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ゲシュタルトな僕と、フラクタルな君  作者: 読まれる前提
1章 《凪》

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10章《名前》

「ねえ」


声がした。


「ねえってば」


懐かしい声だった。


ずっと待っていた声だった。


僕は、

ゆっくり目を開けた。


白い天井ではなかった。


低い機械音もない。


生命維持装置の光もない。


そこにあったのは、

見慣れた部屋の天井だった。


見慣れた?


カーテンの隙間から、

朝の光が入っている。


どこからか、

鳥の鳴き声がする。


キッチンの方から、

皿の触れ合う音が聞こえた。


「湊、もう六時半だよ」


凪の声だった。


「会社行くんでしょ」


僕は、

しばらく動けなかった。


「もう、早く起きてよ」

「今スクランブルエッグ作ってるからね」


凪がいる。


ただそれだけのことが、

信じられなかった。


「トーストでいいよね」


キッチンから声がした。


「早く起きて、顔洗ってらっしゃい」


僕は上半身を起こした。


心臓が、

嫌な速さで鳴っていた。


「あれ……」


声が掠れた。


「凪が、元気だ」


キッチンから、

凪が顔を出した。


「何それ」


少し眉を寄せる。


それから、

呆れたように笑った。


「寝ぼけてるの?」


その顔を見た瞬間、

胸の奥が痛くなった。


笑っている。


凪が笑っている。


僕の名前を呼んで。


朝ごはんを作って。


会社に遅れるよと、

当たり前みたいに怒っている。


「……夢か」


僕は小さく呟いた。


「すごいリアルな夢を見てた」


「また?」


凪はトーストの皿をテーブルに置きながら言った。


「最近多いね。疲れてるんじゃない?」


「そうかも」


僕はベッドから降りた。


足元が少しふらついた。


狭い寝台の感覚が、

まだ身体に残っていた。


トレーラーハウス。


暗い高速。


後部座席で眠る母と凪。


助手席の葉室音羽。


約束の地。


十二人の使徒。


赤ん坊の泣き声。


全部が、

まだ僕の中に残っていた。


夢だったはずなのに。


夢の記憶だけが、

異様に輪郭を持っていた。


凪と電車で再会してから、

一年が経っていた。


あの日、

僕は勇気を出して声をかけた。


凪だよね、と。


それだけを言うのに、

ひどく時間がかかった。


凪は驚いて、

少し固まって、

それから懐かしそうに笑った。


そこから何度も会った。


最初は夕食だけ。


次は休日に少しだけ。


その次は、

僕の母の話をした。


凪は、

相変わらず少し変わっていた。


会っている最中に、

急に黙り込んで、

どこか遠くを見ることがあった。


人の目を、

必要以上にまっすぐ見る癖も、

昔のままだった。


それでも、

僕の前で笑う時は、

昔と同じ凪のままだった。


少しずつ話して。


少しずつ近づいて。


僕たちは結婚した。


幸せだった。


凪がいる。

会社がある。

トーストがある。


すぐ目の前にある現実。


それだけで、世界は成立していた。


そこで、

僕は混乱した。


夢。


そうだ。

夢だった。


なら、誰だ。


燐って。

葉室って。

十二使徒って。


なにそれ。


「湊?」


凪が僕を見ていた。


「顔、青いよ」


「大丈夫」


「大丈夫って顔じゃない」


凪はそう言って、

僕の額に手を当てた。


温かかった。


その温度だけで、

泣きそうになった。


夢の中の凪の手は、

冷たかった。


生命維持装置の音の中で、

僕はその手を何度も握っていた。


冷たいけれど、

まだここにある手。


返事はなくても、

生きている手。


でも今、

目の前の凪の手は温かかった。


自分で動いて。


僕に触れて。


心配そうに眉を寄せていた。


「熱はなさそう」


凪は首を傾げた。


「本当に変な夢だったの?」


「うん」


「どんな夢?」


僕は答えられなかった。


眠り続ける凪。


赤ん坊の泣き声。


十二人の敬礼。


車いすの凪と歩いた、

小春日の道。


小さな子ども。


名前。


どうしても、

そこだけが思い出せない。


そんなものを、

どう説明すればいいのか分からなかった。


「忘れた」


嘘だった。


全部覚えていた。


覚えすぎていた。


凪は少しだけ目を細めた。


「ほんとに?」


「ほんと」


「湊、嘘下手だよね」


そう言って、

凪は笑った。


その笑い方が、

夢の中で何度も求めていたものそのものだった。


僕は、

息を飲んだ。


現実のはずなのに。


この朝の方が、

夢みたいに見えた。


「会社、遅れるよ」


凪はそう言って、

テーブルに皿を並べた。


トースト。


スクランブルエッグ。


小さなサラダ。


湯気の立つコーヒー。


どこにでもある朝食だった。


でも僕には、

それが奇跡みたいに見えた。


「食べないの?」


凪が聞いた。


「食べる」


僕は椅子に座った。


トーストを手に取る。


焼き目のついたパンの匂いがした。


あの場所には、

こんな匂いはなかった。


消毒液。


金属。


機械油。


乾いた空調。


あそこにあったのは、

必死に生きている匂いだけだった。


「また、ぼーっとしてる」


凪が向かいに座る。


「本当に大丈夫?」


「うん」


「ならいいけど」


凪はカップを両手で包んだ。


その仕草を見て、

胸の奥がまた痛んだ。


夢の中の凪は、

自分でカップを持てなかった。


僕が毛布をかけて。


髪を払って。


手を拭いて。


冷えないようにしていた。


全部、

僕がやった。


それでも足りなかった。


僕は介護をしたかったわけじゃない。


凪と恋をしていたかった。


朝ごはんを食べて。


会社に遅れるとか。


トーストが焦げたとか。


そんな話をしたかった。


今、それが目の前にある。


あるはずなのに。


なぜか、

もうすぐ失われるものに見えた。


「大切な話があるの」


凪が言った。


「今日、帰ってから話そうか悩んだけど、やっぱり今言うね」


「何?」


凪は少し照れたように視線を逸らした。


それから、

お腹に手を当てた。


「赤ちゃんできたみたい」


音が消えた。


本当に、

世界から音だけが抜け落ちた。


「……赤ちゃん?」


「うん」


凪は小さく頷いた。


「まだちゃんと病院で確認したわけじゃないけど、たぶん」


僕は、

凪のお腹を見た。


そこにはまだ、

何の変化もない。


でも僕の中ではもう、

小さな泣き声が響いていた。


雪の残る朝。


葉室の声。


凪の苦しそうな息。


「頭が見えてきました」


「もう少しです」


獣のような声。


握った手の震え。


腕の中に乗った、

小さな重み。


名前。


その名前だけが、

どうしても出てこなかった。


「湊?」


凪が不思議そうに僕を見た。


「どうしたの?」


「いや……」


僕は首を振った。


「嬉しくて」


それは本当だった。


でも、

それだけではなかった。


怖かった。


嬉しいのに、

怖かった。


夢の中で見た未来が、

音もなく近づいてきた気がした。


凪は、

少しだけ照れたように笑った。


「私、この子に付けたい名前があるの」


心臓が跳ねた。


「名前?」


「うん」


僕は、

凪の顔を見た。


「どんな名前?」


凪は少し考えるように僕を見た。


それから、

悪戯っぽく笑った。


「まだ内緒」


「内緒?」


「うん。ちゃんと確かめてから言う」


凪が笑う。


普通の朝の中で。


トーストの匂いのする部屋で。


会社に遅れそうな時間に。


何も壊れていない世界で。


凪が、

僕に笑っていた。


僕は笑い返そうとした。


うまく笑えたかは、

分からなかった。


内緒。


まだ聞いていない名前。


でも僕は、

その名前を知っている気がした。


思い出さなければならない気がした。


「湊?」


凪が僕の顔を覗き込む。


「本当に大丈夫?」


僕は頷いた。


「大丈夫」


また嘘をついた。


夢は終わったはずだった。


復活日も。


眠り続ける凪も。


なのに。


凪の笑顔を見ながら、

僕は思った。


この朝の方が、

夢なのかもしれない。


「ねえ」


凪が言った。


「本当に嬉しい?」


「嬉しいよ」


今度は、

ちゃんと答えられた。


「すごく嬉しい」


凪は安心したように笑った。


「よかった」


その笑顔を見て、

僕は胸の奥で思った。


守りたい。


この朝を。


この笑顔を。


まだ名前も知らない、

でもなぜか知っている気がする子どもを。


夢の中で失ったものを、

現実では失いたくなかった。


けれど同時に、

どこか遠い場所で。


山奥の、

地図に載らない約束の地で。


もう一人の僕が今も、

眠る凪の手を握っている気がした。


「湊」


凪が、

僕の名前を呼んだ。


その声は、

夢の中で十八年待った声だった。


「会社、遅れるよ」


あまりにも普通の言葉だった。


だから、

泣きそうになった。


「うん」


僕は頷いた。


「行ってくる」


「うん。行ってらっしゃい」


凪はそう言って、

玄関までついてきた。


靴を履く僕の背中に、

いつものように声をかける。


「今日は早く帰ってきてね」


「何かあるの?」


「病院、行ってくるから」


凪は少し照れたように笑った。


「結果を早く湊に伝えたい」


「ああ」


僕は振り返った。


「分かった。早く帰る」


「約束ね」


約束。


その言葉に、

心臓が小さく鳴った。


約束の地。


復活日。


十八年。


十二人。


それらの言葉が、

一瞬だけ重なった。


でも目の前にいる凪は、

何も知らない顔で笑っている。


「湊?」


「うん」


僕は笑った。


今度は、

ちゃんと笑えたと思う。


「約束する」


凪は満足そうに頷いた。


「行ってらっしゃい」


僕は玄関を出た。


朝の光が眩しかった。


いつもの道だった。


いつもの駅へ向かう、

いつもの朝の道。


僕は昔から、

何もない場所でよくつまずいた。


段差もない。


石もない。


道は平らなのに、

足だけが一拍遅れる。


見えない段差だけが、

いつもそこにあった。


なのに今、

僕の足は止まらなかった。


何にも引っかからず、

何にも乱されず、

ただ正確に前へ出た。


完璧すぎるほど、

滑らかだった。


その違和感だけが、

皮膚の下に、

異物のように残った。


ここは現実だ。


そう言い聞かせる。


凪は元気で。

赤ちゃんができて。

名前はまだ内緒で。


それ以上、

何もないはずだった。


けれど、

何もない場所でつまずかない足だけが、

この世界の嘘を知っていた。


顔を上げると、

交差点の信号が青に変わった。


けれど、

その青が一瞬だけ遅れたように見えた。


遅れたのは信号なのか。


僕なのか。


世界の方なのか。


分からなかった。


凪が止まったから、

時間がずれた。


そんな言葉が、

どこかで聞こえた気がした。


僕は首を振った。


いつもの道。


いつもの駅。


いつもの通勤時間。


何も変わっていないはずだった。


でも、

世界の輪郭が少しだけ違って見えた。


信号の青が、

妙に鮮やかだった。


車の流れが、

不自然に整いすぎていた。


駅の改札が開く音が、

警報のように耳に残った。


僕はそのまま、

流れに押されるようにホームへ向かった。


何度も通ったはずの駅だった。


それなのに、

足元だけが、

少し遠い。


僕は立ち止まった。


深く息を吸った。


ホームに電車が入ってくる。


風が吹いた。


その風の中で、

葉室の声を聞いた気がした。


「復活日まで、よろしくお願いします」


僕は振り返った。


誰もいなかった。


人混みだけが、

いつも通り流れていた。


僕は鞄を握り直した。


夢は、

まだ終わっていないのかもしれない。


いや。


もしかしたら、

今ここから始まるのかもしれない。


電車の扉が開く。


僕は一歩、

その中へ踏み出した。


どうしても思い出せない名前。


けれど、

その名前になるはずの音だけが、

頭の奥で何度も響いていた。


記憶の奥で、

小さな手が扉を叩いている。


その手が、

かすかに錠を回す。


かちり。


小さな音がした。


その瞬間、

扉の隙間から、

光の粒がこぼれた。


それは朝の光ではなかった。


僕の意識の奥へ入り込み、

記憶の形を変えていく。


忘れていたはずの音が、

ひとつずつ組み上がる。


僕は、

その名前を思い出した。


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