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ゲシュタルトな僕と、フラクタルな君  作者: 読まれる前提
1章 《凪》

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2章 《シグナル》

仕事が終わった頃には、

窓の外はもう夕方の色になっていた。


スマホを見る。


凪からのメッセージ。


『着いた』


短い一文。


僕は慌ててパソコンを閉じ、

会社を出た。


自動ドアを抜ける。


道路を挟んだ向こう側。


街路樹の下に、

凪が立っていた。


夕暮れの光が、

黒髪を薄く透かしている。


凪は僕に気づくと、

小さく手を上げた。


それだけなのに、

胸の奥が少し熱くなる。


信号が青になる。


僕は横断歩道を渡った。


「待った?」


「ううん。今来たところ」


昔の恋愛ドラマみたいだな、

と少し思った。


凪は僕の隣へ並ぶ。


「ご飯、予約してあるから」


「予約?」


「知り合いのお店」


歩き出す。


夕方の歩道には、

仕事帰りの人が溢れていた。


ビルの隙間から差し込む西日。


木漏れ日。


まだ少し冷たい風。


凪に歩調を合わせながら、

僕は隣を歩く。


不思議だった。


八年も会っていなかったはずなのに、

並んで歩いていると、

いつも一緒に帰っていたみたいな感覚になる。


学生の頃へ、

時間が巻き戻っていくみたいだった。


交差点が近づく。


信号は青。


渡る。


次の交差点も、

青。


また次も。


僕は少しだけ違和感を覚える。


タイミングが良すぎだ。


まるで、

凪が横断歩道へ入る瞬間を、

信号の方が待っているみたいだった。


偶然だろうか。


凪は何も気にしていない様子で歩いている。


十五分ほど歩いた頃、

静かな路地へ入った。


通りの喧騒が少し遠くなる。


そこに店はあった。


木目の扉。


控えめな照明。


店名は小さくしか書かれていない。


高級そうだな、

と思った。


扉が開く。


「綾瀬様、

いつもありがとうございます」


スーツ姿のボーイが、

丁寧に頭を下げた。


僕は少し驚いて、

隣の凪を見る。


凪は慣れた様子で、

軽く頷いただけだった。


店内へ案内される。


静かな音楽。


柔らかい照明。


窓際の席。


テーブルにメニューは置かれていなかった。


僕が辺りを見回していると、

凪が言った。


「ここ、

お任せコースだけだから」


その言い方が妙に自然で、

僕だけが場違いみたいだった。


「湊、

好き嫌いある?」


突然聞かれて、

僕は少し考える。


「ないよ。

あっ……パクチーとか、

匂い強いのは少し苦手かも」


「そっか」


凪は小さく頷く。


ポケットからスマホを取り出し、

慣れた手つきで画面を操作する。


数回タップしたあと、

入口付近にいたボーイの端末が小さく光った。


ボーイは内容を確認すると、

静かに頭を下げる。


「じゃあ、少し変えてもらう」


凪はそう言って、

スマホを伏せた。


その流れが自然すぎて、

この店ではそれが普通なんだと思わされた。


「湊、採血していい?」


「……え?」


突然すぎて、

意味が理解できなかった。


「だから採血」


凪は当然みたいに言う。


「私、医師なの」


そう言いながら、

凪は席の横へ視線を向けた。


「すみません」


入口にいたボーイが、

静かにこちらへ来る。


凪は何も説明しなかった。


けれどボーイは驚いた様子もなく、

小さく頷くと、

奥へ下がっていった。


数十秒後。


戻ってきた彼の手には、

採血セットが乗った銀色のトレーがあった。


僕は思わず凪を見る。


「え……?」


「湊、

今日つまずいたって言ってたよね」


凪は落ち着いた声で言う。


「少し身体の状態見せて」


「いや、別に大丈夫だって」


「だめ」


柔らかい言い方なのに、

妙に押し返せなかった。


凪は席を立つと、

僕の左足の前へしゃがみ込む。


「ちょ、ちょっと……」


細い指が、

足首から膝へゆっくり触れていく。


膝の周りを念入りに触診していく。


恥ずかしかった。


店の雰囲気もあるし、

周囲の視線も少し気になる。


でも凪は、

そんな事を全く気にしていないみたいだった。


「湊、

いつも足組んで座ってる?」


「え?」


「左の靭帯、少し伸びてる」


凪は僕の膝の横を軽く触れながら言う。


「あんまり良くないよ」


それから立ち上がると、

今度は当然みたいに手を差し出した。


「腕」


「いや、待って」


「すぐ終わるから」


話す間もなかった。


凪は手際よく、

僕の左腕へ圧迫用のゴムを巻く。


その動きが、

異様なくらい慣れていた。


アルコールの匂い。


冷たい感触。


次の瞬間には、

もう針が腕へ入っていた。


「あっ……」


思わず肩が跳ねる。


僕は昔から、

注射が苦手だった。


でも痛みは、

ほとんどなかった。


凪は採血管へ流れる血を見ながら、

静かに目を細める。


まるで、

最初から何か分かっているみたいに。


「はい、終わり」


針が抜かれる。


小さな絆創膏。


凪は白いガーゼを軽く押さえたあと、

ポケットからスマホを取り出した。


画面へ素早く指を滑らせる。


見たことのない黒い画面。


数字や波形みたいなものが、

一瞬だけ流れた気がした。


凪は何かを確認すると、

そのままボーイへスマホを向ける。


ボーイは慣れた様子で小さく頷き、

奥へ下がっていった。


数秒後。


テーブル中央のガラス面へ、

薄い光が浮かび上がる。


透明パネルみたいな画面だった。


『朝倉 湊 23歳』


『2011年6月3日生』


そこには、

僕の情報が表示されていた。


「……なんで」


凪は画面を見たまま、

静かに言う。


「あってるよね」


「……うん。

あってるけど」


僕がそう答えると、

凪は小さく頷いた。


「じゃ、ご飯食べよっか」


そう言って、

凪はボーイへ視線を向ける。


「ボーイさん、

お願いします」


「かしこまりました、凪様」


静かな声。


まるで、

病院の受付みたいに無駄がなかった。


料理が運ばれてくる。


僕の皿には、

香草の香りが抑えられた温かい料理。


見た目も綺麗で、

すごく美味しそうだった。


でも、

凪の料理は違った。


小さな器がいくつも並んでいる。


淡い色のペースト。


透明に近いゼリーみたいなもの。


栄養食みたいな、

不思議な料理ばかりだった。


正直、

あまり美味しそうには見えなかった。


僕の視線に気づいたのか、

凪は少しだけ笑う。


「これ、

私の身体に合うように調合してあるの」


スプーンで静かに掬いながら、

凪は続ける。


「食べる量も、

順番も決まってる」


「そうなんだ……」


「ごめんね。

一口あげたいけど、

できないんだ」


「ううん、大丈夫」


僕は慌てて首を振る。


凪は小さく頷くと、

また静かに食事を始めた。


その姿は綺麗だったけど、

どこか人間っぽくなかった。


「湊」


「ん?」


凪はスプーンを置いて、

まっすぐ僕を見る。


「私に会えて嬉しい?」


突然聞かれて、

少しだけ胸が詰まる。


「もちろん」


僕は笑った。


「僕、

ずっと凪のこと好きだった」


「好き?」


凪は静かに聞き返す。


「友情?」


「違うよ」


僕は首を振る。


「そういうのじゃなくて……

ちゃんと、

女の子として好きなんだ」


凪は少し黙った。


店の静かな音楽だけが流れている。


「……私、

恋愛の意味は理解してる」


「そう、わかってる」


凪は小さく呟く。


少し考えるみたいに、

視線が揺れる。


「湊に会って、

思い出したの」


「湊のこと、

好きだったって」


僕は黙って凪を見る。


店の照明が、

彼女の横顔を淡く照らしていた。


「だから、

子供欲しい」


一瞬、

言葉の意味が分からなかった。


僕はただ、

凪を見返す。


付き合ってほしい。


本当は、

そう言いたかっただけだった。


でも凪が返した答えは、

その先まで飛び越えていた。


「私と恋愛するには条件があるの」


凪は静かな声で言った。


「決して破ってはいけない条件」


店の照明が、

グラスへ淡く反射している。


「基本的には外泊はしない」


「旅行は、

今は東京、名古屋、大阪、札幌、博多だけ」


「今後は増える予定」


僕は黙って聞いていた。


「就寝は別」


「私は専用の宿泊施設に泊まるから」


凪は迷いなく続ける。


「性行為は、

私の指示以外ではしない」


思考が追いつかなかった。


でも凪は、

本当に普通の話をしているみたいだった。


「湊の健康管理は、

全部私に任せて」


「それと、

私との関係で知った情報は極秘」


凪は静かに僕を見る。


「守れない場合、

私は湊の前からいなくなる」


食事が終わる。


ボーイが静かに下がる。


でも、

伝票は持って来なかった。


僕は少し迷いながら、

財布へ手を伸ばす。


「あっ、いくら──」


「大丈夫」


凪は自然に言った。


「ここ、

私の会社の施設だから」


「施設?」


思わず聞き返す。


凪は小さく頷く。


「この店も、

医療部門の管理下」


あまりにも普通に言うから、

逆に現実感がなかった。


その時だった。


「ボーイさん」


凪が静かな声で呼び止める。


「はい」


「今日の三皿目、

砂糖と塩の量、規定値からずれてたよね」


ボーイの表情が僅かに止まった。


「……申し訳ありません」


凪は怒っている様子もなく、

ただ淡々と続ける。


「この程度なら問題ないけど、

管理できないならシェフの入れ替えも考えて」


静かな声だった。


でも、

空気だけが少し冷えた気がした。


「それと、

今いるお客様の料理も確認して」


凪は窓際の席へ軽く視線を向ける。


「手をつけてない物は作り直し。

よろしく」


「かしこまりました」


ボーイは深く頭を下げ、

静かに下がっていった。


僕は何も言えなかった。


凪は何事もなかったみたいに、

グラスへ口をつける。


店を出る。


さっきより少し冷えた風が、

頬を撫でた。


路地の先には、

夜の東京が広がっている。


車のライト。


遠くの電車の音。


濡れたみたいに光るアスファルト。


凪は僕の少し前を歩く。


黒い髪が、

街灯の光を静かに反射していた。


「なんか、

まだ実感ないな」


「なにが?」


「凪とまた会ってるの」


凪は少しだけ笑った。


「私はあるよ」


「え?」


「湊、

昔からあんまり変わってない」


ホームへ降りる。


電車が滑り込んでくる。


ドアが開く。


仕事帰りの人達に混ざって、

僕らは車内へ入った。


凪は吊り革を持たなかった。


揺れる車内でも、

身体がほとんどぶれない。


「……すご」


「なに?」


「いや、

全然揺れないなって」


凪は少し考える。


「慣れてるからかな」


でも僕は、

朝の事を思い出していた。


駅でぶつかった時。


あの時だけ、

凪は少しだけバランスを崩した。


今思えば、

あれが初めて見た“揺れ”だったのかもしれない。


窓ガラスへ、

僕と凪の姿が映る。


凪は静かだった。


瞬きすら少ない気がした。


でも時々、

昔と同じ顔で笑う。


そのたびに僕は、

少し安心した。


駅を出る。


夜の住宅街は静かだった。


「この辺、

変わったね」


僕が言うと、

凪は夜の街を見上げた。


「うん」


昔あった古いスーパーは、

マンションになっていた。


ゲームセンターも消えていた。


中学の帰りによく寄ったコンビニだけ、

まだ残っている。


「ここ、懐かしいね」

凪が小さく笑った。


「湊と、よく駐車場のところで喋ってたよね」


そう言った凪の声だけ、

少しだけ昔に戻った気がした。


少し薄暗い、

立体交差の下のトンネルを抜けて歩いていく。


まばらな街灯が、

かろうじて家々のシルエットを浮かび上がらせていた。


「凪の家って、

この辺だったよね」


「うん」

「もう無いけどね」


凪は少しだけ歩く速度を落とした。


「今は、

道路の向こう側」


そこには、

白い十二階建ての建物が建っていた。


高級マンションという感じではない。


でも、

妙に綺麗だった。


生活感が薄い。


エントランスへ入る。


受付には、

黒い制服のコンシェルジュが立っていた。


「お帰りなさいませ、綾瀬様」


凪は軽く頷く。


僕が横を通った瞬間、

受付横のモニターへ自分の名前が一瞬表示された気がした。


「……え?」


「大丈夫」


凪は当然みたいに言う。


「認証されただけだから」


そのまま奥へ進む。


ガラス張りのフロアには、

白衣姿の人達が見えた。


病院みたいだった。


「ここ、病院?」


「一階だけね」


凪は静かに答える。


「二階はトレーニング施設。

三階は食堂」


エレベーターが静かに開く。


僕が不思議そうに建物の中を見回していると、

凪が少しだけ笑った。


「ここ、会社の社宅なの」


「社宅?」


「うん」


それから凪は、

少しだけ声を落とした。


「あと、

ここの事は秘密厳守ね」


「……え?」


「大丈夫。

湊なら問題ないから」


そう言って、

凪はエレベーターへ乗り込む。


「私の部屋、行こ」


凪は、

一番上の階を押した。


「最上階なんだ」


僕が言うと、

凪は小さく頷く。


「うん」


エレベーターは音もなく上昇していく。


数字だけが静かに変わる。


十一。


十二。


そして最上階で止まった。


ドアが開く。


廊下には、

他の部屋がなかった。


「……え?」


「この階、

私しか住んでないから」


凪は当然みたいに言う。


廊下の奥には、

黒いスーツ姿の男性が二人立っていた。


でも、

こちらを見ようともしない。


「警備?」


「うん」


凪は短く答える。


「一応、政府管理だから」


「政府?」


思わず聞き返す。


でも凪は、

もう扉へ手をかざしていた。


短い電子音。


ロックが解除される。


「この建物、

かなり頑丈なんだよ」


凪は扉を開けながら言う。


「最新の耐震設備と、

防護システム入ってるから」


「……なんかもう、

会社っていうより要塞だな」


「地下にシェルターもあるし」


凪は何でもないみたいに続ける。


「私の部屋から直通」


一瞬、

意味が理解できなかった。


部屋へ入る。


窓の外には、

東京の夜景が広がっていた。


部屋の中には、

空調の音しかなかった。


凪はソファへ腰を下ろす。


「私達、

恋人になったんだよね」


そう言って、

凪は僕を見る。


「湊、こっち来て」


僕は少し緊張しながら、

凪の隣へ座った。


「私、

恋人同士のことについては、

もう完璧だよ」


凪は少しだけ得意そうに言う。


「湊も、

こういう雰囲気好きでしょ?」


窓の向こうでは、

夜景が静かに光っている。


「……うん」


僕が頷くと、

凪は満足そうに小さく笑った。


「少し待って」


凪はスマホを手に取る。


でも、

操作しているようには見えなかった。


画面すら見ていない。


数秒後。


「はい、OK」


凪は静かに言った。


「今日は特別。

全てのアクセス切ったから」


「アクセス?」


「うん」


凪は当然みたいに頷く。


「これで、

本当に二人きり」


その言い方が、

少しだけ特別に聞こえた。


「湊、

もう少し横来て」


僕は凪の隣へ身体を寄せる。


その瞬間。


凪の瞳が、

さっきまでと少し違って見えた。


どこか虚ろで、

でも熱っぽい。


「……あ、でも」


凪が小さく呟く。


「今日は最後まではできないの」


少しだけ申し訳なさそうに、

凪は僕を見た。


「いい?」


「うん」


僕は頷く。


正直、

それでも十分だった。


こうしてまた、

凪の隣にいられるだけで。


凪は静かに、

僕の肩へ頭を預けてきた。


柔らかい髪が、

頬へ触れる。


僕はゆっくり、

凪の肩へ手を回した。


凪は少しだけ目を閉じる。


その横顔を見ていたら、

どうしてもキスしたくなった。


「……凪」


名前を呼ぶ。


凪がゆっくり顔を上げた。


近い。


昔より少し大人になった顔。


でも、

目だけは変わっていなかった。


凪は何も言わない。


ただ静かに、

僕を見ている。


僕は少しだけ迷った。


本当に触れていいのか分からなかった。


凪は普通の人じゃない。


きっと僕の知らない場所で、

僕の知らないものを背負って生きてる。


でも今は、

ちゃんとここにいる。


僕の隣に。


凪の視線が、

少しだけ揺れた。


「……湊?」


その声を聞いた瞬間、

もう駄目だった。


僕はそっと、

凪へキスをした。


柔らかかった。


少しだけ冷たくて、

でもすぐに熱を持つ。


凪の身体が、

一瞬だけ小さく震える。


僕はすぐ離れようとした。


でも。


凪の指が、

そっと僕の服を掴んだ。


離れないで、

そう言われた気がした。


もう一度、

静かに唇が重なる。


部屋には何の音もなかった。


夜景だけが、

遠くで静かに光っている。


唇が離れる。


凪は少しだけ呼吸を乱しながら、

僕を見上げた。


「……心拍、上がってる」


「え?」


「私」


凪は少しだけ目を細める。


「ちゃんと」


その言い方が、

少し嬉しそうだった。


僕は思わず笑う。


「それ、

普通そういう言い方する?」


「だって本当だよ」


凪は真面目な顔で言った。


「さっきより、

かなり上がってる」


「いや、

それは……」


恥ずかしくなって視線を逸らす。


凪はそんな僕を見ながら、

少しだけ首を傾げた。


「湊、

照れてる?」


「そりゃ照れるだろ……」


「なんで?」


「なんでって……」


凪は数秒考える。


それから小さく呟いた。


「恋人って、

難しいね」


その言い方が可笑しくて、

僕は少し吹き出した。


凪もつられるみたいに笑う。


その笑い方が、

昔と同じだった。


僕は少し安心する。


ちゃんと凪だと思えた。


凪はソファへ身体を預けながら、

静かに窓の外を見た。


「湊」


「ん?」


「今日、

会えてよかった」


夜景の光が、

横顔を淡く照らしている。


僕は少しだけ迷ってから、

もう一度凪の手を握った。


冷たいと思っていた指先は、

思ったより温かかった。


凪は手を握り返す。


でもその瞬間。


凪の視線が、

一瞬だけ遠くを見た。


何かを聞いているみたいに。


「……凪?」


凪は小さく瞬きをする。


それから、

少し困ったみたいに笑った。


「ごめん」


「仕事?」


「うん。

少しだけ」


そう言いながらも、

凪は僕の手を離さなかった。


「アクセス切ったんじゃなかったの?」


僕が聞くと、

凪は静かに首を横へ振る。


「完全には無理なの」


その声は、

少しだけ疲れて聞こえた。


「私自身は、

止められないから」


部屋が静かになる。


遠くで、

救急車のサイレンが小さく聞こえた。


凪はその音へ耳を澄ませるみたいに、

少しだけ目を閉じる。


その横顔を見ていたら、

急に胸が苦しくなった。


この人は、

ずっとこうやって生きてきたんだと思った。


誰かに必要とされ続けて。


休めなくて。


普通にもなれなくて。


僕はゆっくり、

凪を抱き寄せる。


凪は抵抗しなかった。


むしろ安心したみたいに、

静かに身体を預けてくる。


「……湊」


「ん?」


「もう少しだけ、

このままでいて」


僕は黙って頷いた。


窓の外では、

東京の夜が静かに光っていた。


そのまま数分、

僕達は何も話さなかった。


凪は僕の肩へ身体を預けたまま、

静かに呼吸をしている。


柔らかい髪が、

時々頬へ触れた。


僕はその温度を、

なるべく忘れないようにしていた。


その時だった。


凪の身体が、

ほんの少しだけ強張る。


「……凪?」


凪は返事をしなかった。


でも、

視線だけが遠くを見ている。


何かを聞いているみたいだった。


数秒後。


凪はゆっくり目を閉じる。


それから、

小さく息を吐いた。


「ごめん、湊」


「え?」


凪は僕の肩から離れる。


その動きが、

少しだけ名残惜しそうだった。


「緊急のプロトコル入った」


静かな声。


でもその瞬間だけ、

凪の空気が変わった気がした。


さっきまでの恋人の顔じゃない。


もっと別の、

大きな何かへ接続されているみたいだった。


「ここでお別れ」


「……今から?」


僕が聞くと、

凪は静かに頷く。


「うん」


それから少しだけ、

申し訳なさそうに笑った。


「SPに家まで送ってもらうね」


部屋の奥で、

小さな電子音が鳴る。


同時に、

廊下の向こうで人の気配が動いた気がした。


凪は立ち上がる。


でもすぐには離れなかった。


僕の服の袖を、

指先でそっと掴んでいる。


「今日は、

本当に嬉しかった」


その声だけは、

さっきまでと同じだった。


僕は何か言おうとした。


でも言葉が出てこない。


凪は少しだけ背伸びをすると、

最後みたいにもう一度、

軽くキスをした。


「おやすみ、湊」


そう言って離れる。


その瞬間にはもう、

凪の瞳は静かに仕事の色へ戻っていた。


「湊様、こちらへどうぞ」


黒いスーツ姿の男性が、

いつの間にか扉の横に立っていた。


「私がご自宅までお送りいたします」


「近いから大丈夫です」


「いえ」


男は丁寧に頭を下げた。


「これが仕事ですから」


僕はもう一度、

凪を見る。


凪は少しだけ近づいて、

僕をそっと抱きしめた。


「本当にごめん」


耳元で、

小さく言う。


「また、連絡するね」


「うん」


僕は頷いた。


「バイバイ」


凪は笑って、

小さく手を振った。


その笑顔は、

さっきまでの凪と同じだった。


でも扉が閉まる直前、

彼女の視線はもう、

僕ではないどこかを見ていた。

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