12章 《不可解》
誰かに、肩を揺さぶられていた。
目を開けると、そこは薄暗かった。
白い天井ではない。
モニターの音もない。
薬品の匂いもない。
湿った土の匂いがした。
僕は、葉を集めた寝床の上に横たわっていた。
柔らかいベッドではない。
目を凝らす。
壁が見えた。
岩だった。
天井も岩。
床も岩。
空気は冷たく、重い。
洞穴。
そう思った瞬間、また身体を揺さぶられた。
目の前に、何かがいた。
毛むくじゃらの動物だった。
大きな腕。
広い肩。
黒い毛。
獣のような匂い。
それが、僕に向かって声を上げていた。
言葉ではなかった。
けれど、意味は分かった。
もうすぐ朝になる。
食べ物がない。
子どもが生まれる。
何か、獲ってきて。
僕は、その声を理解していた。
理解していることを、不思議だとは思わなかった。
ゆっくり身体を起こす。
そこで気づいた。
僕も、同じだった。
腕は太い。
胸は厚い。
身体は筋肉で覆われていた。
皮膚の上には、硬い毛が密集している。
人間ではない。
目の前の生き物が、僕を見ていた。
黒い毛の奥にある目。
凪とはまったく似てない。
けれど、僕はその目を知っていた。
僕を見つける目。
僕を選ぶ目。
僕に、生きろと命じる目。
姿は違う。
言葉も違う。
時代も違う。
それでも、その奥にあるものだけは同じだった。
フラクタルな凪の一部。
僕は、何も言わなかった。
いや、言える言葉を持っていなかった。
でも分かった。
守らなければならない。
それだけは、分かった。
身支度もなく、洞穴の外へ出た。
朝はまだ来ていなかった。
空の深い所は群青色。
夜と朝の境目で、
世界はまだ、どちらのものでもなかった。
煌めく星が残っていた。
けれど、その星に名前はなかった。
北も南もない。
春も秋もない。
昨日も明日もない。
ただ、冷たい光だけが、
濡れた草の先に小さく宿っていた。
辺りは、黒と灰色のあいだで、
世界がゆっくり形を取り戻していた。
風が吹いた。
草が揺れた。
低い場所に、白い霧が溜まっている。
霧は川のように流れ、
草のあいだを這い、
岩の影を飲み込みながら、
少しずつ朝の方へ逃げていった。
遠くで、水の音がした。
川なのか。
沼なのか。
まだ見えない海なのか。
分からない。
でも、その音だけで喉が鳴った。
水がある。
命がある。
そう身体が知っていた。
目の前には、草原が広がっていた。
ただの草原ではなかった。
背の高い草。
硬い葉を持つ低木。
巨大な羊歯のような植物。
見たこともない花。
花は小さく、
色だけが異様に鮮やかだった。
赤。
黄。
紫。
白。
誰に見せるためでもなく、
誰に名づけられるためでもなく、
ただそこに咲いていた。
朝露が、その花びらを濡らしている。
露の一粒一粒の中に、
逆さまの空が入っていた。
美しかった。
そう思った。
けれど、それを美しいと名づける生き物は、まだいなかった。
守りたい景色でもない。
残したい風景でもない。
懐かしい場所でもない。
ただ、もがきながら生きているものが、生きているまま、そこにある。
それだけの美しさだった。
空の端が、少しずつ明るくなっていく。
群青の底に、
薄い紫が滲む。
紫はやがて灰色を押しのけ、
灰色の奥から、まだ弱い金色が生まれた。
光が草の先に触れる。
草が光る。
霧が光る。
岩の濡れた面が光る。
世界が、一度だけ息を吸ったように見えた。
建物はない。
道もない。
電柱もない。
鉄も、ガラスも、灯りもない。
誰かが何かを作った跡はなかった。
誰かが何かを壊した跡もなかった。
文明の手が触れる前の世界だった。
いや。
文明という言葉が、
まだ必要とされていない世界だった。
悠々たる天壌。
遼々たる古今。
僕は、その中に立っていた。
ここには、正義も罪もなかった。
国も、神も、名前もなかった。
あるのは、寒さ。
空腹。
そして、獣の匂いだけだった。
生きることだけが、理だった。
その理は、単純だった。
けれど、残酷ではなかった。
ただ、容赦がないだけだった。
花が咲くこと。
草が伸びること。
獣が走ること。
腹が減ること。
血が流れること。
子が生まれること。
何かが死ぬこと。
すべてが、同じ線の上にあった。
その線のどこにも、
意味は書かれていなかった。
ただ、続いていくだけ。
しばらく、匂いを追って歩いた。
考えているのではない。
身体が知っていた。
どちらへ進めばいいのか。
どこに獲物がいるのか。
どこから、死が近づいてくるのか。
僕には、足があった。
太く、重く、強い足。
土を踏む。
石を踏む。
草を踏み締める。
湿った土が、指の間に入り込む。
小さな虫が跳ねる。
見えない鳥のようなものが鳴く。
草の奥で、何かが逃げる。
すべてが近かった。
音も。
匂いも。
温度も。
命も。
世界との距離が、なかった。
僕は世界の中にいるのではなく、
世界の一部として動いていた。
迷いもなかった。
どこまでも歩ける気がした。
腹が減っていた。
それが、すべてだった。
水平線が茜色に染まった時、
鹿に似た生き物を見つけた。
細い脚。
長い首。
濡れた鼻。
こちらに気づいていない。
距離はある。
道具はない。
槍もない。
刃もない。
弓もない。
僕は足元を見た。
あるのは、石だけだった。
手のひらほどの石。
いつもの僕なら、
まともに投げられない大きさだった。
でも今の僕は、躊躇しなかった。
拾い上げる。
重い。
けれど、ちょうどいい重さだった。
鹿まで、およそ三十メートル。
その時、自分の目が異様によく見えていることに気づいた。
草の先。
鹿の耳の震え。
呼吸で揺れる腹。
目の奥の光。
全部、見えた。
僕は石を握った。
肩が動く。
背中がしなる。
腕が勝手に軌道を知っている。
考えるより先に、投げていた。
石は空気を裂いた。
そして、鹿に似た生き物の頭に当たった。
鈍い音がした。
獲った。
そう思った。
その瞬間、背後に気配を感じた。
振り向いた。
気配を感じた瞬間に逃げていれば、間に合ったのかもしれない。
けれど、判断は一拍遅れていた。
そこには、僕と同じ生き物がいた。
腕を振り抜いた姿勢のまま、こちらを見ていた。
飛んでくる石に焦点が合う。
石は、回転していた。
見つめるほどに、
その回転はゆっくりになっていく。
朝露に濡れた膨らみが光り、
次の瞬間には、
ごつごつとした裏側がこちらを向いた。
その模様が、
ひどく綺麗に見えた。
避けられない。
その一瞬で、いくつもの景色が流れ込んできた。
洞穴。
火。
獣。
飢え。
産声。
血。
石。
奪う手。
守る手。
殺す手。
これは、僕の記憶ではない。
凪との記憶でもない。
もっと古い。
もっと深い。
血の底に沈んでいた記憶。
人間になる前の記憶。
石が、僕の頭に当たった。
鈍い音がした。
痛みより先に、音が来た。
僕は死んだのか。
わからない。
眠りに落ちていくように、
光が消えていった。
感じたことのないほど、
熱い血が吹き出してくる。
地面に染み込むよりも早く、
それは僕の下に血だまりを作っていった。
——————
目が覚めた瞬間、
身体中に痛みを感じた。
白い天井だった。
戻ってきた。
そう思った。
僕は、腕を動かした。
そのはずだった。
指を曲げる感覚がある。
手のひらを開く感覚もある。
布団を掴もうとする感覚さえあった。
けれど、布団は動かなかった。
目だけを動かして、身体を見た。
肩の先で、
僕は途切れていた。
息が止まった。
声は出なかった。
叫ぶことも、できなかった。
掴むものがなかった。
縋るものがなかった。
自分の身体を確かめる手さえ、もうなかった。
なのに、ある。
まだ、ある。
あの草原で、石を握った腕。
大きな石を、簡単に投げた腕。
その感覚だけが、僕の中に残っていた。
僕は、少し遅れて理解した。
足の次は、腕だった。
「……夢だ」
けれど本当は、もう分かっていた。
夢ではない。
少なくとも、ただの夢ではない。
僕の身体は、まだ死んでいない。
死ねないまま、
病に削られ続けている。
なのに、意識だけは澄んでいく。
失うほど、遠くが見えた。
目の前で、何かが動いた。
詩音だった。
大きくなっていた。
赤ん坊ではない。
幼い顔の中に、凪の面影があった。
僕の面影も、少しだけあった。
詩音は椅子に座っていた。
小さな器を抱えるようにして、食事をしている。
箸ではない。
スプーンでもない。
手で、直接、口へ運んでいた。
その手が食べ物を掴む。
ないはずの指に、感触があった。
柔らかい。
温かい。
少し湿っている。
詩音が口に入れる。
僕の舌に、味が広がった。
違う。
これは僕じゃない。
僕の手はない。
僕は何も掴んでいない。
何も食べていない。
なのに、分かる。
掴む感覚。
噛む感覚。
飲み込む感覚。
それは、詩音の感覚だった。
僕は理解できなかった。
何が起きているのか。
どこまでが僕なのか。
どこからが詩音なのか。
分からなかった。
「朝倉さん」
葉室の声がした。
葉室は、僕が目を覚ましたことに気づいていた。
前より痩せていた。
髪に白いものが混じっている。
目の下の影は、さらに深くなっていた。
「聞こえますか」
僕は返事をしようとした。
声が出るまでに、時間がかかった。
「……腕」
葉室は、目を伏せなかった。
もう謝る顔もしなかった。
「壊死が広がっています」
静かな声だった。
「両腕だけではありません。もう、身体中に進んでいます」
僕は葉室を見た。
「処置しなければ、朝倉さんはとっくに死んでいました」
「だったら」
言葉が掠れた。
「死なせてくれればよかった」
「それだけは、できません」
葉室は即答だった。
答えは、決まっていたのだ。
「どうして」
「凪さんとの決め事だからです」
凪。
その名前だけが、まだ痛みを持っていた。
「凪さんは、そう言いました」
葉室は続けた。
「湊を死なせないで、と」
「それが、私の役目です」
「これで、まだ生きてるって言えるんですか」
少し考えてから、葉室は答えた。
「朝倉さんは、生きています」
「それ、答えになってない」
葉室は唇を結んだ。
「私にも、分からないことがあります」
その言葉は、意外だった。
葉室はいつも、何かを知っている顔をしていた。
何かを隠している顔をしていた。
でも今は違った。
知っているのに、分からない。
分からないのに、やめられない。
そんな顔だった。
僕は凪の方を見ようとした。
身体のバランスが取れないから、
首がうまく動かなかった。
視界の端に、眠り続ける凪がいた。
変わっていないように見えた。
いや。
変わっていないはずがなかった。
変わらないように見えるのは、
眠っているからだ。
時間の外に置かれているからだ。
「ここに来て、十二年が過ぎました」
葉室が言った。
十二年。
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
赤ん坊だった詩音が、食事をしている。
大きくなった手で。
自分の意志で。
そして、その感覚だけが、僕に流れ込んでくる。
十二年。
僕は、その時間を生きていたのか。
眠っていたのか。
切られながら。
失いながら。
残されながら。
「十二年……」
声が震えた。
「僕は、そんなに」
「はい」
葉室は短く答えた。
「何度も目を覚ましています」
「でも、覚えていない時間の方が多いと思います」
「大丈夫です」
「全て、残っています」
葉室の言っている意味がわからない。
「詩音は」
僕は詩音を見た。
「ずっと、ここに?」
「はい」
「凪のそばに?」
「はい」
詩音は何も言わず、食事を続けていた。
横目でちらちら、こちらを見ながら、
まるであの原始人のように、手づかみで貪り食べていた。
もう、子どもの目ではなかった。
いや。
迷いというものを、まだ一度も知ったことがない目。
自分の行く先を、疑う必要さえない目。
吸い込まれそうで怖い目。
「約束の時まで、もう少しです」
葉室が言った。
「受け入れの状態も、よくなってきました」
「受け入れ?」
「詳しくは、分かりません」
「またそれですか」
「すみません」
「葉室さん」
僕は、できるだけはっきり言った。
「もう、終わりにしてください」
葉室は答えなかった。
「進んでいる方向が、間違っている」
声が、自分のものではないみたいに聞こえた。
「嫌な予感しかしないんです」
葉室は、やはり答えなかった。
その沈黙の中で、詩音がもう一度、食べ物を掴んだ。
僕のない指が、それを感じた。
詩音が飲み込む。
僕の喉が、勝手に動いた気がした。
「殺して」
そう言ったつもりだった。
声になったかは分からない。
葉室が点滴に手を伸ばした。
透明な管の途中に、小さな薬液が入っていく。
僕はそれを見ていた。
見ているしかなかった。
「少し眠りましょう」
葉室が言った。
「身体が持ちません」
違う。
眠るんじゃない。
眠らされるんだ。
そう理解した時には、もう遅かった。
まぶたが重くなる。
詩音の手が動く。
凪は眠っている。
葉室は、僕を見ている。
十二年。
もう少し。
受け入れ。
約束の時。
何が。
何のために。
誰のために。
問いは形になる前に、沈んでいった。
電子音が遠ざかる。
ひとつ。
また、ひとつ。
僕はまた、眠りの底へ落ちていった。
沈んでいく。
深く。
もっと深く。
けれど、底などなかった。
眠りの底だと思っていた場所には、
さらに古い眠りが重なっていた。
僕の記憶の下に、凪の記憶がある。
凪の記憶の下に、詩音の記憶がある。
詩音の記憶の下に、もっと古いものがある。
伝承より古いもの。
人間より古いもの。
神より古いもの。
血の奥で、
閉じたまま待っていた記録。
それが、ゆっくり目を開ける。
洞穴ではない。
火でもない。
獣の匂いでもない。
次に開こうとしているものは、
野蛮な世界ではなかった。
遥かに遠い。
もっと静かで。
もっと冷たく。
もっと美しい。
そしてたぶん、
人類がまだ痕跡すら見つけていない文明だった。




