第12話 やきうは観るのも最高ンゴ
初球はミーナが走ったあいだに、ゴルドが見送ってストライク。ヴァルターの二球目は外角の低めで、ゴルドはこれも見送った。ベアトリスの右腕は、上がらない。
三球目は内角。ゴルドのバットが動きかけて、止まる。球は膝もとをかすめて騎士団の捕手の手袋に収まった。ベアトリスはほんのわずかに間を置いてから、首を横に振った。
二ボール、一ストライク。マウンドの上で大きく息を吸ったヴァルターの肩が、初めてわずかに落ちている。九回までひとりで投げ続けてきた肩だ。丸太の上の拓海は、いつのまにか身を乗り出していた。
――次はまっすぐや。
ヴァルターは逃げない。剣を振り下ろすように、いちばん自信のある球で来る。一打席勝負の日から、ずっとそういう男だ。
四球目。ヴァルターの腕が真上から振り下ろされて、今日いちばん速い球が内角の高めに走った。ゴルドはそれを待っていた。
乾いた音が空き地に響いて、打球は一塁手の頭の上を越えた。右翼の線の上で弾んで、柵のほうへころころと転がっていく。右翼の騎士が全力で追いかける。
ミーナが三塁を回る。麦わら帽子が頭から飛んでも、少女はそれを拾いもせずに、本塁へ駆けこんだ。
三対三。見物席が割れんばかりに揺れる。けれど、それで終わりではなかった。ゴルドが走っていた。
拓海はゴルドが走るところを、ほとんど見たことがない。鍛冶屋はいつも、本塁のうしろにしゃがんでいた。打っても一塁で止まる、重い体を無理に運ぶことをしない男だ。そのゴルドが、二塁を回っている。
右翼の騎士は柵へ向かって全力で走っていたが、追いつく寸前、球が柵の支柱に当たった。かつん、と乾いた音がして、球は思いもよらない角度で跳ね返り、走りこんできた騎士の両足のあいだを抜けて、中堅のほうへ転がっていった。騎士は勢いあまって柵にぶつかり、あわてて振り返る。追いついた中堅の騎士が、ようやく球を掴みあげて、中継の二塁手へ。ゴルドはもう、三塁に近づいている。
「止まれ、ゴルド!」
叫んだのは、三塁のそばにいたハンスだ。ゴルドは止まらなかった。三塁を、蹴った。
拓海は立ち上がっていた。叫んでいた。何を叫んだのか、自分でもわからなかった。
中堅の騎士の送球は、二塁手の手前で跳ねた。二塁手はそれを胸ではじき、足もとに転がった球をあわてて拾い直す。
二塁手の送球が本塁へ飛び、騎士団の捕手がそれを受ける。ゴルドが頭から本塁へ飛びこんで、土煙が上がった。
怒号、歓声、応援……直前まであらゆる声で満たされていた空き地が、その瞬間、しんと静まり返る。六百人が息を呑んで、本塁のうしろの修道服の娘を見ている。ベアトリスは土煙の中を、じっと見下ろしていた。捕手の手袋と、ゴルドの手と、白い布の塁を。そして、両腕を、真横に大きく開いた。
「――セーフ!」
四対三。
ハーケン・ポテトーズの、勝ちだった。
* * *
そのあとのことを、拓海はよく覚えていない。気がつくと十八人と一緒に、本塁の上で揉みくちゃになっていた。ボルグに持ち上げられ、ヨーゼフに背中を叩かれ、双子に両側から抱きつかれた。ディルクが守護神、と叫びながら泣いていた。ミーナは麦わら帽子を胸に抱えて、ぴょんぴょん跳ねていた。エミールは帳面を開いたまま、何を書けばいいのかわからない顔で立ち尽くしている。
ゴルドは土の上に仰向けに寝転がって、胸を大きく上下させながら空を見ている。拓海が手を差し出すと、その手をつかんでゆっくりと起き上がった。
「……あんなに走ったのは、十年ぶりだ」
それだけ言って、ゴルドは、少しだけ笑った。
見物席から人がなだれこんできて、町長が泣きながら両手を振り回している。ブルーノがピアを肩車して、揚げじゃがいもの大鍋のほうへ歩いていった。子どもたちが羊を呼ぶ節を、声が嗄れるまで歌っていた。
人の輪の外側に、リタがいた。すりむけた右手を、もう片方の手で包んだまま、立っていた。拓海と目が合うと、リタは、にっと笑った。それから口の形だけで何かを言ったが、声は歓声にかき消されて届かない。
――勝ったじゃん。
たぶん、そう言ったのだろう。拓海のポケットの中で、スマホが、ずっと震え続けていた。
拓海はようやくそれを取り出す。最後に書きこんだのは九回の裏が始まる前で、そのあいだにスレは三百近くまで伸びていた。指が震えて、何度も打ち間違える。
『300:異世界イッチ:勝った 九回裏、鍛冶屋のおっさんが打って羊飼いの娘が還って同点、柵の支柱で跳ねた球が騎士の股抜けて、そのままおっさんも本塁に突っこんだ シスターが長いこと溜めてセーフ 4-3や』
『301:風吹けば名無し:勝ったあああああああ』
『302:風吹けば名無し:鍛冶屋のおっさんホームまで突っこんだんか!?』
『303:風吹けば名無し:股抜けからのランニングサヨナラで草(記録はエラー)』
『304:風吹けば名無し:シスターさんの判定、ずいぶん溜めましたね。心臓が止まるかと思いました』
『305:風吹けば名無し:ポテトーズ優勝!!!』
『306:風吹けば名無し:>>305 一試合しかしてへんやろ』
『307:風吹けば名無し:ええねん 今日は優勝でええねん』
『308:風吹けば名無し:>>304 これ丁寧ニキ現地おるやろ』
画面の上を、知らない誰かの喜びが、滝のように流れていく。
* * *
騒ぎが少し落ち着いたころ、一塁側の柵の前に、騎士たちが整列した。ヴァルターがひとりで、三塁側へ歩いてくる。紺色の上着は土と汗で色が変わり、手のひらには新しいまめが潰れたあとがある。拓海の前で立ち止まったヴァルターは、しばらく、何も言わなかった。それから、右手を差し出した。
「……いい試合だった、イッチ」
拓海は目を瞬かせる。異邦人、ではなかった。初めて、そう呼ばれた。
「……ヴァルターさんも。四回のあれ、完全に読まれてました」
「お前も、すぐに守りを変えた。騎士の戦でも、あれほど早く陣を組み替える将は、そうはいない」
拓海はその手を握る。硬い、剣を握る者の手。
ヴァルターのうしろから、辺境伯の使者が進み出る。緋色の上着の初老の男は懐から二通の羊皮紙を取り出すと、片方を懐に戻し、もう片方を広げて、よく通る声で読み上げた。
「辺境伯閣下のお言葉である。奉納の遊戯にて、ハーケンの組が勝ちを収めたならば、約定に従い、この遊戯――野球を、辺境伯領において、正しき遊戯として許す。興行も、これを許す。ただし、賭けは、これを一切禁ずる」
空き地にもう一度歓声が上がった。使者は羊皮紙を巻き戻しながら、懐のもう一通を軽く叩く。
「こちらは、使わずに済んだ」
その目がほんの少しだけ笑っている。
「それと、閣下からもう一つ。勝ったときには伝えよ、と仰せであった。……城下の騎士団だけでなく、領内の町や村にも、組を作らせたいとのことだ。組と組が、季節ごとに戦う。閣下は、それを何と呼べばよいのか、異邦の監督殿に尋ねてこいと仰せだ」
拓海は口を開けたまま、その場に突っ立っていた。やがて、ポケットの中で震え続けるスマホを握りしめた。
「……リーグ、です」
「りーぐ」
使者は慣れない言葉を口の中で転がしてから、緋色の上着の胸に手を当てる。
「閣下にお伝えしよう」
使者とヴァルターが一塁側へ戻っていくと、入れ替わるようにオットー町長が駆け寄ってきた。顔じゅうを涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、指輪のない太い手で拓海の両手を握りしめる。
「イッチ殿、イッチ殿……! わしは、わしは……」
「町長さん、泣きすぎです」
「泣かせてくれ。……あの日、わしが木札なんぞ売らなければ、こんな遠回りはせずに済んだのだ。だが、遠回りしたから、今日の、この景色が見られた」
町長が空き地をぐるりと見回す。人で埋まった見物席。かがり火の支度を始めた若者たち。本塁の上で、まだ抱き合っている十八人。
「約束する。リーグとやらの金は、わしが集める。だが、木札は、二度と売らん。女神様に誓って」
その横で、エミールが、ようやく帳面に何かを書きつけていた。拓海が覗きこむと、頁のいちばん下に、震える字で一行だけ書かれていた。
――豊穣祭奉納試合。ハーケン・ポテトーズ、四対三。
「記録しました」
エミールは帳面を閉じて、はにかんだように笑う。
「たぶん、この町でいちばん大事な記録です」
* * *
豊穣祭は三日続いた。二日目には隣町の若者たちが、自分たちにも教えてくれと空き地にやってきた。ゴルドの徒弟がバットの削り方を教え、ベアトリスは規則書の写しを三冊作ると約束した。騎士団はもう一日だけハーケンに残って、ポテトーズの十八人と勝ち負けを数えない試合をした。九番の若い騎士はリタに、じゃがいもの投げ方を教えてくれと頼みこんで、断られていた。夕方、騎士団が城へ帰る前に、ヴァルターがもう一度だけ空き地にやってきた。
「春までに、騎士団はもっと強くなる」
馬の上からそう言って、ヴァルターは手綱を握り直す。
「今日の試合で、部下たちが言っていた。勝ち負けを数えないのに、なぜこんなに腹が立つのか、と。……私にも、わからん。わからんが、悪くない」
「それが、野球です」
「そうか」
少しだけ考えてから、ヴァルターが続ける。
「お前の組の、あの鍛冶屋。三塁を蹴ったとき、私は、二塁手に向けて「本塁へ返せ」と叫ぶのを忘れていた。見とれていたのだ。……騎士として、恥ずべきことだ」
「ワイも、叫んでました。何叫んだか覚えてへんけど」
ヴァルターの口の端が、今度ははっきりと上がった。
「リーグとやらで、また会おう、イッチ」
騎士たちの馬の列が、東の街道へ消えていく。最後尾の若い騎士は今度も振り返って、手を大きく振っていた。
* * *
三日目の夕方、拓海はひとりで教会へ行った。礼拝堂には誰もいない。祭壇の奥の木像が、窓から差しこむ夕日を受けて赤く染まっている。拓海はいちばん前の長椅子に腰を下ろす。祭りの前の夜、女神が座っていた場所だ。
「……来てくれはりますか」
小さく呟くと、扉が軋む音もしないのに、礼拝堂の空気がふっと温かくなった。顔を上げると、祭壇の前の夕日の中に、ルドゥーナが立っていた。胸の前に抱えた光る板を、楽しそうに指でなぞっている。
「特等席、どこやったんですか」
「司祭様の、笛の隣です。……あの方には、少しだけ、見えていたかもしれません」
女神がくすりと笑う。
「とても、いい試合でした。三百を超える書き込みを、全部読みました。あの場所の皆さんも、とても楽しそうでしたよ」
拓海は長椅子の背にもたれて木像を見上げ、ひとつ深く息を吸う。
「奇跡、断ります」
女神は何も言わなかった。ただ、静かに拓海を見ていた。
「三日間、ずっと考えてました。ほんまは、最初の夜に決まってたんかもしれへんけど」
膝の上で、拓海は自分の右手を開いたり閉じたりする。
「投げたい気持ちは、たぶん、一生なくならへんと思います。昨日も、騎士団との試合で、ちょっとだけ疼きました。……でも、おととい、ゴルドさんが三塁を蹴ったとき、ワイ、立ち上がって叫んでたんです。何叫んだか、覚えてへんくらい。ほんで、そのとき、ポケットの中で、あいつらも叫んどった」
拓海はポケットの中のスマホに、そっと手を当てた。
「ワイ、観るのが好きなんです。投げられへんようになって、しゃあなしで観とったんやと、ずっと思っとった。でも、ちゃうかった。観るのも、ほんまに好きなんや。ひとりで観るんやなくて、誰かと一緒に、あほみたいに騒ぎながら観るのが」
窓から差しこむ夕日が、少しずつ傾いていく。
「せやから、あいつらとの道は、切りたくないです。……投げるのは、リタがおる。ディルクさんもおる。これから、もっとたくさん、投げるやつが出てくる。ワイは、それを、いちばん近くで観てたい」
光る板を胸に抱えたまま、女神は長いあいだ拓海の横顔を見ていたが、やがてふわりと笑う。木像と同じ、何か楽しいものを眺めているような笑みだった。
「わかりました」
女神は光る板を、そっと伏せた。
「でも、覚えておいてくださいね。奇跡は、いつでも。十年後でも、二十年後でも。あなたが、本当に投げたくなったときに」
「……そのときは、また相談します」
「はい。いつでも、お待ちしています」
女神が祭壇の前の光の中へ一歩下がると、その姿は少しずつ夕日の色に溶けていった。消える直前、女神が振り返る。
「春の王都、楽しみにしています」
「……王都?」
聞き返した拓海に女神は答えず、いたずらっぽく笑っただけだった。
「それから、イッチさん」
「はい」
「わたくし、ネキですからね」
光が消えた。礼拝堂には、拓海と、色の剥げた木像だけが残る。木像の口もとが、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
* * *
祭りの最後の夜、空き地には大きなかがり火が焚かれた。十何年ぶりかで、舞台が立った。旅の楽団は来なかったが、代わりに町の年寄りたちが昔の楽器を物置から引っぱり出してくる。司祭様が木の笛を吹くと、開幕のときと同じ、短い、明るい節が流れて、町じゅうの人がかがり火の周りで踊っている。拓海はその輪から少し離れて、見物席の端に座っていた。
「イッチ!」
子どもたちが駆け寄ってくる。その中の一人が、牛革のボールを両手で差し出していた。
「イッチも、投げて!」
「……ワイは、投げへんて」
「やだ! 監督が投げるとこ、見たい!」
拓海が困ってあたりを見回すと、本塁のうしろにリタがしゃがんでいた。いつのまにかゴルドの分厚い手袋を左手にはめて、こちらを見て笑っている。
「投げなよ、イッチ。あたしが捕るから」
拓海はボールを受け取って、マウンドへ。本塁のうしろでは、リタが手袋を構えている。いつもと、逆の位置だった。
指が勝手に握りを作った。人差し指と中指を、縫い目にかける。あの夜、河川敷で光る球を拾ったときと、同じ握りだった。
拓海はゆっくりと腕を振る。肘を、上まで上げない。力も入れない。ただ、下から、ふわりと、放った。
白い球がかがり火の光の中を、高く、高く上がっていく。二つの月のあいだを横切って、ゆっくりと落ちてきた。リタの手袋に、すとん、と。
「……ナイスボール、イッチ」
リタが笑って、子どもたちが手を叩く。踊りの輪の中から、誰かが指笛を鳴らした。
右肘の奥がかすかに疼いた。痛みではなかった。何かの合図のような疼きでも、もうなかった。ただ、温かかった。
――あの頃はこんなとこまで来るとは思わんかった。
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。いつか誰かに向かってそう言う日が来るのかもしれない、と思った。
* * *
祭りが終わって五日目の昼、一頭の早馬がハーケンの門をくぐった。乗っていたのは、辺境伯の騎士ではなかった。白い馬に、見慣れない青い紋章の鞍。騎手は町役場ではなく、まっすぐ黄金のじゃがいも亭にやってきて、一通の手紙を差し出す。
「ハーケンの、イッチ殿に」
封蠟に押されていたのは、冠をかぶった獅子だ。しんとなった店の中で、ヨーゼフが杖を取り落とした。
「……王家の、紋だ」
拓海は震える指で封を切った。中の文は短い。辺境伯から王都へ、早馬で報せが届いたこと。辺境の町で、野球という遊戯が女神に奉納され、町の組が辺境伯の騎士団を破ったこと。辺境伯がその遊戯を許し、領内の町や村にも組を作らせると決めたこと。王都の治癒術師も、肘を壊した妙な異邦人の話を、宮廷でしていたこと。そして、最後の一行。
――その遊戯、来たる春、王の御前にて見せよ。
黄金のじゃがいも亭が、爆発した。
その騒ぎのなかで、拓海は手紙を握ったまま、教会で聞いた女神の声を思い出していた。春の王都、楽しみにしています。
――知っとったんか、あの人。
* * *
手紙のあと、黄金のじゃがいも亭の裏庭で、拓海はリタと並んで井戸の縁に腰かけていた。店の中では大人たちがまだ王都の話で騒いでいる。リタの右手の指には、ブルーノが巻いた白い布。
「痛むか」
「ちょっとだけ。……ねえ、イッチ」
「なんや」
「あたし、あのカラス落とし、まだ完成してないと思う。ヴァルターに、二球続けて投げたら、二球目は、もう少しで当てられるとこだった」
包帯の指を、リタが空にかざす。
「だから、もっと練習する。それと、まだ名前のない球も」
「……まだ増やす気か」
「増やすよ。イッチが観たいって顔してるもん」
拓海は何も言い返せなかった。リタはにっと笑って、井戸の縁から跳び下りる。
「じゃ、皿洗い戻るね。今日もお客さん、いっぱいだから」
前掛けをひるがえして厨房へ戻っていく背中を、拓海は見えなくなるまで見送った。
* * *
その夜、拓海は屋根裏の藁の布団に寝転がって、スマホを開いた。電池は百パーセント。緑色の表示が暗い屋根裏で、小さく光っていた。
小窓の外には、二つの月が並んでいた。下の厨房からは、ブルーノが大鍋を洗う音に混じって、リタの鼻歌が聞こえてくる。羊を呼ぶ節だ。
拓海は親指を滑らせ、慣れた手つきで文字を打ち込んだ。
『【朗報】ワイ、異世界で野球リーグを作ることになる』
送信。数秒もしないうちに、画面にレスが並び始める。
『2:風吹けば名無し:きたああああ』
『3:風吹けば名無し:ついにリーグか』
『4:風吹けば名無し:イッチ出世しすぎやろ』
『5:風吹けば名無し:はよ詳細』
拓海は小さく笑った。
『6:異世界イッチ:辺境伯が、領内の町と村に組を作らせるんやって ほんで春には王都で御前試合や』
『7:風吹けば名無し:ファッ!?』
『8:風吹けば名無し:王様の前でやきうするんか』
『9:風吹けば名無し:異世界の天覧試合やんけ』
『10:風吹けば名無し:で、イッチの肘は? 神の奇跡のフラグは回収されたんか』
十番の書き込みの上で、拓海の親指が止まる。下の厨房の水音が、やけに大きい。それからゆっくりと打ちこんでいく。
『11:異世界イッチ:治す方法、一個だけあった でも断った ワイは監督で、観る人や それでええねん』
『12:風吹けば名無し:……そうか』
『13:風吹けば名無し:イッチがそれでええなら、ワイらもそれでええわ』
『14:風吹けば名無し:まあ観るだけのやつがおらんと、試合は成り立たんしな』
『15:風吹けば名無し:>>14 ワイらのことやんけ』
『16:風吹けば名無し:これからも実況スレ立てろよ 毎試合や』
『17:風吹けば名無し:楽しみにしています』
『18:風吹けば名無し:>>17 丁寧ニキ、毎回おるな』
『19:風吹けば名無し:丁寧ニキの正体、結局なんやったんや』
拓海は少し考えてから、正直に書く。
『20:異世界イッチ:この世界の女神様や ワイを呼んだのもあの人や』
『21:風吹けば名無し:釣り乙』
『22:風吹けば名無し:釣り乙』
『23:風吹けば名無し:女神がなんJやっとるわけないやろ』
『24:風吹けば名無し:ネキです』
『25:風吹けば名無し:>>24 なんでそこだけ訂正すんねん』
拓海は声を上げて笑った。下の厨房から、リタの「イッチ、うるさい!」という声が飛んできた。
画面の中では、顔も名前も知らない連中がまだ騒いでいる。王都の御前試合の打順を、もう勝手に組み始めているやつ。リーグの名前を安価で決めようと言い出すやつ。じゃがいも最強、と書きこむやつ。
その一つ一つが、拓海の知らない、どこかの部屋の明かりの下で書かれている。仕事帰りの電車の中かもしれない。眠れない夜の布団の中かもしれない。それでも、今この瞬間、同じ一つの試合のことを、同じ熱さで語っていた。
拓海はスマホを胸の上に置いて、天井の梁を見上げる。四か月前、河川敷のマウンドで光る球を拾ったとき、自分は観ることしかできない人間だと思っていた。観ているだけなら、痛くないから。
今は、少しだけ違う。
観ることは、痛くないからやることじゃなかった。誰かと一緒に、同じ球の行方を追いかけて、同じ瞬間に声を上げる。それは、投げるのと同じくらい、打つのと同じくらい、胸が熱くなることだった。
拓海はもう一度だけ、スマホを持ち上げる。
『26:異世界イッチ:やきうは、観るのも最高ンゴ』
送信。
小窓の外で、二つの月が、ゆっくりと西へ傾いていった。春までは、まだ長い。やることは、山ほどあった。
電池の表示は緑色のまま、いつまでも光っていた。




