3章《ほぼ人間》
凪から連絡が来たのは、
一週間ぶりのことだった。
スマートフォンが静かに震える。
画面を確認する。
表示されていたのは、
凪の名前だった。
『今から家に来て』
その直後、
少し間を置いて、もう一通届く。
『ごめんね。忙しくて連絡できなかった』
『30分後に、お迎えが行くから』
僕はしばらく、
その文字を見つめていた。
恋人になった。
たぶん、そういうことになった。
あの夜、
凪は僕にキスをして、
また連絡すると言った。
それなのに、
一週間、何もなかった。
こちらからの連絡は全てスルー。
怒っているわけではない。
ただ、
僕だけがあの夜を覚えていて、
凪はもう別の世界に戻ってしまったような気がしていた。
『わかった。』
そう返信してから、
僕は静かに立ち上がった。
あの夜、
一度だけ訪れた場所。
白い十二階建ての、
会社の社宅。
一階には白衣姿の人たちがいて、
最上階には凪だけが住んでいて、
地下にはシェルターがあると言っていた。
冗談みたいな場所。
でも、
あの建物は確かに存在していた。
僕は着替えをして、
玄関を出た。
30分と言ったのに、もう車は待っていた。
「朝倉様、どうぞ」
運転席から男が降りる。
その後ろから、もう一人、女性が姿を見せた。
「綾瀬様より、お母様のお手伝いを承っております。介護士の千堂です」
「母を……?」
「ご不安でしたら、随時ご連絡します」
丁寧な言い方だった。
すでに、断れる空気ではなかった。
僕は少し迷ってから、鍵を千堂さんに渡した。
開けられた後部座席に乗ると、車はすぐに出発した。
見慣れた夕方の街並みを、静かに置き去りにしていく。
⸻
建物の前に車が止まる。
ドアが開くと同時に、
エントランスの自動ドアが静かに開いた。
白い床。
黒い制服のコンシェルジュ。
ガラス張りの奥に見える、
病院のような白い空間。
ここへ来るのは、二度目だ。
けれど、
一人で来るのは初めてだった。
それだけで、
少し足取りが重くなる。
受付のコンシェルジュが、
僕に気づいて顔を上げた。
「朝倉様ですね」
名前を呼ばれ、
一瞬だけ返答が遅れた。
「……はい」
「綾瀬様がお待ちです。
一番奥のエレベーターをお使いください。
最上階へどうぞ」
「ありがとうございます」
僕は軽く頭を下げ、
奥へ進んだ。
横を通った瞬間、
受付横のモニターが小さく光る。
そこに、
自分の名前が一瞬だけ表示された気がした。
前にも見た。
認証されただけ。
凪はそう言っていた。
でも、
自分の知らないところで自分が識別される感覚には、
まだ慣れなかった。
エレベーターへ乗る。
ボタンは、1階、2階、3階、そして12階だけだった。
この前は気づかなかった。
たぶん、このエレベーターは凪専用なのだ。
十二階のボタンを押す。
数字が静かに点灯する。
音もなく、扉が閉まる。
上昇していくわずかな重力が、
足元に伝わってきた。
鏡に映った自分は、
少し緊張した顔をしていた。
当然だと思った。
凪の部屋へ、
一人で向かっているのだから。
⸻
最上階で扉が開く。
廊下には、
相変わらず他の部屋がなかった。
黒いスーツ姿の男性が二人、
廊下の奥に立っている。
そのうちの一人に、
見覚えがあった。
あの夜、
僕を家まで送ってくれた男だった。
「湊様」
男が静かに頭を下げる。
「綾瀬様がお待ちです」
僕は小さく頷いた。
扉の前まで行くと、
扉のロックが短く鳴った。
まだ触れていないのに、
勝手に開いた。
「……」
僕が立ち止まっていると、
中から凪の声がした。
「入って」
その声を聞いて、
少しだけ胸が緩んだ。
扉を開ける。
凪が立っていた。
薄いグレーの大きめのパーカー。
髪は少しだけ濡れている。
おそらく、
シャワーを浴びた後だったのだろう。
その姿は、
あの夜よりもずっと自然だった。
けれど、
自然に見えるほど、
胸の奥は落ち着かなかった。
「……久しぶり」
僕が言うと、
凪は少しだけ困ったように笑った。
「早かったね、まだ髪を乾かしてない」
「うん。
ごめんね」
「忙しかった?」
「うん、忙しかった」
凪は頷く。
それから少しだけ間を置いて、
付け足した。
「先週、湊と会っていた時に、
気を抜いちゃって、
ネットワークを少しやられた」
「八人が死んだ」
凪は、淡々と言った。
「空いた穴を埋めるだけでも、時間がかかった」
「結局、どこの攻撃かも、まだわかってない」
「それで、ネットワークの再構築をしてたの」
再構築。
その言葉の意味を、深く理解できなかった。
⸻
部屋の中は、
前に来た時と同じだった。
広い。
整っている。
白と黒。
余計な物がほとんどない。
窓の外には、
東京の夜景が広がっていた。
でも今日は、
その景色が気にならない。
前は、
恋人になったばかりの夜景だった。
今日は、
何かを告げられる。
その事で頭がいっぱいだ。
「座って」
凪が言った。
僕はソファへ腰を下ろす。
凪はキッチンへ向かい、
水の入ったグラスを二つ持って戻ってきた。
「コーヒーも紅茶もないの。ごめんね」
「いいよ、ありがとう」
「嗜好品は結局体に悪いから」
凪は当然みたいに言った。
僕は少しだけ笑いそうになった。
でも、
笑えなかった。
凪は向かいに座る。
しばらく沈黙が続いた。
窓の外で、
赤い航空灯がゆっくり点滅している。
「湊」
凪が僕を見る。
その表情は、
あの夜、緊急のプロトコルが入った時の顔に少し似ていた。
「今日呼んだのは、
話したいことがあるから」
「話したいこと?」
「うん」
凪は両手でグラスを包む。
指先が、
少しだけ白かった。
「たぶん、普通は信じないと思う」
その言い方で、
冗談ではないことが分かった。
僕は黙って頷いた。
凪は一度、
小さく息を吸う。
そして言った。
「私ね、
一度死んでるんだ」
その言葉は、
とても静かに落ちた。
だから最初、
意味だけが遅れて届いた。
「……死んでる?」
「うん」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
凪は視線を逸らさなかった。
「私は、
一度死んだの」
⸻
部屋の空気が変わった。
夜景の光が、
さっきより遠く感じられた。
「病気だったの」
凪が続ける。
「脳腫瘍」
その単語を聞いた瞬間、
胸の奥が冷えた。
「助からないのが、わかってたから湊の前から何も言わずに消えた」
「絶対悲しみを引きずるでしょ」
「見つかった時には、かなり進行して手遅れだったの」
「……」
「でも、私のお父さんの会社が、
ある研究に関わっていたの」
「研究?」
凪は小さく頷く。
「人間の脳と、人工知能を接続する技術」
「望んで、その検体に私はなった」
言葉の意味は分かる。
でも、
現実としてはうまく形にならなかった。
「腫瘍を切除した部分に、
人工知能を載せたユニットを入れたの」
凪は、自分のこめかみにそっと指を当てた。
「iPS細胞から作った神経細胞と、
AIを載せた演算装置を、
専用のインターフェースで接続した」
「簡単に言うと」
「人の神経は、電気信号で動いてるでしょ」
「その信号をAIが読める形に変えて、AIの処理も神経へ戻せるようにしたの」
「簡単?意味わかんないけど」
「……そんなこと、できるの?」
「できたから、私はここにいる」
「普通の手術だけでは、助からなかった」
「そして、私の脳の中で、
人間の神経とAIが少しずつ馴染んでいった」
凪は、少し考えるように言った。
「融合、って言えばいいのかな」
僕は笑おうとした。
でも、
うまく笑えてはいなかった。
「転移してた部分も、異常を検出すると、薬剤の量や免疫反応が自動で調整される」
凪は、少しだけ言葉を選んだ。
「細胞傷害性T細胞。いわゆるキラーT細胞の働きも、必要な時だけ強まるようになってるの」
「私の身体は、
ずっと中から自分自身を見ている」
「異常があれば、
必要な物質を補って、修復していく」
僕は今聞いていることの意味が理解できなかった。
「だから定期的な調整が必要なの」
「足りないミネラルや薬も、全部データとして出てくる。それを補充する」
一度死んだ。
その言葉だけが、
妙に冷たく耳に残った。
その時だった。
部屋の奥から、
小さな電子音が鳴った。
ピッ。
僕は反射的にそちらを見る。
壁の一部だと思っていた場所が、
ゆっくりと開いていく。
その向こうには、
ガラスで仕切られた小さな部屋があった。
白い装置。
細いコード。
透明な管。
複数のモニター。
病院と研究室を、
そのまま室内に持ち込んだような空間だった。
「……何、あれ」
凪は少しだけ視線を落とした。
「私のメンテナンスルーム」
メンテナンス。
その言葉は、
凪には似合わなかった。
でも、
そこにある装置は紛れもない現実だった。
⸻
「時間みたい」
凪は立ち上がった。
「ごめん。
少しだけ待ってて」
「待っててって……」
「大丈夫。足りない物を入れるだけ。
いつものことだから」
凪はガラスの向こうへ入っていく。
白い装置に横たわる。
自動でアームが動き、
細いコードが彼女の首元と腕へ接続されていく。
僕は立ち上がったまま、
動くことができなかった。
モニターに数字が流れる。
心拍。
脳波。
体温。
見慣れない英語。
『SYNC START』
無機質な音声が響く。
次の瞬間、
凪の身体が小さく震えた。
「っ……」
「凪!」
思わず声が出た。
凪は薄く目を開ける。
苦しそうなのに、
僕に向かってわずかに笑った。
「大丈夫」
「大丈夫には見えない」
「本当に大丈夫。
少し気持ち悪いだけ」
少し。
その言い方が、
かえって怖かった。
画面の数字が上下する。
装置が低く唸る。
凪は目を閉じる。
その姿を見ていると、
胸の中がざわついた。
僕の知っている凪は、
笑っていた。
少し変で、
突然いなくなって、
また突然目の前に現れる女の子だった。
けれど今の凪は、
機械に命を預けているように見えた。
数分後。
電子音が止まる。
『SYNC COMPLETE』
コードが外れる。
凪はゆっくりと起き上がった。
少し顔色が悪い。
それでも、
自分の足でこちらへ戻ってきた。
「ね。
大丈夫だったでしょ」
「全然大丈夫には見えなかった」
「湊は心配性だね」
「普通だよ」
僕がそう言うと、
凪は少しだけ黙った。
そして、
小さく笑った。
「普通、か」
その言葉を、
凪は大切なものみたいに呟いた。
⸻
凪がソファへ戻る。
少し疲れた表情をしていた。
僕は彼女を見る。
何を言えばいいのか、
分からなかった。
「怖い?」
凪が尋ねた。
「私のこと」
僕はすぐには答えられなかった。
怖くないと言えば、
嘘になる。
先ほどの装置も。
人工知能という言葉も。
一度死んだという話も。
すべてが、
怖かった。
それでも。
「怖いのは、凪じゃない」
僕は言った。
「凪がいなくなるかもしれないことが怖い」
凪の目が、
わずかに揺れた。
「もう、二度と居なくなってほしくない」
「……そういうこと、普通に言うんだ」
「僕は普通だよ」
「ずるいね」
凪はそう言って、
少し俯いた。
その時だった。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
凪の表情が変わる。
本当に、
一瞬だった。
疲れた女の子の顔から、
冷たいほど静かな表情へ。
凪はしばらく目を閉じる。
そして、片方の手を耳に当てる。
「繋いで」
その声は、
さっきまでとは違っていた。
「全系統、接続確認。状況を出して」
短く、
迷いがない。
部屋の照明がわずかに落ちる。
テーブルの上に、
半透明の画面が浮かび上がった。
地図。
赤い点。
白い線。
英語の文字列。
僕は息を呑んだ。
「北口を封鎖した」
画面の向こうから、
男の声が返る。
『079了解』
「032一般人を誘導。地下通路は使用させないで」
『008対象、駅構内に侵入』
「078映像出して」
画面が切り替わる。
暗い駅構内。
走る人影。
倒れた看板。
武装した男たち。
「……これ、何?」
僕の声は掠れていた。
凪は画面を見たまま答える。
「テロ」
その言葉が、
あまりにも自然に聞こえた。
「末端だから、
たいしたことないけどね」
それが末端なら、
その先には何があるのだろう。
凪の指が空中を滑る。
画面が次々に切り替わる。
監視カメラ。
ドローン映像。
熱源反応。
通路の見取り図。
凪はそれらを見ながら、
淡々と指示を出していく。
「003二番通路、閉鎖」
『003了解』
「032右側の一人は囮。追わないで」
『032了解』
「003本命は奥。黒いバッグ」
『003、確認』
「003、発砲許可。人質との距離が近い。気をつけて」
「私が遠隔で抑える」
凪の声には、
ほとんど感情がなかった。
でも、
冷たいわけではなかった。
ただ、
すべてが速かった。
見る。
判断する。
命令する。
その繰り返しが、
人間の反応速度とは思えなかった。
「閃光、三秒後」
『003了解』
「三、二、一」
画面が白く光る。
音はなかった。
けれど、
何かが起きたことだけは分かった。
赤い点が、
ひとつ消える。
ふたつ消える。
最後のひとつが、
しばらく点滅した後に消えた。
『003制圧完了』
凪は小さく息を吐いた。
「032負傷者確認。一般人優先で搬送。
現場データは暗号化して送って」
『032了解』
画面が消える。
部屋の照明が元に戻る。
何事もなかったかのように、
静寂だけが戻ってきた。
⸻
僕はしばらく動けなかった。
今、
目の前で何が起きたのか。
理解しているのに、
理解したくなかった。
凪は耳から手を離す。
そして、
いつもの声に戻って言った。
「ごめん。途中で」
「……今のも、仕事?」
「うん、本業」
凪は頷く。
「国の仕事」
「国って……」
「そう」
「凪は、そんなことをしてるの?」
「してる」
凪は僕を見る。
「言ったでしょ私特別だって」
「この技術が完全に成功したのは、私を含めて三人だけ」
「三人?」
「うん。私たちは中枢。さっき番号で呼んでいた人たちは、末端」
「末端……?」
「AIチップだけを埋め込まれている。判断はできるけど、全体は見えない」
凪は静かに言った。
「私たち三人が、サーバーみたいなものなの」
「私を作った技術は、
たぶん世界を変える。
だから、各国が私を欲しがってる」
「欲しがってる?」
「兵器として。
情報端末として。
研究材料として」
その言葉に、
背筋が冷えた。
「私を狙っている国は、
一つじゃない」
凪は静かに言った。
「だから私は、守られてる。
監視もされてる。
利用もされてる」
「そんなの……」
言葉が続かなかった。
凪は少しだけ笑う。
「でもね、湊」
その笑顔は、
どこか寂しそうだった。
「私は別に、
世界を変えたいわけじゃない」
「……」
「ただ、生き返っただけ」
生き返った。
その言い方が、
妙に胸に刺さった。
僕は凪の手を取った。
白い指。
細い手首。
どこから見ても、
普通の女の子の手だった。
暖かい。
「ねぇ、湊」
凪が言う。
「私、人間に見える?」
その質問に、
僕はすぐには答えられなかった。
人間に見える。
でも、
さっきの凪は人間離れしていた。
命令ひとつで、
遠くの誰かが動いた。
画面を見るだけで、
人の生死を分けた。
そして彼女の身体には、
人工知能が組み込まれている。
僕は、
どう答えればいいのか分からなかった。
だから、
逆に尋ねてしまった。
「凪は……人間なの?」
口にした瞬間、
少し後悔した。
でも凪は怒らなかった。
目を丸くして、
それから小さく笑った。
「いやね」
その笑い方だけは、
昔の凪のままだった。
「決まってるじゃない」
凪は僕を見た。
真っ直ぐに。
少し強がるように。
それでも、
どこか泣き出しそうにも見えた。
「ほぼ人間」
そう言って、
凪は肩をすくめた。
「脳の八割は元の私」
「残りはAI」
「ただね、もう融合してるの」
「だから、前の私とは少し違う」
「でも、別の誰かになったわけじゃない」
「新しい私になっただけ」
「難しいよね……AIと対話とかしてるわけじゃない」
「だから自律神経も免疫細胞も自ら制御してるの」
「……制御?」
「うん。
テロメアの制御もしてるよ」
「でも、不死身じゃないよ」
凪は笑った。
それから、
声を少し柔らかくする。
「でも今は、湊のことが好きな、ただの女の子」
部屋が静かになる。
窓の外では、
東京の夜が何事もなかったみたいに光っていた。
僕は凪を見る。
普通ではない。
たぶん、
普通には戻れない。
でも、
目の前にいるのは凪だった。
僕の知っている凪で。
僕の知らない凪で。
それでも、
凪だった。
「じゃあ」
僕はゆっくり言った。
「僕も、ほぼ普通の彼氏になる」
凪は一瞬だけ黙った。
それから、
少しだけ吹き出した。
「なにそれ」
「分からないけど」
「変なの」
「凪ほどじゃない」
凪は笑った。
今度は、
ちゃんと笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、
僕は少しだけ安心した。
ほぼ人間。
そう言った凪は、
その夜、
誰よりも人間に見えた。




