幕間 看板娘の冬支度
王様からの手紙が届いた次の朝も、黄金のじゃがいも亭の厨房は薪の爆ぜる音から始まった。
裏口の籠からじゃがいもを一つ取って、リタは左手に持ち替える。右手の指には、まだ白い布が巻いてあった。ゆうべ寝る前に、ブルーノが巻き直してくれたものだ。
竈の前で、ブルーノが振り向かずに大きな手を広げた。リタが下からふわりと放ると、左で投げた芋は思ったより右へそれて、ブルーノの指先に当たって跳ねた。もう片方の手でそれを押さえて、ブルーノは黙ってまな板の上に置く。
「……曲がった」
「右が治ったら、まっすぐ投げるもん」
毎朝のことだ。小さいころから、店の芋はリタが投げてブルーノが受け取る。この夏からは、そこに見物人がひとり増えていた。いまも厨房の隅の桶の前に座って、芋の皮をむいている。
「イッチ、それ、皮じゃなくて実をむいてる」
「……むいとるうちに、こうなんねん」
イッチの足もとの桶には、実が半分くっついたままの厚い皮が山になっている。来たばかりのころに少しだけうまくなって、そこから先が少しもうまくならない。皿洗いはあんなに速いのに、とリタは思う。
「貸して」
リタは左手で芋を受け取りかけて、右手の布を見て、やめた。
「……治ったら、教えてあげる」
「治ってからでええ。ほんまに、治ってからでええからな」
イッチは真顔だった。祭りの最後の夜から、リタの右手ばかり見ている。
昼前に店を開けると、さっそく常連がやってきた。
「よう、リタ! 俺たち、王様の前で投げるんだってな!」
ディルクだ。赤ら顔をもっと赤くして入り口で両手を広げ、その後ろでは、ほかの客たちもにやにやしながらリタを見ている。
「春なんて、ずっと先だし」
「何言ってやがる。手紙に書いてあったじゃねえか。王の御前にて見せよ、ってな。お前が先に投げて、最後は俺が締める。王様の前だろうが、それは変わらねえ」
ディルクが両腕を突き上げると、後ろの客の誰かが、シュゴシン、と囃した。豊穣祭の日に子どもたちが覚えた言葉だ。まんざらでもない顔で、ディルクは胸を張る。
盆で顔を半分隠して、リタはテーブルのあいだをすり抜けていく。王様、と言われても顔も知らないし、王都がどっちの方角にあるのかも、よく知らない。そんな遠くの、いちばん偉い人の前で投げる。考えると、白い布の下の指先がちりちりした。
厨房に戻ると、イッチはまだ芋をむいていた。皮の山は、さっきより高くなっている。
「イッチ」
「なんや」
「王様って、怖い?」
イッチは芋をむく手を止めた。少し考えてから、口を開く。
「会うたことないから、わからん。でもな、観とる人が偉いからって、球が速うなるわけでも遅うなるわけでもないで」
「……そっか」
「リタの球は、リタの球や」
イッチは褒めるときだけ声が小さくなる。リタはそれを知っていたから、何も言わずに盆を持って表へ戻った。
* * *
祭りから十日も経つと、ハーケンの町は取り入れで忙しくなった。
塀の外の畑では、どこの家も総出で麦を刈り、芋を掘る。荷車が朝から晩まで門を出入りして、ポテトーズの仲間たちも、それぞれの冬支度に追われていた。
ボルグは森から帰ってくると、冬じゅう町の竈で燃やす薪を荷車に山と積んで、通りを行ったり来たりする。粉屋の双子は運びこまれる麦を挽くのに水車を一日じゅう回していて、ときどき店に来ると、座った椅子のまわりが白くなった。ミーナは冬の干し草を、羊の囲いの屋根の下に積み上げている。ハンスは道が凍る前の最後の荷を運びに、街道を下っていった。ゴルドの店には、打ち直す鍬の刃や、荷車の車輪にはめる鉄の輪が山ほど持ちこまれて、槌の音は夜になっても止まない。町役場では、エミールが取り入れの税の帳面に埋もれている。
「数えるものが多すぎて、楽しすぎて、眠れないんです」
たまに店に来ると、袖口を前よりもっと黒くして、目だけを光らせていた。
空き地には、誰も来なくなった。夕方、店の使いで通りかかったとき、リタは柵の外から空き地を覗いた。見物人の足で踏み固められた土の上に、枯れ葉が何枚か落ちている。マウンドの真ん中では、白い投手板だけが夕日を受けて光っていた。
柵をくぐって、マウンドに上がる。投手板に右足をかけて本塁のほうを見ても、そのうしろには誰もいなかった。ゴルドの大きな手袋も、見物席の歓声も、打席に立つヴァルターもない。
ここでヴァルターを三振に取った。ほんの十日前のことなのに、ずっと前のことのような気がした。
それでも、腕が勝手に動いた。球を持たないまま振りかぶって振り下ろすと、指の先が、冷たくなりはじめた夕方の風を切った。マウンドを下りて、リタは店へ走って帰った。
黄金のじゃがいも亭にも、冬の芋が届いた。裏口の前に、芋を山積みにした荷車が三台止まる。冬のあいだ店で使う分を、まとめて買うのだ。地下の貯蔵庫に入れる前に、大きいのと小さいの、傷のあるのとないのを分けてそれぞれの籠に入れるのが、毎年のリタの仕事だった。
その朝、リタの指から白い布が取れた。すりむけていた親指の付け根には、薄い新しい皮が張っていて、握ったり開いたりしても、もう痛くない。荷車の上の芋を一つ取って三歩離れた籠に投げ入れると、ごとん、と籠の底が鳴った。もう一つ。今度は五歩。ごとん。
「……ちゃんと分けとるんか、それ」
仕込みの手伝いを終えたイッチが、裏口の戸にもたれている。
「分けてるよ。大きいのは右の籠、小さいのは左、傷のあるのは真ん中」
言いながら、リタはもう一つ投げる。小さい芋が、左の籠にごとんと落ちた。
「十歩までなら、外さないよ」
「……十歩」
荷車から芋を一つ取って手のひらで重さを確かめると、イッチは真ん中の籠に向かって、上から腕を振った。芋は籠の縁に当たって跳ね、裏庭の土の上を転がっていく。
イッチは右の肘を左手でさすっている。顔は笑っているのに、さすっている手はしばらく離れなかった。転がった芋を拾ってくると、リタは荷車の端を叩いた。
「イッチは数えて」
「何をや」
「何個入ったか。外したのも、全部」
「……そんなん数えてどうすんねん」
「エミールみたいに、つけておくの。あたしが何個外したか、ちゃんと見てて」
イッチはしばらくリタの顔を見ていた。それから、ポケットから炭のかけらを出して、裏口の戸の内側に線を引いた。
横に一本、縦に一本、また横に一本。五本引くとそれで一つの形になるのが、イッチの国の数え方らしい。
その日、リタが籠に投げ入れた芋は三百と十二個。外したのは四つだった。戸の内側には見慣れない形がびっしりと並び、外した四つだけが、離れたところに別の線で引いてあった。
次の朝から、芋が籠に入る音は毎朝の音になった。荷車の芋が貯蔵庫に片づいたあとも、リタは朝の仕込みで使う分を、籠に投げ入れてから厨房へ運ぶ。
* * *
夜、店を閉めたあと、リタは毛布を抱えて屋根裏へ上がっていく。はしごの途中で、上から笑い声が聞こえた。イッチの声だ。ひとりなのに、喉の奥でくっくっと笑っている。
屋根裏の床から顔を出すと、イッチは藁の布団の上に寝転がって、光る板を見ていた。板の明かりが、その顔を下から青白く照らしている。
「何がおかしいの」
イッチはびくっとして、板を胸の上に伏せた。
「……なんや、リタか。脅かすなや」
「毛布。お父さんが、もう一枚って」
毛布を布団の足もとに置いて、リタはそのまま床に座りこむ。
「で、何がおかしいの」
「……別に、おかしいわけちゃう」
「笑ってたじゃん。ひとりで」
困った顔で天井の梁にしばらく目をさまよわせてから、イッチは伏せていた板をもう一度起こした。
「……祭りの日の、ワイの国の連中の書きこみをな。読み返しとってん」
「イッチの国の人?」
「せや。野球の好きな連中や。ワイが試合のことをこの板に書いたら、向こうで読んで、好き勝手に言うてくる」
「知ってる人?」
「顔も名前も知らん。……知り合い、みたいなもんや」
前にも、同じ言い方を聞いたことがあった。指のまめに効く草のことを、イッチが誰かに聞いてきたときだ。
「なんて書いてあるの」
「……聞きたいんか」
「聞きたい」
板を指でなぞって、イッチは小さく咳払いをする。
「七回の表。一死一二塁で、前に一打席勝負した騎士のヴァルター。看板娘のリタが、カラス落とし二つで空振り三振」
「……それ、イッチが書いたやつでしょ」
「せや。ほんで、ここからが向こうの連中」
イッチの指が、板の上を滑る。
「カラス落としいいいいいい」
「なにそれ」
「そう書いてあんねん。い、が六つ」
リタは噴き出しそうになって、口を押さえた。
「ヴァルター三振。同じ腕の振りからパーム来たら、初心者には打てんわ」
「ぱーむ?」
「カラス落としのことを、ワイの国ではそう呼ぶ」
「ふうん」
イッチの指がまた滑って、少しだけ間が空く。
「……リタちゃん、最強」
屋根裏が、しんとした。
「……なんで、ちゃんづけなの」
「知らん。気づいたら、向こうではそうなっとった」
「会ったこともないのに」
「会うたこともないのにな」
イッチの指が、板の上をずっと前のほうへ遡っていく。
「最初はな、看板娘って呼ばれとった」
「かんばんむすめ?」
「店の顔、みたいな意味や。夏にワイが、酒場の看板娘がじゃがいもで酔っぱらい一撃や、って書いたら、こうや。看板娘がエース候補とか、属性盛りすぎやろ」
「ぞくせい?」
「……いろいろ乗っかりすぎ、っちゅうことや」
「乗っかってないもん」
「ほんで、ドラフト一位指名や」
「どらふと?」
「いちばんええ選手を、いちばん先に取りに行くことや」
リタは膝を抱える。わからない言葉ばかりなのに、悪口でないことだけはわかった。
イッチの指が、また祭りの日のところへ戻ってくる。板から目を離さないまま、イッチが言った。
「七回に、リタを降ろしたやろ。そのあとのも、読むか」
リタは返事をしなかった。イッチはそれを、読め、という意味に取ったらしかった。
「リタちゃん、ようやった。ほんまに、ようやった」
リタは立ち上がった。
「別に、うれしくなんかないから」
「……さよか」
「ほんとに。会ったこともない人に褒められたって、別に」
はしごを下りる足が、二段目で一度滑った。厨房の暗がりで両手を頬に当てると、熱い。屋根裏からは、イッチがまたくっくっと笑う声が降ってくる。
「イッチ、うるさい!」
言ってから、自分も笑っていることに、リタは気がついた。
* * *
安息日の昼、空き地に久しぶりに声が上がった。畑の仕事が休みになるこの日だけは、子どもたちが空き地に集まってくる。大人たちの姿がないのは、来たくても冬支度で手が離せないからだ。ぼろ布を固く丸めて紐で縛ったボールを、イッチが子どもたちに一つずつ配っている。
「牛革のは硬いからな。顔に当たったら泣く。まずはこれで、捕るのに慣れよか」
二人ずつ向かい合って、子どもたちが布のボールを投げ合う。捕りそこねて尻もちをついた子がそのまま地面にひっくり返って笑い、その子を指さして、まわりの子も笑った。笑いすぎて、自分の番のボールを落とす子もいる。
「手のひらで捕るんちゃう。ここ、指の付け根あたりで包むんや。ほら、こう」
「イッチ、できない!」
「監督や言うとるやろ」
「監督、できない!」
「できるまでやるんや」
一人の子の前にしゃがんで、イッチが布のボールを下から放る。子どもが両手を出すと、ボールはその手のあいだをすり抜けて、おでこにぽすんと当たった。子どもはきょとんとして、それから大声で笑い出した。イッチまでつられて笑っている。
柵に腰かけて、リタはそれを見ていた。柵の反対側では、ピアが空っぽの樽を背負って、誰もいない見物席を歩き回っている。
「あったかいお茶、いかがっすかー!」
大きな声だ。羊を連れて通りを歩いていた誰かが、振り返るほどだった。
「……あったかくないっすけど! 中身もないっすけど!」
「ピア、それ、売れないじゃん」
「練習っす! 冬は冷たい酒より、あったかいお茶っす。春までに、言い方を決めとくっす!」
柵の前で立ち止まって、ピアがリタを見上げる。
「リタ姉ちゃん、どっちがいいっす? あったかいお茶と、ぽかぽかのお茶」
「……ぽかぽか、かな」
「ぽかぽかのお茶、いかがっすかー!」
ピアは鼻の頭を赤くして、また見物席を一周しはじめる。
リタがふと目をやると、イッチは子どもたちのあいだに立ったまま、ポケットから光る板を出していた。板の表をちらりと覗いて、目尻をほんの少しくしゃっとさせ、またすぐにポケットにしまう。
子どもが転んで笑ったとき。ピアが声を張り上げたとき。誰かが初めてボールを捕って、跳び上がったとき。
そういうときに限って、イッチは板を覗いて、ひとりで笑う。このごろ、リタはそれに気がついていた。屋根裏で読んでいた、向こうの連中の書きこみを見ているのだろうか。それとも、別の何かなのか。
聞いてみようかと思った。でも、やめた。楽しそうな顔を見ているほうが、聞くよりよかった。
「リタ姉ちゃんも、やろうよ!」
小さい子が、布のボールを両手で差し出していた。リタは柵から跳び下りた。
「いいよ。じゃあ、あたしが投げるから、ちゃんと捕ってね」
五歩離れて、リタは下からふわりと放った。布のボールは山なりの弧を描いて、小さい子の胸の前にすとんと落ちる。両腕でそれを抱きとめた小さい子が、目を丸くした。
「捕れた!」
イッチのポケットの中で、何かがかすかに光った気がした。
* * *
祭りからひと月近くが経って、朝の空気が変わった。井戸の水を汲むと、桶の縁に指が貼りつきそうになった。霜で白くなった裏庭の土は踏むとしゃりしゃり鳴って、吐く息も白い。前掛けの上から両腕をこすりながら、リタは厨房に駆けこんだ。
テーブルの上に、見たことのない上着が置いてあった。厚手の毛織りで、色は落ち着いた茶色。襟の内側には毛皮が細く縫いつけてあって、両方の肘には、少し色の違う布で継ぎが当ててある。
「……着ろ」
竈の前で、振り向きもしないままブルーノが言う。
リタが上着を広げてみると、肩が少し大きい。袖を通すと指の先まで隠れて、長持ちの奥にしまってあったような、杉の木の匂いがした。
「これ、誰の?」
「……とっておいた」
ブルーノはそれだけ言って、鍋をかき回した。誰のだろう、とリタは思う。お父さんのにしては小さいし、自分のにしては少し大きい。肘の継ぎの縫い目はまだ新しくて、ゆうべ遅くまで厨房に明かりがついていたのを思い出しながら、リタは袖を二回折り返した。
「……ありがと、お父さん」
「……うむ」
少しして、ブルーノがまた口を開いた。
「……冬も、投げるんだろう」
リタは、折り返した袖口を直す手を止める。
「なんで知ってるの」
「……毎朝、芋が籠に入る音がする」
ごとん、ごとん。思わず裏口のほうを見ると、厨房の窓から、ちょうど籠が見えた。ブルーノは毎朝、竈の前に立ちながら、あの音を聞いていたのだ。
「……うん。投げる。冬も、ずっと」
「……うむ」
それきり、ブルーノは何も言わなかった。大鍋の中で、冬のシチューがことこと煮えている。
その日、リタは上着を着たまま市場へ使いに出た。パン屋のおかみさんに「あら、いい上着だね」と声をかけられ、冬の干し草を積んだ荷車の上からはミーナが手を振ってくる。手を振り返すと、折り返した袖がほどけて、指の先を隠した。
* * *
次の日の昼、大鍋をテーブルへ運ぼうとして、リタは壁際に重ねた鍋敷きから一枚を引き抜いた。そこで、手が止まる。
黒い焦げ跡の輪がいくつも重なった、薄い木の板。片方の面には、かすれた炭の線が並んでいる。角ばったり、はねたりする、見たことのない形の線。裏返すと、こっちはちゃんと読めた。こるく、ごむ、毛糸、綿糸、牛革二枚。
イッチが店に来たばかりのころ、竈の脇で書いた板だった。イッチはこの板を抱えてゴルドの店へ行ったが、いつのまにか板は店に戻ってきていて、大きさがちょうどよかったので、ブルーノが鍋敷きにした。それからずっと、鍋の下にあったのだ。
「何これ、呪文?」
あのときそう聞いたリタに、イッチは、道具の作り方だと言った。ボールとバットを作って、遠くに飛ばして、みんなで見て喜ぶのだと。何を言っているのか、ひとつもわからなかった。
今は、わかる。
リタは板の、読めないほうの線を指でなぞる。イッチの国の文字。あの夕暮れの帰り道に教わった名前も、イッチの国では、こういう線で書くのだろうか。
一音ずつ確かめた名前。舌が少しもつれた名前。とっておく、と言ったのはリタのほうだった。口の中で転がしかけて、リタは唇を結んだ。まだ、とっておく。
大鍋は別の鍋敷きに載せて、焦げ跡だらけの板は前掛けで拭い、二階の自分の部屋に持って上がる。窓の下の棚に、そっと立てかけた。
夕方、ブルーノが鍋敷きを数えては、また頭から数え直していた。リタは知らん顔をした。
* * *
その夜は、雲が低かった。昼過ぎから空いちめんに垂れこめた灰色の雲に隠れて、月は二つとも見えない。風がやんで町の音が妙に遠く聞こえ、空気には、冷たくて澄んだ匂いがまじっていた。
店を閉めたあと、リタは茶色の上着を着て裏庭に出た。手の中には、子どもたちが空き地に忘れていった布のボールがある。牛革のボールは夜に杭に当てるとうるさくて、ブルーノにも近所にも怒られるけれど、布なら、ぽす、と鳴るだけだ。
井戸の脇には、洗濯の縄を張るための杭が立っている。小さいころ、カラスを追う石で狙ったのと同じくらいの太さだ。その杭から十歩離れて、リタは腕を振った。
ぽす。
布のボールは杭の真ん中に当たって、足もとに落ちた。拾って、また十歩。ぽす。袖を折り返した上着の中で、肩がゆっくり温まっていく。
祭りの最後の夜のことを、リタは思い出した。かがり火の明かりの中で、本塁のうしろにしゃがんで、ゴルドの手袋を構えた。いつもと逆の位置だった。マウンドのイッチは肘を上げずに、下からふわりと放った。白い球は二つの月のあいだを横切って、手袋の中にすとんと落ちてきた。軽い球だった。それなのに、捕った手のひらは、しばらく温かかった。
あの夜から、イッチはボールを投げていない。芋を一つ投げて、肘をさすっただけだ。
だから、あたしが投げる。イッチが投げたかった球を、全部。
ぽす。投げながら屋根裏の小窓を見上げると、小さな明かりがついていた。ランプの火ではない、青白い光。イッチがまた光る板を見ているのだ。向こうの連中が、今夜も何か好き勝手に書いているのだろう。リタちゃん、とか。
リタは小窓に向かって、小さく手を振った。明かりは動かない。見えていないのはわかっていて、それでも、もう一度振る。
「……冷える。入れ」
裏口に、ブルーノが立っていた。
「あと一球」
ぽす。杭の真ん中だった。
布のボールを拾って上着のポケットに入れ、裏口へ歩きながら、リタはもう一度空を見上げた。雲は、さっきよりもっと低くなっている。
「……明日は、降る」
ブルーノは空を見ずに言った。
「何が?」
「……雪だ」
裏口の前で立ち止まって、リタは白い息を吐く。雪が積もったら、裏庭では投げられない。空き地は、もっと積もる。どこで練習しよう。イッチに聞いてみよう。きっと、冬のあいだくらい休めばいいのにと言う。言わせておけばいい。
春は、まだずっと先だ。でも、待っているだけの冬にするつもりはなかった。戸を閉める前に、リタはもう一度だけ屋根裏の小窓を見上げた。
青白い明かりは、まだ消えていなかった。




