4章《鈍感》
4章
《鈍感》
「昔から鈍感だよね」
凪はそう言って、
少しだけ笑った。
その言い方があまりにも自然だったから、
僕は一瞬、
何を言われたのか分からなかった。
「鈍感?」
「うん。かなり」
「いきなりひどくない?」
「ひどくないよ。事実」
凪はソファの背にもたれた。
さっきまで、
画面越しにテロを制圧していた人間とは思えないくらい、
その姿は普通の女の子に見えた。
薄いグレーのパーカー。
まだ少し湿った髪。
水の入ったグラス。
東京の夜景。
その全部が静かで、
だからこそ、
さっき見たものが現実だったのか分からなくなる。
でも、
現実だった。
凪は、一度死んでいた。
そして今も、
普通とは違う場所で生きている。
「湊」
凪が僕を見る。
「私ね、
本当はずっと湊に会いに行ってたの」
「……え?」
「二か月くらい前から」
僕は言葉を失った。
「会いに来てたって……」
「会社の近く」
凪はあっさり言った。
「朝も、昼も、夜も。
毎日じゃないけど、何度も」
「……嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「電車で、真横に立っていたこともあるよ」
凪は少しだけ口元を緩める。
「なのに湊、全然気づかなかった」
「いや、それは……」
言い訳をしようとして、
何も出てこなかった。
確かに僕は、
周りをちゃんと見ていない。
会社へ行って、
仕事をして、
帰る。
同じ道。
同じ信号。
同じコンビニ。
家に帰ってからの母の世話。
毎日、追われる繰り返し。
その中に凪がいたなんて、
少しも思わなかった。
「声、かけてくれればよかったのに」
僕がそう言うと、
凪は目を伏せた。
「できなかった」
その声は、
少しだけ小さかった。
「どうして?」
「湊が幸せなら、
そのまま消えるつもりだったから」
胸の奥が、
静かに詰まった。
「消えるって……」
「湊の世界から」
凪は言った。
「私がいなくなった後、
湊がちゃんと幸せになってたら、
それでいいと思ってた」
「彼女作って、毎日楽しんでるかなって」
「……」
「私が戻ってきたからって、
湊の生活を壊していい理由にはならないでしょ」
凪はまっすぐに僕を見る。
「湊に彼女がいたら、
私は声をかけなかった」
「そんなの……」
言葉が続かなかった。
そんなの、勝手だ。
そう言いたかった。
でも、
言えなかった。
凪は本気でそう思っていたようだ。
僕が幸せなら、
自分はまた、いなくなってもいいなんて。
それが、
凪の答えだった。
「だから見てたの」
「見てたって……」
「湊が誰といるのか。
ちゃんと笑ってるのか。
無理してないか」
凪はそこで少しだけ黙った。
「でも、調べれば調べるほど、
湊の状況はあまり良くなかった」
「調べる?」
僕が聞き返すと、
凪は少しだけ気まずそうな顔をした。
「データベース」
「……僕を調べたの?」
「うん」
「それ、普通に怖いんだけど」
「普通じゃないからね、私」
凪はそう言って、
少しだけ肩をすくめた。
冗談みたいに言ったのに、
笑えなかった。
「勤務記録。
健康診断。
通院履歴。
生活リズム。
購買履歴。
位置情報」
「待って」
僕は思わず遮った。
「どこまで見たの?」
「見られる範囲は、だいたい」
「だいたいって何」
「だいたいは、だいたい」
凪は少しだけ視線を逸らした。
「悪いとは思ってる」
「思ってる顔じゃない」
「思ってるよ」
「本当に?」
「少し」
「少しなんだ」
凪は小さく笑った。
その笑顔を見て、
怒るタイミングを失った。
昔からそうだった。
凪は、
こちらが本気で怒ろうとすると、
少しだけずれた場所から言葉を投げてくる。
そしていつの間にか、
こっちの力が抜けてしまう。
「でもね」
凪の声が、
少し低くなった。
「真面目に聞いて」
その一言で、
部屋の空気が変わった。
さっきまでの冗談が、
静かに消える。
凪はグラスを置いた。
僕を見る。
その目は、僕を見透かしてる。
気付けば、とても近くて、
とても怖い目だった。
「この前、血液検査したでしょ」
「……うん」
そういえば、
あの夜だった。
レストランで夕食を食べる前。
凪に半ば強引に採血された。
「湊、前に言ってたでしょ」
凪が静かに言った。
「何もないところで、つまずいたって」
「……言ったかも」
「私と夕食を食べに行った時も、
少し足の動きが変な時があった」
「足?」
「うん」
凪は僕の手元ではなく、
僕の顔を見ていた。
「普通なら気にしないくらいの違和感。
でも、私は気になった」
「それで血液検査?」
「念のため」
凪は少しだけ目を伏せた。
「本当は、
別の病気を疑ってた」
「別の病気?」
「貧血か、栄養の偏り。
それか、神経の方」
その言葉に、
思い当たる節があった。
毎日弁当ばかり買って食べていた。
凪は続ける。
「でも、
結果は違った」
「違ったなら、
よかったんじゃないの?」
そう言った瞬間、
凪の表情で分かった。
よくない。
全然、
よくない。
「違ったけど」
凪は、
一度だけ小さく息を吸った。
「もっと悪い方だった」
嫌な予感がした。
喉の奥が、
ゆっくり乾いていく。
「何が?」
僕の声は、
自分でも分かるくらい硬かった。
凪はすぐには答えなかった。
その沈黙が、
答えみたいだった。
「湊」
「うん」
「重大な病気が、見つかった」
時間が止まった気がした。
窓の外の光も。
部屋の空調の音も。
凪の呼吸も。
全部が遠くなる。
「……重大って」
「血液の病気」
「血液?」
「これから治療方針を決めるために精密検査する」
凪は言葉を選んでいるようだった。
でも、
その目は逃げなかった。
「数値が既に、かなりおかしい」
「おかしいって、どれくらい」
「白血球の数。
血小板。
細胞の形。
いくつかの項目が、普通じゃない」
目のやり場に困り、
僕は自分の手を見た。
何も変わらない。
指も動く。
息もできる。
痛いところもない。
昨日も普通に会社へ行った。
今日も普通に歩いて、
ここまで来た。
それなのに。
「僕、別に具合悪くないけど」
「初期はそういうことがある」
凪は静かに言った。
「自覚症状がないまま進むこともある」
「……何の病気?」
聞きたくなかった。
でも、
聞かずにはいられなかった。
凪はほんの少しだけ息を吸った。
「慢性骨髄性白血病」
その言葉は、
知らない単語のはずなのに、
白血病という部分だけが、
はっきり耳に残った。
「白血病……?」
声が掠れた。
凪は頷いた。
「これから進行していく」
「僕、死ぬの?」
「そんなことは絶対にない」
「私が必ず治す」
絶対が余計に怖かった。
「早く見つかって、よかった」
凪はそう言った。
「今なら、まだ間に合う可能性が高い」
「間に合うって……」
「できるだけ、負担にならないように、
治療の選択ができる」
その言葉に、
少しだけ息が戻った。
でも同時に、
別の恐怖が胸の奥で膨らんでいく。
治療。
病気。
白血病。
自分とは関係のない言葉だと思っていたものが、
急に自分のものになって、
実感が追いつかない。
「だから、湊」
凪は少しだけ身を乗り出した。
さっきまで遠くに感じていた凪が、
急に近くなる。
少し開いたパーカーの胸元。
まだ少し湿った髪。
落ち着いた声。
その全部が、
不思議なくらい普通の女の子に見えた。
「明日から1階の病院に行くよ」
「……」
「私が手配する」
「ここの1階に湊専用のブースを作る」
「凪が?」
「うん」
「そんなことできるの?」
「湊を助けられるなら」
「研究機関も国も、使えるものは使う」
凪は迷いなく言った。
「ここのスタッフは、全員チップでつながってる」
「一人の医者が診るんじゃない。
チーム全体で、同時に共有できる」
「私の思いを、受け取ってくれる人たち」
「私たちは皆、医者であり、
兵士であり、指揮官でもあるの」
「湊だけじゃない」
「お母さんのことも、ここなら見られる」
「だから……」
凪は少しだけ迷ってから言った。
「お母さんと一緒に、ここへ来て」
その言い方が、
まっすぐすぎて、
胸が苦しくなった。
「なんで、そこまで」
思わず今までの辛さが込み上げてくる。
僕がそう言うと、
凪は少しだけ呆れたように僕を見た。
「本当に鈍感」
「またそれ?」
「うん」
凪は少しだけ笑う。
けれど、
目は笑っていなかった。
「好きな人が病気かもしれないのに、
放っておけるわけないでしょ」
その言葉に、
何も返せなかった。
凪は、
一度死んだ。
それでも戻ってきた。
国に守られて、
国を守って、
監視されて、
監視して、
利用されて、
利用する。
それでも今、
僕の手を握っている。
僕を助けたいと言っている。
「凪」
「なに」
「怖い」
そう言うと、
凪の表情が少しだけ変わった。
驚いたような。
安心したような。
悲しそうな。
いくつもの感情が、
一瞬だけ重なった。
「うん」
凪は小さく頷いた。
「怖くていい」
「いいの?」
「いいよ」
凪の手に、
少しだけ力が入る。
「私も怖かった」
「でも勇気をくれたのは湊だよ」
「怖い時に怖いって言えるのは、
ちゃんと生きてる証拠だから」
その言葉は、
凪が言うから重かった。
一度死んだ凪が言うから。
ほぼ人間の凪が言うから。
「私がいる」
凪は言った。
「湊が病院に行く時も。
検査を受ける時も。
治療する時も。
全部、私がいる」
「忙しいんじゃないの」
「忙しいよ」
「仕事は?」
「ある」
「狙われてるんじゃないの」
「狙われてる」
「じゃあ……」
「でも、湊の方が大事」
「残りの二人がバックアップしてくれる」
凪は、
あまりにも簡単にそう言った。
その簡単さが、
ずるかった。
僕は言葉を失った。
凪は僕の手を見下ろす。
そして、
少しだけ笑った。
「ねぇ、湊」
「うん」
「私が二か月も近くにいたのに、
気づかなかったんだよ」
「それはもう言わないで」
「言うよ」
「なんで」
「悔しかったから」
凪は真顔で言った。
「私、結構頑張ってたのに」
「何を?」
「自然にすれ違ったり。
同じコンビニに入ったり。
信号の向こうに立ってみたり」
「それは……気づかないかも」
「ほら、鈍感」
「いや、それは難しいでしょ」
「でもね」
凪は少しだけ頬を緩めた。
「凪って呼ばれた時、
止まっちゃった」
「止まった?」
「うん」
凪は自分の胸元に手を当てる。
「ここが」
僕はその仕草を見て、
何も言えなくなった。
「もう名前なんて、
呼ばれないと思ってたから」
「私ね、湊と離れてからの時間が、ちゃんとつながってないの」
凪は、自分の胸元に手を当てた。
「脳腫瘍になる前の記憶は、昨日のことみたいに残ってる」
「だから、湊のことも」
凪は少しだけ目を伏せた。
「昨日まで好きだった人みたいに、覚えてる」
凪の声は、
とても小さかった。
「湊も私を忘れたと思ってた」
「僕は覚えてたよ」
「うん」
凪は頷いた。
「だから、私が止まって時間がずれた」
時間がずれた。
その言い方に、僕は少しだけ引っかかった。
けれど、その時はまだ、意味までは分からなかった。
僕が返事をできないまま、
少しだけ沈黙が続いた。
窓の外で、
赤い航空灯がまた点滅する。
一度。
二度。
三度。
「昔から鈍感だよ」
凪が言う。
「でも」
「でも?」
「そこも好き」
僕は返事に困った。
凪はそんな僕を見て、
少しだけ笑った。
「鈍感って、
攻略したくなるじゃない」
「攻略って何」
「攻略は攻略」
「僕、ゲームじゃないんだけど」
「知ってる」
凪は平然と言った。
「だから面白い」
「面白がらないで」
「無理」
久しぶりに、
凪がちゃんと笑った。
その笑顔を見た瞬間、
少しだけ怖さが薄れた。
病気が消えたわけじゃない。
現実が軽くなったわけでもない。
でも、
凪が笑うと、
僕の世界は少しだけ元の形を取り戻す。
「明日から、病院に行くよ」
凪が言った。
僕は静かに頷く。
「うん」
「逃げない」
「逃がさないわよ」
「怖いこと言うな」
「本気だから」
「もう設備も手配済み」
凪は身を寄せるようにして、
まっすぐに僕を見た。
「湊は、自分のことを後回しにするから」
「そうかな」
「そうだよ」
凪は少しだけ目を細める。
「もう私みたいに、手遅れにはさせない」
凪は一度死んで、生き返ったことを、後悔してるのか?
僕は凪を見る。
ほぼ人間。
一度死んで、
戻ってきた女の子。
二か月も僕の近くにいて、
僕が気づくのを待っていた女の子。
そして今、
僕の病気を見つけて、
僕より先に怖がってくれている女の子。
「凪」
「なに」
「ありがとう」
凪は少しだけ目を伏せた。
「まだ早い」
「早い?」
「助かってから言って」
「……うん」
凪は立ち上がり、
僕の隣へ座り直した。
肩が触れる。
ほんの少しだけ。
その距離が、
今はありがたかった。
「湊」
「うん」
「ちゃんと生きて」
凪の声は、
夜景よりも静かだった。
「私が生き返った意味を、
湊にまで背負わせるつもりはないけど」
凪は少しだけ間を置いた。
「でも、
湊が生きてくれたら、
私は少しだけ救われる」
僕は何も言えなかった。
ただ、
凪の手を握り返した。
窓の外では、
東京の夜がいつも通り瞬いていた。
僕の病気も。
凪が戻ってきたことも。
二か月前から、
彼女が僕を見つけていたことも。
それぞれの事情なんて知らないまま、
誰かの暮らしの灯りが、
ただ静かに瞬いている。
でも僕の中だけは、
もう同じではなかった。
凪が戻ってきた夜に。
僕が病気を知った夜に。
そして、
二か月前から凪が僕を見つけていたことを知った夜に。
僕はようやく気づいた。
凪は突然現れたわけじゃない。
ずっと近くにいた。
僕が気づかなかっただけだ。
昔から、
僕は鈍感だった。
でも今度だけは、
気づくのが遅すぎたなんて言いたくなかった。
凪の手に力が入る。
その温かさだけを頼りに、
僕は小さく頷いた。
「生きるよ」
凪は、
少しだけ笑った。
「よろしい」
その言い方が昔の凪みたいで、
僕も少しだけ笑った。
怖さは消えなかった。
それでも、
一人ではなかった。
それだけで、
その夜は少しだけ息がしやすくなった。
「それと」
凪が言った。
「今日は、他にも大事な話がある」
「他にも?」
僕は思わず聞き返した。
これ以上、
何を言われるのだろう。
病気。
治療。
引っ越し。
母のこと。
それだけで、
もう頭の中はいっぱいだった。
凪は少しだけ目を伏せた。
さっきまであれほど迷いなく話していたのに、
今度はなかなか言葉が出てこない。
「凪?」
「笑わないで聞いて」
「笑わないよ」
「本当に?」
「うん」
凪は小さく息を吸った。
そして、
僕を見た。
「……湊の子どもが欲しい」
その言葉の意味が、
すぐには分からなかった。
いや。
分からなかったふりをしたのかもしれない。
「……え?」
僕の声は、
自分でも情けないくらい間が抜けていた。
凪の頬が、
ほんの少し赤くなる。
それでも目は逸らさなかった。
「私は、今日がベストタイミングなの」
「ベストタイミングって……」
「排卵のタイミング」
凪は、
少しだけ早口になった。
「湊はこれから精密検査を受ける」
「もし治療が始まれば、身体に影響の強い薬を使う可能性がある」
「……」
「その前がいい」
凪の声が、
少し震えた。
「湊の身体が、
まだ治療に入る前の今日がいい」
僕は何も言えなかった。
凪は続けた。
「もちろん、精子保存もする。
それは明日、ちゃんと手配する」
「でも」
凪はそこで言葉を切った。
そして、
今までで一番女の子みたいな顔をした。
「私は、
湊との子どもが欲しい」
胸の奥が、
強く音を立てた気がした。
「凪……」
「ダメかな」
その言い方は、お願いだった。
国家の中枢にいて、
世界中から狙われている凪が、
今はただ、
僕の返事を待っていた。
「怖くないの?」
僕は聞いた。
凪は少しだけ笑った。
「怖いよ」
「じゃあ、どうして」
「怖いから」
凪は言った。
「湊がいなくなるかもしれないって思ったら、何かを残したくなった」
「……」
「でもそれだけじゃない」
凪は、僕の手を握った。
「湊と生きたいから。
湊と未来の話をしたいから」
その声は震えていた。
さっきまで、
僕の病気を淡々と告げていた凪が。
僕を必ず助けると言った凪が。
今はただ、
僕の返事を待っていた。
強くて、
怖がりで、
どうしようもなく人間らしい凪が、
目の前にいた。
「私、経験ないし」
凪がぽつりと言った。
その言葉だけ、
急に小さくなった。
「だから……本当は、すごく恥ずかしい」
その瞬間、
凪は片手を耳に当てた。
「しばらくよろしく」
短く、
誰かにそう告げる。
次の瞬間。
部屋の照明が、
ふっと落ちた。
東京の夜景だけが、
窓の外に残る。
「……何したの」
僕が聞くと、
暗がりの中で凪が少しだけ笑った。
「ネットワークを遮断した」
「遮断?」
「私だって、
みんなに聞かれるのは恥ずかしい」
「みんなって……」
「関西と中部にいる二人」
「え?」
「バックアップを頼んだの。
私がこっちを切っている間、
仕事は二人が見てくれる」
「そんなことできるの?」
「できるから頼んだの」
凪は静かに言った。
「もう、ここには誰も入ってこない。
音声も、映像も、全部切った」
「お母さんの所にも看護師が行ってる」
凪が、僕の前に立った。
暗がりの中でも、
彼女の輪郭は分かった。
薄いグレーのパーカー。
少し湿った髪。
細い肩。
ほぼ人間。
でも、
今はただ、
ひとりの女の子だった。
「湊」
凪が言う。
声が近い。
「嫌なら言って」
「……嫌じゃない」
「本当に?」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
僕は正直に答えた。
凪は小さく頷いた。
「私も」
その言葉に、
少しだけ胸が緩んだ。
凪も怖い。
そう思えたことが、
なぜか救いだった。
「でも」
凪は僕の手を引いた。
「来て、湊」
柔らかく、切実なものだった。
僕は立ち上がった。
凪の手を握り返す。
窓の外で、
東京の光が滲んでいた。
病気のことも。
治療のことも。
明日のことも。
何も消えたわけではなかった。
それでも今だけは、
僕たちは未来の方を向こうとしていた。
凪が生き返った意味を。
僕がこれから生きる意味を。
まだ形になっていない未来に、
託そうとしていた。
照明の落ちた部屋で、
凪の身体だけが、
夜景の光に浮かび上がって見えた。
「この前が、ファーストキスだったの」
凪が、小さな声で言った。
「僕もだよ」
そう答えると、
凪は暗がりの中で、少しだけ笑った。
「じゃあ、同じだね」
凪は少しだけ息を吸って、
パーカーの裾に指をかけた。
「……見ないで」
そう言いながら、
凪は自分でそれを脱いだ。
薄いグレーの布が、
足元に落ちる。
僕は、
何も言えなくなった。
凪は、もう何も隠していなかった。
夜景の光が、
彼女の輪郭だけを静かに浮かび上がらせている。
白い肌。
細い肩。
少し震えている指先。
さっきまで世界のどこかの命を動かしていた人とは思えないくらい、
凪はただの女の子だった。
「見ないでって言ったのに」
凪が小さく言った。
「……ごめん」
「……見てもいいよ」
その声が、
僕の胸の奥に触れた。
凪は恥ずかしそうに目を伏せる。
「湊も脱いで」
その一言で、
部屋の温度が変わった気がした。
僕は頷いた。
指が少し震えて、
うまく動かなかった。
凪はそれを見て、
小さく笑った。
「湊も緊張してる」
「してるよ」
「私も」
凪は、少しだけ息を乱した。
「オーバーロードしそう」
そう言って、
凪は僕に触れた。
少し汗ばんだ手の体温が伝わる。
僕たちはもう一度、
ゆっくりキスをした。
さっきよりも深く。
さっきよりも長く。
夜景の光が滲んで、
部屋の輪郭が少しずつ曖昧になる。
凪の息が近い。
僕の名前を呼ぶ声が、
胸の奥まで入り込んでくる。
「……初めて」
凪が小さく言った。
触れた指が、
一瞬だけ止まる。
「優しくして」
僕は何も言えず、
ただ凪の手を握った。
凪も、
強く握り返した。
それが、始まりの合図のように、
二人でベッドに倒れ込む。
シーツが乱れ、
夜景の光が白く滲んだ。
境界が、
ゆっくり溶けていく。
どこまでが僕で、
どこからが凪なのか。
分からなくなるくらい、
近くなった。
経験のない二人にとって、
快楽の時間は、
あっという間に過ぎた。
凪の胸に顔を埋めたまま、
まどろみの中で、
僕はただ、幸せだと思った。
その夜の温かさだけは、
いつまでも消えなかった。




