8章 《約束の地》
夏油に着いた頃、
夜明けにはまだ間があった。
山の空気は冷たく、
星はこぼれ落ちそうなほど瞬いていた。
その奥を、
天の川が白く流れていた。
見上げていると、
関東が崩れ去ったことも、
燐が国を作ろうとしていることも、
ひどく小さな出来事に思えた。
銀河の尺度から見れば、
人間の争いなど、
一瞬の瞬きにも満たない。
それなのに僕たちは、
その小さな争いの中で、
すべてを失いかけていた。
山道を進むと、
古い保養施設のような建物が見えてきた。
閉鎖されたまま、
誰からも忘れられた施設。
外から見れば、
そうとしか見えない。
看板は錆び、
駐車場の白線は薄れ、
窓のいくつかは板で塞がれていた。
玄関前には、
落ち葉が積もっている。
人の気配はなかった。
けれど、
葉室は迷わなかった。
「そのまま裏へ進んでください」
「ここでいいの?」
少しだけ怖かった。
「はい」
「本当に?」
「だから、早く行ってください」
葉室は、
少し呆れたように言った。
その声に押されて、
僕はアクセルを踏んだ。
車は建物の横を抜け、
木々に隠された細い道へ入った。
途中から、
路面の感触が変わった。
アスファルトは途切れ、
タイヤが砂利を噛んだ。
前方に、
木で組まれた粗末な柵が見えた。
危険。
侵入禁止。
僕は息を呑んだ。
葉室は短く言った。
「そのまま突き破ってください」
「本気で?」
「はい」
僕はアクセルを踏み込んだ。
乾いた音を立てて柵が砕け、
車はさらに奥へ進んだ。
ヘッドライトの届く範囲だけが、
かろうじて世界だった。
山道の先で、
ふいに視界が開けた。
そこには、
いくつかの建物があった。
かつては村だったのだろう。
忘れ去られた村。
そう呼ぶのが、
いちばん近かった。
隠れるには、最適な場所だった。
十八年を待つための場所。
車が止まると、
数人の人間が駆け寄ってきた。
白衣の者。
作業服の者。
武装している者。
全員が、
凪を見た瞬間に表情を変えた。
敬礼しかけた男を、
葉室が目で制した。
「今はやめてください」
男はすぐに手を下ろした。
葉室の指示で、
周囲が無駄なく動き出す。
凪は眠っていた。
目も開けない。
言葉もない。
それでも、
ここにいる誰にとっても、
凪は中心だった。
「お母様を先に」
葉室が言った。
母は一旦、
先に到着していた別の医療車両へ移された。
静かな照明。
壁際のモニター。
葉室が点滴と計器を繋いでいく。
「お母様は、しばらく眠らせます。環境が変わると混乱が出る可能性があります」
僕は頷いた。
返事をする余裕はなかった。
母の顔は穏やかだった。
東京で何が起きたのか。
凪がどうなったのか。
自分たちがどこへ連れてこられたのか。
母は、なにもわからない。
そのことに、
少しだけ安心してしまった。
凪は、
医療用に改装された大型キャンピングカーへ運ばれた。
僕もついていった。
白いメンテナンスベッド。
細い管。
生命維持装置。
透明なパネル。
凪の身体は、
その中央に横たえられた。
何も言わない。
目も開けない。
ただ、
呼吸だけがそこにあった。
僕はベッドの横に立ったまま、
動けなかった。
「凪」
名前を呼ぶ。
返事はない。
「凪」
もう一度呼ぶ。
やはり、
返事はなかった。
葉室が静かに言った。
「声は届いている可能性があります」
僕は彼女を見た。
「本当に?」
「可能性です」
葉室は嘘を言わなかった。
「でも、ゼロではありません」
それで十分だった。
僕は凪の手を握った。
冷たかった。
けれど、
生きていた。
「聞こえてるなら」
声が震えた。
「待つから」
凪は何も言わない。
「何年でも、待つから」
返事がなくてもよかった。
目を開けなくてもよかった。
僕にはまだ、
凪に言いたいことが山ほどあった。
だから待つ。
世界のためだけじゃない。
もう一度、
凪に名前を呼んでもらうために。
その日から、
時間の流れ方が変わった。
東京がどうなったのか。
燐が西日本で何を始めたのか。
確かな情報は、
ほとんど届かなかった。
葉室の診療区画。
建築途中の建物。
食堂に変わったキャンピングカー。
僕の日々は、
その三つを往復するだけになった。
凪は目を開けない。
母は少しずつ環境に慣れていった。
そして、
詩音は育っていった。
まだ見えない場所で。
凪の中で。
葉室は毎日、
数値を見ていた。
胎児の成長。
凪の身体への負荷。
人工知能領域を閉じたことによる神経反応の低下。
詩音の脳波。
僕には分からない数字が、
端末に並んでいた。
「順調です」
葉室はよくそう言った。
その言葉だけが、
僕を現実につなぎ止めていた。
「本当に大丈夫なの?」
何度も同じことを聞いた。
葉室は端末から目を離さず、
いつも同じように答えた。
「順調です」
「凪は苦しくないのかな」
「苦しくないようにしています」
「詩音は?」
「成長しています」
「凪の身体は?」
「順調です」
そこで葉室は、
ようやく僕を見た。
「それが、私の役目です」
強い声ではなかった。
けれど、
そこに迷いはなかった。
「次は、朝倉さんの薬です。
横になってください」
葉室音羽。
第四の役目、
《癒》。
凪の生命維持。
母の医療管理。
詩音の成長管理。
彼女は、
そのすべてを背負っていた。
凪は、
少しずつ遠くへ行っている気がした。
笑わない。
話さない。
怒らない。
照れない。
僕の知っている凪が、
日に日に薄れていく。
それでも、
詩音だけは育っていた。
凪が閉じていくほど、
詩音は生まれようとしていた。
それが希望なのか、
残酷なのか、
僕には分からなかった。
ただ毎晩、
凪の手を握った。
母の様子を見て、
詩音の数値を聞いて、
また凪の部屋へ戻る。
それだけの日々だった。
外では、
世界が変わっていた。
遅れてたどり着いた者たちの話では、
燐の支配はさらに進んでいるらしかった。
ブルー。
イエロー。
ホワイト。
ブラック。
レッド。
人間は色で分けられ、
役割を与えられる。
労働する者。
管理する者。
指示する者。
戦う者。
命令を出す者。
チップを持たない人間は、
カラーアノードの下で働かされる。
役割のない人間は、
不良品として処理される。
燐は、
国を壊したのではない。
整えた。
無駄を削り、
迷いを消し、
反抗を排除し、
役割だけを残した。
燐にとって、
それは救済だった。
一方で、
関東以北は崩れていった。
電力を失った都市では、
夜が長くなった。
燃料を失った道路では、
車が墓標のように並んだ。
薬を失った病院では、
助かるはずの命が消えた。
食料を失った街では、
鍵の意味がなくなった。
人は、
奪う者と、
守る者と、
逃げる者に分かれていった。
関東は、
燐に攻撃されたのではない。
放置された。
それだけで、
世界は崩れていった。
だから十二人の最初の仕事は、
戦うことではなかった。
生き延びる場所を作ることだった。
石動たちは、
キャンピングカーを集めた。
資材を積んだトレーラーを集めた。
発電機。
燃料。
医薬品。
工具。
通信機材。
水の濾過装置。
防寒具。
木材。
鉄板。
食料。
武器より先に必要なものが、
いくらでもあった。
救世主を待つために、
まず必要だったのは祈りではない。
燃料と、
水と、
薬だった。
夏油の山奥に、
少しずつ町が作られていく。
地図に載らない町。
燐の命令も、
暴徒の足音も届かない場所。
人間が、
人間として眠れる場所。
その外側に、
防衛線が張られた。
《約束の地》を守るため。
ただ、
それだけのために。
時間だけが過ぎていった。
僕の治療の頻度も増えていった。
点滴。
錠剤。
眠気の残る注射。
最近は体重の減りが激しく、
髪も抜け落ちていた。
「薬が効いている証拠です」
葉室はそう言った。
その言葉を、
僕は信じるしかなかった。
季節が変わった。
夏油の山は色を失い、
やがて雪に閉ざされた。
作りかけだった建物には壁が入り、
キャンピングカーで眠っていた人たちは、
少しずつ屋内へ移っていった。
それでも、
僕の日々は変わらなかった。
凪の部屋へ行く。
母の様子を見る。
葉室から詩音の数値を聞く。
そしてまた、
凪の横へ戻る。
思い出と呼べるものは、
ほとんどなかった。
ただ、
待っていた。
雪は、
毎日のように降った。
降って、
降って、
降り続いた。
いつの間にか約束の地は、
雪に閉ざされた陸の孤島になっていた。
雪はすべての音を吸い込み、
動物たちも長い眠りについた。
詩音が生まれたのは、
そんな音の無い、雪の朝だった。
建物の中に季節はないはずなのに、
その日だけは空気が違っていた。
葉室の小さな声が、
静寂の中で鋭く響いた。
「朝倉さん」
僕は凪のベッドの横で顔を上げた。
「始まります」
その一言で、
身体が動いた。
分娩室は、
医療室の奥にあった。
凪は目を開けなかった。
声も、
言葉にはならなかった。
それでも身体は、
確かに命を外へ送り出そうとしていた。
苦しそうだった。
今まで見たどの凪よりも。
東京を動かしていた時でもない。
燐と向き合っていた時でもない。
人工知能領域を閉じた時でもない。
今の凪は、
ただ一人の女の人として、
命を産もうとしていた。
僕は凪の手を握った。
細い指が、
かすかに震えていた。
「凪」
呼びかける。
「大丈夫だよ」
返事はない。
でも、
凪の手がほんの少しだけ強くなった気がした。
「頑張って」
声が震えた。
「もう少しだから」
その時だった。
凪の喉の奥から、
大きな声が漏れた。
言葉ではなかった。
悲鳴とも違った。
身体の奥から絞り出される、
生き物の声だった。
僕は息を呑んだ。
凪がこんな声を出すのを、
初めて聞いた。
葉室が動いた。
「頭が見えてきました」
その声にも、
わずかに力が入っていた。
「もう少しです。凪さん、頑張ってください」
僕は凪の手を握り直した。
「凪」
何度も呼んだ。
「頑張って」
それしか言えなかった。
凪は意識を閉ざしたまま、
それでも身体だけで命を産もうとしていた。
燐の国は広がり、
この国はもう、
取り返しのつかない場所まで来ているのだろう。
でも、
この瞬間だけは、
そんなことなんて、
どうでもよかった。
凪が苦しんでいる。
凪が、
僕たちの子どもを産もうとしている。
だから僕は、
その手を離せなかった。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、
自分でも分からなかった。
「僕はここにいる」
凪の身体が、
もう一度大きく震えた。
葉室の声が響く。
「凪さん、もう少しです」
僕は叫ぶように言った。
「凪、頑張って」
次の瞬間。
小さな泣き声がした気がした。
本当に、
小さな声だったような気がする。
けれどその瞬間、
僕の中で何かが止まった。
「男の子です」
その声が、
ひどく遠くから聞こえた気がした。
凪の手を握っていた指先から、
感覚が消えていく。
白い天井が揺れた。
葉室の顔が近づく。
「朝倉さん?」
その声も、
水の中から聞こえるようだった。
僕はその子を見た。
小さな身体。
小さな泣き声。
凪が残した音。
その音が、
胸の奥へ入ってきた。
いや。
入ってきたのではない。
僕の方が、
その音の中へ落ちていく。
「朝倉さん!」
葉室の声が鋭くなった。
誰かが僕の肩を支えた。
足元が消える。
凪の手が離れていく。
離したくなかった。
けれど、
身体がもう言うことを聞かなかった。
視界が暗くなる。
世界が、
すっと遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、
赤ん坊の泣き声だった。
あまりにも頼りない音。
けれどその音だけが、
この世界で一番強く響いていた。
そして僕は、
暗闇の中にいた。
そこには、
上も下もなかった。
音もない。
光もない。
匂いもない。
身体の感覚さえなかった。
手もない。
足もない。
呼吸もない。
それなのに、
僕はそこにいた。
点のようなものだった。
遠くで、
誰かが泣いている気がした。
名前。
なんだったっけ。
さっきまで、
確かに呼んでいたはずなのに。
思い出そうとしても、
何もつかめない。
もっと聞こうとしても、
何かが遠ざかっていく。
意識だけが、
静かに薄れていった。
僕は暗闇に吸い込まれていった。
⸻
その日の夜、
十二人が集まった。
それを僕が見たのか。
葉室から後で聞いたのか。
それとも、
意識の底で見た夢なのか。
今でも分からない。
けれど、
確かに覚えている。
その子は、
小さなベッドで眠っていた。
凪は、
その隣の医療ベッドで眠っていた。
母も、
別室で静かに眠っていた。
その場所に、
僕の身体はなかった。
眠る者たちの周りに、
十二人が立っていた。
彼らは、
凪から役目を授かった人間だった。
この始まりの日に、
彼らは凪と、
生まれたてのこの子に話しかけるように、
そして自身に言い聞かせるように、
静かに話し出した。
僕がどこで聞いていたのかは、
分からない。
けれど、確かに聞いていた。
石動志門。
《礎》の役目を預かった男。
戦場を知り、
それでも戦争を嫌った男。
石動はその子を見て、
低い声で言った。
「北へ行きます」
誰も止めなかった。
「東北から北海道にかけて、逃げ延びた者を拾います。燐に従わなかった者。命令系統を切った者。まだ人間でいることを選んだ者を」
石動は続けた。
「この子が動く日まで、必ず残します。
人を。
場所を。
戦うための力を」
安藤真礼。
《橋》の役目を預かった元外交官。
国が割れた夜、
燐側に用意された席を捨てた男だった。
「私は、人を繋ぎます」
安藤は言った。
「今すぐ戦えとは言いません。ただ、生き延びてもらう。十八年後、この子の声に応えられる人間を残します」
矢古部凌牙。
《盾》の役目を預かった凪の近衛。
彼は多くを語らなかった。
「約束の地を守ります」
それだけだった。
けれど、
その一言は宣告に近かった。
「この町に、敵を入れません」
葉室音羽。
《癒》の役目を預かった医療担当。
彼女は、
赤ん坊の手に触れた。
「凪さんを生かします」
声は静かだった。
「お母様を守ります。この子を、人間として育てます。急がせません。壊させません」
人間として育てる。
その言葉が、
暗闇の中で何度も反響した。
比良坂利歩。
《網》の役目を預かった通信の専門家。
「十八年後に開く回線を残します」
彼女は端末を片手に言った。
「それまで、私は存在しない人間になります」
春富巴瑠。
《輪》の役目を預かった都市設計士。
彼女は関東の地図を見ていた。
「関東を囲います」
淡々とした声だった。
「壁ではなく、輪で。燐の命令を通さない、巨大な境界を作ります」
真田泰生。
《流》の役目を預かった元商社マン。
「戦争は、弾だけでは続きません」
真田は言った。
「この子が立つ日まで、物資を切らせません」
遠間透。
《影》の役目を預かった男。
部屋の隅にいた。
気配が薄すぎて、
そこにいることさえ忘れそうになる男だった。
「俺は敵になります」
その一言で、
空気が冷えた。
「敵の中にいないと、敵の心臓には触れません」
有葉井玖郎。
《炉》の役目を預かった工業技術者。
彼は油の染みた手袋を外し、
赤ん坊を見た。
「チップは作れます」
有葉井は言った。
「ただし、完成させる鍵はこの子です。十八年後まで、開発を止めません」
燐のチップは、
命令するためのものだった。
有葉井が作ろうとしているものは違うのだろう。
支配ではなく、
同期。
命令ではなく、
接続。
忠井悠真。
《律》の役目を預かった元法制局の男。
「燐は秩序で支配します」
彼は静かに言った。
「なら、こちらは人間のための秩序を残します」
志摩誓吾。
《海》の役目を預かった特殊連絡官。
古い海図を持っていた。
「陸が塞がれても、海は完全には塞げません」
志摩は言った。
「逃げ道も、帰り道も、私が残します」
真照明成。
《実》の役目を預かった生命工学者。
食糧。
医薬原料。
人工培養。
長期避難生活。
そのすべてを担う男だった。
「人間は、思想だけでは生きられません」
真照は、
その子の寝息を聞いていた。
「食べて、眠って、治って、育つ。その当たり前を守ります」
十二人。
戦う者。
守る者。
治す者。
作る者。
繋ぐ者。
隠れる者。
残す者。
彼らは神ではなかった。
ただの人間だった。
だけど、たまたま生き残ったわけじゃない。
凪は彼らを選んだのだと思った。
赤ん坊が、
小さく泣いた。
その声を聞いて、
十二人が一斉に敬礼した。
凪ならきっと、
そんなことしなくていいのに、
と言ったと思う。
けれどその場にいた誰も、
手を下ろさなかった。
その日、
生まれたばかりの未来を守るために、
十二人は本当の意味で、使徒になった。
僕は、
その光景を覚えている。
眠る凪。
泣く赤ん坊。
敬礼する十二人。
地図に載らない町。
名前のない場所。
そこは、
世界の中心ではなかった。
生き残るための、
小さな場所だった。
約束の地。
僕は、
その言葉の意味を、
暗闇の中で少しだけ理解した気がした。
ここは、
逃げ込む場所ではない。
待つ場所だ。
凪が目覚める日を。
覚醒する日を。
夢のように壊れていく世界の中で、
もう一度、
人間が人間として朝を迎える日を。
遠くで、
寝息が聞こえる気がする。
あまりにも頼りない音。
けれどその音だけが、
この暗闇で一番強く響いていた。
「……」
僕は名前を呼びたかった。
どうしても思い出せない。
なにかが、反転した。
遠くから伸びてくる一筋の光。
ただの座標になった僕を照らし出す。
「SION」
声になったのかどうかは、
分からない。
ただ、
音だけが溢れた。
それは、
凪が残した音だった。
そして、
僕たちがこれから守る、
未来の名前だった。




