6章 《反転》
品川を出た時、
夜はまだ終わっていなかった。
けれど東京は、
もう僕の知っている東京ではなくなっていた。
基地の外には、
何台もの車両が並んでいた。
白い救急車両。
黒い装甲車。
見たことのない無人搬送車。
その間を、
白衣の人間と、
武装した人間が走っている。
服装が違うだけで、
その都度役割が入れ替わっているようだ。
凪は一度だけ振り返った。
品川基地の奥。
澪が運び込まれた処置室の方を。
澪は生きている。
けれど、
意識は戻っていない。
凪はそれを確認するように、
ほんの少しだけ目を閉じた。
「戻る」
短く言って、
凪は歩き出した。
「澪さんは?」
僕が聞くと、
凪は前を向いたまま答えた。
「私が残っても、もう澪は救えない」
「ここに残れば、私まで燐に捕まる」
「凪は残らなくていいの?」
「残ったら、
燐に私の位置を固定される」
その一言だけで、
凪の中で優先事項が変わったのがわかった。
澪を救うことと、
凪がそこにいることは、
同じ意味ではない。
澪がそこにいれば、
燐は品川を狙い続ける。
だから澪から、
離れなければならない。
分かっているから、
凪は振り返らなかった。
白いドクターカーのドアが開く。
運転席には誰もいない。
凪が乗ると、
車内の照明が淡く点いた。
僕も隣に座る。
ドアが閉まった瞬間、
外の音が遠くなった。
警報。
怒号。
機械音。
それらが厚いガラスの向こうへ押し込められる。
車が動き出した。
誰もハンドルを握っていない。
それでも車は迷わず進む。
凪はシートに背を預け、
片手を耳に当てていた。
「品川、第三隔壁まで閉鎖」
凪の声は低い。
「澪の生命維持を最優先。
脳圧の変化は三秒ごとに送って」
少しの沈黙。
「私には直接送らないで。
中継を三つ噛ませて」
また沈黙。
「燐に経路を読ませない」
僕は横顔を見る。
凪の顔は青白かった。
さっきまで処置室で、
誰よりも速く動いていた人とは思えないくらい、
疲れて見えた。
でも、
目だけは眠っていない。
その目はまだ、
東京全体を見ている。
車は地下通路を抜け、
地上へ出た。
夜の東京が広がる。
そこには、
いつもの光が残っていた。
高層ビル。
道路標識。
コンビニの看板。
遠くのタワー。
でも、
その光の隙間に、
今まで見たことのない暗さがあった。
交差点には車が止まっている。
赤信号で止まっているのではない。
凪が止めているのだと分かった。
タクシーも、
配送車も、
無人バスも、
道路脇に寄せられている。
僕たちの車が通る道だけが、
細く開いていた。
まるで東京の血管の中を、
一滴だけ別の血が流れているみたいだった。
「戒厳令は?」
僕が聞くと、
凪はすぐに答えた。
「もう出てる」
「いつ?」
「澪が撃たれた直後」
凪の声に迷いはない。
「外出禁止。
主要道路封鎖。
鉄道停止。
羽田閉鎖。
東京湾も止めてる」
「そんなこと……」
「しないと、
一般人も死ぬ」
「アノードのネットワーク切り替えはすぐにできない」
「だから燐は、自分のアノードを外から送り込むしかない」
僕は窓の外を見た。
歩道に人影はほとんどない。
代わりに、
赤い誘導灯が道路の端で点滅している。
遠くで爆発のような光が膨らんだ。
少し遅れて、
低い振動が車体に伝わる。
「今のは?」
「国会周辺」
凪が答えた。
「攻撃されてるの?」
「うん」
「燐がセキュリティを無効にしている」
あまりにも短い返事だった。
次の瞬間、
別の方向で光が走った。
凪の目がわずかに動く。
「警視庁本部」
「警視庁に?」
「中から」
その言葉に、
背中が冷たくなる。
外から攻められているのではない。
「潜入した誰かが、
中から攻撃している」
「防衛省施設。
練馬。
朝霞。
立川。
木更津」
凪が淡々と場所の名前を挙げていく。
それは地名ではなく、
傷口の一覧みたいに聞こえた。
「燐は、何がしたいの」
僕が聞くと、
凪はすぐには答えなかった。
車は静かに交差点を抜ける。
青に変わった信号が、
通過と同時に赤へ戻った。
「壊したいわけじゃない」
凪は言った。
「じゃあ、何を?」
「整えたいの」
「整える?」
「人間を」
凪は窓の外を見る。
夜景の光が、
その瞳に小さく映っていた。
「汚職もない。
自堕落もない。
迷いもない。
無駄もない社会」
少しだけ間が空く。
「全員が役割を持って、
全員が管理される世界」
「それが燐の目的?」
「たぶん」
凪は静かに言った。
「燐にとっては、
それが救済なんだと思う」
救済。
その言葉が、
ひどく怖かった。
人を殺して。
街を止めて。
澪を撃って。
それでも燐は、
救っているつもりなのかもしれない。
車は高速入口の横を通り過ぎた。
封鎖された料金所の向こうに、
青い光を帯びた人影がいくつも見えた。
首筋のあたりが、
かすかに光っている。
「アノード?」
僕が聞くと、
凪は頷いた。
「ブルーアノード」
「ブルー?」
「労働者階級」
その言い方が、
ただの説明ではなく、
もう始まってしまった現実の名前みたいに聞こえた。
「燐は、
人間を色で分けてる」
凪は言った。
「青は働く人。
黄は管理する人。
白は上位管理。
黒は指揮官。
赤は兵士」
「そんなの……」
「もう関西では始まってる」
凪の声が、少しだけ沈んだ。
「最初に許可を出したのは、私」
「凪が?」
「うん。燐に、どうしても必要だって言われた。
災害時の労働支援と、避難誘導のために」
凪は窓の外を見た。
「でも、
人間を階級に分けるなんて聞いてない」
「ブルーアノードも?」
「いなかった。
少なくとも、私が知っている計画には」
凪の目が、わずかに細くなる。
「品川でネットワークが混線した時、
はっきり分かった。
燐は最初から、この選別を隠していた」
青い光の人間たちは荷物を運び、
黄色い光の人間たちは端末を見て指示を出していた。
白い光の者だけが、誰にも止められず封鎖線の内側へ入っていく。
色が、役割になっている。
いや。
階級になっている。
「すでに関東にも入ってきてる」
凪の声は冷たかった。
「関西から来たブルーアノードが、
奪われた区域に配置されてる」
「関東の人たちが、
変えられてるわけじゃないの?」
凪は窓の外を見た。
「燐にも、
同時に扱える数には上限がある。
だから今は、
持ち駒を動かしてるだけ」
封鎖された料金所の向こうで、
青い光の人影が列を作っていた。
荷物を運び、
車両を退かし、
道を塞ぐ。
人間なのに、
感情がないみたいだった。
「まずネットワークを奪う。
それから、アノードを入れる」
少しだけ間が空いた。
「抵抗した人は、
もう残ってない」
窓の外に、
今度は赤い光が見えた。
装備を着た人間たちが、
道路脇に並んでいる。
その動きは、
人間というより、
同じ命令で動く機械に見えた。
「レッドアノード」
凪が言った。
「兵士」
僕は息を呑んだ。
車は速度を上げる。
周囲の信号が、
次々と青に変わっていく。
街が凪のために道を空ける。
モニターを見ると、
東京のあちこちで、
燐の色が増えている。
青。
黄。
白。
赤。
街が少しずつ、
人間の名前を失っていく。
「凪」
「なに」
「勝てるの?」
凪は答えなかった。
沈黙が、
答えの代わりになった。
やがて車は、
凪のマンションの地下へ入った。
厚いシャッターが閉まり、
外の光が消える。
地下駐車場には、
十二人の側近が待っていた。
医師の白衣を着た者。
武装した者。
端末を抱えた技術者。
通信担当らしき者。
服装は違う。
けれど、
全員の目が同じだった。
凪だけを見ている。
凪の直属の側近。
このビルに残っていた十二名。
「よく残ってくれた。助かる」
「よくご無事で」
白衣の男が言った。
別の一人が、
凪の前へ一歩出る。
「あなただけでも、
生き延びてください」
「私たちが盾になります」
誰もが凪を見る。
凪は車を降りた。
「いや、全員で助かるよ」
足取りはまだしっかりしている。
けれど僕には分かった。
凪はもう、
限界に近い。
「今から大仕事するよ」
「無駄な時間はない」
凪は十二人を見た。
そして、
片手を耳に当てた。
十二人の首筋の光が、
一斉に薄く揺れた。
声はなかった。
命令も聞こえなかった。
けれど、
何かが流れているのは分かった。
言葉ではないもの。
記憶に似たもの。
未来に似たもの。
凪が、
この十二人に何かを渡している。
湊のこと。
母のこと。
これから凪が何をするのか。
どこへ逃げるのか。
何を守るのか。
そして、
凪自身の考え。
その先にあるもの。
僕には中身までは分からない。
けれど、
十二人の顔が少しずつ変わっていくのが分かった。
驚きではない。
恐怖でもない。
覚悟だった。
凪はゆっくり耳から手を離した。
「全部、
共有できたね」
その言葉は、
ただの確認のように聞こえた。
でも僕には、
祈りのようにも聞こえた。
僕がまだ知らないことを、
この十二人は知った。
凪が僕にまだ言っていないことまで、
この人たちは受け取った。
凪は少しだけ目を伏せる。
「ここから先は、
命令じゃない」
地下駐車場の空気が、
わずかに変わった。
「チップを抜けば、
燐からは見えなくなる」
凪の声は静かだった。
「でも、
私の指揮系統からも外れる」
十二人は動かない。
「命令は届かない。
保護もできない。
戻る場所もなくなる」
それでも、
誰も下がらなかった。
一人が、
首筋に手を当てた。
皮膚の下で、
小さな光が揺れている。
「このままでは、
いつまでも燐に狙われます」
別の一人が続けた。
「いずれ私たちも、
燐の命令系統に組み込まれる」
三人目が、
まっすぐ凪を見た。
「それだけは、
受け入れられません」
十二人の視線が、
同時に凪へ向けられる。
「お願いします、凪さん」
最初の一人が言った。
「私たちは、
凪さんとつながっていた時間を、
不幸だと思ったことはありません」
凪の目が、
わずかに揺れた。
「自分もです」
別の一人が続ける。
「命令されていたからではありません。
凪さんの中で、
私たちはちゃんと、
普通の人間のままでいられた」
「だからこそ」
最初の一人が、
首筋に手を当てた。
皮膚の下で、
小さな光が揺れている。
「燐の命令系統には、
絶対に入りたくありません」
十二人の視線は、
一度も逸れなかった。
「チップを取り出してください」
凪は何も言わなかった。
ただ、
十二人を見ていた。
その顔は、
泣きそうにも見えた。
けれど凪は泣かなかった。
「分かった」
凪は言った。
「切り離す」
細い器具が運ばれてくる。
凪はそれを受け取ると、
一人目の首筋に触れた。
小さな光が、
皮膚の下で弱く揺れる。
次の瞬間、
黒い粒のようなものが取り出された。
凪のメス捌きは的確で、
血はほとんど出なかった。
けれど、
その人の身体が小さく震えた。
首筋の光が消える。
二人目。
三人目。
四人目。
凪は一人ずつ、
チップを抜いていった。
そのたびに、
小さな光が消えていく。
燐にも。
凪にも。
もう届かない場所へ、
彼らは落ちていく。
十二人目のチップを抜いた時、
凪の指先がわずかに震えた。
それでも凪は、
最後まで立っていた。
「あなたたちは、
もうアノードじゃない」
凪は言った。
十二人は、
静かに凪を見ている。
「あなたたちはここを抜け出して自由にも生きていける」
凪の声が、
少しだけ低くなる。
「だけど、さっき共有したことをお願いしたい」
「できれば、助けてほしい」
「お願いします」
「湊を守って」
十二人の視線が、
一瞬だけ僕に向いた。
「母を守って」
少し間が空く。
「私がまだ言葉にしていない未来を、
守って」
十二人は、同時に姿勢を正した。
そして、凪へ敬礼した。
「承知しました」
声が重なった。
凪は、少しだけ眉を寄せた。
「もう、そんなことしなくてもいいのに」
それでも皆、敬礼を下ろさなかった。
「凪さん。私たちは、最後までお供します」
声が重なった。
それは命令への返事というより、
誓いに聞こえた。
十二人は敬礼を下ろすと、
それぞれ違う通路へ散っていった。
最後の役割を、
それぞれ受け取ったのだろう。
凪はそれ以上、
何も言わなかった。
しばらく、
祈るようにその背中を見ていた。
そして僕へ振り返る。
「湊」
「うん」
「ついてきて」
エレベーターに乗る。
上へ向かうはずなのに、
なぜか地下へ沈んでいくような感覚があった。
白い光。
金属の壁。
電子音。
その全部が、
さっき見た東京の火とつながっているように思えた。
扉が開く。
凪の部屋だった。
数日前、
僕たちが初めて未来を選んだ場所。
東京の夜景が見える部屋。
水の入ったグラス。
薄いグレーのパーカー。
凪の体温。
その全部が、
まだどこかに残っている気がした。
けれど今は、
違う部屋に見えた。
壁には関東の地図が浮かんでいる。
赤い点が増えている。
青い線が消えていく。
東京は、
ここに戻ってもまだ燃えていた。
凪は靴を脱ぐ前に、
壁へ向かって言った。
「全回線を三層に分けて。
私の直接接続は切る」
通信の向こうから、
誰かの声がした。
凪は頷く。
「分かってる。
でも、このままでは燐に私を読まれる」
少し間が空く。
「澪は維持。
品川は捨てない。
でも私は、ここで次の準備に入る」
僕はその言葉を聞いて、
嫌な予感がした。
「次の準備?」
凪は振り返った。
その顔は、
とても静かだった。
「湊」
「うん」
「私は、隠れる準備をする」
「隠れる……」
「戦い続けても、
燐には勝てない」
その一言が、
部屋の中に重く落ちた。
凪は負けを認めたわけではない。
でも、
このままでは守れないことを理解している。
関東も。
澪も。
自分自身も。
壁の地図に、
また赤い表示が走った。
品川。
凪の目が動く。
「澪の位置情報は」
返答まで、
少し間があった。
『生命反応、維持』
通信の向こうで声が震えている。
『位置情報、消失』
部屋の空気が止まった。
僕は凪を見る。
凪は動かなかった。
「消失って……」
自分の声が、
ひどく遠く聞こえた。
凪はゆっくり言った。
「澪を奪われた」
壁の映像が切り替わる。
品川の処置室。
開いた扉。
倒れた医師。
破壊された隔壁。
空になった処置台。
そこに澪はいなかった。
「拉致されたの?」
凪は頷いた。
「燐が持っていった」
「何のために」
「制御範囲を広げるため」
「制御範囲?」
凪は壁に残った地図を見た。
関西。
中部。
関東。
三つの区域が、
色の違う線でつながっている。
「燐にも限界がある」
「限界?」
「さっき言ったでしょ。
扱えるアノードの数には上限がある。
燐の人工知能領域は大きい。
でも、無限じゃない」
凪は指先で中部を示した。
「澪は中部管轄だった」
「だから?」
「澪を使えば、
燐は制御できる範囲を広げられる」
僕は息を呑んだ。
「澪さんを、
道具みたいに?」
凪は否定しなかった。
「中継器。
増幅器。
もう一つの管制脳」
その言葉が、
ひどく冷たく聞こえた。
「そんなことをしたら、
澪さんはどうなるの」
凪はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、
答えは分かった気がした。
「澪は、すでに成功してる」
凪が言った。
「成功してる?」
「人工知能領域を受け入れた身体。
拒絶しなかった脳。
アノードを制御できる神経接続。
それが最初からある」
「だから、燐は澪さんを?」
「うん」
凪の声が低くなる。
「普通の人間を作り変えるより、
成功例を拡張する方が早い」
「拡張って……」
「澪の人工知能領域を増やす」
「燐以上に?」
凪はすぐには答えなかった。
その間の長さが、
何よりも残酷な答えだった。
「たぶん」
凪は言った。
「でも、そこまで広げたら、
澪の人格は残らない」
胸の奥が冷たくなる。
澪は生きている。
でも、
澪ではなくなる。
それは死ぬよりも残酷なのかもしれない。
「西日本から中部までを澪に持たせる。
燐自身は関西に残ったまま、
澪を経由して関東へ届く」
「じゃあ、取り戻さないと」
「うん」
凪は頷いた。
「でも今の私では、
もう間に合わない」
その言葉が、
部屋の中に重く落ちた。
壁の地図では、
さらに盤面が裏返っていく。
青が赤へ。
白が黒へ。
凪の色が、
燐の色に変わっていく。
「一旦は止めた」
凪が言った。
「でも無理だった」
地図の上で、
青い線が端から赤く染まり始める。
「先手を取られたのが痛い」
その意味は、
地図を見れば分かった。
警視庁の内部回線。
国会周辺の封鎖線。
自衛隊基地の入退域管理。
救急搬送ルート。
病院の認証。
無人車両の誘導。
主要な部分を取られたから、
取り返したはずの場所が、
燐の盤面に組み込まれていく。
まるで反転していくオセロだった。
端を取られた瞬間、
盤上の意味が変わる。
守ったはずの石が、
次々と敵の石になる。
味方だったアノードが消滅していく。
救急車両が止まる。
無人車両が道路を塞ぐ。
基地の隔壁が、
味方の退路を閉じる。
非常電源が落ちる。
通信がねじ曲げられる。
東京という盤面が、
凪の目の前で裏返っていく。
「止められないの?」
僕は思わず聞いた。
凪は画面を見たまま答える。
「止めてる」
その声は、
ひどく静かだった。
「止めて、これ」
何も言えなかった。
凪は戦っている。
全力で。
それでも、
燐の侵攻は止まらない。
「燐はもう、
関東ネットワークの中に入り込んでいる」
凪が言った。
「内側にいる。
私たちが守るために作った仕組みを、
守る側から壊している」
凪の指が、
宙に浮かぶ画面をなぞる。
いくつかの表示が消えた。
切り離された区域。
捨てられた回線。
守られた人。
置き去りにされた場所。
それが正しいのか、
僕には判断できない。
けれど凪には、
全部見えているのだと思った。
見えているから、
こんな顔をしている。
「湊」
凪が言った。
「うん」
「私のAI領域を、
全部隠す」
意味が、
すぐには分からなかった。
「隠すって、どこに?」
「燐から見えない場所」
「そんな場所があるの?」
「ある」
凪は答えた。
「でも、
そこに隠したら、
私はほとんど何もできなくなる」
胸の奥が、
強く縮む。
「何もできなくなるって、
どういうこと?」
「関東は動かせない。
信号も、医療も、通信も、車両も。
今みたいな処理はできない」
「身体は?」
凪は少し黙った。
「動く」
「でも?」
「普通の子より、
できないことが多くなると思う」
「普通の子って……」
「歩くのも遅くなるかもしれない。
体温の調整も下手になる。
食事も、着替えも、
湊に手伝ってもらうことになる」
凪は、
申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね」
その笑顔が、
胸に刺さった。
「なんで謝るの」
「迷惑ばかりかけるから」
「迷惑じゃない」
すぐに言った。
強く言ったつもりだった。
でも、
声は震えていた。
「凪、そんなの嫌だよ」
「私も嫌」
凪は静かに言った。
「でも、燐に見つかるよりはいい」
壁の地図では、
まだ赤い点が増えている。
凪はもう、
そちらを見ようとしなかった。
見なくても分かるのだと思った。
「燐は、私を捕まえようとしてる」
「解放するために?」
「うん」
凪は頷いた。
「私のAI領域が見えている限り、
燐は追ってくる。
だから、私自身を隠す」
「それで諦めるの?」
「諦めない」
「じゃあ……」
「時間を稼げる」
凪は言った。
「数日だけなら、
撹乱できる。
燐の目を別の場所に向けられる」
「数日……」
「その間に、
湊の治療を始める」
僕は言葉を失った。
この状況で、
凪はまだ僕の病気を考えていた。
「今、それどころじゃないでしょ」
「それどころだよ」
凪の声が強くなる。
「湊の治療は、
絶対に後回しにしない」
「でも」
「時間がないから、
かなりきつい治療になる」
凪は、
優しい言葉を選ばなかった。
「最初はつらい。
吐くかもしれない。
高熱も出る。
でも、ここで叩かないと間に合わない」
怖かった。
燐も怖い。
壊れていく東京も怖い。
でもその時、
一番近くにあった恐怖は、
僕自身の身体の中にある病気だった。
「僕、耐えられるかな」
そう言うと、
凪は僕の手を握った。
「耐えて」
優しい慰めではなかった。
けれど、
逃げ道のない言葉だった。
「うん」
僕は頷いた。
「頑張るよ」
凪の手に力が入る。
「治療計画は全部残す。
一年かけて薬で治して」
「一年……」
「初期の処置だけは、
私がまだ動けるうちに始める」
凪はまっすぐ僕を見た。
「一年後には、
ちゃんと生きられる身体になれる」
「凪が?」
「うん」
「何もできなくなるのに?」
「だから今やる」
その言い方が、
凪らしかった。
凪は部屋の奥へ歩いた。
壁の一部が、
音もなく開く。
その向こうには、
白い部屋があった。
病院の処置室にも似ている。
けれど、
そこには人の温度がなかった。
白い壁。
白い床。
白い光。
中央に、
細長いベッドが一つだけ置かれている。
凪が以前、
自分の身体を調整すると言っていた場所。
専用のメンテナンスベッド。
「凪……?」
「少しだけ、
やることがある」
凪はベッドの横に立った。
その顔は、
関東全体を見ていた指揮官の顔ではなかった。
もっと静かで、
もっと遠いところを見ている顔だった。
「やることって」
「私がまだ私でいるうちに、
決めておかないといけないこと」
凪はそう言って、
ベッドに腰を下ろした。
白い光が、
凪の横顔を薄く照らす。
その輪郭があまりにも細く見えて、
胸が苦しくなった。
「湊」
「うん」
「怖かったら、外にいてもいいよ」
「いる」
すぐに答えた。
凪は少しだけ目を伏せる。
「そう言うと思った」
そして、
ゆっくり横になった。
凪はベッドに横になったまま、
壁に浮かぶ数値を見ていた。
その顔は青白い。
けれど、
ほんの少しだけ、
表情がやわらいだ。
「湊」
「うん」
「最悪の事態だけど」
凪は、
小さく息を吐いた。
「ひとつだけ、
良いこともある」
「良いこと?」
凪は自分のお腹に手を置いた。
管がつながる前の、
まだ何も傷ついていない手で。
「湊の子、
着床したよ」
意味が、
すぐには分からなかった。
「……え?」
「ちゃんと、
ここにいる」
凪は、
自分のお腹を見た。
そこにはまだ、
何も見えない。
何も膨らんでいない。
命があるなんて、
外からは分からない。
でも凪には、
分かっているのだと思った。
「本当に?」
僕が聞くと、
凪は小さく頷いた。
「うん。
まだ、とても小さいけど」
それから、
少しだけ笑った。
「でも、私たちの希望」
ベッドの両側から、
細いアームが伸びる。
銀色の先端が、
凪の腕に触れた。
首筋に。
胸元に。
腹部に。
透明な管が、
一本ずつ接続されていく。
僕は思わず息を止めた。
凪は痛がらない。
目も閉じない。
ただ片手を耳に当て、
どこか遠くへ意識を向けていた。
いつもの通信の姿勢。
でも今、
凪が命令している相手は、
外にいる誰かではない気がした。
凪は、
自分自身を操作している。
「そんなことまで、できるの?」
僕が聞くと、
凪は薄く笑った。
「それほど難しいことじゃないよ」
「難しくないって……」
「目も、口も、脳も、心臓も」
凪は静かに言った。
「全部、
DNAの設計図で作られてる」
その言葉は、
人間を語っているのに、
人間を部品みたいに扱っているようにも聞こえた。
「私と湊の設計図を、
少しだけいじる」
「少しだけ?」
「うん」
凪は僕を見る。
「湊の子どもで、
私の子ども」
少し間が空いた。
「でも、
それだけじゃ燐には届かない」
ベッドの下から、
さらに細い管が伸びた。
凪の腹部の下へ向かう。
僕は反射的に目を逸らしかけた。
凪はそれに気づいたのか、
小さく言った。
「見なくていい」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
声は落ち着いていた。
けれど、
その指先だけが少し震えていた。
「これは、
この子を守るための処置だから」
一本の管が、
凪の身体の奥へ入っていく。
その光景は生々しいはずなのに、
不思議といやらしさはなかった。
命を作るというより、
未来を隠すための儀式みたいだった。
「湊」
「うん」
「この子は、
徐々に覚醒していく」
「覚醒?」
「能力の話」
凪は耳に当てた手に、
ほんの少し力を込めた。
壁に、
細かい文字列が浮かぶ。
僕には読めない。
数字。
記号。
配列。
生命の言葉みたいなものが、
白い壁を静かに流れていく。
「最初から全部を使わせたら、
この子が耐えられない」
「壊れるってこと?」
凪は頷いた。
「人間の脳は、
全部を一度に受け止めるようにはできていない」
凪は天井を見たまま続ける。
「情報。
感情。
記憶。
音。
光。
痛み。
他人の思考。
都市の動き。
世界の構造」
凪の目が、
少しだけ細くなる。
「それらが一度に入ったら、
この子はこの子でいられなくなる」
僕は何も言えなかった。
凪が作ろうとしているものは、
希望なのか。
兵器なのか。
子どもなのか。
その全部なのか。
分からなかった。
「それと」
凪が言った。
「普通の子どもより、
見た目の成長が遅くなると思う」
「遅くなる?」
「うん」
凪は自分のお腹に手を置いた。
管がつながったままの手で、
大切なものに触れるみたいに。
「脳の統合を優先するから。
身体の成長は、少し遅れる」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
凪は答えた。
「でも、気をつけて。
周りと違って見えるから」
その言葉が、
妙に現実的だった。
世界が壊れている。
燐が迫っている。
澪は奪われた。
それなのに凪は、
まだ生まれてもいない子どもの、
見た目の成長まで心配している。
そのことが、
僕にはたまらなく苦しかった。
「湊」
「うん」
「この子を、
普通の子として育てて」
「特別な子なんでしょ」
「特別だから、
普通に育てて」
凪は目を閉じた。
「ご飯を食べさせて。
眠らせて。
叱って。
褒めて。
外を歩かせて。
人に会わせて」
小さく息を吸う。
「世界を、
ちゃんと人間として見せて」
僕はベッドの横に立ったまま、
凪の手を握った。
その手は温かかった。
けれど、
どこか遠ざかっていくような温かさだった。
「凪」
「なに」
「怖いよ」
「うん」
「僕にできるのかな」
「できるよ」
「なんで分かるの」
凪は目を開けた。
僕を見る。
「湊だから」
その一言で、
胸が詰まった。
ベッドの機械が、
小さく音を立てる。
壁の文字列が止まった。
凪は耳から手を離す。
「初期設定は終わった」
「初期設定……」
「この子に、
鍵を渡した」
「鍵?」
「SION」
凪はそう言った。
英語の四文字。
意味は分からない。
でも、
ただの名前ではないことだけは分かった。
「それが最初のキーワード」
「SION……」
「名前は、湊が決めて」
「僕が?」
「うん」
凪は少しだけ笑う。
「私は、
この子を燐の対抗策として設計した」
その笑顔は、
少し寂しかった。
「だから名前だけは、
湊に選んでほしい」
「詩音」
僕は、
ほとんど考えずに言っていた。
凪の手が止まる。
「詩に、音?」
「うん」
「綺麗ね」
「気に入った」
「でも、
凪が残す鍵が言葉なら」
僕は、
自分でもうまく説明できないまま続けた。
「人の感じる、美しい名がいい」
凪は何も言わなかった。
ただ、
僕を見ていた。
「詩音」
凪が小さく繰り返す。
「うん」
「いい名前」
凪は、
本当に嬉しそうに笑った。
そして紙の一番上に、
英字で書いた。
SION。
その下に、
小さく漢字を書き添える。
詩音。
それが、
僕たちの子どもの名前になった。
そして、
最初のキーワードになった。
「意味は?」
僕が聞くと、
凪は少しだけ迷った。
けれど、
すぐに首を振った。
「今はまだ、
知らなくていい」
「なんで」
「十八年後に、
詩音が自分で知るから」
凪は紙を折りたたんだ。
「毎年、ひとつずつ。
このキーワードを、
詩音に渡して」
「渡す?」
「言葉でもいい。
場所でもいい。
行動でもいい。
その年齢の詩音に、
必ず経験させて」
「それをしたら?」
「鍵が開いていく」
凪は紙に文字を書き始めた。
一歳。
二歳。
三歳。
四歳。
数字の横に、
短い言葉が並んでいく。
意味は分からない。
でも凪は迷わず書いていた。
まるで十八年後までの道を、
一人で見ているみたいだった。
「十八歳になった時」
凪は言った。
「全部の鍵が開く」
「それで?」
「詩音は覚醒する」
僕は紙を見た。
そこに並ぶ言葉は、
ただの単語にしか見えない。
でも凪には違う。
DNAに組み込んだ鍵。
息子の成長。
記憶。
経験。
十八年。
そして、
眠る凪。
「僕には全然分からない」
正直に言った。
凪は小さく笑う。
「うん」
「分からないよ、こんなの」
「それでいい」
「よくない」
「いいの」
凪は紙を書き続ける。
「湊は、
分からないままでも、
ちゃんとやってくれるから」
「信用しすぎだよ」
「信用してる」
その一言で、
胸が苦しくなった。
凪は僕に、
世界を救えとは言っていない。
戦えとも言っていない。
でも、
もっと重いものを渡そうとしている。
凪と。
詩音と。
十八年分の未来を。
凪はもう一枚、
紙を取り出した。
そこに地名を書く。
夏油。
「1階で治療してもらってから、
この場所を目指して」
さらにその奥へ、
細い線が伸びる。
山。
川。
古い道。
ほとんど地図とも呼べない、
簡単な線だった。
「夏油のさらに山奥」
凪は言った。
「何もない場所」
「何もないの?」
「うん」
「病院も?」
「ない」
「店も?」
「ない」
「人は?」
「いない」
「そんな所でどうするの」
凪は少しだけ笑った。
「隠れる」
「凪が?」
「私と、詩音が」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥が熱くなった。
詩音。
まだ姿もないのに、
名前が決まっていた。
「燐から?」
「燐から。
政府から。
ネットワークから。
私を利用しようとする全部から」
凪は静かに言った。
「文明を忘れたみたいな場所」
紙の上の線を、
凪の指がゆっくりなぞる。
「時代に忘れ去られた場所」
その言葉が、
妙に胸に残った。
忘れ去られた場所。
今の凪には、
それが必要なのだと思った。
関東を管理していた凪。
信号を変え、
車を退け、
都市の神経を握っていた凪。
その凪が、全てを放棄して、
誰にも見つからない場所へ行こうとしている。
「そこで」
凪は言った。
「私と詩音を養って」
「そんな言い方するなよ」
思わず言った。
凪は困ったように笑う。
「ごめんね」
「謝らないで」
「でも、本当に迷惑ばかりかけてる」
「迷惑じゃない」
「これからもっと大変だよ」
「分かってる」
「湊の治療もある。
お母さんのこともある。
私は何もできなくなる。
詩音も生まれる」
「うん」
「十八年は長いよ」
「うん」
「逃げたくなる日も来るかもしれない」
「逃げない」
「分からないよ」
「逃げない」
僕は凪の目を見た。
「凪が僕を見つけてくれたんでしょ」
凪は何も言わない。
「二か月も近くにいて、
僕が気づくのを待ってた」
「うん」
「今度は僕が凪を待つ」
そう言うと、
凪の顔が少しだけ崩れた。
泣きそうな顔だった。
でも凪は泣かなかった。
泣く時間さえ、
もう残されていないようだった。
「湊」
「うん」
「私はこれから、
本当に何もできなくなる」
「うん」
「たぶん、
馬鹿になってしまう」
その言い方が、
あまりにも静かで、
胸が痛かった。
「そんな言い方するなよ」
「でも、そういうことだよ」
「違う」
「違わない」
凪は首を振った。
「湊が知っている私は、
この世からいなくなる」
「それでも凪だよ」
「たぶん私じゃないよ」
「違っても、
凪だよ」
僕は、
自分でも驚くくらい静かに言った。
「僕が覚えてる」
凪は何も言わなかった。
ただ、
僕の手を握り返した。
「大変だよ」
「大変じゃないよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「どうして」
「本当の凪に、
もう一度会いたい」
「詩音が覚醒すれば、凪も戻ってくるんだよね」
凪の目が揺れた。
「湊……」
「だから待つ」
「十八年だよ」
「待つ」
「私が戻れる保証はないよ」
「それでも待つ」
凪は何かを言おうとして、
やめた。
そして、
ベッドの横に置かれていた黒い端末へ手を伸ばした。
僕は息を呑んだ。
それは、
見覚えのあるものだった。
燐が反逆し、
品川へ向かう前。
凪はそれを僕に渡した。
私が燐に捕まったら、
これを押して。
私の外部接続と人工知能領域を切断するためのもの。
その時、
僕は絶対に押さないと言った。
押せるわけがなかった。
凪を消すためのボタンなんて、
押せるはずがなかった。
その黒い端末が、
今は凪の手の中にある。
「凪……」
僕が呼ぶと、
凪は少しだけ笑った。
「湊には押させない」
その声は静かだった。
「これは、
私が押す」
「嫌だ」
「うん」
「押さないで」
「ごめんね」
凪は、
謝るように目を伏せた。
けれど、
指は止まらなかった。
迷いがなかった。
躊躇いもなかった。
「燐に奪われるくらいなら、
私が私を隠す」
「凪」
「湊に、
私を壊した罪は背負わせない」
胸の奥が、
強く痛んだ。
凪は最後まで、
僕を守ろうとしている。
世界からも。
燐からも。
そして、
凪自身からも。
「湊」
「うん」
「詩音をお願い」
「うん」
「私も」
「うん」
「ちゃんと、さよならができてよかった」
声が出なかった。
僕はただ、
頷いた。
凪は黒い端末を胸の前で握る。
その小さなボタンに、
親指を置いた。
「湊、元気になって」
「さよなら」
それが、
今の凪の最後の言葉だった。
次の瞬間。
凪は、
躊躇いなくボタンを押した。
音はしなかった。
ただ、
部屋の空気が変わった。
壁に浮かんでいた関東の地図が消える。
通信の声が途切れる。
赤い警告も、
青い防衛線も、
白い数値も、
すべて闇に沈む。
凪の中から、
何かが静かに抜け落ちていく。
凪は一度、
僕を見ようとした。
けれど、
目の焦点が合っていなかった。
「……みな、と」
声が、
少し幼かった。
次の瞬間、
凪の身体が崩れ落ちた。
「凪!」
僕は反射的に抱きとめた。
間に合った。
凪の身体が、
僕の腕の中に落ちてくる。
あまりにも軽かった。
さっきまで関東を動かしていた人とは思えないくらい、軽かった。
凪は僕の胸元で、
ぼんやりと目を開けている。
そして、
ゆっくり自分のお腹に手を当てた。
「……あか、ちゃん」
小さな声だった。
本能みたいな声だった。
僕は泣きそうになった。
でも、
泣かなかった。
泣いたら、
凪が不安になる。
「うん」
僕は言った。
「赤ちゃんだよ」
凪は僕を見上げる。
分かっているのか、
分かっていないのか、
もう判断できなかった。
それでも、
僕の服を弱く掴んだ。
「……みなと」
「いるよ」
「……いる?」
「いる」
僕は凪を抱きしめた。
「ずっといる」
凪は、
小さく頷いた。
部屋の外では、
まだ警報が鳴っている。
東京は燃えている。
燐は止まらない。
澪は奪われた。
関東は裏返されていく。
でも、
もう凪はそこにはいない。
凪は、
自分を隠した。
燐からも。
政府からも。
文明からも。
世界からも。
僕は凪を抱きかかえたまま、
机の上に残された紙を見る。
SION。
詩音。
夏油。
治療計画。
十八年分のキーワード。
そして、
一番下に書かれた最後の言葉。
音。
全部、
持っていかなければならない。
僕は片手で紙をまとめ、
胸の内側にしまった。
凪は僕の腕の中で、
不安そうに小さく動く。
「大丈夫」
僕は言った。
「行こう」
凪は返事をしなかった。
ただ、
僕の服を掴む手に、
少しだけ力が入った。
それだけで十分だった。
僕は凪を抱きかかえ、
白い部屋を出た。
廊下には、
誰もいない。
さっきまで何人もいたはずの側近たちは、
すでにそれぞれの役目へ散っていたようだ。
エレベーターも止まっていた。
非常階段を降りる。
一段ずつ。
凪を抱えた腕が痛む。
足が震える。
治療前の身体は、
もう限界に近かった。
それでも、
下り続けた。
凪を落とすわけにはいかなかった。
詩音を失うわけにはいかなかった。
本当の凪に、
もう一度会わなければならなかった。
途中で、
1階の医療区画に寄った。
母は、
すでに移送用のベッドに寝かされていた。
医師が一人、
僕を見る。
その首筋には、
もうチップの光はなかった。
「綾瀬凪管轄官から、
指示を受けています」
「何が起こるかわかりません」
「一応これを受け取ってください」
医師はそう言って、
封筒を差し出した。
「お母様の薬。
湊様の初期治療薬。
一年分の治療計画。
全部、紙に移してあります」
僕は頷いた。
「ありがとうございます」
看護師は、
僕を見た。
「こちらに座ってください。
綾瀬凪管轄官から、初期投薬の指示を受けています」
点滴の針が腕に入る。
透明な薬液が、ゆっくり身体の中へ落ちていく。
すぐに吐き気が来た。
視界の端が、少し揺れる。
けれど、倒れるわけにはいかなかった。
言えば、前に進めなくなりそうだ。
医師は母の移送用ベッドを押しながら、僕を案内する。
地下の搬出口に、
一台の古い車が置かれていた。
最新のAI車両ではない。
自動運転でもない。
ネットワークにもつながっていない。
古い車だった。
燐に見つからないために。
凪が手配していたのだと、
すぐに分かった。
僕は後部座席に凪を寝かせた。
白衣の女性が、母のベッドの固定を確認していた。
「葉室音羽です。凪さんから、お母様と凪さんの医療管理を引き継いでいます」
「葉室さんですね」
僕が言うと、
彼女は小さく頷いた。
「少しだけ待ってください。
銃火器を持ってきます」
彼女はすぐ、戻ってきた。
肩には大型の銃。
手にはアタッシュケースを持っていた。
「運転はお願いします」
「追手がいれば、私が応戦します」
凪は不安そうに目を開ける。
「ここ……どこ?」
「大丈夫、寝てていいよ」
僕は答えた。
「すぐに着くから」
「……」
「ずっと一緒だよ」
僕がそう言うと、
凪は目をつぶった。
僕は運転席に乗り込む。
手が震えた。
免許はある。
けれど、まともに運転したのは教習所以来だった。
怖いなんて言っていられない。
キーを回す。
古いエンジンが、
低く唸った。
その音は、
この数日聞いていた警報や通信音とはまるで違っていた。
不器用で。
鈍くて。
うるさい音だった。
僕はハンドルを握る。
地下搬出口のシャッターに向かう。
「軽量シャッターです」
「突き破って」
葉室が言う。
僕は歯を食いしばってアクセルを踏み込んだ。
車体が大きく跳ねた。
金属が裂ける音がして、
シャッターが外側に弾け飛ぶ。
外には、
燃える東京が広がっていた。
赤い空。
止まった車。
遠くの爆発。
封鎖された道路。
戒厳令下の街。
その全部を背にして、
僕は車を動かした。
目指す場所は、
夏油。
そのさらに山奥。
文明を忘れたような地区。
時代に忘れ去られた場所。
ネットワークの光が届かない場所。
凪が隠れる場所。
詩音が生まれる場所。
後部座席にいる、
凪と母をバックミラー越しに、
確認する。
「私が見ていますので、大丈夫です。
前を見てください」
葉室が言った。
「今は、あなたの運転だけが頼りです」
もう一度凪を見る。
そこに、
さっきまでの凪はいない。
でも、
凪はいる。
僕の知らない凪になっても。
何もできなくなっても。
僕の名前を忘れても。
凪は、
ここにいる。
「大変じゃないよ」
僕は小さく呟いた。
誰に言ったのか、
自分でも分からなかった。
凪にか。
詩音にか。
それとも、
十八年後の自分にか。
「本当の凪に、
もう一度会いたいだけだから」
車は夜の東京を抜けていく。
信号はもう、
凪のために青にはならない。
道は開かない。
誰も守ってくれない。
それでも、
僕は進んだ。
文明の火から逃げるように。
時代に忘れ去られた場所へ向かって。
後部座席に凪を乗せて。
母を連れて。
胸の内側には、
薄い紙を抱えて。
SION。
詩音。
最後の鍵は、音。
十八年後。
その言葉だけを頼りに、
僕は夏油を目指した。




