は近かった。
家族ぐるみの付き合いだった。
毎年のように、
キャンプへ行った。
海水浴にも行った。
父たちがテントを張って、
母たちが焼きそばを作って、
僕と凪は虫取り網を持って走り回っていた。
凪はよく転んだ。
泣く前に、
僕の顔を見る子だった。
僕が笑うと怒った。
僕が手を差し出すと、
すぐに掴んだ。
その手はいつも、
少しだけ熱かった。
そうだ。
初めて凪を女の子として意識したのは、
小学校に入ってからだった。
それまでは、
凪がどんな服を着ていても、
ただの友達だった。
ワンピースを着ていても。
髪にリボンをつけていても。
僕にとって凪は、
凪だった。
でも、
ある日ふと、
教室の窓際に立っている凪を見た時、
胸の奥が変なふうに踊った。
陽射しが、
凪の髪の端だけを光らせていた。
凪が振り向いて、
いつもと同じように笑った。
それだけなのに、
僕は少しだけ目を逸らした。
それが何だったのか、
その時の僕には分からなかった。
小学生の時、
父が死んだ。
確か。
そうだ。
確か僕と同じ、
白血病だった。
遺伝なのだろうか。
いや、
そんなことを考えたのは、
もっと後だった気がする。
あの時の僕は、
ただ泣いていた。
葬式の白い花。
黒い服を着た大人たち。
線香の匂い。
母の背中。
そして、
隣にいた凪。
凪はずっと、
僕のそばにいた。
何も言わずに、
一緒に泣いてくれた。
涙と鼻水で、
顔がぐちゃぐちゃだった。
それでも凪は、
僕の手を離さなかった。
「私ね」
凪は言った。
「お医者さんになる」
僕は泣きながら、
凪を見た。
「もし湊が病気になったら、
私が必ず治してあげる」
凪は、
とても小さな小指を、
僕に向かって差し出した。
「約束ね」
僕はそっと、
その柔らかい小指に、
自分の小指を巻きつけた。
「指切りげんまん」
凪が歌った。
僕も歌った。
「嘘ついたら、
針千本、飲ます」
二人とも、
泣いていた。
泣きながら、
ぐちゃぐちゃな声で歌った。
「指切った」
あの時、
凪の小指は、
とてもあたたかかった。
その感触だけは、
まだ覚えている。
覚えている。
たぶん。
高学年になる頃には、
凪がくっついてくるのが恥ずかしくなった。
特に学校や友だちの前では、
わざと冷たくした。
邪険にした。
意地悪なことも言った。
凪は少し怒って、
少しだけ傷ついた顔をして、
それでも次の日には、
また普通に僕の隣にいた。
帰り道は、
いつも二人だった。
堤防の上を歩いた。
川のほとりで、
ちぎった草を、
せーので投げた。
流されていく草を見ながら、
どちらが速いか競争した。
途中の公園に、
コンクリートでできた、
くまの遊具があった。
背中が広くて、
そこに座るのが、
僕たちのお気に入りだった。
凪は家に帰ると、
すぐに財布を持ってきた。
近くの駄菓子屋で、
カレー煎餅を買った。
それを二人で、
くまの背中に座って食べた。
黄色い粉が、
指についた。
凪はそれを嫌がっていたが、
でも最後には笑いながら舐めていた。
カレー煎餅が好きだったのは、
凪だっただろうか。
それとも、
僕だっただろうか。
分からない。
でも、
あの匂いは覚えている。
夕方の風。
川の音。
カレー煎餅の匂い。
凪の笑い声。
中学に入ってからは、
もっと一緒にいるのが恥ずかしくなった。
凪は、
とても可愛くなっていた。
それを認めるのが、
悔しかった。
同級生からは、
よくからかわれた。
「付き合ってるのかよ」
「朝倉、綾瀬と夫婦じゃん」
僕はそのたびに、
違うと言った。
大きな声で。
少し乱暴に。
凪はそんなこと、
お構いなしだった。
「湊」
いつも通り、
僕の名前を呼んだ。
それが余計に恥ずかしくて、
余計に嬉しかった。
ある夏の日。
その日は、夏祭りだった。
朝から凪が言っていた。
「湊、今年も行くよ」
「何に」
「盆踊り」
「行かない」
「行くの」
「行かないって」
「迎えに行くからね」
僕の返事なんて、
最初から聞く気がなかった。
夕方。
家のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、
凪が立っていた。
朝顔の浴衣を着ていた。
薄い青と白。
帯の色は、
何色だっただろう。
赤。
いや、
黄色だったかもしれない。
思い出せない。
でも、
凪が少し照れたように笑った顔は、
覚えている。
凪はその場で、
くるりと一回転した。
朝顔の浴衣が、
ふわふわと揺れた。
袖をつまんで少し上げ、
僕の方を見て、
小さくポーズをとる。
「可愛い?」
胸の奥が、
どくんと鳴った。
その時の凪が、
あまりにも眩しくて、
僕はうまく見られなかった。
可愛い、
と思った。
たぶん、
はじめてはっきり、
そう思った。
でも、
口にはできなかった。
恥ずかしくて。
照れくさくて。
認めたら、
何かが変わってしまいそうで。
「……普通」
僕はたぶん、
そんな可愛くない返事をした。
凪は一瞬だけ頬をふくらませた。
でもすぐに、
少し得意そうに笑った。
たぶん、
僕の顔を見れば、
本当のことなんてすぐ分かったのだと思う。
「ふーん」
凪はそう言って、
僕の少し前を歩き出した。
下駄の音がした。
からん。
ころん。
夕方の道に、
その音だけがやけにはっきり響いていた。
祭りの太鼓。
焼きとうもろこしの匂い。
金魚すくいの水の音。
凪の浴衣の袖。
手を伸ばせば届く距離。
でも、
その時の僕は、
伸ばせなかった。
そうだ。
僕にはまだ、
たくさんの思い出が残っている。
残っているはずだ。
凪と過ごした時間は、
こんなにもあった。
消えるはずがない。
忘れるはずがない。
僕は、
そう思おうとした。
けれど次に目を閉じた時、
朝顔の浴衣の色が、
もう少しだけ薄くなっていた。
そのかわりに、
詩音が笑った。
詩音の笑い方を見て、
胸が痛くなった。
凪に似ている。
でも、
なぜ似ていると思ったのか、
その凪の顔が少しだけ遠くなっていた。
僕が思い出せない凪の仕草を、
詩音に教えてあげたい。
そう思った。
でも、
教える前に、
僕の方が忘れていく。
葉室はそれを、
回復の過程だと言った。
僕は眠りにつくたびに、
侵食されていく気がしていた。




