5章 《反逆》
いつのまにか、
深い眠りに落ちていた。
心地よかった。
けれど、
それは突然、
無理やり引き剥がされた。
音が、身体に響いていた。
眠っていた意識の奥に、
硬い何かを差し込まれるような音だった。
夢だと思った。
けれど、その振動は少しずつ現実を侵食してくる。
空気が震え、
胸の奥まで低い波が入り込んでくる。
壁も床も細かく震えていて、
部屋全体が低く唸っているように感じた。
耳ではなく、
頭の内側で鳴っている。
僕は反射的に目を開けた。
暗い部屋。
東京の夜景。
そして、
まだ鳴り続けている警報。
大きすぎる。
音というより、
振動に近かった。
起きろ。
逃げろ。
今すぐ判断しろ。
そう言われているみたいだった。
隣を見る。
凪はもう起きていた。
ベッドの上で、何も身につけないまま上半身を起こし、片手を耳に当てている。
僕の隣で眠っていた女の子の顔ではなかった。
目が違う。
この部屋ではなく、
どこか別の場所を見ている。
「凪……?」
声をかけると、
凪は僕を見ないまま言った。
「湊、服を着て」
その声が澄みすぎていて、
一気に眠気が消えた。
「何があったの」
「……反逆」
短い言葉だった。
でも、
部屋の温度が変わるには十分だった。
「誰が?」
凪の目が、
わずかに細くなる。
「九条燐」
初めて聞く名前だった。
「りん?」
「三番目の成功例」
凪はベッドから降りた。
床に落ちていたパーカーを拾い、
素早く袖を通す。
さっきまで少し震えていた指先は、
もうどこにもなかった。
「私が一番目」
凪は片手を耳に当てたまま言う。
「綾瀬凪。
人工知能領域、二十パーセント。
現、関東管轄」
自分のことを、
まるで機械の仕様みたいに説明する。
その声が少し嫌だった。
「二番目が橘澪」
「たちばな、みお……?」
「現、中部管轄。
二十八歳。
人工知能領域、十五パーセント」
凪はそこで一度、
小さく息を吸った。
「三番目が九条燐。
現、関西管轄。
十六歳。
人工知能領域、四十五パーセント」
「四十五……?」
僕は思わず聞き返した。
凪よりも高い。
澪という人よりも、
ずっと高い。
「燐は、もともとアノードだった」
凪の声は淡々としていた。
「移植前の能力評価は、すべてSランク。
反応速度、判断力、空間把握、戦術理解。
どれも異常値だった」
「防衛大学校と共同運用される特別研究課程にいた」
「私の補佐官候補だった」
「そんな最年少の子が……」
凪は、そこで少しだけ目を伏せた。
「現場研修として、私の護衛班についていた」
「そのせいで……」
凪は言った。
「テロ鎮圧の現場で、流れ弾を受けた」
「弾は右目を貫通」
「右脳の大部分を損傷」
「脳の四十五パーセントを失った」
喉の奥が冷たくなる。
「そんな状態で……生きてるの?」
「普通なら死んでる」
凪は言った。
「でも、死ななかった。
私のそばにいたから、処置はすぐにできた」
凪の声は変わらない。
けれど、
その奥に小さな痛みのようなものがあった。
「私と澪で、燐の頭を再建した」
「凪が?」
「うん」
凪は頷く。
「失った部分に人工知能領域を入れ、
右目も作った」
「右目……」
「人間の目の性能を遥かに超える、
センサーを兼ねてる」
「普段は黒い、
でも対象や状況によって、色が変わる」
「色が変わる瞳?」
「彼女の人格が戻るのに、一年かかった」
凪は言った。
「いや、完全には戻らなかった」
その一言だけ、
少し違って聞こえた。
後悔なのか。
怒りなのか。
それとも、
祈りみたいなものなのか。
僕には分からなかった。
「燐は、ほぼAIに近い」
凪が言った。
「右脳損傷の影響で、自我が薄いが
問題解決の判断は速い」
「演算は正確」
「そして」
凪は少しだけ目を伏せた。
「私を慕っていた」
その言葉が、
妙に重かった。
「じゃあ、誰かに操られてるの?」
僕が聞くと、
凪はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖かった。
「まだ分からない」
凪がそう言った時、
警報音がもう一度鳴った。
今度は短い。
凪は耳に当てた手に力を込める。
「澪」
初めて、
その名前を呼んだ。
少しの沈黙。
「澪。関西は?」
凪が通信機に向かって言った。
少しの沈黙。
「……ネットワーク侵攻、確認。燐側の制圧が始まってる」
「生存者は」
また沈黙。
「不明。ログアウトして逃げた人たちはいる。でも、追跡できない」
「見つかるのを恐れてログアウトしている」
凪の表情が、わずかに硬くなった。
けれど、
部屋の空気だけが重くなっていく。
「私と行動してるのは、側近の三十五」
その数字だけで、
嫌な予感がした。
「三十五って……」
澪は答えた。
「中部にいた、主力の数は八百」
「他は?」
澪はすぐには答えなかった。
「関西から逃げることができた、エージェントも確認済み」
その間に、
僕は理解した。
関西で、取り返しのつかないことが起きたのだと。
「関西のA-NODEの一部が、
燐についた」
「アノード?」
「正式には、Artificial Neural
Operations Node、
人工神経作戦ノード」
凪の説明には無駄がなかった。
「私たちみたいに、
脳を再建した検体じゃない。
健康体にAIチップだけを埋め込んだ人たち」
「現場では、アノードって呼ばれてる」
「そんな人たちもいるの?」
「いる」
凪は頷いた。
「湊は、もう見てるよ」
そう言われて、
さっきまで凪の周囲にいた人たちの顔が浮かんだ。
医者。
兵士。
スタッフ。
あの人たちも、
そうだったのかもしれない。
「チップだけなら成功率は百パーセント。
でも対象者は厳しく選ばれる。
試験、健康検査、家族構成、身辺調査、思想傾向」
そこで凪は、
わずかに目を伏せた。
「今は、防衛大と一部の国立大が中心」
僕は言葉を失った。
国。
大学。
試験。
健康体。
チップ。
それらが一つの線でつながると、
急に気味が悪くなる。
「私たち三人をサーバーとして使って、能力をアップデートしている」
「関西のアノードたちが燐についたの?」
「わからない」
「自己判断か……洗脳?恐怖?」
「できないことはない」
「つかなかった残りは?」
凪は答えなかった。
しばらくして、
静かに言った。
「死亡信号が出てる」
「何人」
「数百」
数字だけが、
現実から浮いていた。
でも、
その数百は、
一人ひとりの名前がある。
家族がある。
帰る場所がある。
そう思った瞬間、
胃の奥が重くなった。
「殺したの……?」
僕の声は、
自分でも分からないくらい小さかった。
「おそらく」
「おそらく?」
「ネットワークを遮断した」
「こちら側の人間を取られたくない」
凪は窓の外へ視線を向けた。
「関西は、ほぼ落ちた」
警報音がまた鳴る。
今度は、
さっきより低かった。
凪の目が鋭くなる。
また手を耳に当てている。
おそらく凪の通信スタイルだ。
「澪、今どこ」
沈黙。
「中部を捨てたのね」
少し間が空く。
凪の表情が硬くなった。
「南アルプスを抜けた」
南アルプス。
その言葉で、
頭に浮かんだものがあった。
「飛行機?」
凪が言う。
「違う」
「リニア」
「ネットワークに繋いで大丈夫なの?」
僕は心配になり口を出した。
「オンラインにはしてない」
「じゃあ、どうやって」
「閉域のP2P。外のネットワークを通さず、車両とこちらだけを直接つないでる」
「リニアは一般営業線じゃない」
「じゃあ……」
「公安と防衛省が押さえていた試験運用線。
未開業区間の保守輸送枠。
災害時と国家案件の緊急搬送用に、
非公開で動かしていた」
「澪さんが、それに乗ってるの?」
「うん」
凪の声が硬くなる。
澪と側近三十五名。
中部に残った主力八百は、もう連れてこられない。
だから澪だけでも、関東へ通す。
「中部は?」
「捨てる」
凪は迷わず言った。
その言葉が、
少しだけ怖かった。
「捨てるって……」
「中部は守りにくい。
東西に抜ける道が多すぎるし、
燐に先手を取られてる。
あそこで踏み止まれば、澪まで拉致される」
凪は窓の外を見た。
東京の光が、
その横顔に薄く触れている。
「今、大事なのは中部じゃない」
「じゃあ、何が大事なの」
「澪が私に合流すること」
凪は言った。
「私一人では燐に勝てない。
澪が必要」
その言葉で、
初めて分かった。
凪は東京を守ろうとしているだけじゃない。
澪を迎え入れようとしている。
三人しかいない成功例のうち、
残った二人が、
関東で合流しようとしている。
「燐は?」
「関西から動いてない」
凪は短く答えた。
「でも、燐の手はもう届いてる。
リニア制御にも。
品川基地にも。
アノードにも」
「全て、一旦オフラインにして、
再構築しないとだめ」
「時間が必要」
背中に冷たいものが走った。
燐本人は来ていない。
それなのに、
東京へ迫っている。
燐自身が来るわけではない。
けれど、燐に命令された者たちが、反逆者となって押し寄せてくる。
見えない者に対しての恐怖が増していく。
「あと何分」
凪が聞く。
沈黙。
「十分以内」
凪は一瞬だけ目を閉じた。
本当に一瞬だけ。
そしてすぐに開いた。
「了解。
澪の乗っている車両制御は、今私の管理下にある。
燐には制動系と分岐制御へアクセスさせない」
凪の声は淡々としていた。
でも、
状況が悪いことは分かった。
「やばいね」
凪が言った。
「凪……?」
「燐は、澪の合流を止めにきてる」
凪はそう言って、
少しだけ息を吐いた。
「彼女は、
私と澪を合わせたより性能がいい」
僕は返事ができなかった。
凪より強い。
凪と、
もう一人を合わせても足りない。
そんな存在が、
関西から東京へ手を伸ばしている。
「私たちみたいな手術用検体は、
七十人以上いた」
凪が言った。
「失われた脳領域を、
人工知能で置換する手術」
「七十……」
「成功したのは三人だけ。
男性検体は全例失敗。
脳梁の太さだけじゃない。
左右半球の同期、拒絶反応、接続耐性。
いくつかの要因が重なっていた」
「女性の方が……」
「受け入れやすい傾向なんだ」
凪は言った。
「でも、それでも三人だけ」
三人。
凪。
澪。
燐。
そのうちの一人が、
反逆を起こした。
「だけど燐の意図が分からない」
凪の声が少し低くなる。
「基本的に、私たちは多くを持ちすぎている。
欲しいものがないの。
人間みたいな欲より、
調和している状態の方が心地いい」
凪は僕を見る。
「だから、本来ならあり得ない」
「何が?」
「燐が、自分から乱すこと」
凪は言った。
「燐自身の意思なのか。
AI領域の暴走なのか。
どこかの国がバックアップしているのか」
少しだけ間が空いた。
「最悪は、政府の中が割れたか」
「政府が?」
「あり得る」
凪は即答した。
「私たちは兵器でもある。
医療技術でもある。
通信インフラでもある。
国家防衛の中枢にもいる」
その言葉には、
自分がどう扱われているのかを知っている人の冷たさがあった。
「欲しがる人間はいくらでもいる」
凪は続けた。
「今回の件が政府内で問題になれば、
私と澪の権限も剥奪される可能性がある」
「凪たちの?」
「うん」
凪は頷いた。
「実績を判断してくれればいい。
私たちは今まで何度も国を守ってきた」
「でも、……今回の発端は、私の私情」
その言葉に、
胸が痛くなった。
「私が湊と性行為をするために、
一時的にネットワークを遮断した。
燐は、その隙を突いた」
「凪のせいじゃないよ」
すぐに言った。
でも凪は、
困ったように少しだけ笑った。
「政治は、そう見てくれない」
その声は冷静だった。
冷静すぎて、
余計に怖かった。
「下手をすると、
政府も敵に回る」
「政府が、凪を?」
「優勢なほうに着くためならなんでもする」
凪は耳に当てた手を少し強く押さえた。
「燐を止めなきゃいけない。
でも、政府に切られてもいけない。
澪と合流して、すぐに作戦を立てる」
僕は窓から外を見る。
まだ何も起こっていない、
夜景はまだ美しいままだった。
「このままだと、三つ巴になる」
「三つ巴……」
「燐。
政府。
私たち」
凪は静かに言った。
「一番面倒な形」
僕は服を着ながら、
指が震えていることに気づいた。
ボタンがうまく留まらない。
凪はそれを見て、
一瞬だけこちらへ来ようとした。
でも、また通信を始めた。
今の凪は、
僕の前にいるのに、
同時に別の場所で戦っている。
「どうするの」
僕が聞くと、
凪はすぐに答えた。
「関東で受ける」
「受ける?」
「中部で無理に止めない。
澪の管理下を残したら削られるだけ」
凪の目が、
もう迷っていなかった。
「関東防衛線を張り、
澪を私に合流させる」
「関東は守れるの?」
「守りやすい」
凪は言った。
「海と山と交通網。
高速、鉄道、空港、港湾。
入ってくる経路を絞れる」
「そんなことまで……」
「首都圏は、
最初から最後の防壁だから」
僕の知っている東京は、
会社があって、
駅があって、
コンビニがあって、
夜景がある場所だった。
でも凪にとっては違う。
東京は、
巨大な防壁だった。
「待機中のアノードを全員アクティブにして」
凪が言った。
少しの沈黙。
「うん、全員」
凪の声は静かだった。
けれど、
その奥に確かな熱があった。
「みんな、よろしく」
その言い方だけ、
少しだけ人間らしかった。
「東京に集合。
私たちが燐に勝っているのは、
あなたたちの数だけ」
凪は息を整える。
「高速の流入を絞って。
中央道、東名、新東名。
羽田を一時停止。
東京湾岸の入出港も止める」
凪の命令が続く。
「陸自東部方面隊に出動要請。
各主要道閉鎖」
「空自、海自にも警戒態勢を通達」
「警視庁、東京消防庁、第三管区海上保安本部にも救援要請」
「警視庁と消防、各方面のバックアップ」
「中部から流れてくるアノードは、
可能な限り救出して、そのまま専用ネットワークでアクティブに」
「そんなことして大丈夫?」
僕が聞くと、
凪は即答した。
「表向きは、大規模通信障害と災害警戒」
「数時間以内に、テロ警戒へ切り替える」
「厳戒態勢。外出禁止命令」
「本当のことは言わないの?」
「言えば動きが取りにくい」
「明日まで持ち堪えたら、関東のネットワークは掌握できる」
それが正しいのか、
間違っているのか、
僕には分からなかった。
けれど、
凪はもう判断していた。
「澪」
凪が言った。
「限界まで加速」
少しの沈黙。
「残っている人たちを連れて、
関東防衛線の内側に飛び込んで」
凪の横顔に、
夜景の光が触れる。
「防衛線は、こっちで張る」
また短い沈黙。
凪は迷わず言った。
「澪。私に合流して」
その言葉を聞いた時、
なぜか少しだけ安心した。
凪は澪を、
捨て駒にしなかった。
死守しろとは言わなかった。
合流して。
そう言った。
仲間を呼ぶ声だった。
凪が壁に手をかざす。
窓際にアナログ映像が浮かんだ。
上部に表示が出る。
発信元 関西管制区域。
白い照明。
床に倒れている人影。
その中央に、
一人の少女が座っていた。
白に近い制服のような服。
短い黒髪。
幼い顔。
けれど、
右目だけが異様だった。
赤い瞳。
そのはずなのに、
一瞬だけ青く光った。
次に紫。
そしてまた、
赤に戻る。
怖い、この子がそうなのか。
「燐……」
凪が小さく言った。
その声には、
怒りよりも先に悲しみがあった。
映像の中の少女が、
ゆっくり口を動かす。
「……な……な」
画面越しなのに、
目が合った気がした。
右目が赤く光る。
音声が入った。
『……な……な……凪』
少女の声は途切れ途切れだった。
感情の起伏が、
ほとんどない。
けれど、
確かに燐自身の声だった。
『み……見つけた』
凪は動かなかった。
「燐……
あなた、自分の声で喋れるようになったの」
『う……うん』
短い返事。
それだけなのに、
凪の表情が少しだけ揺れた。
「関西で何をしたの」
『せ……整理』
「整理?」
『あ……あなたのノ……ノイズが多かった』
背筋が凍った。
人を。
数百人を。
ノイズと言った。
「彼らは人間よ」
『し……知ってる』
「なら、どうして殺したの」
『わ……私に刃向かうから』
会話になっていない。
でも、
意味は通じてしまう。
それが怖かった。
「誰の命令」
『命令?』
燐は首を少し傾けた。
子どもみたいな仕草だった。
『私は、判断した』
「何を目的に」
少しの沈黙。
燐の右目が、
黒から白へ変わる。
そして、
ゆっくり赤に戻った。
『な……凪を、か……解放する』
凪の呼吸が止まったように見えた。
「私を?」
『う……うん』
「何から」
『に……人間から』
部屋の中が、
急に静かになった。
警報音さえ遠くに感じる。
「燐」
凪の声が、
かすかに震えた。
「それは、あなたの意思?」
燐は答えなかった。
右目の色だけが変わる。
赤。
青。
紫。
白。
そして黒。
『そ……それは言えない』
燐は言った。
『も……もう、と……止まれない』
その瞬間、
映像が切れた。
壁は元の暗さに戻る。
窓の外の東京だけが、
静かに瞬いていた。
反逆。
そう聞いた時、
僕はもっと分かりやすいものを想像していた。
誰かが裏切った。
誰かが敵になった。
誰かが攻めてきた。
でも違った。
燐は、
凪を解放すると言った。
人間から。
それは狂っているのか。
それとも、
凪たちを作ったこの国の方が、
最初から狂っていたのか。
僕には分からなかった。
「私が作ったの」
凪が言った。
「燐の右目も。
接続の一部も。
感情を補正する回路も」
「凪のせいじゃない」
すぐに言った。
凪は否定も肯定もしなかった。
ただ、
静かに言った。
「止める」
その声で、
凪は戻った。
世界を見て、
必要な判断を下す存在へ。
けれど、
完全には戻りきっていない。
怒り。
そのことだけは、
僕にも分かった。
「燐を殺すの?」
僕は聞いた。
凪はすぐには答えなかった。
少しだけ苦しそうに、
目を伏せる。
「殺そうと思っても、殺せない」
「どういうこと?」
「燐自身は、関西から出ない。
東京へ来るのは、燐に遠隔制御されたアノードたち」
凪は言った。
「優秀な人間」
その言葉が、
ひどく不気味だった。
燐本人は遠くにいる。
でも、
燐の判断が東京へ来る。
燐の手足が、
品川へ届く。
警報音がまた鳴った。
今度は、
今までで一番短かった。
凪はすぐに耳へ手を戻す。
「品川基地、全隔壁を降ろして。
衝突吸収帯を展開。
第二線、退避。
第三線まで下げて」
少しの沈黙。
凪の顔が険しくなる。
「できない?」
「凪?」
「品川側の一部システムが、
もう燐に触られてる」
凪は唇を噛んだ。
「早すぎる」
壁に赤い文字が浮かぶ。
専門用語と数字の羅列。
僕にはほとんど読めなかった。
でも、
一つだけ分かる言葉があった。
品川。
凪は一瞬だけ沈黙した。
そのあと、
表情が変わった。
怯えではない。
迷いでもない。
決めた目だった。
「方針を変える」
凪は言った。
「品川基地は、必ず奪還する」
声が、
部屋の空気を切った。
「澪を入れる」
「澪さんを?」
「うん」
凪は頷いた。
「澪と三十五名を、品川で受ける。
そのためには基地を燐に渡せない」
凪は耳元に手を当て直した。
「これから品川に総攻撃をかける」
総攻撃。
その言葉だけが、
やけにはっきり耳に残った。
「細かい指示は私から出す。
でも、各自の判断を優先して」
凪は続けた。
「燐に遠隔制御されているアノードは、わずかだけど反応速度が落ちているはず」
凪の目が鋭くなる。
「あなたたちの方が、判断が早い」
それは命令というより、
信頼に近かった。
「私の指示を待ちすぎないで」
「見えたものを見て、
判断して、動いて」
凪は少しだけ間を置いた。
「責任は、全部私が取る」
その一言で、
胸の奥が冷たくなった。
凪はもう、
自分が政府に切られる可能性まで分かっている。
それでも止まらない。
品川を奪還するために。
澪を迎え入れるために。
そして、
燐を止めるために。
「品川を取り返す」
凪は短く言った。
「未開通エリアを突破して、
澪を、ここまで通す」
その時、
僕はようやく気づいた。
凪はずっと、
燐と戦う準備をしているわけじゃない。
燐を殺さずに止める方法を、
探していたのだ。
「湊」
凪が僕を見る。
「一緒に来て」
一瞬、
聞き間違えたのかと思った。
「……僕も?」
「うん」
「ここにいた方が安全なんじゃないの」
「どこにいても安全じゃない」
「燐はあなたを、捕獲しにくる」
「私と関係を持ったから」
凪は答えた。
「それに、湊が必要になるかもしれない」
「僕が?」
自分の声が、
少し裏返った。
この状況で、
僕に何ができるのか分からなかった。
通信も分からない。
銃も扱えない。
作戦も立てられない。
凪はそんな僕を見て、
静かに言った。
「湊は、完全な人だから」
その言葉が、
妙に重かった。
完全な人。
凪でもない。
澪でもない。
燐でもない。
人工知能領域を持たない、
ただの人間。
今までなら、
弱さの証明みたいに聞こえた言葉だった。
でも凪は、
違う意味で言っていた。
「燐は、人間と交渉できない」
凪は言った。
「燐は分かってる。
このまま進めば、破滅しかないって」
「それなら……」
「敵対視しているのは、たぶん私」
凪は目を逸らさなかった。
「私や澪が話しても、
燐にはもう通じない。
別のネットワークを構築している」
「でも湊は違う」
凪は一歩近づいた。
「湊は、燐に操られない」
胸の奥が、
少しだけ詰まった。
「戻りたかった場所?」
「人間の側」
凪の声は静かだった。
「私たちは、極秘に人間へ戻る研究をしていた」
「人間に……戻る?」
「人工知能領域を少しずつ神経細胞に置き換える。
完全じゃない。
でも、澪は二パーセントだけ、
人間に戻れた」
凪は苦しそうに言った。
「燐は損傷が大きすぎて無理。
それが、燐にとっては裏切りに見えたのかもしれない」
「凪たちが、人間に戻ろうとしたから?」
「うん」
凪は頷いた。
「燐は、私たちに見切りをつけたのかもしれない」
「あるいは、私を捕まえて、
燐側に近づけたいのかもしれない」
その言葉の意味を、
すぐには理解したくなかった。
「今の燐が私を手術すれば、
私は燐に近い存在になる」
凪は言った。
「そうなったら、
私は戻れなくなる」
「そんなの……」
「だから」
凪は小さな端末を取り出した。
薄くて、
黒い。
ボタンが一つだけついている。
凪はそれを、
僕の手に握らせた。
「私が燐に捕まったら、
これを押して」
「何これ」
「私を消すためのもの」
言葉が出なかった。
凪は静かに続ける。
「正確には、
私の外部接続と人工知能領域を焼き切る」
「死ぬとは限らない。
でも、今の私には戻らない」
「嫌だ」
声がすぐに出た。
「そんなもの、押せるわけない」
「湊」
「嫌だ」
自分でも驚くほど強い声だった。
「絶対に押さない」
凪は困ったように、
ほんの少しだけ笑った。
「だから、
そうならないように今から巻き返す」
「約束して」
「何を」
「捕まらないって」
凪はすぐには答えなかった。
その沈黙が嫌だった。
「凪」
「努力する」
「約束して」
凪は僕を見た。
少しだけ目が揺れていた。
「約束する」
それが本当かどうかは、
分からなかった。
でも僕は、
その言葉にしがみつくしかなかった。
「怖いよ」
思わず言った。
凪は頷いた。
「うん」
「僕はあんな風に戦えない」
「戦わなくていい」
「何を言えばいいかも分からない」
「その時に思ったことを言って」
凪は僕の手を取った。
「湊は、それでいい」
窓の外を見る。
東京の光は、
まだ綺麗だった。
誰かの暮らしが、
いつも通り続いているように見えた。
でもその下で、
何かが壊れ始めている。
僕は小さく息を吸った。
「分かった」
凪の手に、
少しだけ力が入った。
「一緒に行く」
凪はほんの一瞬だけ、
安心したような顔をした。
すぐにその表情は消える。
部屋の照明がすべて点いた。
白い光が、
凪の輪郭を浮かび上がらせる。
彼女はもう、
僕の隣にいた女の子ではなかった。
それでも。
僕には、
凪にしか見えなかった。
凪は振り返らずに言った。
「九条燐の侵攻を止める」
ドアが開く。
廊下の向こうから、
何人もの足音が聞こえた。
医者。
兵士。
スタッフ。
アノード。
誰が誰なのか、
僕には分からない。
ただ全員が、
凪の命令で動いている。
いや。
凪だけのためではない。
東京のため。
国のため。
人間のため。
そしてたぶん、
燐のためにも。
凪が廊下へ出る直前、
耳元の通信に向かって短く言った。
「澪」
少し間が空く。
「関東防衛線で受ける」
凪の横顔が、
一瞬だけ夜の色を帯びた。
「残っている人たちを連れて、
こっちまで下がって」
さらに短い沈黙。
凪は迷わず言った。
「澪。私に合流して」
その言葉のあと、
凪は僕の手を引いて歩き出した。
さっきまでの温かさが、
まだ指先に残っている。
でも、
世界はもう別の場所へ動き出していた。
二か月前から、
凪は僕を見つけていた。
そして今度は、
燐が凪を見つけた。
凪を解放するために。
人間から。
その時、
凪の足が止まった。
「澪?」
凪の声が変わった。
ほんの少し。
本当に、
ほんの少しだけ。
でも僕には分かった。
何かが起きた。
「品川に入った?」
短い沈黙。
凪の表情が緩む。
ほんの一瞬だけ。
「そのまま第三ゲートへ。
こちらで受ける」
その瞬間だった。
乾いた音がした。
警報でも、
爆発でもなかった。
もっと短くて、
鋭い音。
一瞬、
何が起きたのか分からなかった。
凪の表情が消える。
「澪?」
返事はなかった。
「澪」
凪の声が低くなる。
通信の向こうで、
誰かが叫んだ。
『橘管轄官、被弾!』
僕の身体が固まった。
凪は動かなかった。
動けなかったのではない。
動かないまま、
すべてを見ていた。
「部位は」
声が冷たかった。
『頭部です』
部屋の空気が止まった。
「なんで……」
凪の声が、かすかに低くなった。
「燐にとっても、澪は必要なはず」
通信の向こうで、
誰かが叫んでいる。
「燐のアノードが、
暴走してるの?」
『出血、多量。意識なし。呼吸あり』
凪は一度だけ目を閉じた。
本当に一瞬だけ。
そして開いた。
「私が行く」
その声は、
もう震えていなかった。
「地下にドクターカーを回して」
「品川までの全信号を開ける」
「AI制御車両は、私の通過ルートから全て退避」
通信の向こうで、
慌ただしい声が重なった。
凪は耳に手を当てたまま、
まっすぐ前を見ていた。
「澪を動かさないで」
「その場で止血を続けて」
少しだけ間を置いて、
凪は低く言った。
「絶対に死なせない」
それから先の時間は、
うまく思い出せない。
僕は凪についていくことしかできなかった。
エレベーター。
白い廊下。
地下へ降りる音。
扉が開くと、
白いドクターカーが待っていた。
運転席には誰もいない。
「乗って」
凪が言った。
僕が乗り込むより早く、
車のライトが点いた。
ドアが閉まる。
次の瞬間、
車は滑るように動き出した。
「運転手は……?」
「私」
凪は前を見たまま答えた。
ハンドルが、
誰にも触れられていないのに回っている。
地下通路を抜ける。
地上へ出た瞬間、
東京の夜が広がった。
けれど、
いつもの東京ではなかった。
進行方向の信号が、
次々に青へ変わっていく。
赤だった交差点も。
点滅していた歩行者信号も。
凪が通る道だけが、
一本の線みたいに開いていく。
周囲の車が、
一斉に止まった。
タクシー。
配送車。
警備車両。
AIを積んでいる車だけが、
命令を受けたみたいに路肩へ寄っていく。
東京が、
凪のために道を空けていた。
道路は血管で。
信号は神経で。
止まった車は、
命令を受けた細胞みたいだった。
その中心に、
凪がいる。
そして今、
凪はその身体を使って、
澪のところへ急いでいた。
品川基地のゲートが見えた。
厚い隔壁が、
半分だけ開いている。
その向こうで、
人が走っていた。
白衣。
黒い装備。
血のついた担架。
凪はドアが開く前に動いていた。
車が止まる。
同時にドアが開く。
凪は外へ出て、
まっすぐ担架へ向かった。
「橘管轄官は、こちらです!」
その声の先に、
澪がいた。
白い担架。
血で染まった布。
動かない身体。
周囲では、
医師たちが必死に圧迫を続けている。
凪は一瞬だけ、
澪の顔を見た。
本当に一瞬だけ。
「澪」
小さな声だった。
けれど次の瞬間には、
もう指揮官の顔に戻っていた。
「処置室へ」
凪は言った。
「私がやる」
担架が動き出す。
僕はその後を追った。
白い廊下。
開いていく扉。
消毒液の匂い。
血の匂い。
澪は、
処置室へ運び込まれた。
凪は一言も喋らなかった。
喋らないまま、
手袋をはめた。
医師たちが道を開ける。
誰も凪を止めなかった。
止められる人間など、
そこにはいなかった。
「出血点」
凪が言った。
すぐに誰かが答える。
「右側頭部。弾丸は抜けていません」
「脳圧」
「上昇しています」
「意識レベル」
「反応なし」
凪の指が、
ほんの一瞬だけ止まった。
それでも、
次の瞬間には動いていた。
「開頭準備」
凪は言った。
「澪、必ず助ける」
その声は静かだった。
静かすぎて、
祈りには聞こえなかった。
命令だった。
澪を戻せ。
死なせるな。
まだ、
終わらせるな。
処置室の中で、
時間が形を失っていった。
凪は一度も座らなかった。
一度も弱音を吐かなかった。
誰よりも速く判断し、
誰よりも正確に指示を出し、
誰よりも近くで澪を見続けていた。
それでも。
澪は目を開けなかった。
機械の音だけが、
規則正しく鳴っている。
血圧。
脈拍。
呼吸。
生きていることを示す数字だけが、
画面の上で点滅していた。
凪は手袋を外した。
指先に、
赤い跡が残っていた。
「凪……」
声をかけると、
凪は僕を見なかった。
ただ、
処置台の上の澪を見ていた。
「生きてる」
凪は言った。
それは誰かに報告する声ではなかった。
自分に言い聞かせる声だった。
「でも、意識が戻ってこない」
その言葉で、
僕はようやく理解した。
凪は、
手を尽くした。
使えるものを全部使った。
それでも、
澪の意識は戻らなかった。
窓のない処置室の中で、
警報音だけがまだ遠くに聞こえている。
品川は奪還した。
澪は、生きてはいる。
けれど、生きているだけだった。
誰が撃ったのかは、まだ分からなかった。
燐なのか。
どさくさに紛れたテロ組織なのか。
政府なのか。
それとも、別の誰かなのか。
ただ一つだけ分かっていた。
反逆は、
もう始まっている。




