第11話 奉納試合、プレイボール
豊穣祭の朝は晴れていた。
拓海が屋根裏の小窓を開けると、雲ひとつない空が広がっていた。夜のうちに冷えた空気が頬に心地よく、通りの角ごとにもう一度灯された灯りが朝の光の中で小さく揺れている。スマホの電池は、百パーセントのままだった。
はしごを下りると、厨房ではもう大鍋が三つとも湯気を上げていた。ブルーノが黙ってじゃがいもを揚げ、ピアが木の皮の器を積み上げ、リタが前掛けをつけたまま皿を拭いている。
「おはよ、イッチ」
「……試合の日まで、皿洗いするんか」
「するよ。昼の鐘までは、黄金のじゃがいも亭の娘だもん」
拭き終えた皿を棚に戻して、リタは窓の外の空を見上げる。
「晴れたね」
「せやろ。女神様の祭りやからな」
言ってから、拓海は少しだけ口をつぐんだ。昨夜、礼拝堂で見た横顔がまぶたの裏に浮かぶ。リタはそれに気づかないまま、にっと笑った。
「女神様の負けじゃなかったね」
* * *
昼が近づくにつれて、ハーケンの町は、拓海がこの世界に来てから見たことのない顔になった。
門から、人が入ってくる。荷馬車に乗って、隣町から。徒歩で、山の向こうの村から。辺境伯の城下からは、着飾った商人の一家が馬車を連ねてやってきて、通りの布飾りの下を知らない顔が笑いながら歩いていく。
空き地の見物席は、昼の鐘が鳴るずっと前に埋まった。三塁側の土手にも新しい見物席にも、人が膝を詰めてぎっしりと座っている。座れなかった人たちは柵の外に立ち、近くの家の屋根に登り、子どもたちは大人の肩の上に乗った。
木戸の脇では、エミールが入ってくる客をひとりずつ目で追いながら、帳面に印をつけ続けていた。
「何人や」
「……六百を超えたところで、数えるのをやめました」
印で真っ黒になった頁を見下ろして、エミールは少し呆然としている。
「ハーケンの町じゅうの人を集めたより、多いです」
本塁のうしろの木の台には、司祭様が座っている。町の若者四人が、寝台ごと担いで運んできたのだという。毛布を膝にかけた小さな老人は、その膝の上に布にくるんだ何かを大事そうに抱えている。
そのそばに立っているのは、辺境伯の使者だ。緋色の上着に、翼を広げた鷲の紋章。禁止令を読み上げた、あの初老の男だった。
一塁側の柵の前には、紺色の上着の騎士たちが並んでいた。九人と控えの二人、その先頭にヴァルター。剣を佩いている者はひとりもおらず、代わりに白トネリコのバットを一本ずつ肩に担いでいる。
三塁側には、ハーケン・ポテトーズの十八人が並ぶ。木こりのボルグ。羊飼いの娘のミーナ。元弓兵のヨーゼフ。粉屋の双子。ゴルドと、その徒弟。ハンス。ディルク。エミール。ブルーノ。それから、残りの町の男たちと、マウンドに向かうリタ。
監督の席は、三塁側の端の丸太だ。そこに腰を下ろしてスマホを取り出すと、拓海の親指は迷わずに動いた。
『【実況】ハーケン・ポテトーズVS辺境伯騎士団【奉納試合】』
送信。
『2:風吹けば名無し:きたああああ』
『3:風吹けば名無し:ついにこの日が来たか』
『4:風吹けば名無し:負けたら野球禁止やっけ 胃が痛い』
『5:風吹けば名無し:イッチ、客は何人や』
『6:異世界イッチ:六百人超え 町の人口より多いらしい』
『7:風吹けば名無し:ファッ!?』
『8:風吹けば名無し:異世界の甲子園やんけ』
『9:風吹けば名無し:いい天気ですね』
『10:風吹けば名無し:>>9 なんで天気知っとんねん』
九番の一行に目を留めてから、拓海は空を見上げた。どこかで誰かが、楽しそうに笑っている気がした。
試合が始まれば、画面に張りついてはいられない。拓海はプレーが途切れるたびに、短く打ちこむことにした。誰が打って、球がどこへ飛んで、何点になったか。監督の仕事の合間の、ほんの一行ずつだ。
* * *
昼の鐘が鳴ると、空き地がしんと静まった。司祭様が膝の上の布をほどいた。中から出てきたのは、古びた木の笛だった。老人が震える手でそれを口に当てると、細い音が空き地に流れ出していく。
短い、明るい節だ。拓海には聞き覚えがなかったけれど、見物席の年寄りたちははっとしたように顔を上げ、誰かが小さく口ずさみ始める。昔、この空き地に舞台が立っていたころ、豊穣祭のたびに吹かれていた節なのだと、あとでブルーノが教えてくれた。
笛の音がやむと、ベアトリスが本塁のうしろに進み出た。修道服の上に、ゴルドの作った牛革の胸当て。その両手が、高く掲げられる。
「プレイボール!」
声は裏返らなかった。六百人の歓声が、ハーケンの空に駆け上がった。
* * *
一回の表、騎士団の一番打者は、背の高い、日に焼けた騎士だった。打席に入ると、木こりのようにバットを肩の上で大きく構える。
リタの一球目は、外角の低めに決まった。内角の高めを突いた二球目には、騎士のバットが空を切る。そして三球目を、騎士は思いきり引っ張った。鋭い打球が三遊間を抜けていく――はずだった。
そこに、パウルがいた。いつもより三歩左に寄っていた遊撃手は、ほとんど動かずに球を捕って一塁へ投げる。一塁のヨーゼフが、いつかの空き地と同じように、球を手のひらにすとんと収めた。
「アウト!」
騎士は一塁の手前で立ち止まり、信じられないという顔で遊撃手を振り返っている。三塁側の見物席が、どっと沸く。
『17:異世界イッチ:一回表 先頭の騎士が左に引っ張ったけど遊撃の正面でアウト 前に言うた書記見習いのエミールが十日ぶん打球の向きつけとって、それ見て守備を左に寄せといたんや』
『18:風吹けば名無し:シフト的中や!』
『19:風吹けば名無し:エミールのデータ野球すげえ』
『20:風吹けば名無し:異世界にセイバーメトリクス※¹持ちこんだ男』
二番打者は三振に倒れ、三番打者はまた左へ引っ張ったものの、打球は双子のペーターの正面に転がって三者凡退だ。リタはマウンドを下りながら、拓海に向かって小さく親指を立てた。拓海がスマホから目を離しているあいだにも、レスは流れ続けている。
一回の裏、騎士団のマウンドにはヴァルターが立った。投げる姿は、剣を振り下ろすのに似ている。体を大きくひねって、腕を真上から叩きつけるように振る。速かった。ディルクの球より速く、ディルクの球よりずっとまっすぐだ。
ミーナは二球を見送り、三球目を、短く持ったバットでちょこんと当てた。打球はヴァルターの足もとで弾んで、二塁手の前に転がっていく。二塁手が捕ったときには、麦わら帽子の少女はもう一塁を駆け抜けていた。二番、ゴルドが打席に入る。
そして、ヴァルターの初球で、ミーナは走った。騎士団の捕手が二塁へ投げたとき、ミーナはもう塁の白い布の上に座っていた。
ヴァルターの四球目、内角の速い球を、ゴルドは振り抜いた。乾いた音が響いて、打球は一塁手の頭を越え、右翼の奥へ転がっていく。ミーナが帽子を手で押さえたまま、三塁を回り、本塁へ駆けこんだ。一対〇。
見物席が揺れた。子どもたちが羊を呼ぶ節で歌い始めた。ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ。かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい。
『30:異世界イッチ:一回裏 一番の羊飼いの娘が当てただけの内野安打から盗塁、二番の鍛冶屋のおっさんがタイムリー 1-0』
『31:風吹けば名無し:二番最強打者論、証明完了』
『32:風吹けば名無し:>>31 お前打順スレで反対しとったやろ』
『33:風吹けば名無し:手のひらドリル定期』
* * *
試合が動いたのは、四回の表だった。
先頭打者の騎士が打席でバットを短く持つのを見て、拓海は眉を寄せた。それまでの騎士たちは、全員がバットの端を握って思いきり引っ張っていたのだ。
リタの球を、騎士は逆らわずに右へ流す。がら空きになった一、二塁間を、打球がころころと抜けていった。次の打者も短く持って、また右へ運び、一塁と三塁に走者が残る。
騎士団の側の丸太の前で、ヴァルターが腕を組んでいた。拓海と目が合うと、ヴァルターは、ほんのわずかに顎を上げた。
――騎士は戦う前に敵の陣を調べる。
三回まで、ヴァルターは見ていたのだ。拓海たちの守備が、左へ寄っていることを。そのあいだに、空いた右へ打てと部下たちに教えこんでいた。
三人目の打者の打球も、右へ飛んだ。右翼のボルグが懸命に前へ走るが、打球はその横をすり抜けて、右中間を深々と転がっていく。二人が還って、一対二。
一塁側の見物席――辺境伯の城下から来た人たちが、初めて大きな声を上げた。三塁側の見物席は、しんと静まり返っている。
『51:異世界イッチ:四回表 騎士団が急にバット短く持って右に流してきた シフトの逆つかれて2点 1-2』
『52:風吹けば名無し:あかん 読まれとる』
『53:風吹けば名無し:シフト戻せイッチ』
『54:風吹けば名無し:>>53 いや戻したらまた左に引っ張られるで』
『55:風吹けば名無し:安価で決めよう >>60がシフト続行か解除か』
『56:風吹けば名無し:>>55 アホか』
画面から目を上げると、マウンドの上でリタが額の汗を袖でぬぐっていた。本塁のうしろのゴルドは、何も言わずに拓海のほうを見て、ただ指示を待っている。拓海は丸太から立ち上がった。
「ペーター、パウル! 半分だけ戻せ! ハンス、ボルグ、真ん中寄りや!」
守備位置を書いた木の板は、もう見なかった。エミールの帳面には書かれていない、今日の騎士団の打ち方を自分の目で見て決めたのだ。画面には、一行だけ打ちこむ。
『57:異世界イッチ:シフト半分にした 安価なし』
次の打者は右へ流そうとして、二塁手のペーターの正面に鋭いライナーを打った。ペーターがそれを直接捕って二塁へ投げ、飛び出していた走者より先にパウルが塁を踏む。二つのアウトが、一度に取れた。
『58:異世界イッチ:次の打者のライナーを二塁が直接捕って、飛び出した走者も刺してゲッツー』
『59:風吹けば名無し:ゲッツー!』
『60:風吹けば名無し:シフト続行』
『61:風吹けば名無し:>>60 もう終わっとるわ』
『62:風吹けば名無し:イッチ采配ズバリやんけ』
三つ目のアウトは、次の打者の三振だった。マウンドを下りるとき、リタはゴルドと拳を軽くぶつけ合う。
* * *
五回の裏、四番のボルグがヴァルターの速い球を、斧を振り下ろすように叩いた。打球は高く、高く上がって、見物席の全員が首を反らす。白い球は左翼の騎士の頭のはるか上を越えて、空き地の柵を越え、その向こうの畑に落ちた。
ボルグは一塁へ走った。今度は、ちゃんと一塁へ走った。塁を回るたびに、見物席から、地鳴りのような歓声が上がった。二対二。
本塁を踏んだボルグを、ポテトーズの仲間たちが揉みくちゃにする。その輪の真ん中で、ボルグは泣いていた。木こりの大男が、子どものように鼻をすすりながら笑っている。
『77:異世界イッチ:五回裏 四番の木こりのボルグが同点ホームラン しかもちゃんと一塁に走った 練習中ずっと三塁に走っとったやつや 2-2』
『78:風吹けば名無し:ボルグうううううう』
『79:風吹けば名無し:練習中ずっと三塁に走っとったんかい』
『80:風吹けば名無し:本番で一塁に走れたの偉すぎる』
六回の表、リタは一つだけ遊んだ。
二死、走者なしで、打席には九番の若い騎士が入る。前の日の夕方、最後尾で空き地のマウンドを振り返っていた、あの騎士だった。一球目の速い球は外れ、二球目は外角いっぱいに決まる。ゴルドのサインに、リタは首を振った。二度、振った。三度目に、ゴルドが小さく顎を引く。
リタの手から、球が、ふわりと浮いた。
夕焼けの空にじゃがいもを放ったときと、同じ軌道だ。高く、高く上がって、ゆっくりと落ちてくる。若い騎士は呆然と空を見上げたまま、バットを振ることも忘れている。球はゴルドの分厚い手袋に、すとんと収まる。
「……ストライク!」
一拍遅れて、ベアトリスが右腕を突き上げる。見物席が笑いと歓声で揺れるなか、若い騎士は空を見上げたままぽかんと口を開けている。それからなぜか、とてもうれしそうに笑った。次の球で、若い騎士は三振した。
『91:異世界イッチ:六回表 看板娘が二死から、じゃがいもみたいな山なりの球で見逃しストライク取った 騎士くん空見上げて笑っとる』
『92:風吹けば名無し:じゃがいも投げた!』
『93:風吹けば名無し:イーファス※²ピッチで草』
『94:風吹けば名無し:草 騎士くんまで楽しそうやんけ』
* * *
七回の表、リタの球が浮き始めた。
三塁側の丸太から見ていても、それはよくわかる。外角の低めに決まっていた球が少しずつ真ん中へ寄っていき、腕の振りがほんのわずかに遅れる。一球投げるたびに、汗で額に張りついた前髪の下で、リタは短く息を吐いている。
先頭打者を四球で歩かせ、次の打者はどうにか三振に取ったものの、その次の打者に右へ流されて一死、一塁と二塁。
そして、四番のヴァルターがこの日三度目の打席に入った。
見物席が静まり返り、六百人が息をのむなかで、拓海は丸太の上で拳を握りしめていた。
あの夏の終わりの日と、同じ構図だ。リタと、ヴァルター。あのときはインハイの速い球を二つ見せて、最後にじゃがいもで仕留めた。
――あの球は二度は通じんぞ。
ヴァルターはそう言っていたし、本当にもう通じないだろう。六回のじゃがいもを、今日のヴァルターは騎士団の丸太の前から一度も目をそらさずに見ていたのだ。
一球目。外角の速い球を、ヴァルターは見送る。ボール。
二球目は内角。ヴァルターが振ると、鋭い打球が三塁線の外へ切れていった。ファウル。
三球目はまた外角で、ヴァルターはぴくりとも動かない。ボール。
二ボール、一ストライク。リタの肩が大きく上下している。ゴルドが出したサインに、リタは首を振らなかった。
四球目、リタの腕が振り下ろされた。まっすぐの速い球と、同じ腕の振りだ。速い球を待っていたヴァルターのバットが、ためらわずに動く。
球が、来なかった。
腕から一拍遅れて、ふわりと。そして本塁の手前で、杭の上のカラスの足もとに石を落としたときのように、すとん、と沈んだ。ヴァルターのバットは、とっくに球の上を通り過ぎていた。
「ストライク!」
五球目も同じだった。ヴァルターは今度は見送ろうとした。見送ろうとして、球が膝もとに落ちてくるのを見て、思わずバットを出してしまう。空振り。
「ストライク! バッター、アウト!」
空き地が爆発した。
拓海のポケットの中で、スマホが熱くなるほど震えていた。電池の表示はとっくに満タンのまま、緑色に光り続けている。
ヴァルターはバットを下ろして、しばらくマウンドを見つめていた。それから、リタに向かって、短く、騎士の礼をした。
『111:異世界イッチ:七回表 一死一二塁で、前に一打席勝負した騎士のヴァルター 看板娘のリタがカラス落とし二つで空振り三振』
『112:風吹けば名無し:カラス落としいいいいいい』
『113:風吹けば名無し:ヴァルター三振!!!』
『114:風吹けば名無し:同じ腕の振りからパーム来たら初心者には打てんわ』
『115:風吹けば名無し:リタちゃん最強』
けれどリタは、ヴァルターの背中を見送ったあと、膝に手をついた。
次の打者への初球は、ゴルドが立ち上がって捕らなければならないほど高く浮き、二球目は真ん中に入った。騎士のバットがそれを捉えて、打球は二遊間を抜け、中堅へ。ミーナが風のように前へ走って本塁へ投げたが、間に合わなかった。これで二対三、状況は二死、一塁と三塁。
『116:異世界イッチ:次の打者に打たれて2-3 なお二死一三塁 リタの球、浮いてきとる』
* * *
拓海は丸太から立ち上がっていた。
ポケットの中で、スマホが震え続けていた。リタの球が浮いてきた、と書いたばかりだ。見なくても、何が書かれているかはわかる。続投か、継投か、たぶん誰かが安価を出している。今まで迷ったときはいつもそうしてきたし、チームの名前も勧誘の文句も、なんJの連中と一緒に決めてきた。拓海はスマホを取り出して、一行だけ打った。
『121:異世界イッチ:ここはワイが決める』
それからスマホをポケットに戻して、拓海はマウンドへ歩き出した。監督がマウンドへ行く。この世界の誰も、それがどういう意味かを知らない。見物席がざわめくなか、ベアトリスは規則書の束を胸に抱えて拓海を見守っていた。
マウンドの上で、リタはうつむいたまま拓海を待っていた。本塁のうしろから、ゴルドも上がってくる。
「……まだ、投げられるよ」
先に言ったのは、顔を上げないままのリタのほうだった。
「ヴァルター、三振にした。あたし、まだ」
「リタ」
拓海はリタの右手を見た。指先が細かく震えている。カラス落としを投げるたびに、ボールを手のひらの奥へ押しこんできたせいで、親指の付け根の皮が赤くすりむけていた。
「いちばん近くで見てて、って言うたやろ。せやから、ずっと見とった」
リタが、ようやく顔を上げる。
「ワイには、わかる。今のリタの球は、もう、リタの球ちゃう。ワイが、あの日の練習試合で、自分の肘から聞いた音と、同じ音がしとる」
リタの唇が震えた。何か言い返そうとして開きかけた口は、言葉にならないままきゅっと結ばれる。
「交代や。ここまでで、十分すぎるくらいや」
長い沈黙のあと、リタは手の中の球を拓海の手のひらに押しつけた。
「……ちゃんと、勝ってよね」
「勝つのは、ワイちゃう。みんなや」
リタがマウンドを下りると、三塁側の見物席から、誰からともなく拍手が起こった。拍手は一塁側の、城下から来た人たちの席にまで広がっていく。そのなかを、リタはうつむいたまま丸太のほうへ歩いていった。
拓海は三塁側の端を振り返る。
「ディルクさん!」
ずっと腕を組んで立っていた男が、びくりと肩を揺らす。
「出番です。守護神の」
* * *
ディルクはマウンドに上がった。顔が真っ赤で、拓海が球を渡すと、受け取るその手がリタとは別の意味で震えている。
「……俺で、いいのか」
「キャンプの間、ずっと出番を待つ練習しとったやないですか」
「あれは、練習だったのか」
「練習です」
ゴルドがディルクの肩を、大きな手で一度だけ叩く。
「荒れていい。全部、止める」
それだけ言って、ゴルドは本塁のうしろへ戻っていった。
ディルクの一球目は、ゴルドの頭の上を越えそうなほど高く外れた。跳び上がったゴルドが分厚い手袋の先でそれを止め、本塁へ走りかけた三塁の走者が慌てて戻っていく。二球目は打者の足もとに叩きつけられたが、ゴルドが体ごと覆いかぶさって止めた。
三球目。ディルクが目を閉じるようにして腕を振ると、速い球が真ん中にまっすぐ走って、騎士のバットは振り遅れた。四球目も。五球目も。
「ストライク! バッター、アウト!」
ディルクはマウンドの上で両腕を突き上げて、吠えた。守護神、と叫んでいる。見物席の子どもたちがその言葉を真似して、シュゴシン、シュゴシンと叫び始めたけれど、意味は誰もわかっていない。二対三のまま、七回が終わった。
『133:異世界イッチ:リタは限界やったから降ろした 抑えのディルク出して三振 守護神や 2-3のまま七回終わり』
『134:風吹けば名無し:ディルク!!!』
『135:風吹けば名無し:守護神爆誕』
『136:風吹けば名無し:イッチの継投、ワイは支持する』
『137:風吹けば名無し:リタちゃん、ようやった ほんまにようやった』
『138:風吹けば名無し:自分で決めたイッチもようやった』
拓海は丸太の端に座りこんだリタの隣に、腰を下ろした。リタはすりむけた右手を、もう片方の手でそっと包んでいた。二人とも、何も言わなかった。言わなくても、よかった。
* * *
七回の裏も八回も、両方とも点が入らなかった。
ヴァルターの球は、八回になっても、速いままだった。ディルクの球は、八回になっても、荒れたままだった。ゴルドはその荒れた球を、一つ残らず止め続けた。
九回の表も、ディルクは騎士団を抑えた。最後の打者を三振に取ったときにはもう吠えず、肩で息をしながら、ゴルドに向かって黙って右の拳を軽く持ち上げただけだった。
九回の裏。ハーケン・ポテトーズの、最後の攻撃。二対三で、一点を追っている。
八番のハンスは粘った末に、遊撃手の正面に転がして一死。九番は投手のディルクで、三球とも力いっぱい振って、三球とも空を切った。これで、二死。
見物席から、ため息が漏れた。六百人のため息が風のように空き地を渡っていき、一塁側の見物席では城下の人たちが立ち上がりかけている。
一番、ミーナ。
麦わら帽子の少女は、打席に入る前に、一度だけ、三塁側の丸太のほうを振り返った。拓海を見て、リタを見て、それから、帽子のつばをぎゅっと下げた。
ヴァルターの初球を、ミーナは短く持ったバットで三塁線に転がした。三塁手の騎士が猛然と前へ走って、素手で球をつかみ、一塁へ投げる。ミーナは頭から一塁へ飛びこむ。
「――セーフ!」
ベアトリスの両腕が、真横に開いた。二死、一塁。
打席に向かうのは、二番。ゴルドだった。
鍛冶屋は分厚い捕手の手袋を外して丸太の上にそっと置き、白トネリコのバットを一本、手に取る。拓海の前を通り過ぎるとき、その足がほんの一瞬だけ止まった。
「……止めた分、打つ」
それだけ言って、ゴルドは打席へ歩いていった。
そして、ヴァルターの初球で、ミーナは、また走った。騎士団の捕手が二塁へ投げ、ミーナの手が白い布の塁に触れる。
「セーフ!」
二死、二塁。一打、同点。見物席の全員が、立ち上がっている。三塁側も一塁側も、土手の上も、屋根の上も。子どもたちが羊を呼ぶ節を、ほとんど叫ぶように歌っていた。ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ。かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい。
拓海の手はスマホを握りしめていたが、その目はもう画面を見ていない。マウンドの上で、ヴァルターが額の汗を手の甲でぬぐう。本塁のうしろで、ベアトリスが静かに両手を構えた。
六百人の声がふっと、消えた。
空き地に、風の音だけが残った。
脚注
※¹セイバーメトリクス:野球の試合や選手のデータを統計学的に分析し、客観的な評価や戦略に役立てる手法。
※²イーファスピッチ:山なりの放物線を描くほど、極端に遅いスローボール。昔の日本では「超スローボール」などと呼ばれていた。




