第9話 キャンプインなんやで
翌朝、拓海が厨房に下りていくと、リタはもういなかった。
竈の前では、ブルーノがいつものように火を熾していた。作業台の上には、皮をむくばかりのじゃがいもが山になっている。いつもなら、リタが裏の貯蔵庫から一個ずつ、山なりに投げて寄こすじゃがいもだ。
「……リタは」
「羊飼いの家に、毛糸を受け取りに行った」
ブルーノは火かき棒を置いた。拓海の顔をちらりと見ただけで、すぐにまた竈へ目を戻す。
「……朝早くにな」
それだけで、何があったのかを聞こうともしない。拓海は黙って包丁を取り、じゃがいもの皮をむき始める。皮と一緒に実を厚く削り落としてしまうのは、ここに来たころと少しも変わっていなかった。
皿洗いを終えて屋根裏に上がると、拓海はスマホを取り出した。電池は二十一パーセント。牧草地の練習のおかげで、少しずつ戻ってきている。豊穣祭まで、あと二十日。
――このまま、ばらばらの夕方練習だけで、騎士団に勝てるんか。
『1:異世界イッチ:【相談】異世界の草野球チームでキャンプやりたい』
『2:異世界イッチ:騎士団との試合まであと二十日 みんな昼間は仕事あるから、朝と夕方しか集まれへん 二週間でどこまで鍛えられる?』
『3:風吹けば名無し:キャンプインなんやで』
『4:風吹けば名無し:二月一日みたいなノリで草』
『5:風吹けば名無し:とりあえず走り込みや 下半身や下半身』
『6:風吹けば名無し:タイヤ引きやろ』
『7:風吹けば名無し:>>6 異世界にタイヤあるわけないやろ』
『8:風吹けば名無し:荷車でええやん 荷車引かせろ』
『9:風吹けば名無し:千本ノック』
『10:風吹けば名無し:>>9 素人に千本ノックしたら死ぬで』
『11:風吹けば名無し:二週間で上手くはならん でも、守備の連携と走塁は覚えられる 点をやらん野球をせえ』
『12:風吹けば名無し:>>11 急にまともなの来たな』
『13:風吹けば名無し:異世界やから魔法で強化ギプス作れ』
『14:風吹けば名無し:>>13 大リーグ養成ギプスは古すぎる』
十一番の書き込みを、拓海は木の板に書き写した。点をやらん野球。打つほうは、二週間ではどうにもならない。でも、守ることなら。
その日の夕方、牧草地には十八人が集まった。その前に立って、拓海は宣言した。
「明日から十四日間、キャンプをやります」
「きゃんぷ?」
聞き慣れない響きに、ボルグが太い首をひねる。
「強くなるために、毎日みっちり練習することです。朝は日が昇る前から、仕事が始まるまで。夕方は日が沈むまで。それから、七日に一度の安息日は、朝から晩まで」
牧草地のあちこちから、ざわめきが上がった。そのなかで、ハンスが手を挙げる。
「仕事はどうするんだ」
「仕事はしてください。その前と後に、練習です」
「……公平だな」
ハンスはなぜか納得した。
リタは列のいちばん端に立っていた。拓海と目が合うと、ふいっと顔をそらした。
* * *
キャンプ初日の朝は、霧が出ていた。まだ二つの月が西の空に残っているうちから、牧草地には息を白くした十八人が集まってくる。誰よりも早く来ていたのはピアで、樽いっぱいに井戸水を詰めて、牧草地の入り口で仁王立ちしている。
最初の練習は、荷車引き。町の荷車置き場からハンスが借りてきた空の荷車四台に縄をつけ、それを肩にかけて、牧草地の端から端まで引いて走る。荷台には重しとして、交代で誰かが一人乗る。
「重しは、公平に、くじで決める」
そう言って、ハンスが木の札を配っていく。最初のくじで重しに決まったのはボルグで、木こりの大男が荷台にあぐらをかくと、荷車の車輪がみしりと沈んだ。引き手は、ハンスだった。
「……公平じゃない」
ハンスは初めて、その言葉を逆の意味で使った。
荷車を引かせると、ミーナは誰よりも速かった。空の荷車を引いて彼女が牧草地を一周するあいだに、ほかの者は半周も進めない。その後ろを、なぜか羊が三頭、一緒になって走っている。
双子の粉屋は、二人で一台の荷車を引く。一度も声をかけ合わないのに、足の運びは完全にそろっていた。荷台に乗ったヨーゼフが「若いのう」と言いながら、杖の先で前を指して進路を示している。
荷台にディルクと自分の徒弟とエミールを乗せて、ゴルドはひとりで荷車を引いていく。それでも、その足取りはほかの誰よりも重く、確かだった。
拓海は牧草地の真ん中で、エミールの代わりに帳面を持ち、全員の回数を数えていく。数えながら、霧の向こうからこちらを見ている子どもたちに気づいた。ポケットの中で、スマホがかすかに震えた。
* * *
キャンプの三日目、拓海はようやくリタと話した。朝の練習が終わり、みんなが仕事に散っていったあとのことだ。牧草地の隅で、リタがひとり、教会の裏の古い柵の杭に向かってボールを投げている。拓海は少し離れたところで足を止めた。
リタの投げる球が、何かおかしい。腕の振りは、鞭のようにしなるいつもの速い球と同じなのに、球が来ない。腕から一拍遅れたように、ふわりと出て、杭の手前ですとんと沈んだ。まるで見えない手に、上から押さえつけられたように。球は杭の根もとの土をえぐって跳ね、リタはそれを拾って、また投げる。また、沈んだ。
「……それ、何や」
思わず声が出た。振り返ったリタと目が合って、二人とも、しばらく何も言わなかった。先に口を開いたのは、拓海だった。
「この前は、ごめん」
リタはボールを握ったまま、唇を結んでいる。その指に、少しだけ力がこもる。
「リタの言うたこと、当たってた。ワイ、投げたい。……ほんまは、ずっと投げたかった。肘壊してから、ずっと。スタンドで観てるときも、なんJで実況してるときも、ほんまは、マウンドに立ってるやつが羨ましくてしゃあなかった」
言い終えると、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。リタがふう、と息を吐く。
「知ってた」
「……せやろな」
「でも、イッチが自分で言うの、聞きたかったの」
それで終わり、というように肩をすくめて、リタは手の中のボールを拓海に見せる。指先が、縫い目にかかっていない。ボールを手のひらの奥まで押しこんで親指と薬指、小指で支え、人差し指と中指は、その上にそっと伸ばしているだけだ。
「これ。じゃがいもだけじゃない、って言ったでしょ」
「誰に習ったんや、それ」
「誰にも。カラスだよ」
「……カラス?」
「小さいころ、畑のカラスを石で追い払ってたって言ったでしょ。お父さんに、当てるなって言われて、カラスのすぐ横の杭を狙ってた。でもね、たまに、杭の上にとまってるカラスがいるの。そういうときは、杭の根もとに落とすの。カラスの足もとに、どすんって。そうすると、カラスはびっくりして飛んでくの」
手のひらに押しこんだボールを、リタは軽く振ってみせる。
「小さいころは手がちっちゃかったから、石をこうやって手のひらで握ってたの。そうすると、思いきり腕を振っても、石がのろのろ出て、手前でふっと落ちるの。カラスの足もとに落とすには、ちょうどよかった。ずっと忘れてたんだけど、杭に向かって投げてたら思い出して」
拓海は、リタの手の中に深く握りこまれた球を見下ろした。それは、拓海の国ではパームボールと呼ばれる球だった。手のひらの奥で握り、指先で弾かずに投げる。速い球と同じ腕の振りから、遅く、回転の少ない球が来て、打者の手もとで沈む。今では投げる者の少ない、珍しい球のはずだ。それをこの娘は、カラスを驚かすために、子どものころから知っていた。
「……名前、つけなあかんな」
「名前?」
「球の名前や。じゃがいもの次やから――」
「カラス落とし」
リタの即答だった。拓海は思わず吹き出した。
「それ、ええな」
「でしょ」
リタはにっと笑った。いつもの笑い方だった。ポケットの中で、スマホが震えた。拓海は見なくてもわかる気がした。
* * *
キャンプの五日目、騎士団の噂が届いた。知らせてきたのは、子どもたちだ。辺境伯の城下町へ荷馬車で野菜を売りに行った父親についていった男の子が、城の裏の練兵場で、騎士たちが棒と球で遊んでいるのを見たのだという。
「でもね、変なんだ」
男の子は、すっかり興奮している。身ぶり手ぶりが、どんどん大きくなっていく。
「騎士の一人が、棒で球を打ったら、球が光ったんだよ。ぴかって。そしたら、城の壁を越えて、見えなくなっちゃった」
牧草地が、しんとなった。
「光った?」
「うん。騎士様が、棒を振る前に、何かぶつぶつ言ってた。そしたら、腕のところが、ぼうっと光ったの」
拓海は、ベアトリスと顔を見合わせる。
――身体強化の魔法か。
この世界には、魔法がある。拓海が自分の目で見たことはほとんどないが、騎士や兵士の中には力や速さを増す術を使う者がいると、ヨーゼフから聞いたことがあった。
「規則書に、魔法のことは」
「書いてありません」
ベアトリスは即答した。規則書はなんJ民の書き込みを書き写したもので、拓海の国の野球に、魔法などあるはずがない。
「書いていない、ということは」
ベアトリスは規則書の束を胸に抱えたまま、唇を噛んだ。
「禁じられていない、ということになってしまいます」
* * *
その日の夕方、教会の小部屋の扉を叩いたのは、ヴァルターだった。拓海とベアトリスが規則書を広げて頭を抱えているところへ、銀の胸当ての騎士がひとりで入ってくる。マントは羽織っておらず、袖をまくっている。その手のひらには、まめが潰れたあとがいくつも赤く残っていた。
「規則書を、返しに来た」
ヴァルターはベアトリスが書き写した束を机の上に置いた。それから、少しためらってから、言った。
「……それと、尋ねたいことがある。この規則書には、魔法のことが書かれていない」
拓海とベアトリスは、もう一度顔を見合わせた。
「我が騎士団の者が、身体強化の術を使って球を打った。球は、練兵場の城壁を越えた。騎士たちは喜んだ。これで勝てる、と」
ヴァルターは拳を握りしめた。
「だが、私は、それを見て、腹が立った。……あれは、遊戯ではない。剣の試合で、相手に見えない毒を塗るのと同じだ」
ベアトリスが、すっと背筋を伸ばす。
「騎士様は、どうお考えですか」
「私は、審判に問いに来た」
修道服の娘を、ヴァルターはまっすぐに見据えた。
「この遊戯の規則を、一番よく知っているのは、あなただ。あなたが決めてくれ。どちらの組も、それに従う」
ベアトリスは規則書の束に手を置いて、長いこと目を閉じていた。祈っているようにも見える。やがて、その目が開いた。
「規則書の、いちばん最初に、こう書かれています。『この遊戯は、二つの組が、互いに同じ条件のもとで、技と力を競うものである』」
ベアトリスが羽根ペンを取る。規則書の最後の頁に、ていねいな字で一行を書き加えていく。
「『試合のあいだ、選手は、いかなる魔法も用いてはならない。これを破った者は、その場で退場とする』」
書き終えると、彼女はペンを置いた。二人の顔を、交互に見る。
「審判として、そう裁定します。ハーケンの組にも、騎士団の組にも、同じように」
「異論はない」
ヴァルターの返事に、迷いはなかった。拓海にも、異論はない。
ヴァルターは書き加えられた一行を、しばらく黙って見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「……これで、私も、自分の腕だけで打てる」
その声は、どこかほっとしているように聞こえた。
* * *
ヴァルターは帰りがけに、もう一つ、意外なことを言った。
「異邦人。お前は、投げないのか」
教会の扉の前だった。夕日が、騎士の金髪を赤く染めている。
「……肘を、壊してるんです」
「知っている。町の者から聞いた。紅白戦で一球投げて、倒れたと」
ヴァルターの目が、拓海の右腕に落ちる。
「七日後、王都から治癒術師が城に来る。閣下の古い傷を診るためにな。腕の立つ術師だ。……ついでに、お前の肘も診させてやる」
「なんで、そこまで」
「勘違いするな」
ヴァルターはふいと顔をそむけた。
「私は、全力の相手と戦いたいだけだ。監督が手負いでは、勝っても誇れん」
それだけ言うと、騎士は黒馬にまたがった。夕暮れの道を、蹄の音が遠ざかっていく。
* * *
キャンプは続いた。朝霧の中の荷車引き。昼の仕事。夕方の守備練習。双子の二遊間は日に日に速くなり、ボルグは七日目にして初めて、一塁へ向かって最初の一歩を踏み出した。牧草地の端で見ていた子どもたちが拍手をすると、ボルグは照れくさそうに頭をかいて、その拍子に、一塁ではなく三塁へ走っていった。
リタはゴルドを相手に、カラス落としを投げ続けている。最初は十球に一球しか落ちなかったのが、七日目には三球に一球、十日目には二球に一球になった。ゴルドは落ちる球を何度も取り損ね、そのたびに黙って拾いに行っては、また黙って構える。
ディルクは守護神の練習をした。といっても、何をすればいいのか誰にもわからなかったので、とりあえず牧草地の隅で腕を組んで立ち、出番を待つ練習だ。
「これで、合っているのか」
「……たぶん」
それ以上の答えは、拓海にもない。
エミールは帳面の新しい頁に、毎日の打球の行方を書きつけていく。誰が打った球が、どの方向へ、どれくらい飛んだか。十日分がたまったころ、エミールはその帳面を拓海の前に広げた。
「右に打つ人は、ほとんどいません。みんな、左へ引っ張ります。たぶん、棒を振る力が強い人ほど、そうなるんだと思います」
帳面の上に並んだ点の散らばりに、拓海は目を見開いた。それは、拓海の国の野球で何千試合分のデータから導き出される傾向と、そっくり同じ形をしていた。
「エミール、それ、騎士団も同じやと思うか」
「剣を振る人たちです。たぶん、もっと強く、左へ」
その夜、拓海は守備位置を書いた木の板を、少しずつ左へずらしていった。拓海の国の野球で、守備シフトと呼ばれるものだ。エミールの帳面がなければ、思いつきもしなかっただろう。
安息日には、町の人たちが牧草地の周りに集まるようになった。禁止令はまだ生きていて、見物席も、木戸もない。それでも、教会の土地での奉納の稽古を、見に来るなとは誰にも言えなかった。ブルーノが籠に詰めて持ってきた揚げじゃがいもを、ピアが代金も取らずに配って回り、町長は汗だくになって、走者に蹴られて傾いた塁の杭を、また打ち直している。
電池は、毎日少しずつ増えていった。四十。五十五。七十。牧草地を囲む人垣が厚くなるたびに、数字が小さく跳ねる。
* * *
キャンプの十二日目、拓海は辺境伯の城にいた。城の一角の、窓の大きな部屋だ。長い灰色の衣をまとった背の高い老女が、拓海の右腕を両手で包むように持っている。王都から来た、治癒術師。
老女の手のひらから、淡い光がにじみ出す。温かい。湯に腕を浸したような温かさが、肘の奥へゆっくりと染みこんでいく。やがて光が消えると、老女は静かに首を振った。
「古い傷だね」
「……治りますか」
「新しい傷なら、骨でも筋でも、わたしの術で繋ぎ直せる。だが、これは違う。傷ついたまま、何年も使われて、それが骨と筋に根を張ってしまっている。もう、あんたの腕の形の一部になっているんだよ」
老女は拓海の腕をそっと離す。肘の奥には、光の名残のような温かさ。
「術で治せるのは、壊れたものだけだ。形になってしまったものを、元の形に戻すことは、人の術ではできない」
「……人の術では」
「そう。これを元に戻せるとしたら――」
老女は窓の外の空を見上げる。
「神の奇跡くらいのものだろうね」
部屋の隅で腕を組んでいたヴァルターが、小さく舌打ちをする。拓海は自分の右腕を見下ろした。何も変わっていなかった。少し温かいだけの、いつもの腕。
不思議と、がっかりはしなかった。もともと、治るとは思っていなかったのだ。ただ、神の奇跡、という言葉だけが、喉の奥に小骨のように引っかかっている。
* * *
城からの帰り道は、夜になった。ヴァルターが城門まで送ってきた。城の裏の練兵場では、松明の灯りの下で、騎士たちがまだ棒を振っている。かん、かん、と球を打つ乾いた音が、夜気の中に響いていた。
「毎晩、やっている」
ヴァルターが口にしたのは、それだけだ。拓海は、騎士の手のひらに残る潰れたまめのあとを思い出す。
「お前たちは、守る練習をしていると聞いた」
「……誰に聞いたんですか」
「城下の子どもが、ハーケンに親戚がいるらしい」
ヴァルターはほんのわずかに口の端を上げた。
「騎士も、守りの戦は得意だ。豊穣祭で会おう、異邦人」
ハーケンへの夜道を、拓海は荷馬車に揺られて帰った。荷台に寝転がって、スマホを開いた。電池は七十八パーセント。
『1:異世界イッチ:【報告】キャンプ十二日目 肘診てもらった』
『2:異世界イッチ:言うてなかったけど、ワイ高校で投手やっててな 肘壊して野球やめたんや 王都から来たえらい治癒術師に診てもらったけど、治らんかった 神の奇跡でもないと無理やって』
『3:風吹けば名無し:イッチ…… やっぱり投手やったんか』
『4:風吹けば名無し:異世界の医療でも無理なんか』
『5:風吹けば名無し:神の奇跡って、異世界ならありそうやけどな』
『6:風吹けば名無し:>>5 フラグ立てるな』
『7:風吹けば名無し:イッチ、それでも監督やろ 前向いとけ』
『8:風吹けば名無し:ほんで看板娘の調子はどうなん』
『9:異世界イッチ:パーム覚えた 二球に一球落ちるようになった 名前はカラス落とし』
『10:風吹けば名無し:>>9 ネーミングセンスが異世界』
『11:風吹けば名無し:じゃがいもとカラス落としで緩急と縦の変化そろったやん』
『12:風吹けば名無し:騎士団、震えて眠れ』
拓海はスマホを胸の上に伏せた。石を踏むたびに、荷馬車の車輪がごとんと揺れる。
黄金のじゃがいも亭に着いたのは、真夜中近くだった。表の灯りはもう落ちていて、裏口に回ると、戸の脇の木箱に、誰かが座っていた。膝の上に小さなランプを抱えていて、その灯りの中で、赤茶色の髪が揺れる。
「……リタ。何しとんねん、こんな時間に」
「待ってた」
リタは立ち上がって、ランプを拓海の顔の前に掲げる。その視線が、拓海の右腕に落ちた。
「どうだった」
少しだけ迷ってから、拓海は正直に答えた。
「治らへんかった。古い傷すぎて、人の術では無理なんやって。治せるとしたら、神の奇跡くらいやって」
「……そっか」
リタがランプを下ろす。しばらくのあいだ、夜の裏庭には、井戸の滑車がきいと鳴る音だけがしていた。
「じゃあさ」
リタが顔を上げる。
「イッチが投げられない分、あたしが投げる。イッチが投げたかった球、全部。じゃがいもも、カラス落としも、まだ名前のない球も」
「……リタ」
「だから、イッチは、ちゃんと見ててね。いちばん近くで」
リタはそれだけ言うと、ランプを拓海の手に押しつけて、先に裏口から中へ入っていった。拓海はランプを持ったまま、しばらく裏庭に立っていた。灯りの中に、自分の右腕がぼんやりと浮かんで見える。
屋根裏に上がって、もう一度スレを開くと、見覚えのある書き方の一行が、静かに流れてきた。
『15:風吹けば名無し:イッチさん。お祭りの前の夜に、少しお時間をいただけますか。お話ししたいことがあります』
拓海は藁の布団の上で、思わず身を起こした。
『16:風吹けば名無し:丁寧ニキ!?』
『17:風吹けば名無し:オフ会の誘いで草』
『18:風吹けば名無し:>>17 異世界でオフ会はさすがに無理やろ』
それきり、丁寧ニキは何も書かなかった。小窓の外の夜空に、二つの月が細く欠けて浮かんでいる。豊穣祭まで、あと八日。




