第8話 ワイ、監督になる
司祭様の部屋は、教会の裏の、小さな石造りの離れにあった。窓辺の寝台には白髪の老人が横たわり、痩せた手の甲に青い血管が浮いている。ベアトリスが祭礼法の羊皮紙を読み上げるあいだ、老人は目を閉じたまま、じっと耳を傾けていた。読み終えると長い沈黙が落ちて、眠ってしまったのかと拓海が思い始めたころ、ようやく老人の唇がかすかに動いた。
「……舞台が、また立つのか」
「はい、司祭様。舞台ではありませんが、それに近いものが」
老人がゆっくりと目を開ける。濁った目が、ベアトリスの肩越しに拓海をとらえた。
「そなたが、あの空き地に、声を戻した者か」
「……はい。たぶん」
司祭様が、枕もとの小さな木箱を指さす。ベアトリスが蓋を開けると、中には古びた木の笛が一本、布にくるまれて入っていた。
「若いころ、豊穣祭の舞台で、毎年それを吹いた。女神様に聞こえるように、と。……もう、息が続かん」
老人の震える手が、ベアトリスの手を取る。若いころに毎年笛を吹いたという指は、枯れ枝のように細かった。
「届けを書きなさい。ハーケンの教会は、今年の豊穣祭に、遊戯を奉納する。わしの名で、閣下に送りなさい」
ベアトリスの目に涙が浮かぶ。彼女はそれを拭いもせずに、深く頭を下げた。
「必ず」
その日の午後、教会の届けを携えた早馬が、辺境伯の城へ向けて町を出ていった。
* * *
返事が来たのは、五日後。届けたのは、使者ではなかった。黒馬に乗った、銀の胸当てと紺のマントの騎士だった。
黄金のじゃがいも亭の前で馬を降りると、ヴァルターはまっすぐ店の中へ入ってくる。昼の客たちがぎょっとして手を止め、皿を運んでいたリタは、盆を抱えたまま固まった。
「異邦人はいるか」
厨房の奥で皿を洗っていた拓海は、濡れた手のまま顔を出した。指先から、しずくがぽたりと床に落ちる。
「……何の用ですか」
「閣下の返事を伝えに来た」
ヴァルターが懐から取り出したのは、封蝋つきの書状だった。それをカウンターの上に置いて、口を開く。
「閣下は、教会の届けを受け入れられた。祭礼法は古い法だが、法は法だ。豊穣祭の日、ハーケンで遊戯を奉納することを、閣下は妨げない」
店の中に、小さなどよめきが広がる。拓海は思わず拳を握った。
「ただし、条件が二つある」
ヴァルターが指を一本立てる。
「一つ。奉納の遊戯は、二つの組が神前で力を競うもの。ハーケンの相手は、閣下の騎士団から出す。私が九人を率いる」
二本目の指が立つ。
「二つ。ハーケンが負けたなら、この遊戯は、閣下の領内では二度と許さぬ。勝ったなら――閣下の名において、この遊戯を正式に許す。木戸銭を取る興行も含めてだ。ただし、賭けは別だ。賭けは、どちらにしても許さぬ」
勝てば正式に許され、負ければ二度とない。拓海はヴァルターの青い目を見返した。
「……それ、閣下が言うたんですか。それとも、あんたが」
「条件を考えたのは閣下だ。相手を買って出たのは、私だ」
ヴァルターはほんの少しだけ、口の端を上げた。
「勝負の続きだ、異邦人。今度は一打席ではない。九人と九人。九回まで」
続けてヴァルターが口にしたのは、思いがけないひと言。
「規則書を、写させてもらいたい」
拓海が目を瞬く。
「知らない遊戯で、勝つことはできん。騎士は、戦う前に敵の陣を調べる」
店を出かけたヴァルターが、戸口で立ち止まる。盆を抱えたまま固まっているリタに、ちらりと目をやった。
「娘。あの球は、二度は通じんぞ」
リタは盆を胸に押し当てたまま、まっすぐに騎士を見返す。
「あたし、じゃがいもだけじゃないもん」
ヴァルターはほんのわずかに眉を上げた。言葉は返さずに、紺のマントをひるがえして出ていく。
黒馬の蹄の音が遠ざかると、店の中にどっと声があふれた。酒をこぼす者、肩を叩き合う者、「騎士団と試合だとよ」と隣の席に言いふらしに走る者。厨房の奥では、鍋をかき回していたブルーノが一瞬だけ手を止め、すぐにまた黙ってかき回し始める。
豊穣祭まで、あと二十八日だった。
* * *
規則書の写しを渡すかどうかで、少しだけ揉めた。口火を切ったのは、ディルクだ。
「敵に塩を送るようなもんじゃねえか」
ボルグも腕を組んだまま、何度も首を縦に振る。けれど、ベアトリスは規則書の束を胸に抱えたまま、きっぱりと首を振った。
「規則は、誰のものでもありません。守る者すべてのものです。相手が規則を知らずに試合をすることのほうが、よほど不公平です」
「公平だな」
ハンスが満足げに胸を反らす。ベアトリスは三晩かけて、規則書をもう一冊書き写した。インクの染みひとつない几帳面な字で、表紙にはていねいに『野球規則 写し』とある。受け取りに来たヴァルターは、教会の小部屋でその束をめくり、ストライクゾーンの定義のところで、手を止めた。
「……肩と、腰の中間から、膝の下まで。打者の構えによって、変わるのか」
「はい。打者ひとりひとりに、その人だけのストライクゾーンがあるのです。美しいでしょう」
ベアトリスの声は、少し誇らしげだった。ヴァルターは何とも言えない顔で彼女を見やり、黙って束を閉じる。
「この、ぼーく、というのは何だ」
「投手が、走者を欺く動きをすることです。わたしが、一つ残らず見つけます」
「……欺きを、罪とするのか。騎士の決闘と同じだな」
ヴァルターの顔に、初めて、少しだけ感心したような色が浮かぶ。
「借りておく」
騎士はそれだけ言って、規則書を胸当ての内側にしまった。
* * *
禁止令はまだ生きていた。空き地には縄が張られたままで、衛兵も立っている。豊穣祭の当日まで、ハーケンで野球の集会は開けないし、練習も例外ではないはずだった。解決したのは、またしてもベアトリスだった。
「奉納の遊戯のための稽古は、奉納の一部です。祭礼法の次の行に、そう書いてあります。それに、教会の裏の牧草地は、教会の土地です。閣下の禁止令は、教会の土地での奉納の稽古までは、及びません」
「……シスター、それ、ほんまに書いてあるんですか」
「書いてあります。わたし、三回読みました」
ベアトリスはかすかに胸を張った。こうしてハーケン・ポテトーズは、教会の裏の牧草地に集まることになった。来たのは、十八人全員。ボルグは森から、ハンスは荷車置き場から、ミーナは羊を連れたまま走ってくる。ゴルドは預かっていた塁の杭を四本、肩に担いでやってきた。双子の粉屋は、相変わらず全身が真っ白だ。
牧草地の端には、縄の外で待ちぼうけを食っていた子どもたちが、いつのまにか鈴なりになっている。そのなかには、樽を背負ったピアの姿も。
教会の裏の木陰には、オットー町長の姿もある。指輪のない手を、所在なさげに組んでいた。拓海と目が合うと、町長は少しだけ頭を下げ、それから言った。
「わしにできることは、もう、ほとんどないが。……杭を打つくらいなら、手伝える」
その日の午後、町長は汗だくになって、ゴルドと一緒に塁の杭を打ちこんだ。
* * *
練習の前に、ベアトリスが一枚の羊皮紙を広げた。
「奉納の遊戯の届けには、組の名と、選手の名を、すべて書き出さなければなりません。それから――」
ベアトリスの指が、羊皮紙のいちばん上の欄に置かれる。
「組を率いる者の名を」
十八人の目が、一斉に拓海を向く。
「……え」
「イッチだろ」
と、ディルクが言った。
「イッチじゃなきゃ、誰がやるんじゃ」
と、ヨーゼフが言った。
「公平に考えて、イッチだ」
と、ハンスが言った。
双子の粉屋は何も言わずに、二人そろって拓海を指さしていた。ミーナは麦わら帽子のつばを握ったまま、こくこくとうなずいた。エミールはといえば、もう帳面の端に『監督 イッチ』と書きこんでいる。リタは腕を組んで、にやにやしていた。
「ほら。前に自分で言ってたでしょ。監督やから、って」
いつかの夕方のことが、拓海の頭に浮かぶ。十七人目が加わった空き地で、ベアトリスに「あなたは、数に入らないのですか」と聞かれて、「監督やから」と答えた。あれは、ただの言い逃れだった。投げられない自分を隠すための、便利な言葉。
――それが本当になるんか。
「……わかった」
ベアトリスから羽根ペンを受け取る。羊皮紙のいちばん上の欄に、少し震える字で書いた。
ハーケン・ポテトーズ 監督 イッチ。
書き終えた字の上で、羽根ペンを持つ手が止まったままになる。肘を壊してからはずっとスタンドの側にいたし、選手だったころでさえ、ベンチで考えていたのは自分の次の一球のことだけで、九人をどう動かすかなど、考えたこともなかった。監督なんて、テレビの画面の中で腕を組んで、負けるたびにスレで叩かれている人のことだった。その欄に、今、自分の名前がある。
牧草地の端で、子どもたちの歓声が上がる。ピアが「監督っすー!」と叫んだ。ポケットの中で、スマホが小さく震えた。八パーセントだった電池が、十二パーセントになっていた。
* * *
監督になって最初の仕事は、打順を決めることだった。その夜、拓海は屋根裏でスレを立てた。電池は十五パーセント。まだ心もとないが、これだけは聞いておきたい。
『1:異世界イッチ:【相談】異世界で監督になったから打順決めたい』
『2:異世界イッチ:豊穣祭で騎士団と試合することになった 負けたら野球禁止、勝ったら正式に許可 ワイが監督 打順の組み方教えてくれ 一番打てるのは鍛冶屋のおっさん』
『3:風吹けば名無し:監督就任おめでとう』
『4:風吹けば名無し:イッチ出世しとるやん』
『5:風吹けば名無し:一番打てるやつは2番に置け 最強打者は2番や』
『6:風吹けば名無し:出たよ2番最強打者論』
『7:風吹けば名無し:いや常識やろ 打席がいっぱい回ってくる打順に強打者置くのは当たり前』
『8:風吹けば名無し:2番はつなぎや バントで送れ 日本の野球なめんな』
『9:風吹けば名無し:>>8 バントは得点期待値下がるってデータで出とるんやが』
『10:風吹けば名無し:>>9 データ厨はスタンドで電卓叩いとけ』
『11:風吹けば名無し:>>10 昭和の亡霊』
『12:風吹けば名無し:異世界の草野球で得点期待値とか言うてるの草』
口を挟む隙もない言い争いを、拓海はただ目で追うしかなかった。三十分後、もう一度スレを開くと、レスは二百を超えていた。
『204:風吹けば名無し:だからバントは死んだって何回言わせんねん』
『205:風吹けば名無し:>>204 お前みたいなのがチームを壊すんや』
『206:風吹けば名無し:イッチどこ行った』
『207:風吹けば名無し:イッチの相談スレで喧嘩すな』
『208:風吹けば名無し:異世界人「なんで揉めとるんや……」』
『209:風吹けば名無し:ところでイッチ監督就任おめでとうな』
『210:風吹けば名無し:>>209 今さらで草』
『211:風吹けば名無し:イッチ、監督は最後は自分で決めるもんやで ワイらはヤジ飛ばすだけや』
電池は十一パーセントになっていた。ため息をひとつついて、拓海はスマホを伏せる。
――結局、決めるのはワイか。
小窓から、二つの月が見えた。炭のかけらで十八人の名前を書いた木の板を、藁の布団の上に並べていく。
ミーナは足が速い。一番。ゴルドはいちばん遠くまで飛ばす。でも、ゴルドの前に誰かが塁にいてほしい。双子はバットに当てるのがうまい。ボルグは当たれば飛ぶが、当たらない。ヨーゼフは目がいいから、ボールを見極められる。
頭に浮かぶのは、なんJ民の喧嘩だ。二番最強打者論。バント。得点期待値。昭和の亡霊。どれも間違ってはいないのだろう。けれど、どれも、ミーナの麦わら帽子や、ヨーゼフの杖や、双子の粉まみれの顔を知らない。
拓海はゴルドの名前を書いた板を、二番目に置いた。それから、少し迷って、三番目に移した。また二番目に戻す。そうやって夜明け近くまで、板を並べ替え続けた。
* * *
翌日の夕方、拓海は牧草地で、十八人の前に木の板を並べた。
「打順と守る場所、決めました」
一人ずつ、名前を読み上げていく。一番、中堅、ミーナ。麦わら帽子がぴょこんと跳ねた。二番、捕手、ゴルド。
「二番?」
ディルクが眉をひそめる。
「一番打てるやつを、二番に置くのかよ。一番打てるやつなら、一番に置きゃいいじゃねえか」
「ワイの国でも、それで毎日喧嘩しとる。でも、一番はミーナや。足が速いから、塁に出たらすぐ二塁まで行ける。そこでゴルドさんが打ったら、一点入る。二番でも、打席は一番とほとんど変わらんくらい回ってくるしな」
ゴルドは文句ひとつ言わずに、小さく顎を引いた。三番、一塁、ヨーゼフ。
「わしが、三番か。走れんぞ」
「走らんでええです。ヨーゼフさんは、悪い球を振らへん。塁に出てくれるだけでええ」
四番、右翼、ボルグ。うれしそうに胸を叩いたボルグが、ふと不安そうな顔になる。
「右翼ってのは、どっちだ」
「一塁の後ろです。三塁の後ろちゃいます」
五番と六番に双子、七番に三塁のゴルドの徒弟、八番に左翼のハンス、九番に投手のリタ。エミールは記録係兼、控え。最後に、拓海はディルクに向き直る。
「ディルクさんは、控えの投手です」
「控え?」
ディルクの顔が、みるみる赤くなった。
「俺は、白組でずっと投げてたんだぞ。なんで控えなんだ」
「九回まで、一人で投げきるのは無理です。リタが疲れたら、ディルクさんが出る。試合の最後に出てきて、相手を黙らせる役です。ワイの国では、それを抑えとか、守護神とか呼びます」
「……守護神」
ディルクはその言葉を口の中で転がした。なぜか急に、その背筋がしゃんと伸びる。
「悪くねえ」
牧草地の端で、子どもたちがくすくす笑っている。腕を組んだリタは、少しだけ不服そうな顔だ。
「あたし、九回まで投げられるけど」
「投げられるかもしれん。でも、投げさせへん」
それだけで、拓海は話を切り上げた。リタの肩のことを、誰よりも考えているつもりだった。
* * *
牧草地での練習は、毎日、夕方に行われた。ピアは決まって樽に井戸水を詰めて背負ってきては、休憩のたびに選手たちに配って回る。「お水っすー! ただっすー!」という声は、教会の鐘より正確な休憩の合図だ。
監督として毎日みんなの動きに目を配りながら、拓海は打球の飛ぶ方向をエミールに記録させ、双子には二遊間の連携を、地面に棒で図を描いて教える。ボルグには三塁ではなく一塁へ走る練習を十回やらせたが、十回とも、最初の一歩は三塁へ向いた。そして誰よりも長く見ていたのは、リタの投球だった。
「リタ、今の、腕が下がっとる。もうちょい肘を上げて」
「うん」
「踏み出す足が、ちょっと開きすぎや。まっすぐ、ゴルドさんのほうに」
「うん」
「最後、指先で切る感じ。こう――」
リタの前で、拓海は自分の右手を振ってみせる。ボールは持っていないのに、手首が勝手に昔の感覚をなぞって、指先に縫い目がかかる感触まで、はっきりと思い出せた。気づくと、リタが投げるのをやめていた。
「……イッチ」
「なんや」
「今の手。もう一回やって」
「は?」
「いいから」
言われるままに、拓海はもう一度右手を振る。リタは瞬きもせずに、その手首の動きを目で追っていた。
「イッチ、本当は、投げたいんじゃないの」
牧草地の空気が、少しだけ止まる。キャッチャーの位置で、ゴルドが手袋を下ろした。
「……なに言うとんねん」
「だって、教えてくれるとき、いつもそういう顔してる。あたしの球を見てるんじゃなくて、自分が投げてるときの顔」
「投げられへんって、言うたやろ」
自分の声は、思ったより尖っていた。
「肘、壊れとるんや。この前、一球投げただけで、あれやったやろ。リタも見てたやろ」
「見てたよ」
リタは一歩も引かない。ボールを握ったまま、まっすぐに拓海を見ている。
「でもね、イッチ。投げられないのと、投げたくないのは、違うでしょ」
何か言い返そうとして、拓海は口を開きかけた。言葉は、喉の奥で止まったまま出てこない。
「イッチは、投げたいの。投げたいのに、投げられないから、見てるだけにしてるんでしょ。監督やから、とか言って」
「……リタに、何がわかんねん」
言ってから、しまった、と思った。リタの顔から、すっと表情が消える。ボールをゴルドのほうへ放り投げると、彼女は何も言わずに牧草地を出ていった。夕日のなかで揺れる赤茶色の髪が、教会の角の向こうに消えていく。
誰も、何も言わなかった。ベアトリスが静かに「今日の稽古は、ここまでにしましょう」と言い、みんなが黙って道具を片付けはじめる。
杭の脇に突っ立ったままの拓海のほうへ、杖の音が近づいてきた。ヨーゼフだ。
「わしもな、昔、肩を痛めて、弓が引けなくなったことがある」
拓海の隣に並んで、老人は夕焼けの牧草地を眺める。
「若い弓兵どもが的を射るのを、毎日、横で見ておった。教えるのは、得意じゃった。射ち方は、目をつぶっても頭に浮かぶからの。……じゃがな、教えれば教えるほど、自分の腕がうずいた。うずくたびに、若い者にきつく当たった」
「……ヨーゼフさん」
「わしは、それを誰にも言えんかった。言えばよかったと、今でも思う」
ヨーゼフは白いひげをひと撫ですると、杖をついて帰っていった。
* * *
その夜、拓海は眠れずに、ゴルドの鍛冶屋の前まで来ていた。なぜそこへ足が向いたのか、自分でもわからなかった。炉の火はもう落ちているはずなのに、開け放たれた入り口から、かすかな灯りが漏れていた。
中をのぞくと、ゴルドが作業台の前で背中を丸めていた。手もとには、牛革のボール。ほつれかけた赤い糸を、一針ずつ縫い直している。
「……入れ」
振り返りもせずに、ゴルドが言う。拓海が壁際の木箱に腰を下ろすと、炉の火を落としたあとの鍛冶屋は、壁にまだ昼間の熱が残っていて、ほんのりと温かい。しばらくのあいだ、針が革を通る音だけが聞こえていた。
「……あの一球」
針を運ぶ手は止めないまま、ゴルドが言った。
「講習会の三日後の。お前が、見本だと言って投げた球」
拓海は顔を上げる。ゴルドの背中は、さっきと同じように丸まったままだ。
「受けたあと、手のひらが、しばらく痺れていた。……いい球だった」
縫い終えた糸の端を歯で切って、ゴルドがボールを拓海のほうへ放る。両手で受け止めると、新しい赤い糸が、灯りの下で光っていた。
「あの娘は、あの球を見た。だから、言った。……それだけだ」
それ以上、ゴルドは何も言わなかった。また次のボールを手に取って、ほつれを探し始める。
拓海は手の中のボールを握る。縫い目に、指をかけた。人差し指と中指を、縫い目にまっすぐ。昔、何千回も繰り返した握りだ。
右肘の奥がかすかに疼いた。痛みではなかった。もっと遠くから響いてくる、何かの合図のようなもの。
帰り道、黄金のじゃがいも亭の二階を見上げると、リタの部屋の小窓に、まだ灯りがついていた。裏口から入って、拓海ははしごの下で立ち止まる。屋根裏へ上るはしごの手前にはリタの部屋の扉があって、その隙間から漏れる、かすかな灯り。
手を上げて、叩こうとしたところで止まる。何と言えばいいのか、わからない。ごめん、と言えばいいのか。それとも、リタの言ったことは本当だ、と言えばいいのか。
結局、拓海は手を下ろした。はしごを上り、藁の布団に倒れこんだ。
ポケットの中で、ゴルドが縫い直したボールが、固く太ももに当たっている。小窓の外で、二つの月が、少しずつ欠けはじめていた。
豊穣祭まで、あと二十一日だった。




