11章 《鍵》
白い天井に戻っていた。
朝食を作る台所の匂いは、もうなかった。
凪の声もない。
朝の光もない。
あるのは、電子音だけだった。
ひとつ。
また、ひとつ。
僕の呼吸に合わせて鳴っているのか。
それとも、僕の呼吸を管理しているのか。
もう、よく分からなかった。
目だけを動かす。
白い壁。
透明なカーテン。
点滴。
チューブ。
モニター。
そして、眠り続ける凪。
さっきまで、凪は立っていた。
僕を起こしていた。
朝食を作っていた。
会社に遅れるよと、いつもの声で言っていた。
赤ちゃんができたと、少し照れて笑っていた。
名前はまだ内緒だと、悪戯っぽく笑っていた。
あれは、夢なのか。
夢だとは信じられないぐらいリアルだった。
でも今、凪は目を閉じている。
薄い胸だけが、機械に合わせて上下していた。
僕は手を伸ばした。
届かなかった。
次に、足を動かそうとした。
感覚はあった。
爪先の冷たさ。
膝の裏に触れるシーツ。
ふくらはぎの重さ。
足首を回そうとする感覚。
全部、あった。
なのに。
布団の下に、足はなかった。
「……」
声にならなかった。
もう一度、動かそうとした。
右足の指を曲げる。
左の踵を浮かせる。
ベッドから降りる。
凪のそばまで歩く。
できる気がした。
けれど、何も動かなかった。
動くものが、もうなかった。
現実に追いつけない。
恐怖だけが先に来て、悲しむことさえできなかった。
「朝倉さん」
葉室が立っていた。
白衣ではなかった。
薄いグレーの作業服。
目の下には、深い影があった。
疲れているように見えた。
申し訳なさそうにも見えた。
でも、その顔は静かだった。
できれば話をしたくない、
人間の顔だった。
「目が覚めましたか」
僕は答えられなかった。
葉室は、ゆっくり頭を下げた。
「すみません」
声は低かった。
「私が切断しました」
何を。
そう聞く必要はなかった。
分かっていた。
分かりたくなかっただけだ。
「両足とも、壊死が進んでいました。感染が全身に回れば、今の朝倉さんの身体では耐えられません」
僕は、布団の下の空白を見ていた。
「他に方法はありませんでした」
「……他に」
ようやく声が出た。
「他に方法がなかったら、何をしてもいいんですか」
葉室はすぐには答えなかった。
電子音だけが、部屋に残った。
「これは、現実じゃない」
僕は呟いた。
「まだ夢の中にいるんだ」
凪のいる朝に戻りたかった。
台所の匂い。
会社に遅れると怒る声。
赤ちゃんの名前を、内緒だと笑う顔。
つまずける足が欲しかった。
何もない場所で転べる、僕の足が欲しかった。
「葉室さん」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「僕は、どうなるんですか」
葉室は僕を見た。
少しだけ、間があった。
その間が怖かった。
「必ず助けます」
「何を?」
「湊さんを」
「足がなくなったんだ」
声が震えた。
「これ以上、まだ何かするんですか」
葉室は目をそらさなかった。
「凪さんから頼まれています」
その名前で、胸が痛くなった。
「湊を死なせないで、と」
僕は黙った。
「だから私は、朝倉さんを死なせません」
「僕が、もういいって言ったら」
葉室は答えなかった。
その沈黙で分かった。
僕の意思だけでは、もう止まらない。
凪の願いが、僕の命より強い場所に置かれていた。
「……凪は」
僕は凪を見た。
「僕を助けたかったんですよね」
「はい」
「それだけですよね」
葉室の表情が、わずかに変わった。
本当に小さな変化だった。
でも、その一瞬で分かった。
まだ何かある。
「葉室さん」
僕は声を絞り出した。
「何を隠してるんですか」
葉室は答えなかった。
「僕の身体のことですか」
「……それもあります」
「それも?」
葉室は凪を見た。
眠り続ける凪を。
「凪さんは、いろいろな準備をしていました」
「準備?」
「朝倉さんが、ここまで悪くなる前からです」
「何のために」
「あなたを、死なせないために」
「またそれですか」
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「死なせないって、何なんですか。足を切って、管につないで、眠らせて、それでも生きてるって言うんですか」
葉室は唇を結んだ。
「私にも、正しいとは言えません」
その言葉が、意外だった。
葉室はいつも、正しいことだけを選んでいるように見えた。
でも今は違った。
間違っていると分かっていて、それでも手を止められない人間の顔だった。
「じゃあ、やめてください」
僕は言った。
「もう、やめてください」
葉室は答えなかった。
答えないことで、答えた。
やめられないのだ。
凪が始めたことは、凪が眠っている今も続いている。
そのことだけが分かった。
「義足を作ります」
葉室が言った。
急に話を変えたように聞こえた。
でも、たぶん違う。
葉室は、今の僕がこれ以上聞けば壊れると思ったのだ。
「有葉井さんたちが、神経接続型のものを準備しています。時間はかかりますが、歩けるようにはなります」
「歩けるように」
「はい」
「それで、大丈夫になるんですか」
葉室は少し黙った。
「以前のように歩けるとは、言えません」
その答えは、意外だった。
「でも、できることは増えます」
「できること?」
「凪さんのそばに行ける。詩音くんを抱ける。自分の意思で動ける」
僕は布団の下を見た。
足はない。
それでも、まだ僕に意思があると葉室は言った。
その言葉が、慰めなのか、残酷なのか分からなかった。
眠る。
目覚める。
また眠る。
また目覚める。
境目が、少しずつ曖昧になっていった。
覚えていない夢を、たくさん見た。
見たことだけは分かる。
でも、内容は残らない。
匂いだけ。
声だけ。
誰かの手の温度だけ。
目を閉じるたび、僕はどこかに行った。
目を開けるたび、少しだけ僕ではなくなっていた。
小さな手が見えた。
僕の手ではなかった。
白い天井が見えた。
僕が見ている天井なのか、詩音が見ている天井なのか分からなかった。
泣き声がした。
詩音だと思った。
けれど、濡れていたのは僕の頬だった。
葉室が詩音を抱き上げる。
その重さを、僕は知っていた。
違う。
僕の腕は何も抱いていない。
なのに分かる。
小さな背中。
柔らかい首。
白衣の匂い。
胸の奥の心音。
抱いているのか。
抱かれているのか。
分からなくなる。
「朝倉さん。聞こえますか」
聞こえている。
けれど、返事をするまでに時間がかかった。
口が、僕の命令を待たなくなっていた。
「……聞こえる」
声は出た。
でも、それが僕の声なのか分からなかった。
葉室は端末を見た。
「同調率が上がっています」
葉室は、端末から目を離さなかった。
「同調?」
「朝倉さんと、詩音くんの反応です」
僕は詩音を見た。
小さなベッドの中で眠っている。
ただの赤ん坊にしか見えない。
「どういう意味ですか」
「良い兆候です」
「何が良くて、
何が悪いのか、
さっぱりわかりません」
葉室は黙った。
「詩音に何が起きてるんですか」
「今は、なんとも言えません」
「今は?」
葉室は、詩音から目を離さなかった。
「結局は、凪さんにしか分かりません」
「凪に?」
「私たちは、凪さんが残した手順を進めているだけです」
それ以上、葉室は答えなかった。
僕は詩音を見た。
小さな胸が上下している。
ただ眠っているだけに見える。
でも葉室も詩音を怖がっているように思えた。
それが伝わってきた。
——————
ある夜、警報で目が覚めた。
低く、短い音。
それだけで、施設の空気が変わった。
矢古部が走る。
比良坂が端末を開く。
有葉井が工具を置く。
葉室の目が細くなる。
「何ですか」
「侵入者です」
「燐の?」
葉室は答えなかった。
それで十分だった。
詩音は泣かなかった。
小さなベッドの中で、ただ警報を聞いているようだった。
捕まったのは三人だった。
避難民を装っていたらしい。
全員、首の奥に何かを埋め込まれていた。
僕はそこへ行けなかった。
身体は動かない。
足はない。
でも、音だけは届いた。
低い声。
金属音。
荒い呼吸。
葉室の声。
「動かないでください」
沈黙。
「無理に逆らわないで。命令と自分の意思を分けてください」
比良坂が言った。
「信号が強い。まだ外から入ってる」
有葉井が言った。
「切ります。少し痛みます」
そのあと、誰かが叫んだ。
すぐに止まった。
叫び声より、その後の静けさの方が嫌だった。
しばらくして、葉室の声がした。
「もう大丈夫です」
誰かが、荒い息をしていた。
「ここに残りたいなら、助けます」
葉室は言った。
「でも、まだ向こうと繋がりたいなら、ここには置けません」
間があった。
掠れた声が返った。
「助けてください」
その瞬間、詩音が小さく震えた。
僕も震えた。
どちらが先かは分からなかった。
取り出されたものは、有葉井の元へ運ばれた。
透明なケースの中に、小さな金属片が入っていた。
アノード用チップ。
小さい。
前に凪から取り出したものより、
ずっと。
それだけで、嫌な予感がした。
有葉井はチップを光に透かした。
「よくできています」
「褒めてるんですか」
葉室が言った。
「はい」
「本当に、よくできている」
有葉井はケースを机に置いた。
「これは命令用です。人間を動かすためだけの仕組みです」
「燐のやり方ですね」
「はい。一方向です。上から命令を流して、下は従う。それだけです」
有葉井は、そこで一度言葉を止めた。
そして、詩音の方を見た。
「でも……」
「有葉井さん」
葉室が低い声で止めた。
有葉井は口を閉じた。
「すみません。今は、言うべきではありませんね」
僕は二人を見た。
「何ですか」
誰も答えなかった。
「そのチップと、詩音に何の関係があるんですか」
葉室は答えない。
有葉井も答えない。
けれど、二人とも詩音を見ていた。
僕の中で、嫌な音がした。
かちり。
何かが閉じた音ではなかった。
何かが開いた音だった。
その夜、僕は夢を見た。
いや。
夢だったのかどうかも分からない。
誰かの首の奥で、金属が熱を持っていた。
撃て。
命令が、神経に落ちてくる。
逆らいたい。
逆らえない。
泣きたい。
でも泣けない。
母の名を呼びたい。
でも名前が出てこない。
命令が、全部を塗りつぶしていく。
僕はその人間だった。
同時に、それを見ている何かでもあった。
小さな身体。
まだ言葉を持たない喉。
柔らかい舌。
大きすぎる世界。
怖い。
そう思った瞬間、詩音が泣いた。
葉室が駆け寄る。
僕は叫ぼうとした。
声は出なかった。
僕の声は、詩音の喉の奥で止まっていた。
暗闇の中で、また音がした。
かちり。
その音がした瞬間、別の景色が流れ込んできた。
僕のものではなかった。
詩音のものでもなかった。
冷たい泥の匂いがした。
僕は地面を這っていた。
手ではない。
足でもない。
腹の下で、濡れた大地が震えている。
空は赤かった。
遠くで、巨大な影が動いた。
牙。
鱗。
血の匂い。
折れる骨の音。
言葉はなかった。
名前もなかった。
ただ、命令だけがあった。
生きろ。
食え。
逃げろ。
増えろ。
変われ。
変われなかったものは、消える。
その感覚が、骨よりも深い場所から湧き上がってきた。
僕は叫ぼうとした。
でも、僕の喉はなかった。
目を開けようとした。
でも、まぶたもなかった。
名前を思い出そうとした。
でも、名前というものがまだ世界に存在していなかった。
そこには、ただ生きることだけがあった。
生きるために奪う。
生きるために変わる。
変われなかったものは、滅びる。
その奥で、何かがこちらを見ていた。
目ではない。
意識でもない。
巨大な記録だった。
地球が、見ていた。
詩音の泣き声で、僕は目を開けた。
白い天井。
電子音。
眠る凪。
葉室が詩音を抱き上げていた。
「大丈夫」
葉室は詩音に言った。
「大丈夫です」
でも、その声は震えていた。
翌朝、僕は自分の誕生日を思い出せなかった。
年齢も。
足を失った日も。
眠りと目覚めの境目も。
どこまでが僕の記憶なのか、分からなくなっていた。
名前だけが残っていた。
朝倉湊。
読める。
分かる。
でも、それが自分の名前なのか、誰かに貼られた札なのか分からなかった。
詩音は、凪のベッドの横で眠っていた。
小さな胸が、静かに上下している。
その寝息が、僕の呼吸と重なった。
ひとつ。
ふたつ。
また、ひとつ。
僕の呼吸なのか。
詩音の呼吸なのか。
分からなくなる。
「朝倉さん」
葉室が言った。
「聞こえますか」
聞こえている。
でも、僕は返事をしなかった。
返事をしたのは、詩音だった。
小さく息を漏らしただけだった。
けれど葉室は、僕ではなく詩音を見た。
胸の奥が冷えた。
間違えたのではない。
葉室は最初から、詩音の反応を見ていた。
「早すぎる」
葉室が小さく言った。
「何が」
僕は聞いた。
葉室は答えなかった。
「葉室さん」
今度は、はっきり言った。
「隠さないでください」
葉室は目を閉じた。
長い沈黙のあとで、言った。
「今は、まだ言えません」
「またそれですか」
「すみません」
「僕のことですか」
「はい」
「詩音のことでもあるんですね」
葉室は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
僕は詩音を見た。
詩音も、僕を見ていた。
赤ん坊の瞳。
何も知らない顔。
その奥に、一瞬だけ、別のものが見えた。
文字のようで。
音のようで。
名前のようなもの。
SION。
瞬きをした。
もう一度見ると、そこにいたのはただの赤ん坊だった。
小さくて。
頼りなくて。
何も知らない顔をしていた。
だから僕は、その名前を飲み込んだ。
まだ呼んではいけない。
今はまだ、詩音でいい。
今はまだ、人間でいてほしい。
凪を見る。
いつもと同じで、眠っていた。
何も言わない。
けれどその時、凪の指が、ほんの少し動いた気がした。
本当に動いたのか。
僕がそう見たかっただけなのか。
葉室は何も言わなかった。
だから余計に、隠しているものの輪郭だけが見えた。
葉室は何かを、知っている。
凪が何を始めたのか。
詩音に何が起きているのか。
僕の中で、何が壊れ始めているのか。
そして。
それがもう、誰にも止められないところまで来ていることも。
モニターの音だけが鳴っていた。
ひとつ。
また、ひとつ。
その奥で、かすかに音がした。
かちり。
有葉井がケースを閉じた音。
夢の中で聞いた錠の音。
僕の奥で、何かが開いた音。
そして、どこかで聞いた終わりの音。
僕は聞かなかったことにした。
けれど、もう遅かった。
鍵は、開いていた。
僕の奥で、まだ開いてはいけない場所まで、音が届いていた。
思考が、静かにほどけていく。
僕の形を保てないほど、深いところで。




