2章 《シグナル》
仕事が終わった頃には、
窓の外はもう夕方の色になっていた。
スマホを見る。
凪からのメッセージ。
『着いた』
短い一文。
僕は慌ててパソコンを閉じ、
会社を出た。
自動ドアを抜ける。
道路を挟んだ向こう側。
街路樹の下に、
凪が立っていた。
夕暮れの光が、
黒髪を薄く透かしている。
凪は僕に気づくと、
小さく手を上げた。
それだけなのに、
胸の奥が少し熱くなる。
信号が青になる。
僕は横断歩道を渡った。
「待った?」
「ううん。今来たところ」
昔の恋愛ドラマみたいだな、
と少し思った。
凪は僕の隣へ並ぶ。
「ご飯、予約してあるから」
「予約?」
「知り合いのお店」
歩き出す。
夕方の歩道には、
仕事帰りの人が溢れていた。
ビルの隙間から差し込む西日。
木漏れ日。
まだ少し冷たい風。
凪に歩調を合わせながら、
僕は隣を歩く。
不思議だった。
八年も会っていなかったはずなのに、
並んで歩いていると、
いつも一緒に帰っていたみたいな感覚になる。
学生の頃へ、
時間が巻き戻っていくみたいだった。
交差点が近づく。
信号は青。
渡る。
次の交差点も、
青。
また次も。
僕は少しだけ違和感を覚える。
タイミングが良すぎだ。
まるで、
凪が横断歩道へ入る瞬間を、
信号の方が待っているみたいだった。
偶然だろうか。
凪は何も気にしていない様子で歩いている。
十五分ほど歩いた頃、
静かな路地へ入った。
通りの喧騒が少し遠くなる。
そこに店はあった。
木目の扉。
控えめな照明。
店名は小さくしか書かれていない。
高級そうだな、
と思った。
扉が開く。
「綾瀬様、
いつもありがとうございます」
スーツ姿のボーイが、
丁寧に頭を下げた。
僕は少し驚いて、
隣の凪を見る。
凪は慣れた様子で、
軽く頷いただけだった。
店内へ案内される。
静かな音楽。
柔らかい照明。
窓際の席。
テーブルにメニューは置かれていなかった。
僕が辺りを見回していると、
凪が言った。
「ここ、
お任せコースだけだから」
その言い方が妙に自然で、
僕だけが場違いみたいだった。
「湊、
好き嫌いある?」
突然聞かれて、
僕は少し考える。
「ないよ。
あっ……パクチーとか、
匂い強いのは少し苦手かも」
「そっか」
凪は小さく頷く。
ポケットからスマホを取り出し、
慣れた手つきで画面を操作する。
数回タップしたあと、
入口付近にいたボーイの端末が小さく光った。
ボーイは内容を確認すると、
静かに頭を下げる。
「じゃあ、少し変えてもらう」
凪はそう言って、
スマホを伏せた。
その流れが自然すぎて、
この店ではそれが普通なんだと思わされた。
「湊、採血していい?」
「……え?」
突然すぎて、
意味が理解できなかった。
「だから採血」
凪は当然みたいに言う。
「私、医師なの」
そう言いながら、
凪は席の横へ視線を向けた。
「すみません」
入口にいたボーイが、
静かにこちらへ来る。
凪は何も説明しなかった。
けれどボーイは驚いた様子もなく、
小さく頷くと、
奥へ下がっていった。
数十秒後。
戻ってきた彼の手には、
採血セットが乗った銀色のトレーがあった。
僕は思わず凪を見る。
「え……?」
「湊、
今日つまずいたって言ってたよね」
凪は落ち着いた声で言う。
「少し身体の状態見せて」
「いや、別に大丈夫だって」
「だめ」
柔らかい言い方なのに、
妙に押し返せなかった。
凪は席を立つと、
僕の左足の前へしゃがみ込む。
「ちょ、ちょっと……」
細い指が、
足首から膝へゆっくり触れていく。
膝の周りを念入りに触診していく。
恥ずかしかった。
店の雰囲気もあるし、
周囲の視線も少し気になる。
でも凪は、
そんな事を全く気にしていないみたいだった。
「湊、
いつも足組んで座ってる?」
「え?」
「左の靭帯、少し伸びてる」
凪は僕の膝の横を軽く触れながら言う。
「あんまり良くないよ」
それから立ち上がると、
今度は当然みたいに手を差し出した。
「腕」
「いや、待って」
「すぐ終わるから」
話す間もなかった。
凪は手際よく、
僕の左腕へ圧迫用のゴムを巻く。
その動きが、
異様なくらい慣れていた。
アルコールの匂い。
冷たい感触。
次の瞬間には、
もう針が腕へ入っていた。
「あっ……」
思わず肩が跳ねる。
僕は昔から、
注射が苦手だった。
でも痛みは、
ほとんどなかった。
凪は採血管へ流れる血を見ながら、
静かに目を細める。
まるで、
最初から何か分かっているみたいに。
「はい、終わり」
針が抜かれる。
小さな絆創膏。
凪は白いガーゼを軽く押さえたあと、
ポケットからスマホを取り出した。
画面へ素早く指を滑らせる。
見たことのない黒い画面。
数字や波形みたいなものが、
一瞬だけ流れた気がした。
凪は何かを確認すると、
そのままボーイへスマホを向ける。
ボーイは慣れた様子で小さく頷き、
奥へ下がっていった。
数秒後。
テーブル中央のガラス面へ、
薄い光が浮かび上がる。
透明パネルみたいな画面だった。
『朝倉 湊 23歳』
『2011年6月3日生』
そこには、
僕の情報が表示されていた。
「……なんで」
凪は画面を見たまま、
静かに言う。
「あってるよね」
「……うん。
あってるけど」
僕がそう答えると、
凪は小さく頷いた。
「じゃ、ご飯食べよっか」
そう言って、
凪はボーイへ視線を向ける。
「ボーイさん、
お願いします」
「かしこまりました、凪様」
静かな声。
まるで、
病院の受付みたいに無駄がなかった。
料理が運ばれてくる。
僕の皿には、
香草の香りが抑えられた温かい料理。
見た目も綺麗で、
すごく美味しそうだった。
でも、
凪の料理は違った。
小さな器がいくつも並んでいる。
淡い色のペースト。
透明に近いゼリーみたいなもの。
栄養食みたいな、
不思議な料理ばかりだった。
正直、
あまり美味しそうには見えなかった。
僕の視線に気づいたのか、
凪は少しだけ笑う。
「これ、
私の身体に合うように調合してあるの」
スプーンで静かに掬いながら、
凪は続ける。
「食べる量も、
順番も決まってる」
「そうなんだ……」
「ごめんね。
一口あげたいけど、
できないんだ」
「ううん、大丈夫」
僕は慌てて首を振る。
凪は小さく頷くと、
また静かに食事を始めた。
その姿は綺麗だったけど、
どこか人間っぽくなかった。
「湊」
「ん?」
凪はスプーンを置いて、
まっすぐ僕を見る。
「私に会えて嬉しい?」
突然聞かれて、
少しだけ胸が詰まる。
「もちろん」
僕は笑った。
「僕、
ずっと凪のこと好きだった」
「好き?」
凪は静かに聞き返す。
「友情?」
「違うよ」
僕は首を振る。
「そういうのじゃなくて……
ちゃんと、
女の子として好きなんだ」
凪は少し黙った。
店の静かな音楽だけが流れている。
「……私、
恋愛の意味は理解してる」
「そう、わかってる」
凪は小さく呟く。
少し考えるみたいに、
視線が揺れる。
「湊に会って、
思い出したの」
「湊のこと、
好きだったって」
僕は黙って凪を見る。
店の照明が、
彼女の横顔を淡く照らしていた。
「だから、
子供欲しい」
一瞬、
言葉の意味が分からなかった。
僕はただ、
凪を見返す。
付き合ってほしい。
本当は、
そう言いたかっただけだった。
でも凪が返した答えは、
その先まで飛び越えていた。
「私と恋愛するには条件があるの」
凪は静かな声で言った。
「決して破ってはいけない条件」
店の照明が、
グラスへ淡く反射している。
「基本的には外泊はしない」
「旅行は、
今は東京、名古屋、大阪、札幌、博多だけ」
「今後は増える予定」
僕は黙って聞いていた。
「就寝は別」
「私は専用の宿泊施設に泊まるから」
凪は迷いなく続ける。
「性行為は、
私の指示以外ではしない」
思考が追いつかなかった。
でも凪は、
本当に普通の話をしているみたいだった。
「湊の健康管理は、
全部私に任せて」
「それと、
私との関係で知った情報は極秘」
凪は静かに僕を見る。
「守れない場合、
私は湊の前からいなくなる」
食事が終わる。
ボーイが静かに下がる。
でも、
伝票は持って来なかった。
僕は少し迷いながら、
財布へ手を伸ばす。
「あっ、いくら──」
「大丈夫」
凪は自然に言った。
「ここ、
私の会社の施設だから」
「施設?」
思わず聞き返す。
凪は小さく頷く。
「この店も、
医療部門の管理下」
あまりにも普通に言うから、
逆に現実感がなかった。
その時だった。
「ボーイさん」
凪が静かな声で呼び止める。
「はい」
「今日の三皿目、
砂糖と塩の量、規定値からずれてたよね」
ボーイの表情が僅かに止まった。
「……申し訳ありません」
凪は怒っている様子もなく、
ただ淡々と続ける。
「この程度なら問題ないけど、
管理できないならシェフの入れ替えも考えて」
静かな声だった。
でも、
空気だけが少し冷えた気がした。
「それと、
今いるお客様の料理も確認して」
凪は窓際の席へ軽く視線を向ける。
「手をつけてない物は作り直し。
よろしく」
「かしこまりました」
ボーイは深く頭を下げ、
静かに下がっていった。
僕は何も言えなかった。
凪は何事もなかったみたいに、
グラスへ口をつける。
店を出る。
さっきより少し冷えた風が、
頬を撫でた。
路地の先には、
夜の東京が広がっている。
車のライト。
遠くの電車の音。
濡れたみたいに光るアスファルト。
凪は僕の少し前を歩く。
黒い髪が、
街灯の光を静かに反射していた。
「なんか、
まだ実感ないな」
「なにが?」
「凪とまた会ってるの」
凪は少しだけ笑った。
「私はあるよ」
「え?」
「湊、
昔からあんまり変わってない」
ホームへ降りる。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
仕事帰りの人達に混ざって、
僕らは車内へ入った。
凪は吊り革を持たなかった。
揺れる車内でも、
身体がほとんどぶれない。
「……すご」
「なに?」
「いや、
全然揺れないなって」
凪は少し考える。
「慣れてるからかな」
でも僕は、
朝の事を思い出していた。
駅でぶつかった時。
あの時だけ、
凪は少しだけバランスを崩した。
今思えば、
あれが初めて見た“揺れ”だったのかもしれない。
窓ガラスへ、
僕と凪の姿が映る。
凪は静かだった。
瞬きすら少ない気がした。
でも時々、
昔と同じ顔で笑う。
そのたびに僕は、
少し安心した。
駅を出る。
夜の住宅街は静かだった。
「この辺、
変わったね」
僕が言うと、
凪は夜の街を見上げた。
「うん」
昔あった古いスーパーは、
マンションになっていた。
ゲームセンターも消えていた。
中学の帰りによく寄ったコンビニだけ、
まだ残っている。
「ここ、懐かしいね」
凪が小さく笑った。
「湊と、よく駐車場のところで喋ってたよね」
そう言った凪の声だけ、
少しだけ昔に戻った気がした。
少し薄暗い、
立体交差の下のトンネルを抜けて歩いていく。
まばらな街灯が、
かろうじて家々のシルエットを浮かび上がらせていた。
「凪の家って、
この辺だったよね」
「うん」
「もう無いけどね」
凪は少しだけ歩く速度を落とした。
「今は、
道路の向こう側」
そこには、
白い十二階建ての建物が建っていた。
高級マンションという感じではない。
でも、
妙に綺麗だった。
生活感が薄い。
エントランスへ入る。
受付には、
黒い制服のコンシェルジュが立っていた。
「お帰りなさいませ、綾瀬様」
凪は軽く頷く。
僕が横を通った瞬間、
受付横のモニターへ自分の名前が一瞬表示された気がした。
「……え?」
「大丈夫」
凪は当然みたいに言う。
「認証されただけだから」
そのまま奥へ進む。
ガラス張りのフロアには、
白衣姿の人達が見えた。
病院みたいだった。
「ここ、病院?」
「一階だけね」
凪は静かに答える。
「二階はトレーニング施設。
三階は食堂」
エレベーターが静かに開く。
僕が不思議そうに建物の中を見回していると、
凪が少しだけ笑った。
「ここ、会社の社宅なの」
「社宅?」
「うん」
それから凪は、
少しだけ声を落とした。
「あと、
ここの事は秘密厳守ね」
「……え?」
「大丈夫。
湊なら問題ないから」
そう言って、
凪はエレベーターへ乗り込む。
「私の部屋、行こ」
凪は、
一番上の階を押した。
「最上階なんだ」
僕が言うと、
凪は小さく頷く。
「うん」
エレベーターは音もなく上昇していく。
数字だけが静かに変わる。
十一。
十二。
そして最上階で止まった。
ドアが開く。
廊下には、
他の部屋がなかった。
「……え?」
「この階、
私しか住んでないから」
凪は当然みたいに言う。
廊下の奥には、
黒いスーツ姿の男性が二人立っていた。
でも、
こちらを見ようともしない。
「警備?」
「うん」
凪は短く答える。
「一応、政府管理だから」
「政府?」
思わず聞き返す。
でも凪は、
もう扉へ手をかざしていた。
短い電子音。
ロックが解除される。
「この建物、
かなり頑丈なんだよ」
凪は扉を開けながら言う。
「最新の耐震設備と、
防護システム入ってるから」
「……なんかもう、
会社っていうより要塞だな」
「地下にシェルターもあるし」
凪は何でもないみたいに続ける。
「私の部屋から直通」
一瞬、
意味が理解できなかった。
部屋へ入る。
窓の外には、
東京の夜景が広がっていた。
部屋の中には、
空調の音しかなかった。
凪はソファへ腰を下ろす。
「私達、
恋人になったんだよね」
そう言って、
凪は僕を見る。
「湊、こっち来て」
僕は少し緊張しながら、
凪の隣へ座った。
「私、
恋人同士のことについては、
もう完璧だよ」
凪は少しだけ得意そうに言う。
「湊も、
こういう雰囲気好きでしょ?」
窓の向こうでは、
夜景が静かに光っている。
「……うん」
僕が頷くと、
凪は満足そうに小さく笑った。
「少し待って」
凪はスマホを手に取る。
でも、
操作しているようには見えなかった。
画面すら見ていない。
数秒後。
「はい、OK」
凪は静かに言った。
「今日は特別。
全てのアクセス切ったから」
「アクセス?」
「うん」
凪は当然みたいに頷く。
「これで、
本当に二人きり」
その言い方が、
少しだけ特別に聞こえた。
「湊、
もう少し横来て」
僕は凪の隣へ身体を寄せる。
その瞬間。
凪の瞳が、
さっきまでと少し違って見えた。
どこか虚ろで、
でも熱っぽい。
「……あ、でも」
凪が小さく呟く。
「今日は最後まではできないの」
少しだけ申し訳なさそうに、
凪は僕を見た。
「いい?」
「うん」
僕は頷く。
正直、
それでも十分だった。
こうしてまた、
凪の隣にいられるだけで。
凪は静かに、
僕の肩へ頭を預けてきた。
柔らかい髪が、
頬へ触れる。
僕はゆっくり、
凪の肩へ手を回した。
凪は少しだけ目を閉じる。
その横顔を見ていたら、
どうしてもキスしたくなった。
「……凪」
名前を呼ぶ。
凪がゆっくり顔を上げた。
近い。
昔より少し大人になった顔。
でも、
目だけは変わっていなかった。
凪は何も言わない。
ただ静かに、
僕を見ている。
僕は少しだけ迷った。
本当に触れていいのか分からなかった。
凪は普通の人じゃない。
きっと僕の知らない場所で、
僕の知らないものを背負って生きてる。
でも今は、
ちゃんとここにいる。
僕の隣に。
凪の視線が、
少しだけ揺れた。
「……湊?」
その声を聞いた瞬間、
もう駄目だった。
僕はそっと、
凪へキスをした。
柔らかかった。
少しだけ冷たくて、
でもすぐに熱を持つ。
凪の身体が、
一瞬だけ小さく震える。
僕はすぐ離れようとした。
でも。
凪の指が、
そっと僕の服を掴んだ。
離れないで、
そう言われた気がした。
もう一度、
静かに唇が重なる。
部屋には何の音もなかった。
夜景だけが、
遠くで静かに光っている。
唇が離れる。
凪は少しだけ呼吸を乱しながら、
僕を見上げた。
「……心拍、上がってる」
「え?」
「私」
凪は少しだけ目を細める。
「ちゃんと」
その言い方が、
少し嬉しそうだった。
僕は思わず笑う。
「それ、
普通そういう言い方する?」
「だって本当だよ」
凪は真面目な顔で言った。
「さっきより、
かなり上がってる」
「いや、
それは……」
恥ずかしくなって視線を逸らす。
凪はそんな僕を見ながら、
少しだけ首を傾げた。
「湊、
照れてる?」
「そりゃ照れるだろ……」
「なんで?」
「なんでって……」
凪は数秒考える。
それから小さく呟いた。
「恋人って、
難しいね」
その言い方が可笑しくて、
僕は少し吹き出した。
凪もつられるみたいに笑う。
その笑い方が、
昔と同じだった。
僕は少し安心する。
ちゃんと凪だと思えた。
凪はソファへ身体を預けながら、
静かに窓の外を見た。
「湊」
「ん?」
「今日、
会えてよかった」
夜景の光が、
横顔を淡く照らしている。
僕は少しだけ迷ってから、
もう一度凪の手を握った。
冷たいと思っていた指先は、
思ったより温かかった。
凪は手を握り返す。
でもその瞬間。
凪の視線が、
一瞬だけ遠くを見た。
何かを聞いているみたいに。
「……凪?」
凪は小さく瞬きをする。
それから、
少し困ったみたいに笑った。
「ごめん」
「仕事?」
「うん。
少しだけ」
そう言いながらも、
凪は僕の手を離さなかった。
「アクセス切ったんじゃなかったの?」
僕が聞くと、
凪は静かに首を横へ振る。
「完全には無理なの」
その声は、
少しだけ疲れて聞こえた。
「私自身は、
止められないから」
部屋が静かになる。
遠くで、
救急車のサイレンが小さく聞こえた。
凪はその音へ耳を澄ませるみたいに、
少しだけ目を閉じる。
その横顔を見ていたら、
急に胸が苦しくなった。
この人は、
ずっとこうやって生きてきたんだと思った。
誰かに必要とされ続けて。
休めなくて。
普通にもなれなくて。
僕はゆっくり、
凪を抱き寄せる。
凪は抵抗しなかった。
むしろ安心したみたいに、
静かに身体を預けてくる。
「……湊」
「ん?」
「もう少しだけ、
このままでいて」
僕は黙って頷いた。
窓の外では、
東京の夜が静かに光っていた。
そのまま数分、
僕達は何も話さなかった。
凪は僕の肩へ身体を預けたまま、
静かに呼吸をしている。
柔らかい髪が、
時々頬へ触れた。
僕はその温度を、
なるべく忘れないようにしていた。
その時だった。
凪の身体が、
ほんの少しだけ強張る。
「……凪?」
凪は返事をしなかった。
でも、
視線だけが遠くを見ている。
何かを聞いているみたいだった。
数秒後。
凪はゆっくり目を閉じる。
それから、
小さく息を吐いた。
「ごめん、湊」
「え?」
凪は僕の肩から離れる。
その動きが、
少しだけ名残惜しそうだった。
「緊急のプロトコル入った」
静かな声。
でもその瞬間だけ、
凪の空気が変わった気がした。
さっきまでの恋人の顔じゃない。
もっと別の、
大きな何かへ接続されているみたいだった。
「ここでお別れ」
「……今から?」
僕が聞くと、
凪は静かに頷く。
「うん」
それから少しだけ、
申し訳なさそうに笑った。
「SPに家まで送ってもらうね」
部屋の奥で、
小さな電子音が鳴る。
同時に、
廊下の向こうで人の気配が動いた気がした。
凪は立ち上がる。
でもすぐには離れなかった。
僕の服の袖を、
指先でそっと掴んでいる。
「今日は、
本当に嬉しかった」
その声だけは、
さっきまでと同じだった。
僕は何か言おうとした。
でも言葉が出てこない。
凪は少しだけ背伸びをすると、
最後みたいにもう一度、
軽くキスをした。
「おやすみ、湊」
そう言って離れる。
その瞬間にはもう、
凪の瞳は静かに仕事の色へ戻っていた。
「湊様、こちらへどうぞ」
黒いスーツ姿の男性が、
いつの間にか扉の横に立っていた。
「私がご自宅までお送りいたします」
「近いから大丈夫です」
「いえ」
男は丁寧に頭を下げた。
「これが仕事ですから」
僕はもう一度、
凪を見る。
凪は少しだけ近づいて、
僕をそっと抱きしめた。
「本当にごめん」
耳元で、
小さく言う。
「また、連絡するね」
「うん」
僕は頷いた。
「バイバイ」
凪は笑って、
小さく手を振った。
その笑顔は、
さっきまでの凪と同じだった。
でも扉が閉まる直前、
彼女の視線はもう、
僕ではないどこかを見ていた。




