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ゲシュタルトな僕と、フラクタルな君  作者: 読まれる前提
1章 《凪》

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8/12

8章 《約束の地》

夏油に着いた頃、

夜明けにはまだ間があった。


山の空気は冷たく、

星はこぼれ落ちそうなほど瞬いていた。


その奥を、

天の川が白く流れていた。


見上げていると、

関東が崩れ去ったことも、

燐が国を作ろうとしていることも、

ひどく小さな出来事に思えた。


銀河の尺度から見れば、

人間の争いなど、

一瞬の瞬きにも満たない。


それなのに僕たちは、

その小さな争いの中で、

すべてを失いかけていた。


山道を進むと、

古い保養施設のような建物が見えてきた。


閉鎖されたまま、

誰からも忘れられた施設。


外から見れば、

そうとしか見えない。


看板は錆び、

駐車場の白線は薄れ、

窓のいくつかは板で塞がれていた。


玄関前には、

落ち葉が積もっている。


人の気配はなかった。


けれど、

葉室は迷わなかった。


「そのまま裏へ進んでください」


「ここでいいの?」


少しだけ怖かった。


「はい」


「本当に?」


「だから、早く行ってください」


葉室は、

少し呆れたように言った。


その声に押されて、

僕はアクセルを踏んだ。


車は建物の横を抜け、

木々に隠された細い道へ入った。


途中から、

路面の感触が変わった。


アスファルトは途切れ、

タイヤが砂利を噛んだ。


前方に、

木で組まれた粗末な柵が見えた。


危険。

侵入禁止。


僕は息を呑んだ。


葉室は短く言った。


「そのまま突き破ってください」


「本気で?」


「はい」


僕はアクセルを踏み込んだ。


乾いた音を立てて柵が砕け、

車はさらに奥へ進んだ。


ヘッドライトの届く範囲だけが、

かろうじて世界だった。


山道の先で、

ふいに視界が開けた。


そこには、

いくつかの建物があった。


かつては村だったのだろう。


忘れ去られた村。


そう呼ぶのが、

いちばん近かった。


隠れるには、最適な場所だった。


十八年を待つための場所。


車が止まると、

数人の人間が駆け寄ってきた。


白衣の者。


作業服の者。


武装している者。


全員が、

凪を見た瞬間に表情を変えた。


敬礼しかけた男を、

葉室が目で制した。


「今はやめてください」


男はすぐに手を下ろした。


葉室の指示で、

周囲が無駄なく動き出す。


凪は眠っていた。


目も開けない。


言葉もない。


それでも、

ここにいる誰にとっても、

凪は中心だった。


「お母様を先に」


葉室が言った。


母は一旦、

先に到着していた別の医療車両へ移された。


静かな照明。


壁際のモニター。


葉室が点滴と計器を繋いでいく。


「お母様は、しばらく眠らせます。環境が変わると混乱が出る可能性があります」


僕は頷いた。


返事をする余裕はなかった。


母の顔は穏やかだった。


東京で何が起きたのか。


凪がどうなったのか。


自分たちがどこへ連れてこられたのか。


母は、なにもわからない。


そのことに、

少しだけ安心してしまった。


凪は、

医療用に改装された大型キャンピングカーへ運ばれた。


僕もついていった。


白いメンテナンスベッド。


細い管。


生命維持装置。


透明なパネル。


凪の身体は、

その中央に横たえられた。


何も言わない。


目も開けない。


ただ、

呼吸だけがそこにあった。


僕はベッドの横に立ったまま、

動けなかった。


「凪」


名前を呼ぶ。


返事はない。


「凪」


もう一度呼ぶ。


やはり、

返事はなかった。


葉室が静かに言った。


「声は届いている可能性があります」


僕は彼女を見た。


「本当に?」


「可能性です」


葉室は嘘を言わなかった。


「でも、ゼロではありません」


それで十分だった。


僕は凪の手を握った。


冷たかった。


けれど、

生きていた。


「聞こえてるなら」


声が震えた。


「待つから」


凪は何も言わない。


「何年でも、待つから」


返事がなくてもよかった。


目を開けなくてもよかった。


僕にはまだ、

凪に言いたいことが山ほどあった。


だから待つ。


世界のためだけじゃない。


もう一度、

凪に名前を呼んでもらうために。


その日から、

時間の流れ方が変わった。


東京がどうなったのか。


燐が西日本で何を始めたのか。


確かな情報は、

ほとんど届かなかった。


葉室の診療区画。


建築途中の建物。


食堂に変わったキャンピングカー。


僕の日々は、

その三つを往復するだけになった。


凪は目を開けない。


母は少しずつ環境に慣れていった。


そして、

詩音は育っていった。


まだ見えない場所で。


凪の中で。


葉室は毎日、

数値を見ていた。


胎児の成長。


凪の身体への負荷。


人工知能領域を閉じたことによる神経反応の低下。


詩音の脳波。


僕には分からない数字が、

端末に並んでいた。


「順調です」


葉室はよくそう言った。


その言葉だけが、

僕を現実につなぎ止めていた。


「本当に大丈夫なの?」


何度も同じことを聞いた。


葉室は端末から目を離さず、

いつも同じように答えた。


「順調です」


「凪は苦しくないのかな」


「苦しくないようにしています」


「詩音は?」


「成長しています」


「凪の身体は?」


「順調です」


そこで葉室は、

ようやく僕を見た。


「それが、私の役目です」


強い声ではなかった。


けれど、

そこに迷いはなかった。


「次は、朝倉さんの薬です。

横になってください」


葉室音羽。


第四の役目、

《癒》。


凪の生命維持。


母の医療管理。


詩音の成長管理。


彼女は、

そのすべてを背負っていた。


凪は、

少しずつ遠くへ行っている気がした。


笑わない。


話さない。


怒らない。


照れない。


僕の知っている凪が、

日に日に薄れていく。


それでも、

詩音だけは育っていた。


凪が閉じていくほど、

詩音は生まれようとしていた。


それが希望なのか、

残酷なのか、

僕には分からなかった。


ただ毎晩、

凪の手を握った。


母の様子を見て、

詩音の数値を聞いて、

また凪の部屋へ戻る。


それだけの日々だった。


外では、

世界が変わっていた。


遅れてたどり着いた者たちの話では、

燐の支配はさらに進んでいるらしかった。


ブルー。


イエロー。


ホワイト。


ブラック。


レッド。


人間は色で分けられ、

役割を与えられる。


労働する者。


管理する者。


指示する者。


戦う者。


命令を出す者。


チップを持たない人間は、

カラーアノードの下で働かされる。


役割のない人間は、

不良品として処理される。


燐は、

国を壊したのではない。


整えた。


無駄を削り、

迷いを消し、

反抗を排除し、

役割だけを残した。


燐にとって、

それは救済だった。


一方で、

関東以北は崩れていった。


電力を失った都市では、

夜が長くなった。


燃料を失った道路では、

車が墓標のように並んだ。


薬を失った病院では、

助かるはずの命が消えた。


食料を失った街では、

鍵の意味がなくなった。


人は、

奪う者と、

守る者と、

逃げる者に分かれていった。


関東は、

燐に攻撃されたのではない。


放置された。


それだけで、

世界は崩れていった。


だから十二人の最初の仕事は、

戦うことではなかった。


生き延びる場所を作ることだった。


石動たちは、

キャンピングカーを集めた。


資材を積んだトレーラーを集めた。


発電機。


燃料。


医薬品。


工具。


通信機材。


水の濾過装置。


防寒具。


木材。


鉄板。


食料。


武器より先に必要なものが、

いくらでもあった。


救世主を待つために、

まず必要だったのは祈りではない。


燃料と、

水と、

薬だった。


夏油の山奥に、

少しずつ町が作られていく。


地図に載らない町。


燐の命令も、

暴徒の足音も届かない場所。


人間が、

人間として眠れる場所。


その外側に、

防衛線が張られた。


《約束の地》を守るため。


ただ、

それだけのために。


時間だけが過ぎていった。


僕の治療の頻度も増えていった。


点滴。


錠剤。


眠気の残る注射。


最近は体重の減りが激しく、

髪も抜け落ちていた。


「薬が効いている証拠です」


葉室はそう言った。


その言葉を、

僕は信じるしかなかった。


季節が変わった。


夏油の山は色を失い、

やがて雪に閉ざされた。


作りかけだった建物には壁が入り、

キャンピングカーで眠っていた人たちは、

少しずつ屋内へ移っていった。


それでも、

僕の日々は変わらなかった。


凪の部屋へ行く。


母の様子を見る。


葉室から詩音の数値を聞く。


そしてまた、

凪の横へ戻る。


思い出と呼べるものは、

ほとんどなかった。


ただ、

待っていた。


雪は、

毎日のように降った。


降って、

降って、

降り続いた。


いつの間にか約束の地は、

雪に閉ざされた陸の孤島になっていた。


雪はすべての音を吸い込み、

動物たちも長い眠りについた。


詩音が生まれたのは、

そんな音の無い、雪の朝だった。


建物の中に季節はないはずなのに、

その日だけは空気が違っていた。


葉室の小さな声が、

静寂の中で鋭く響いた。


「朝倉さん」


僕は凪のベッドの横で顔を上げた。


「始まります」


その一言で、

身体が動いた。


分娩室は、

医療室の奥にあった。


凪は目を開けなかった。


声も、

言葉にはならなかった。


それでも身体は、

確かに命を外へ送り出そうとしていた。


苦しそうだった。


今まで見たどの凪よりも。


東京を動かしていた時でもない。


燐と向き合っていた時でもない。


人工知能領域を閉じた時でもない。


今の凪は、

ただ一人の女の人として、

命を産もうとしていた。


僕は凪の手を握った。


細い指が、

かすかに震えていた。


「凪」


呼びかける。


「大丈夫だよ」


返事はない。


でも、

凪の手がほんの少しだけ強くなった気がした。


「頑張って」


声が震えた。


「もう少しだから」


その時だった。


凪の喉の奥から、

大きな声が漏れた。


言葉ではなかった。


悲鳴とも違った。


身体の奥から絞り出される、

生き物の声だった。


僕は息を呑んだ。


凪がこんな声を出すのを、

初めて聞いた。


葉室が動いた。


「頭が見えてきました」


その声にも、

わずかに力が入っていた。


「もう少しです。凪さん、頑張ってください」


僕は凪の手を握り直した。


「凪」


何度も呼んだ。


「頑張って」


それしか言えなかった。


凪は意識を閉ざしたまま、

それでも身体だけで命を産もうとしていた。


燐の国は広がり、

この国はもう、

取り返しのつかない場所まで来ているのだろう。


でも、

この瞬間だけは、

そんなことなんて、

どうでもよかった。


凪が苦しんでいる。


凪が、

僕たちの子どもを産もうとしている。


だから僕は、

その手を離せなかった。


「大丈夫」


何が大丈夫なのか、

自分でも分からなかった。


「僕はここにいる」


凪の身体が、

もう一度大きく震えた。


葉室の声が響く。


「凪さん、もう少しです」


僕は叫ぶように言った。


「凪、頑張って」


次の瞬間。


小さな泣き声がした気がした。


本当に、

小さな声だったような気がする。


けれどその瞬間、

僕の中で何かが止まった。


「男の子です」

その声が、

ひどく遠くから聞こえた気がした。


凪の手を握っていた指先から、

感覚が消えていく。


白い天井が揺れた。


葉室の顔が近づく。


「朝倉さん?」


その声も、

水の中から聞こえるようだった。


僕はその子を見た。


小さな身体。


小さな泣き声。


凪が残した音。


その音が、

胸の奥へ入ってきた。


いや。


入ってきたのではない。


僕の方が、

その音の中へ落ちていく。


「朝倉さん!」


葉室の声が鋭くなった。


誰かが僕の肩を支えた。


足元が消える。


凪の手が離れていく。


離したくなかった。


けれど、

身体がもう言うことを聞かなかった。


視界が暗くなる。


世界が、

すっと遠ざかっていく。


最後に聞こえたのは、

赤ん坊の泣き声だった。


あまりにも頼りない音。


けれどその音だけが、

この世界で一番強く響いていた。


そして僕は、

暗闇の中にいた。


そこには、

上も下もなかった。


音もない。


光もない。


匂いもない。


身体の感覚さえなかった。


手もない。


足もない。


呼吸もない。


それなのに、

僕はそこにいた。


点のようなものだった。


遠くで、

誰かが泣いている気がした。


名前。


なんだったっけ。


さっきまで、

確かに呼んでいたはずなのに。


思い出そうとしても、

何もつかめない。


もっと聞こうとしても、

何かが遠ざかっていく。


意識だけが、

静かに薄れていった。


僕は暗闇に吸い込まれていった。



その日の夜、

十二人が集まった。


それを僕が見たのか。


葉室から後で聞いたのか。


それとも、

意識の底で見た夢なのか。


今でも分からない。


けれど、

確かに覚えている。


その子は、

小さなベッドで眠っていた。


凪は、

その隣の医療ベッドで眠っていた。


母も、

別室で静かに眠っていた。


その場所に、

僕の身体はなかった。


眠る者たちの周りに、

十二人が立っていた。


彼らは、

凪から役目を授かった人間だった。


この始まりの日に、

彼らは凪と、

生まれたてのこの子に話しかけるように、

そして自身に言い聞かせるように、

静かに話し出した。


僕がどこで聞いていたのかは、

分からない。


けれど、確かに聞いていた。


石動志門。


《礎》の役目を預かった男。


戦場を知り、

それでも戦争を嫌った男。


石動はその子を見て、

低い声で言った。


「北へ行きます」


誰も止めなかった。


「東北から北海道にかけて、逃げ延びた者を拾います。燐に従わなかった者。命令系統を切った者。まだ人間でいることを選んだ者を」


石動は続けた。


「この子が動く日まで、必ず残します。

人を。

場所を。

戦うための力を」


安藤真礼。


《橋》の役目を預かった元外交官。


国が割れた夜、

燐側に用意された席を捨てた男だった。


「私は、人を繋ぎます」


安藤は言った。


「今すぐ戦えとは言いません。ただ、生き延びてもらう。十八年後、この子の声に応えられる人間を残します」


矢古部凌牙。


《盾》の役目を預かった凪の近衛。


彼は多くを語らなかった。


「約束の地を守ります」


それだけだった。


けれど、

その一言は宣告に近かった。


「この町に、敵を入れません」


葉室音羽。


《癒》の役目を預かった医療担当。


彼女は、

赤ん坊の手に触れた。


「凪さんを生かします」


声は静かだった。


「お母様を守ります。この子を、人間として育てます。急がせません。壊させません」


人間として育てる。


その言葉が、

暗闇の中で何度も反響した。


比良坂利歩。


《網》の役目を預かった通信の専門家。


「十八年後に開く回線を残します」


彼女は端末を片手に言った。


「それまで、私は存在しない人間になります」


春富巴瑠。


《輪》の役目を預かった都市設計士。


彼女は関東の地図を見ていた。


「関東を囲います」


淡々とした声だった。


「壁ではなく、輪で。燐の命令を通さない、巨大な境界を作ります」


真田泰生。


《流》の役目を預かった元商社マン。


「戦争は、弾だけでは続きません」


真田は言った。


「この子が立つ日まで、物資を切らせません」


遠間透。


《影》の役目を預かった男。


部屋の隅にいた。


気配が薄すぎて、

そこにいることさえ忘れそうになる男だった。


「俺は敵になります」


その一言で、

空気が冷えた。


「敵の中にいないと、敵の心臓には触れません」


有葉井玖郎。


《炉》の役目を預かった工業技術者。


彼は油の染みた手袋を外し、

赤ん坊を見た。


「チップは作れます」


有葉井は言った。


「ただし、完成させる鍵はこの子です。十八年後まで、開発を止めません」


燐のチップは、

命令するためのものだった。


有葉井が作ろうとしているものは違うのだろう。


支配ではなく、

同期。


命令ではなく、

接続。


忠井悠真。


《律》の役目を預かった元法制局の男。


「燐は秩序で支配します」


彼は静かに言った。


「なら、こちらは人間のための秩序を残します」


志摩誓吾。


《海》の役目を預かった特殊連絡官。


古い海図を持っていた。


「陸が塞がれても、海は完全には塞げません」


志摩は言った。


「逃げ道も、帰り道も、私が残します」


真照明成。


《実》の役目を預かった生命工学者。


食糧。


医薬原料。


人工培養。


長期避難生活。


そのすべてを担う男だった。


「人間は、思想だけでは生きられません」


真照は、

その子の寝息を聞いていた。


「食べて、眠って、治って、育つ。その当たり前を守ります」


十二人。


戦う者。


守る者。


治す者。


作る者。


繋ぐ者。


隠れる者。


残す者。


彼らは神ではなかった。

ただの人間だった。


だけど、たまたま生き残ったわけじゃない。


凪は彼らを選んだのだと思った。


赤ん坊が、

小さく泣いた。


その声を聞いて、

十二人が一斉に敬礼した。


凪ならきっと、

そんなことしなくていいのに、

と言ったと思う。


けれどその場にいた誰も、

手を下ろさなかった。


その日、

生まれたばかりの未来を守るために、

十二人は本当の意味で、使徒になった。


僕は、

その光景を覚えている。


眠る凪。


泣く赤ん坊。


敬礼する十二人。


地図に載らない町。


名前のない場所。


そこは、

世界の中心ではなかった。


生き残るための、

小さな場所だった。


約束の地。


僕は、

その言葉の意味を、

暗闇の中で少しだけ理解した気がした。


ここは、

逃げ込む場所ではない。


待つ場所だ。


凪が目覚める日を。


覚醒する日を。


夢のように壊れていく世界の中で、

もう一度、

人間が人間として朝を迎える日を。


遠くで、

寝息が聞こえる気がする。


あまりにも頼りない音。


けれどその音だけが、

この暗闇で一番強く響いていた。


「……」


僕は名前を呼びたかった。

どうしても思い出せない。


なにかが、反転した。

遠くから伸びてくる一筋の光。


ただの座標になった僕を照らし出す。


「SION」


声になったのかどうかは、

分からない。


ただ、

音だけが溢れた。


それは、

凪が残した音だった。


そして、

僕たちがこれから守る、

未来の名前だった。

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