↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【毎日更新】異世界J民〜やきうのおにいさんは、異世界でも野球観戦したいンゴ〜  作者: みどり葉
《第1章》【悲報】ワイ、異世界に転移してしまう
PR
10/24

第10話 丁寧ニキの正体

 キャンプの最後の二日は、雨だった。牧草地がぬかるみ、荷車の車輪が泥に沈んでも、十八人は誰ひとり休まなかった。ボルグは泥に足を取られて三度転び、三度とも三塁の方角へ転がった。ミーナの麦わら帽子は水を吸ってくたりと垂れ、双子の粉屋にいたっては、粉が泥に変わって頭から足の先まで灰色だ。


 十四日目の夕方に雨が上がり、雲の切れ間から差しこんだ赤い夕日が、ぬかるんだ牧草地を照らしている。泥だらけの十八人の前に、拓海が立つ。


「キャンプ、終わりです」


 誰も、何も言わなかった。みんなが肩で息をする音だけが続くなかで、やがてハンスがぽつりと呟く。


「……公平に、疲れた」


 牧草地に、笑い声が広がった。ポケットの中で、スマホが小さく震えた。



* * *



 豊穣祭の前日、ハーケンの町は朝から騒がしかった。衛兵の手で、空き地の縄が外された。辺境伯の使者が昨夜のうちに書状を届け、祭りの三日間に限り、空き地での集会を許すと告げたのだという。若い衛兵は縄を巻き取りながら、拓海に向かって少し照れくさそうに笑った。


「俺も、明日は非番にしてもらった。客席で観る」


 縄が外れた空き地に町の大工たちが一斉に入って、木槌の音を響かせながら木の見物席を修繕し、一段を足していく。三塁側の土手の上には、もう一つ、新しい見物席が組まれた。本塁のうしろ、昔は祭りの舞台が立っていた場所に据えられているのは、女神に奉納する遊戯を司祭様が見届けるための、低い木の台だ。

 牧草地から抜いてきた塁の杭を四本、ゴルドが元の場所に打ち直すと、その横でオットー町長が、新しく作った白い布の塁を一つずつ杭に結びつけていった。指輪のない太い指が、慣れない手つきで何度も結び目をやり直している。


 夕方になると、町じゅうの家の軒先に、色とりどりの布の飾りが吊るされていく。通りの角ごとに、獣の脂を入れた小さな灯りが並べられた。黄金のじゃがいも亭の厨房では、ブルーノが大鍋を三つ並べて、朝から揚げじゃがいもの仕込みを続けていた。その横でピアが、木の皮の器を百個以上も巻き続けている。


「明日、二百個じゃ足りないっす」

「……揚げる」


 ブルーノはそれだけ言って、また次のじゃがいもを手に取った。


 教会の裏庭からは、朝から妙な声が聞こえていた。


「……ストライク!」


 ベアトリスだった。修道服の袖をまくり上げ、誰もいない的の前で右腕を高く突き上げている。足もとでは町の子どもたちが三人、地面に座りこんで、ぽかんとそれを眺めている。


「ボール!」


 今度は腕を上げずに、首を横に振る。子どもたちの頭も、つられて左右に揺れた。


「ねえ、シスター、さっきから何回やってるの」

「百二十八回目です」


 真顔で答えたところで、ベアトリスは拓海に気づいた。ぱっと腕を下ろして、耳まで赤くなる。


「イッチさん。……見ていらしたのですか」

「ちょっとだけ」

「明日、わたしが、皆さんの前で、判定を告げるのです。声が裏返ったら、女神様に申し訳が立ちません」


 拓海は首のうしろに手をやって、少しのあいだ言葉を選ぶ。


「ワイらの世界の審判も、だいたい、最初は声裏返ってたと思います。それに、どっちの組も、シスターの判定やったら文句言わへんですよ。ヴァルターさんが、自分で選んだ審判なんやから」


 ベアトリスはしばらく拓海の顔を見ていた。それから、小さく息を吸って、的に向き直った。


「――ストライク!」


 今度の声は裏返らず、子どもたちがぱちぱちと手を叩く。


 空き地の真ん中に立って、拓海は周りを見回す。何週間ぶりだろう。木の見物席。土手。塁の杭。マウンドの、ゴルドが盛った低い土の山と、白い投手板。明日、ここに町じゅうの人が集まる。隣町からも、たぶん、辺境伯の城下からも。電池は九十七パーセントだった。


「イッチ」


 振り返ると、リタが立っていた。前掛けをつけたまま、手にじゃがいもを一個持っている。厨房から抜け出してきたらしい。


「明日、晴れるかな」

「晴れるやろ。祭りやし」

「根拠ないじゃん」

「女神様の祭りやで。雨降らせたら、女神様の負けや」


 リタは笑って、手の中のじゃがいもを、ふわりと山なりに放った。じゃがいもは夕焼けの空に高く上がって、ゆっくりと落ちてきた。それを、拓海は両手で受け止める。


「明日、それ、投げるからね」

「……ほんまに、じゃがいも投げたら退場やで」

「じゃがいもの、じゃないほう」


 にっと笑って、リタは厨房へ戻っていく。前掛けの紐が、背中で跳ねるように揺れていた。



* * *



 日が沈みかけたころ、東の街道に馬の列が見えた。真っ先に気づいた町の子どもたちが駆けていき、拓海もつられて空き地の端まで出る。


 先頭の黒い馬に乗っていたのは、ヴァルターだった。そのうしろに、八人。いや、十人。鎧は着ておらず、旅の外套の下に揃いの紺色の上着がのぞいている。どの馬の鞍の横にも、布で巻いた長い棒が一本ずつ括りつけてある。


 空き地の前で馬を止めると、ヴァルターは鞍の上からゆっくりと周りを見回した。修繕された見物席。新しい土手の席。司祭様の台。白い布の塁。その目が最後に、マウンドの低い土の山で止まる。


「……ずいぶん、立派になったものだ」

「町のみんなが、やってくれたんで」

「そのようだな」


 ヴァルターは馬を下りず、うしろの騎士たちも鞍の上から珍しそうに空き地を眺めている。若い騎士の一人がマウンドを指さして隣に何か囁くと、囁かれたほうは、真顔のまましきりに相づちを打った。


「規則書は、写させてもらった。騎士団の全員が、三度ずつ読んだ」


 淡々とした口ぶりで、ヴァルターは続ける。


「振り逃げ、という決まりについて、夜通し議論した者もいる。結論は出なかったそうだが」

「……あれは、ワイらの世界でも、たまに揉めます」


 ヴァルターの口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうか、拓海にはわからなかった。


「明日、昼の鐘が鳴ったら、始める。審判は、ベアトリス殿。司祭様が、それを見届ける。それでいいな」

「ええです」

「手加減はしない」

「こっちも、するつもりないです」


 ヴァルターはそれだけ確かめると、手綱を引いた。騎士たちは教会の宿坊に泊まるのだという。色とりどりの布飾りの下をくぐって、馬の列が通りの奥へ消えていく。


 最後尾の若い騎士が、一度だけ振り返った。空き地のマウンドを見やるその顔には、明日そこで何が起こるのか、もう知りたくてたまらないと書いてある。



* * *



 その夜、拓海は屋根裏でずっとスマホを握っていた。お祭りの前の夜に、少しお時間をいただけますか。七日前のその書き込みを最後に、丁寧ニキは一度も現れていない。スレを開くたびに、見覚えのある書き方の一行を探した。見つからなかった。


 二つの月が小窓の真ん中まで昇ったころだった。手の中で、スマホが震えた。


『1:風吹けば名無し:イッチさん、こんばんは。お約束の時間です。教会の礼拝堂まで、来ていただけますか』


 スレ立てで、本文はそれだけしかない。


『2:風吹けば名無し:丁寧ニキがスレ立てとる』

『3:風吹けば名無し:教会の礼拝堂ってどこやねん』

『4:風吹けば名無し:イッチ行くな 罠や』

『5:風吹けば名無し:>>4 なんの罠やねん』

『6:風吹けば名無し:異世界オフ会、実現』


 拓海ははしごを下りた。



* * *



 夜の教会は、昼とはまるで違う場所に見える。礼拝堂の扉には、鍵がかかっていなかった。押すと、蝶番がきいと鳴って、冷たい石の匂いが流れ出してきた。


 中は暗くなかった。高い窓から二つの月の光が差しこんで、白い光と少し青い光が、祭壇の前の床に二重の影を落としている。その光の中に、ルドゥーナの木像が立っている。笛と玉を掲げた、色の剥げた像。


 そして、いちばん前の長椅子に、誰かが座っていた。若い女だ。長い髪が月の光を受けて、銀色とも金色ともつかない色に揺れている。白いゆったりとした衣をまとい、膝の上に載せた手のひらほどの大きさの、薄く光る板のようなものを、指でなぞっている。


 拓海の足音に、女が顔を上げる。その顔を見た瞬間、拓海は祭壇の奥の木像に目をやり、それからもう一度、女の顔を見た。


 同じ顔だった。色が剥げる前の、木像の顔。何か楽しいものを眺めているような、かすかな笑み。


「こんばんは、イッチさん」


 女は膝の上の光る板を、そっと伏せた。


「……丁寧ニキです」


 拓海は口を半ば開けたまま、その場で固まっていた。伏せられた板の縁から、淡い光がまだ細く漏れている。


「あの、ニキ、というのは、男の方への呼び方なのですよね。わたくし、ずっと訂正したかったのですけれど、あの場所の皆さんが楽しそうに呼ぶので、つい」


 少し困ったように眉を下げて、女が笑う。


「正しくは、ネキ※¹、でしょうか」



* * *



「わたくしは、ルドゥーナといいます」


 女――女神は長椅子の端に寄って、拓海に隣を勧めた。ぎくしゃくと腰を下ろした拓海の横で、月の光を受けた女神の横顔は、木像よりもずっと若く見える。


「遊戯と、祭りの女神です。人が集まって、何かを観て、一緒に笑ったり、叫んだり、泣いたりする。そういう場所が、わたくしの住まいで、わたくしの糧です」

「……糧」

「ええ。人の楽しいという気持ちが、わたくしを生かしています」


 女神は礼拝堂の高い天井を見上げる。月の光の届かない梁のあたりは、暗く沈んだままだ。


「この世界では、もう長いこと、人が集まらなくなっていました。祭りは寂れ、舞台は立たなくなり、旅の楽団も来なくなった。決闘や魔獣狩りはあっても、それは誰かが勝ち、誰かが傷つくのを見るものです。皆で同じものを観て、一緒に一喜一憂する。そういう場所が、この世界から消えかけていたのです」


 膝の上の光る板を、女神は指先で軽く叩いた。こつ、と小さな音が、静かな礼拝堂に響く。


「わたくしの力も、細くなっていました。それで、ほかの世界を、覗くようになったのです。人が集まって、何かを観て騒いでいる場所を探して」

「……それが、なんJ……?」

「最初は、あなたの国の球場でした。何万人もの人が、同じ球の行方を見つめて、同じ瞬間に声を上げる。あんなに賑やかな場所は、ほかのどの世界にもありませんでした」


 話すうちに、女神の目が少しだけ輝きを帯びていく。


「それから、その球場の声が、もう一つの場所に流れこんでいることに気づきました。顔も名前も知らない人たちが、言葉だけで集まって、同じ試合を観て、怒ったり、笑ったり、くだらない冗談を言い合ったりしている場所。球場にいない人たちまで、そこでは、一緒に観ていました」

「なんJや」

「ええ。わたくし、すっかり夢中になってしまって」


 女神の頬がほんのりと染まる。色の剥げた木像には、ない色だった。


「毎晩、覗いていました。負けた日の、あの、はい解散、という書き込みが、とても好きです」


 拓海は思わず吹き出した。吹き出してから、目の前にいるのが神様だということを思い出し、慌てて口を押さえる。女神のほうは気にした様子もなく、楽しそうに笑っている。



* * *



「その中に、あなたがいました」


 女神の声が少しだけ静かになった。


「毎晩、試合を観て、毎晩、書き込んでいる人。勝った日も、負けた日も。けれど、あなたの書き込みだけ、少し違っていました。誰よりも楽しそうに観ているのに、ときどき、とても寂しそうでした」


 拓海は何も言えなかった。


「それで、あなたの球場を覗きました。外野の、いちばん隅の席。誰とも話さずに、ひとりで、スマホを握って観ているあなたを、見つけました」


 拓海の右腕に、女神がそっと視線を落とす。


「あなたが、本当は投げたい人だということも、わかりました」

「……ほんで、ワイを呼んだんですか」

「はい」


 女神はまっすぐに拓海を見た。


「あの川沿いの、子どもたちの野球場のマウンドに、光る球を置いたのはわたくしです。あなたがそれを拾ったとき、聞こえた歓声のような音も、わたくしです。……この世界に、もう一度、人が集まって何かを観る場所を作れるのは、観ることをいちばん愛している人だと思ったから」


 礼拝堂の床に落ちる二重の影を、拓海は見つめる。あの日のことを、思い出していた。三対九の負け試合。河川敷のマウンド。手のひらの中で光った、硬式ボール。


「それから、あの小さな板のことも」


 女神が拓海のポケットを指さす。


「あなたの板があの場所にだけ繋がるのは、わたくしが覗いている道を、そのまま貸しているからです。だから、わたくしの糧と同じもので動きます。人の、楽しいという気持ちで」

「……歓声で、充電されるのは」

「歓声は、楽しい気持ちがいちばん大きく、いちばんわかりやすく溢れたものです。でも、それだけではありません。誰かと笑ったとき。何かを見つけて、胸が躍ったとき。小さな楽しさでも、少しずつ溜まります」


 リタの投球を受けた、裏庭の夕方。屋根裏で、リタと笑った夕方。祭礼法を見つけた、礼拝堂の昼。歓声のない場所で数字が増えた理由が、ようやくわかった。


「それと、一つ、謝らなければならないことが」


 少し気まずそうに、女神が目をそらす。


「あなたがこの世界に来て間もないころ、あの場所で、元投手やろ、と書いたのは、わたくしです。……つい、口が滑りました」

「ニキやったんかい」

「ネキです」


 女神はあくまで真面目な顔で訂正する。


「……ほな、銀色の葉っぱの草も、祭礼法も」

「草のほうは、昔、この町の子どもたちが、祭りの踊りで足にまめを作ったときに、わたくしが教えたものです。祭礼法は、もっと昔、この町の人たちが、わたくしのために作ってくれた決まりです。……わたくしが覚えていても、人が忘れてしまえば、それはただの古い紙です。見つけてくださったのは、あなたと、あのシスターですよ」


 昔、そちらのほうに少しご縁がありまして。いつかの書き込みの意味が、ようやく腑に落ちた。



* * *



「わたくしの力は、あなたのおかげで、少し戻りました」


 女神は立ち上がり、祭壇の前の月の光の中へ歩み出た。その姿が、奥の木像と重なって見える。


「ハーケンの空き地に、またたくさんの声が戻りました。明日は、もっと多くの声が集まるでしょう。……だから、一度だけ、あなたに奇跡を差し上げることができます」


 拓海は顔を上げた。


「あなたの肘を、壊れる前の形に戻します。痛みもなく、重さもなく。もう一度、思いきり投げられる腕に」


 礼拝堂の空気が、しんと冷えた気がした。王都の治癒術師の言葉が、耳の奥でよみがえった。これを元に戻せるとしたら、神の奇跡くらいのものだろうね。


「……ほんまに、治るんですか」

「ええ。ただし」


 拓海の目を、女神は正面から見すえる。その顔は、もう笑っていない。


「奇跡には、代わりのものが要ります。わたくしの力は、まだ細い。あなたの腕を戻すには、あなたに貸している、あの細い道の力を、すべて使わなければなりません」


 拓海はポケットの中のスマホを、無意識に握りしめていた。


「奇跡を選べば、あなたの板は、もう二度と、あの場所には繋がりません。あの人たちの声を、あなたは二度と聞けなくなります」


 礼拝堂に、沈黙が落ちる。なんJ。風吹けば名無し。顔も名前も知らない、口の悪い、くだらない、それでいて、この世界に来た最初の日から、ずっと拓海の隣にいた人たち。釣り乙。異世界でも働けイッチ。やきうやろ。じゃがいも最強。監督は最後は自分で決めるもんやで。その全部と、引き換えに。


「……今、決めなあかんのですか」

「いいえ」


 女神はゆっくりと首を横に振る。長い髪が、月の光の中でさらりと揺れた。


「奇跡は、いつでも。明日の試合のあとでも、十年後でも。あなたが望んだときに、わたくしを呼んでください。ただ――」


 女神が、祭壇の奥の木像を振り返る。


「明日、あなたは、皆を率いて、女神の前で戦います。そのとき、あなたが自分の足でどこに立っているのかを、知っておいてほしかったのです。投げられない監督として、そこに立つのか。投げられる誰かとして、そこに立ちたいのか」


 拓海は自分の右腕を見下ろした。月の光の中で、それは、いつもと同じ、少しだけ重い腕だった。



* * *



 礼拝堂を出るとき、拓海は振り返って一つだけ聞いた。


「明日、観に来るんですか」


 女神は長椅子に座り直して、膝の上の光る板を、また指でなぞり始めていた。その横顔が、ふわりとほころぶ。


「もちろん。特等席で」


 扉が閉まる直前、女神の声がもう一度だけ聞こえた。


「おやすみなさい、拓海さん」


 閉まった扉の前で、拓海の足はしばらく動かなかった。本当の名前で呼ばれたのは、この世界に来てから、二度目だった。一度目はリタが一度だけ、確かめるように口にした、初めての試合の、帰り道。リタはそれきり、とっておく、と言って、二度と呼んでいない。


 夜の通りを、黄金のじゃがいも亭へ歩く。軒先の布飾りが夜風に揺れて、通りの角の灯りは、もう消えかけていた。明日の朝には、また灯されるのだろう。


 空き地の前で、足が止まった。人影はなく、二つの月の光の下で見物席が白っぽく浮かび上がって、塁に結ばれた白い布がかすかに揺れている。昼間の騒がしさが嘘のように、静かだった。


 縄のなくなった入口をくぐって、拓海はマウンドまで歩いた。ゴルドが盛った、低い土の山。ここに立つのは、いつもリタだった。拓海が立ったのは、初めての試合の日の、たった一度きりだ。あの一球のあと、マウンドの上でしゃがみこんで、それきりだった。拓海の場所は、本塁のうしろか、見物席の端か、ベンチ代わりの丸太の上だ。


 足もとの土の中から、小石を一つ拾う。手のひらに収まった瞬間、指が、勝手に握りを作った。人差し指と中指を、見えない縫い目にかける。あの夜、河川敷で光る球を拾ったときと、同じだった。


 腕を、ゆっくりと振りかぶる。肘が上がりきる手前で、いつもの重さがやってきた。拓海はそこで腕を止め、止めたまま本塁のほうを見た。

 誰もいない本塁のうしろに、ゴルドがしゃがんでいる気がする。もっとうしろの見物席では、なんJの連中が文字だけで騒いでいる気がした。


 ――戻せる。


 この重さを、なかったことにできる。あの夜からずっと欲しかったものが、礼拝堂に行けば手に入る。


 振りかぶった腕を、拓海はゆっくりと下ろした。小石を、マウンドの土の上にそっと戻す。答えは出なかった。出さないまま、空き地をあとにした。


 屋根裏に戻って、スマホを開いた。電池は百パーセントだった。


『7:風吹けば名無し:イッチ戻ってこんな』

『8:風吹けば名無し:異世界オフ会どうなったんや』

『9:風吹けば名無し:丁寧ニキの正体はよ』


 画面の上で、拓海の指は止まったまま動かない。


 ――丁寧ニキは、この世界の女神様やった。ワイをこの世界に呼んだのも、あの人やった。ワイの肘を治せるけど、そしたら、お前らとはもう話されへん。


 そう打ちこもうとして、やめた。何度打っても、最後まで打てなかった。


『10:異世界イッチ:丁寧ニキ、ええ人やった 明日、試合や』

『11:風吹けば名無し:それだけかい』

『12:風吹けば名無し:オフ会の内容を言え』

『13:風吹けば名無し:まあええわ 明日実況スレ立てろよ ワイらも観る』

『14:風吹けば名無し:>>13 文字でな』

『15:風吹けば名無し:イッチ、明日勝てよ』

『16:風吹けば名無し:ポテトーズ優勝』

『17:風吹けば名無し:楽しみにしています』

『18:風吹けば名無し:>>17 丁寧ニキおるやんけ』

『19:風吹けば名無し:オフ会終わってすぐ書き込んどって草』


 拓海は十七番の書き込みを、長いあいだ見つめていた。それから、スマホを胸に抱えて、藁の布団に倒れこんだ。


 小窓の外で、二つの月が、ゆっくりと西へ傾いていた。


 右肘の奥がかすかに疼いた。痛みではなかった。何かを問いかけてくるような、静かな疼きだった。


 夜が明ければ、豊穣祭だ。


脚注

※¹ニキ・ネキ:兄貴のニキと、姉貴のネキ。掲示板特有の俗っぽい敬称みたいなもの。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。