第7話 禁止令が出たンゴ
ハーケンの町に、秋の最初の風が吹いた朝だった。
黄金のじゃがいも亭の裏庭で、拓海は井戸の水を汲んでいた。桶に映る空が夏よりも少し高く、少し薄い色になっていて、土手の草の先も、ところどころ黄色く色づき始めている。
騎士の一打席勝負から、八日が経っていた。そのあいだに興行が一度あり、客は三百六十人を数えたが、ヴァルターは来なかった。後悔するぞ、という言葉も、日に日に遠くなっていく。
その朝、広場のほうからラッパの音が聞こえた。高く、長く、聞いたことのない音だ。厨房から顔を出したリタが、拓海と目を見合わせる。
「……なに、今の」
「わからん」
二人が広場へ駆けつけると、もう人だかりができていた。広場の真ん中には馬が四頭いて、先頭の馬に、緋色の上着を着た初老の男が乗っている。胸には辺境伯家の紋章――翼を広げた鷲――の刺繍。そのうしろに三騎。銀の胸当てと紺のマントの若い騎士が、その中にいた。
ヴァルターだった。馬上でまっすぐ前を向いたまま、群衆のほうへは一度も目を向けない。
緋色の上着の男が、丸めた羊皮紙をばさりと広げる。よく通る、乾いた声が広場に響いた。
「辺境伯閣下の名において、ハーケンの民に告ぐ」
ざわめきがすっと消える。
「近ごろ当地において、棒と球をもってする遊戯と称し、閣下の許しなく民を多数集め、あまつさえ、その勝ち負けをもって賭けを行う者ありと聞く。無許可の集会、ならびに賭博の廉※¹により、本日をもって、ハーケンにおける当該遊戯の集会を一切禁ずる。違反する者は、牢に入れ、あるいは罰金に処す」
男が巻き戻した羊皮紙を受け取ると、従者は広場の掲示板の前へ歩いていき、ポテトーズの次の興行の貼り紙の上から、それを釘で打ちつける。かん、かん、かん、という音が、静まり返った広場に響いた。
拓海の隣で、誰かが小さく鼻をすすった。見下ろすと、ピアだった。いつもの小さな樽は背負っておらず、そばかすだらけの顔をくしゃくしゃにして、打ちつけられた羊皮紙を見上げている。
「イッチさん。……やきゅう、もう、だめなんすか」
拓海は答えられなかった。広場のあちこちで、同じ問いが、声にならないまま漂っている。
「なお、賭場を開いた者には、別に沙汰がある。ハーケンの町長、オットーはおるか」
人垣が割れて、その奥に緑の上着の町長の姿が見えた。いつも赤い顔が、紙のように白い。
* * *
町長が町役場へ連れていかれたあと、拓海はまだ馬上にいたヴァルターの前まで歩いていった。止めに入ろうとした衛兵を、ヴァルターが片手で制する。
「あんたが、報告したんですか」
「そうだ」
答えに、ためらいはない。
「私は閣下に、見たままを報告した。何百人もの民が集まっていたこと。その遊戯が、思っていたより、ずっと――」
そこで一度だけ、彼は言葉を切る。
「……ずっと、まともなものだったこと。そして、その裏で、町長が民から銅貨を巻き上げる賭場を開いていたこと。それも、見たままに報告した」
「勝負に負けた腹いせですか」
「違う」
青い目が、まっすぐに拓海を見下ろす。
「閣下の領地で、民の財布を当てにした賭場が開かれている。騎士として、それを見過ごすわけにはいかん。それだけだ」
拓海は何も言い返せなかった。拳を握りしめたまま見上げた騎士の顔は、少しも勝ち誇ってはいない。むしろ、苦いものを噛んでいるように見える。
悔しいことに、ヴァルターの言うことは正しい。木札の束を抱えた使用人を、拓海はあの日、何度も見ていた。見ないようにしていた。様子見しかない、という書き込みに、少しだけ救われた気になっていたのだ。
「言ったはずだ、異邦人。後悔するぞ、と」
ヴァルターが手綱を引く。部下の二騎を連れて、来た道を戻っていった。緋色の上着の使者だけが町長のあとを追って、町役場の中へ消えていく。
その日の午後、空き地の木戸には太い縄が張られ、衛兵が一人、見張りに立った。木の見物席に座る者は、もう誰もいない。
日が傾くころ、縄の外側に、ポテトーズの面々がひとり、またひとりと集まってきた。誰が呼んだわけでもない。仕事を終えると足が勝手に向く場所が、ここになっていたのだ。ディルクが縄の前に立つ衛兵を睨みつける。
「おい。俺たちが何をしたってんだ。棒で球を打っただけだろうが」
「やめとけ」
ボルグが後ろからディルクの襟首をつかむ。衛兵は顔なじみの若い男で、気の毒そうな顔をして目をそらしていた。
「わしは、この年で牢に入るのはごめんじゃな」
杖に両手を重ねて、ヨーゼフが白いひげを揺らす。冗談めかした口調なのに、その目は縄の向こうのマウンドから離れなかった。
ゴルドは黙って縄をくぐり、衛兵に一言二言、何か話しかけた。衛兵が仕方なさそうに顎を引くと、ゴルドは空き地の中へ入っていき、塁の杭を一本ずつ抜き始める。
「ゴルドさん、何してるんですか」
拓海が声をかけると、ゴルドは四本目の杭を肩に担いだまま、短く答えた。
「……預かる。雨ざらしにすると、腐る」
それだけ言って、ゴルドは鍛冶屋のほうへ歩いていく。いちばんうしろには、帳面を胸に抱えたエミールが立っていた。袖口のインクの染みが、いつもより広がって見える。
「イッチさん。……すみません」
「なんでエミールが謝るん」
「辺境伯の使者に、帳面を見せろと言われました。木戸銭の記録と、それから、木札の記録も。僕は役場の書記見習いだから、断れませんでした。あの数字が、町長の罪の証拠になりました」
エミールは帳面をぎゅっと抱きしめる。
「僕、数えるのが好きでした。でも、僕の数えた数字で、誰かが罰を受けるなんて、考えたこともなかった」
「エミールは、正しく数えただけやろ」
そう言いながら、拓海は自分にも同じことを言ってほしいと思っている自分に気づいた。少し、嫌になる。
ベアトリスは縄の前で、規則書の束を胸に抱えたまま、長いこと黙っていた。やがてその唇から、小さな声がこぼれた。
「法は、法です。わたしたちが規則を守るように、閣下の法も、守られなければなりません」
もっと小さな声で、ベアトリスが付け加える。
「……ですが、わたしは、この縄が、好きではありません」
* * *
町長が町役場から出てきたのは、夕方になってからだった。罰金は銅貨にして、これまでの木札の儲けの三倍。木札は一枚残らず取り上げられ、広場で燃やされた。燃えていく札の束を、町長の家の使用人たちがうなだれたまま見ている。
その夜、町長は黄金のじゃがいも亭の隅の席に、ひとりで座っていた。いつもの指輪が、指にない。拓海が皿を下げに行くと、町長は空になったジョッキに目を落としたまま言った。
「イッチ君。……すまなかった」
拓海は皿を持ったまま立ち止まった。重ねた皿が、手の中でかちりと鳴る。
「わしはな、楽しみを一つ増やしたつもりだったのだ。木戸銭だけでは、見物席の元は取れん。札を売れば、そのぶん、次の興行の屋台を増やせる。客が増える。そう思っていた。思っていたのだが――」
町長は太い指で目もとをこする。
「君が、札を売るなと言ったとき、わしは腹の中で、若造が何を言うかと笑っておった。笑っていたのは、わしのほうだった」
「……町長だけが悪いわけちゃいます」
拓海の口から、勝手に言葉が出た。
「ワイも、見て見ぬふりしてました。選手に売らんかったらええやろって、自分に言い訳して」
町長は少しだけ顔を上げて、力なく笑った。
「指輪は、罰金の足しに売った。……あれは、町長になったときに、妻が買ってくれたものでな」
拓海は何も言えなかった。町長は立ち上がり、食事の代金の銅貨をきっちり八枚、テーブルに置いて帰っていった。
* * *
それからハーケンは静かになった。夕方になっても、空き地から歓声は聞こえてこない。土手の上に座っていた子どもたちは縄の前で衛兵に追い払われ、しぶしぶ家に帰っていく。ボルグは森へ木を切りに戻り、ハンスは荷車を引き、ミーナは羊を追う。ゴルドの鍛冶屋からは、また鉄を打つ音だけが聞こえるようになった。
拓海は屋根裏から出なくなった。皿洗いの時間には下りていく。洗い終えたら、また上がる。藁の布団に寝転がって、スマホを眺める。それだけの日が、何日も続いた。
電池は減る一方で、満タンの百パーセントが、三日で七十を切った。歓声がない。笑い声もない。この世界に来たばかりのころと同じように、画面の右上の数字は、静かに、確実に、削れていく。それでも拓海はスレを開いた。
『1:異世界イッチ:【悲報】異世界の野球、禁止される』
『2:異世界イッチ:辺境伯から禁止令出た 理由は無許可の集会と賭博 町長は罰金 球場は封鎖 騎士が報告しとった』
『3:風吹けば名無し:あーあ』
『4:風吹けば名無し:やっぱ賭博はアカンかったか』
『5:風吹けば名無し:黒い霧が異世界でも吹いたな』
『6:風吹けば名無し:イッチは悪くないやろ』
『7:風吹けば名無し:いや様子見しとったワイらも悪いわ』
『8:風吹けば名無し:>>7 おまえ何の責任もないやろ』
『9:風吹けば名無し:イッチ元気出せ』
九番の書き込みの上で親指をしばらく止めてから、拓海は打ちこんだ。
『10:異世界イッチ:ワイがあのとき、もっとちゃんと止めとったらよかったんや ワイが野球なんか持ちこまんかったら、町長も指輪売らんで済んだんや』
『11:風吹けば名無し:それは違うやろ』
『12:風吹けば名無し:イッチ、それ言い出したらキリないで』
『13:風吹けば名無し:イッチが野球持ちこまんかったら、その町の子どもらは柵の外で「もう一回!」って叫んでへんで』
十三番の書き込みから、拓海は目をそらした。電池の数字が四十八から四十七に変わる。
その夜、はしごの下から重い足音がした。上がってきたのはブルーノで、熊のような体を窮屈そうにかがめて、屋根裏の入り口から木の盆を差し出してくる。黒っぽいパンと、湯気の立つシチュー。拓海が夕食に下りてこなかったことに、気づいていたらしい。
「……食え」
「すんません」
盆を床に置いても、ブルーノはすぐには下りていかなかった。小窓の外の暗い町並みを、黙って眺めている。その先に、空き地がある。
「……あの空き地はな」
低く、少しかすれた声だった。
「前にも一度、静かになった。祭りに人が来なくなって、楽団が来なくなって。……十年以上、静かだった」
拓海はシチューの匙を持ったまま、ブルーノの背中に目をやる。湯気が、まだ細く立ちのぼっている。
「お前が来て、また声がした。……一度鳴ったものは、また鳴る」
それだけ言って、ブルーノははしごを下りていった。シチューはいつもより少し塩が強かった。
* * *
禁止令から六日目の夕方、屋根裏の床板を叩く音がした。返事をする前に、はしごの上から赤茶色の頭がにゅっと出てくる。
「イッチ。いつまで寝てんの」
「……寝てへん。考えごとしとる」
「考えごとしてる人は、そんな顔しない」
リタは勝手に上がってきて、小窓の下に腰を下ろした。手の中で牛革のボールを転がしていて、その指先が少し土で汚れている。
「それ、どないしたん」
「裏庭で投げてた。杭に向かって。お父さんに怒られない程度に」
リタはボールを、拓海の胸の上にぽんと置く。
「でもね、つまんないの。杭は、捕ってくれないし、打ってくれないし、ストライクって言ってくれないし」
胸の上のボールを手に取ると、縫い目の赤い糸が少しほつれかけていた。
「ピアもね、毎日お店に来るの。樽を背負って。『売るものがないっす』って言いながら、店の中を一周して帰っていくの。練習だって」
拓海はピアの小さな背中と、ゴルドが作った小さな樽を思い浮かべる。売るもののない樽を背負って、店の中をひと回りしていく姿を。
「ねえ、イッチ。今日、路地裏で、子どもたちが棒きれで石を打ってたよ。衛兵さんが来たら、ぱっと隠して、知らんぷりして。いなくなったら、また打ってた。『ストライク!』とか言って。誰も審判やってないのに」
拓海は思わず笑ってしまった。そのとき、手の中のスマホが小さく震える。ちらりと見ると、十一パーセントだった数字が、十二になっていた。
――今、増えた?
拓海は画面に顔を近づけた。歓声は聞こえない。笑ったのは、自分とリタの二人だけだ。
「なに?」
「……いや、なんでもない」
リタは立ち上がって、はしごに足をかけたところで振り返る。
「あたし、待ってるからね。イッチが、また何か思いつくの」
赤茶色の頭がはしごの下に消えた。
* * *
その夜、電池は九パーセントになっていた。リタが帰ったあと、気がつくとまたスレを読みふけっていたせいだ。
小窓の端では、二つの月が沈みかけている。真っ暗な屋根裏で、藁の布団の上に膝を抱えた拓海の顔を、画面の光だけが照らしている。
このまま電池が切れたら、もう二度と、なんJには繋がらないのかもしれない。そう思うと、指が勝手に動いていた。
『1:異世界イッチ:電池あと9% 野球禁止されてからずっと減っとる たぶん、もうすぐ切れる』
『2:風吹けば名無し:イッチ!?』
『3:風吹けば名無し:おい嘘やろ』
『4:風吹けば名無し:切れる前に何か食え』
『5:風吹けば名無し:>>4 なんでやねん』
書き込みは少しずつ増え、やがて、見覚えのある書き方の一行が流れてきた。
『9:風吹けば名無し:イッチさん、お久しぶりです。少し、お話ししてもよろしいでしょうか』
『10:風吹けば名無し:丁寧ニキや』
『11:風吹けば名無し:丁寧ニキきた! これで勝つる』
拓海は思わず立ち上がった。最初の日、町の煙の方角を教えてくれた。リタのまめに効く草の場所を教えてくれた。いつも、この丁寧な書き方だった。
『12:異世界イッチ:丁寧ニキ、どうしたらええんやろ お上に禁止されたら、もう何もできへん』
『13:風吹けば名無し:イッチさんの町の空き地では、昔、豊穣祭のたびに舞台が立っていた、とおっしゃっていましたね』
拓海は目を見開いた。それは、ブルーノの話だ。スレに書いたことがあっただろうか。書いた気もするし、書いていない気もする。
『14:風吹けば名無し:その豊穣祭は、どなたに捧げるお祭りでしょうか。もし、遊戯と祭りを司る女神に捧げるお祭りであれば』
『15:風吹けば名無し:その国には、古い祭礼法が残っているはずです。女神に捧げる奉納の遊戯は、たとえ領主であっても、止めることはできない、と』
『16:風吹けば名無し:教会の古い記録を、調べてみてください。きっと、どこかに書いてあります』
『17:風吹けば名無し:は?』
『18:風吹けば名無し:丁寧ニキ何者やねん』
『19:風吹けば名無し:異世界の法律知っとるの草』
『20:風吹けば名無し:丁寧ニキ異世界人説、再燃』
『21:風吹けば名無し:ありがとうございます。イッチさんの町の野球、また観られる日を楽しみにしています』
それきり丁寧ニキの書き込みは止まった。電池は七パーセントになっていた。スマホを胸に抱えて、拓海は屋根裏の暗い天井を見上げる。
観られる日を楽しみにしています。
――観る? どこから?
* * *
翌朝、拓海は皿洗いを猛烈な速さで片付けると、教会へ走った。ベアトリスは礼拝堂で箒を動かしている。
高い窓から差しこむ光の筋の中で、埃がきらきらと舞っていた。祭壇の奥には、古い木の像が一体、立っている。講習会のときにも、ずっとそこにあったはずの像だ。けれど拓海は今朝になって初めて、それをちゃんと見た気がした。
像は若い女の姿で、長い髪を風になびかせ、片手に小さな笛を、もう片方の手に丸い玉のようなものを掲げている。木の表面はところどころ色が剥げていたが、その口もとは、何か楽しいものを眺めているように、かすかに笑っていた。
「シスター。あの像って」
「ああ、あれは――。でも、その前に、イッチさんのご用件を伺いましょう」
拓海の話を聞くと、ベアトリスは箒を壁に立てかけて、何も言わずに奥の小部屋の扉を開けた。古い羊皮紙と蝋燭の匂い。規則書を書き写した、あのひんやりした部屋だ。
「祭礼法、ですか」
ベアトリスは棚のいちばん上の段から、埃をかぶった革表紙の束を下ろす。
「この教会で一番古い記録です。わたしも、全部は読んだことがありません。字が古すぎて」
二人は並んで羊皮紙をめくっていく。拓海には、なぜかこの世界の字が読める。古い字体でも、少し目を凝らせば、意味は頭に入ってくる。昼の鐘が鳴るころ、ベアトリスの指が、ある一枚の上で止まった。
「――ありました」
彼女の声がかすかに震えていた。ストライクゾーンの定義を初めて読み上げたときと、同じ震え方だった。
「『豊穣の祭において、遊戯と祭りの女神ルドゥーナに奉ずる遊戯は、何人もこれを妨ぐることあたわず。王も、領主も、また同じ』」
拓海はその一文を三度読み返した。ルドゥーナ。遊戯と祭りの女神。この町の豊穣祭は、その女神に捧げる祭りだったのだ。ブルーノが若いころに踊った舞台も、旅の楽団も、全部、その女神のためのものだった。
「シスター。これって」
「豊穣祭の日に、女神に捧げる奉納の遊戯として行うのであれば、野球は、誰にも止められません。辺境伯閣下にも」
羊皮紙から顔を上げたベアトリスの目が、見たことがないほど輝いている。
「イッチさん。これは、戒律です。わたしたちの、新しい戒律です」
「豊穣祭って、いつですか」
「秋の終わり。今年は、ひと月と少しあとです」
ひと月と少し。拓海は頭の中で数える。
「奉納の遊戯として認めてもらうには、どないしたらええんですか」
「教会から、祭りの奉納として届けを出します。司祭様はご高齢で、近ごろは床に伏せっておいでですが、わたしからお願いしてみます。……司祭様は、若いころ、豊穣祭の舞台で笛を吹いていたそうですから」
ベアトリスは礼拝堂のほうを振り返った。開いた扉の向こうに、あの木の像が見える。笛と玉を掲げた、若い女の像。
「あれが、ルドゥーナ様です。遊戯と祭りの女神。この町では、もう、お祈りに来る人もほとんどいませんけれど」
拓海は像の口もとを見つめた。何か楽しいものを眺めているような、かすかな笑み。なぜか、ゆうべの丁寧ニキの書き込みを思い出した。観られる日を楽しみにしています、という、あの穏やかな一行を。
「ただし」
ベアトリスは羊皮紙の続きを指でなぞる。
「奉納の遊戯は、女神の前で、二つの組が力を競うものと定められています。ひとりで踊るのでも、身内で遊ぶのでもなく。……神前で競う、相手が要ります」
相手。
拓海の頭に、真っ先に浮かんだのは、銀の胸当てと紺のマントだった。門の脇で、剣を横に、何度も何度も振っていたという、あの騎士の姿だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。取り出すと、電池の数字が七から八に変わっていた。礼拝堂にいるのは拓海とベアトリスの二人だけで、歓声など、どこにもない。それでも、数字は確かに増えていた。
スマホを握りしめて、拓海は礼拝堂の女神の像をもう一度振り返る。ひと月と少し。やらなければならないことが、山ほどあった。
脚注
※¹廉:この場合「賭博をしたという事実、あるいはそれを理由として」のような意味。「れん」と読むこともあるが、その場合は「罪」や「容疑」を指すよう、微妙にニュアンスが変わる。




