7章 《使徒》
車は、暗闇を走っていた。
発電所も、
止められたらしい。
自家発電施設だけがまばらに光り、
東京は、
夜空の星が地上に落ちたように瞬いていた。
前方の窓から見えるのは、
うっすらと浮かぶ黒い山の輪郭と、
時々、頼りなく点いている街灯だけだった。
車はディーゼル特有の低い音を立てて、
無人の高速を北へ進んでいた。
車両感知システムは止まっている。
料金所も、
監視ゲートも、
許可認証も、
今は何も返してこなかった。
「でもよく、こんな車あったよね」
僕は前を見たまま言った。
「マニュアル車でも、今の車ってある程度コンピューター制御で通信してないと、通行許可が出ないよね」
「この車は、石動が自動車博物館から拝借してきました」
後部座席から、
葉室音羽が答えた。
「石動って?」
「お迎えに行ったでしょう」
「あぁ、あの人」
僕は短く返した。
後部座席では、
母と凪が眠っていた。
母の呼吸は深く、
規則的だった。
凪は、
その隣で目を閉じている。
さっきまで、
多くの人を動かしていたとは思えないほど、
その身体は華奢に見えた。
今はもう、
動くこともできないのだ。
凪の中にあった膨大な思考も、
判断も、
指示も、
ほとんどが閉じられている。
燐から見つからないために。
僕たちを逃がすために。
そして、
まだ生まれていない子どもを守るために。
母と凪の間に、
葉室が座っていた。
葉室音羽。
凪の直属だった元アノード。
小型端末で母の脈拍を確認し、
凪の首筋に指を添え、
瞳孔反応と呼吸の深さを見ている。
彼女は、
無駄なことを言わなかった。
車内には、
低い走行音だけが続いていた。
僕は何度もバックミラーを見た。
母。
凪。
葉室。
そしてまた、
前を見る。
ハンドルを強く握りしめる。
事故だけは絶対にだめだ。
それなのに、
どうしても後部座席が気になってしまう。
しばらくして、
葉室が言った。
「安定しています。大丈夫です」
「……本当に?」
「少なくとも、今すぐ危険な状態ではありません。だから前に集中してください」
少しだけ、
突き放すような言い方だった。
でも、
その声には焦りがなかった。
僕は息を吐いて、
前を向き直した。
「母さんは?」
「眠っています。薬が効いているだけです。危険な状態ではありません」
「凪は」
その名前を出した瞬間、
声が少し掠れた。
葉室は、
凪の手首から指を離した。
「生命反応は維持されています」
それだけだった。
「話せるようになるのか」
聞くべきではないと分かっていた。
でも、
聞かずにはいられなかった。
葉室はすぐには答えなかった。
「難しいです」
その言葉が、
車内に沈んだ。
「思考領域の大半が閉じています。凪さんは、燐から見つからないために、自分の中枢を深く隠しました」
「じゃあ……」
僕は、
バックミラーに映る凪を見た。
「凪は、もう何も分からないのか」
「ゼロではありません」
葉室は静かに言った。
「でも、自律神経に多くを使っているために、以前のように考え、判断し、話すことはできません」
分かっていた。
分かっていたはずなのに、
言葉にされると、
胸の奥が潰れそうになった。
僕にとって凪は、幼馴染。
人工知能領域を持つ特別な存在でもなかった。
ただ、
好きな人だった。
もう一度、
名前を呼んでほしい人だった。
「少しだけ、車を寄せてください」
葉室は凪の肩にブランケットをかけ直した。
それから母の顔色をもう一度確認し、
端末に表示された数値を見て、
小さく頷いた。
僕は路肩に車を寄せた。
二人が落ち着いて眠っていることを確認してから、
葉室は静かに前へ移動してきた。
助手席のドアが閉まる。
葉室は膝の上に端末を置いた。
「出してください」
僕は頷き、
もう一度、車を走らせた。
「ここからは私がナビします」
「分かった」
「そのまま走りながら聞いてください」
しばらく真っ直ぐ進むと、
葉室が言った。
「次を右です」
僕は指示された通りに、
誰も通らない道へ入った。
山の輪郭が近づいてくる。
街の光は、
少しずつ背後に遠ざかっていった。
「朝倉さん」
「……はい」
葉室は、
少しだけ間を置いた。
「凪さんは、人工知能領域を閉じる直前に、私たち十二人へ情報を送っています」
「情報?」
「はい。役目というか。SIONのこと。復活日の条件。そして、朝倉さんに伝えるべきこと」
SION。
その音を聞いた瞬間、
胸の奥がかすかに揺れた。
まだ姿もない。
まだ声も聞いていない。
けれど凪はもう、
その子の名前を残していた。
「十二人は、凪さんから命令されたわけではありません」
葉室は言った。
「じゃあ、何なんだ」
「授かったんです」
その声は静かだった。
冷たくはなかった。
ただ、
揺れないようにしている声だった。
「凪さんの意志を。役目を。そして、十八年後に来る復活日のための情報を」
十八年。
その時間の重さが、
すぐには理解できなかった。
「私は、葉室音羽。第四の役目、《癒》を預かりました」
葉室は短く言った。
「凪さんの生命維持。お母様の医療管理。そして、SIONの成長管理を担当します」
「SION……」
僕は思わず、
その名前を繰り返した。
口にした瞬間、
なぜか胸の奥が熱くなった。
ずっと前から知っていたような気がした。
「役目……」
「はい」
「十二人、全員が?」
「それぞれ違う役目を預かっています」
葉室は前を見たまま答えた。
「凪さんは、私たちを使徒と呼んでいました」
「使徒……」
「凪さんが残したものを実現し、未来を取り戻すために動く人間です」
その言い方は、
大げさではなかった。
神に仕える者というより、
神のように人を裁き、配置し、管理しようとするものに抗う人間。
終わりの見えない坂道を、
何度でも石を押し上げるように。
神に抗い、耐える。
まるでシーシュポスのように。
僕はバックミラーを見た。
凪は眠っている。
何も言わない。
目も開けない。
けれど、
何も残さず眠ったわけではなかった。
十二人に。
僕に。
まだ生まれていない詩音に。
凪は、
ちゃんと残していた。
「ほかの十一人は?」
「すぐに全員が、約束の地へ来るわけではありません」
葉室は言った。
「約束の地が安定すれば、外へ去って行く使徒もいます」
「外へ?」
「はい。逃げ延びた人を探すために。物資を集めるために。これから隠れる場所を作るために」
「まずは生きるためです」
葉室は即答した。
「戦うのは、その後です」
その言葉は、
妙に現実的だった。
世界を救うとか、
燐を倒すとか、
そんなことを考える前に、
まず生き延びなければならない。
それなのに、
何もできない自分が、
腹立たしかった。
約束の地。
その言葉を聞いた時、
そこに行かなければいけない使命感が強くなった。
でも同時に、
怖かった。
そこへ行くということは、
もう元の世界には戻れないと認めることだった。
東京も。
会社も。
日常を全部、
遠くへ置いていくということだった。
「ネットワークに残っていた断片から判断すると、燐は澪さんを拿捕した直後に撤退を開始しています」
「撤退……?」
「はい。凪さんの捕獲は、現時点では不可能だと判断したのだと思います」
葉室は端末を操作した。
暗い画面に、
赤い線と点が浮かび上がる。
「凪さんは自分を隠しました。
追えば追うほど、燐の戦力は分散します。
それよりも、澪さんを確保した今、
燐が優先するのは防衛線を固めることです」
「防衛線を固める……」
「アノードによる防衛線の確立。傀儡政権の発足。外国への強硬姿勢の表明。戒厳令を盾にした入国拒否」
葉室は淡々と続けた。
「燐は、しばらく鎖国をするでしょう。国内の混乱を隠し、その間に早急に国をまとめるつもりです」
壊すのではなく。
奪うのでもなく。
まとめる。
その方が、
ずっと怖かった。
「燐にとっては、それが救済です」
葉室は言った。
「迷いを消し、役割を与え、反抗を排除する。全員を配置し、全員を管理する。そのために、澪さんを管制脳として使う」
「澪を……」
品川で見た澪の姿が、
頭に浮かんだ。
頭を撃たれ、
意識を失い、
それでも凪が必死に繋ぎ止めようとしていた。
その澪が、
燐に奪われた。
「燐は、澪さんの人工知能領域をさらに拡張するはずです」
葉室は言った。
「西日本から中部までを、完全な管轄下に置くために」
「人格は?」
「なくなると思います」
短い答えだった。
僕は奥歯を噛んだ。
「燐は、西日本を固めたら、すぐ関東に来るのかな」
「いいえ」
葉室は首を横に振った。
「少なくとも、すぐには来ません」
「中部に防衛線を作れば、
関東は孤立します」
「澪さんを確保した今、
私たちは燐にとって、
すぐ潰すべき敵ですらありません」
端末の地図に、
中部を横切る赤い線が走った。
「中部絶対防衛線。燐側はそう呼び始めています」
「関東は、放置されるのか」
「放置というより、壊れるように仕向けられています」
葉室の声が、
わずかに低くなった。
「関東以北の電力施設は、すでに攻撃されています。原子炉は停止。送電網は寸断。経済の動脈は止まりました」
遠くの空が、一度だけ赤く光った。
遅れて、
山に低い音が返ってきた。
葉室は顔を上げなかった。
「変電所です」
それだけ言って、
また端末へ視線を戻した。
「原子炉まで……」
「都市機能は麻痺します。病院は非常電源に頼り、物流は止まり、信号は消え、通信は途切れる」
葉室は、
端末の画面を消した。
「数日もすれば、略奪が始まります」
僕は、
前方の暗い道を見つめた。
「暴徒化するってことか」
「はい」
「関東は、無法地帯になる」
「おそらく」
葉室は嘘を言わなかった。
「燐は関東以北をすぐ制圧する必要がありません。電力と物流を止めれば、勝手に崩れていきます。その間に、西日本と中部を固める」
東京の光が、
遠くで小さく瞬いている。
あれは夜景ではない。
落ちていく都市の、
最後の灯りだった。
「じゃあ、それを止めないと」
「それは無理です」
「まず、生きる場所を作ります」
葉室は言った。
「最初の避難施設だけでは足りません」
「人が増えます。
負傷者も来ます。
子どもも、
高齢者も、逃げたアノードも来る」
「どうやって」
「使徒たちが集めます」
「人を?」
「人も。物もです」
葉室は前を見た。
「キャンピングカー。資材を積んだトレーラー。発電機。燃料。医薬品。工具。通信機材。水の濾過装置。防寒具。木材。鉄板。食料。必要な人員」
彼女は少しだけ息をついた。
「武器より先に必要なものが、いくらでもあります」
その言葉で、
ようやく現実が見えた気がした。
世界を救う前に、
まず眠る場所がいる。
食べる物がいる。
水がいる。
薬がいる。
凪を生かす電力がいる。
母を守る環境がいる。
詩音が生まれてくる場所がいる。
「山奥に町を作ります」
葉室は言った。
「地図に載らない町です。燐の命令が届かず、暴徒にも見つからず、それでも人間が人間として眠れる場所」
「防衛線は?」
「その外側に張ります」
「凪の眠る場所を守るために」
葉室は、
それだけを言った。
僕は、
しばらく何も言えなかった。
人を色で分け、
役割で縛り、
逆らう者を切り捨てる独裁国家。
その外側で、
僕たちはただ、
人間として眠れる場所を作ろうとしている。
「まずは、そこへ辿り着くことだな」
「だから、さっきからそう言っています」
葉室が言った。
「……そうだった」
「はい」
少しだけ、
呆れたような声だった。
でもそのおかげで、
僕は前を向けた。
「復活日って、いつ?」
僕は聞いた。
葉室は少しだけ沈黙した。
それから、
静かに答えた。
「日付ではありません」
「日付じゃない?」
「条件です」
「条件……」
「十八年分の鍵が揃うこと。SIONが、人間として育つこと。
そして、最後の音が鳴ること」
最後の音。
その言葉が、
胸の奥に残った。
音。
警報。
振動。
頭の内側で鳴っていた、
あの音。
「その日に、何が起きる」
葉室は、
ようやく僕を見た。
「凪さんは、目覚めます」
一瞬、
呼吸が止まった。
「凪が……」
「はい」
葉室は頷いた。
その言葉だけで、
暗闇の中に、道が一本できた気がした。
それから、
少しだけ声を低くした。
「SIONは、必ず覚醒します」
車内が静まり返った。
後部座席で、
凪は何も言わない。
母も眠っている。
けれどその沈黙の奥で、
すでに十八年後の朝が始まっているような気がした。
「だから私たち十二人がいます」
葉室は言った。
「凪さんが目覚める日まで。SIONが覚醒する日まで」
「待てばいいんだな」
誰に聞いたのか、
自分でも分からなかった。
葉室は短く答えた。
「はい」
それから少しだけ、
言葉を選ぶように間を置いた。
「ただ、朝倉さんには、もうひとつお願いがあります」
「何?」
「私たちを、特別なものとして扱わないでください」
僕は思わず、
葉室を見た。
「特別?」
「はい」
葉室は前を向いたまま言った。
「私たちは、もうチップを外しています。命令系統にも繋がっていません。今はただの人間です」
「それは分かってる」
「でも、普通の人たちはそう見ません」
葉室の声は、
少しだけ低くなった。
「元アノードというだけで、燐の兵士と同じに見られます。人を管理し、命令に従い、街を壊した側の人間だと思われる」
僕は何も言えなかった。
たしかに、
何も知らない人から見れば、
葉室たちは敵と同じに見えるのかもしれない。
「だから、朝倉さんが必要です」
「僕が?」
「はい。私たちが人間だと、あなたが忘れないでください」
葉室は真顔で言った。
「周りが私たちを敵と見る時も。道具と見る時も。特別な存在として持ち上げようとする時も」
少しだけ、
彼女の声が柔らかくなった。
「ただの人間として、そばに置いてください」
僕は前を見た。
暗い道が、
山の奥へ続いている。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「でも、僕にできるかな」
「できます」
「なんで、そう言い切れるの」
「凪さんが、あなたを選んだからです」
葉室はそう言ってから、
少しだけ間を置いた。
「それに」
「それに?」
「お父さんですからね」
全く実感はなかった。
それでも、
その言葉だけは否定できなかった。
「……はい」
車は、
さらに山の奥へ進んでいく。
街の光は、
もう見えなかった。
前方には、
黒い山の影だけが続いている。
「約束の地」
助手席で、
葉室が静かに言った。
「復活日まで、よろしくお願いします」
僕は、
暗い道の先を見つめた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
車は、
夜明け前の山道へ入っていった。




