第6話 騎士様、野球を馬鹿にする
翌朝、拓海はもう一度、町役場の階段を上った。昨夜は屋根裏の小窓から二つの月が見えなくなるまで、エミールの帳面の数字が頭の中をぐるぐると回って、ほとんど眠れなかった。紅の札が百四十枚、白の札が九十一枚。どちらが勝っても、町長は損をしない。
町長室の扉を叩くと、中から上機嫌な声が返ってきた。
「おお、イッチ君! ちょうどよかった。昨日の木戸銭の勘定が済んだところだ。いや、実に見事な数字だった」
オットー町長は机の上に銅貨を積み上げて、指輪の光る指で一枚一枚、塔の形に並べ直している。その塔から目をそらして、拓海は切り出す。
「町長。昨日、見物席の裏で、木札を売ってましたよね」
「うむ、売った。紅か白か。あれも大いに盛り上がった」
悪びれる様子もなく、町長は銅貨を並べる手を止めようともしない。
「あれって、賭けですよね」
「賭けとも言うな。だが、イッチ君。札を買った者の顔を見たかね。誰も損をした顔などしておらんかった。外れた者も、次は当ててやると笑っておった。楽しみが一つ増えた、それだけのことだ」
「でも、どっちが勝っても町長が得するように――」
「当たり前だ。札を作るのも、売る者を雇うのも、わしの金だ」
町長は銅貨の塔のてっぺんに、最後の一枚をそっと載せる。
「それにな、イッチ君。見物席を組んだ大工の手間賃も、柵の木材も、わしが出した。木戸銭が銅貨一枚で、子どもはただ。それだけでは、とても元は取れん。わかるかね」
返す言葉が見つからないまま、拓海の視線はさっき目をそらした銅貨の塔へ落ちていく。見物席を作ってもらった。木戸を作ってもらった。二百人を超える客の前でポテトーズは試合をして、電池は満タンになった。その全部が目の前の男の金でできている。
「……せめて、ひとつだけ、お願いがあります」
「何かね」
「選手には、札を売らんといてください。選手が自分の試合に賭けたら、わざと負けるやつが出てくるかもしれません。ワイの国では、それで大騒ぎになったことがあるんです」
町長は顎をさすりながら、しばらく拓海の顔を眺めていたが、返ってきた答えは拍子抜けするほどあっさりしていた。
「よかろう。選手には売らん。それでいいかね」
「……はい」
役場を出ると、広場の掲示板にはいつの間にか新しい貼り紙が増えていた。『ハーケン・ポテトーズ 次の興行は五日後』。その下に小さな字で『勝ち札あり』と書き添えてある。
その夜、拓海はスレに書きこんだ。
『1:異世界イッチ:【相談】町長が試合で勝ち負けの札売っとる件』
『2:異世界イッチ:球場作ってくれた町長が、裏で紅白戦の勝敗の札を売っとった 選手には売らんって約束はさせた これでええんかな』
『3:風吹けば名無し:黒い霧事件※¹やんけ』
『4:風吹けば名無し:選手に売らんならまだマシやろ』
『5:風吹けば名無し:異世界に賭博の法律あるんか?』
『6:風吹けば名無し:中世っぽい世界ならお上が勝手に賭場開いとったら怒られそう』
『7:風吹けば名無し:イッチが止められる立場ちゃうしな 金出しとるの町長やし』
『8:風吹けば名無し:パトロンには逆らえんのよ』
『9:風吹けば名無し:まあ様子見しかないやろな』
様子見。拓海はその言葉に少しだけ救われた気がした。救われた気がしたことが、少しだけ後ろめたかった。
* * *
夏が少しずつ終わりかけていた。昼間の日差しはまだ強いが、夕方になると、空き地の土手の草を揺らす風に、ひやりとしたものが混じるようになった。見物席の木の段も何度かの雨に打たれて、少し色が落ち着いている。
ハーケン・ポテトーズの二度目の興行には、二百九十人が集まった。三度目には、三百四十人。隣町から来る荷馬車の数も回を重ねるごとに増えていった。
木戸の脇ではエミールが黙々と銅貨を数え、見物席の裏では町長の家の使用人がやはり黙々と木札を売っている。そのどちらも、拓海はなるべく見ないようにしていた。
異変が起きたのは、四度目の興行の、三回の表だった。
最初に気づいたのは、土手の上の子どもたちだった。町の外へ続く道のほうを指さして、何か叫んでいる。拓海が振り返ると、道の向こうから土煙が近づいてくるのが見えた。馬だった。馬が、三騎。
先頭はひときわ大きな黒馬で、その背には銀の胸当てをつけた若い男が乗っていた。風をはらんだ紺のマントが、大きく翻っている。後ろの二騎は、それより地味な革鎧の男たちだ。
三騎が木戸の前で止まると、脇にいたエミールが帳面を抱えたまま立ち上がり、そのまま固まった。先頭の男が、馬上から客席を見回す。
年は拓海と同じくらいか、少し上だろう。短く整えた金髪に、よく晴れた空のような青い目。鼻筋の通った整った顔立ちなのに、その目は、虫の行列でも眺めるように冷ややかだった。
「――これが、近ごろハーケンで騒ぎを起こしているという集まりか」
よく通る声に、客席のざわめきが、波が引くように静まっていく。
男は馬を降りて、木戸の柵越しにグラウンドを眺める。ちょうど、ハンスが一塁を踏み忘れて引き返しているところだ。
「農民どもが、棒きれを振り回して、球を追いかけて転げ回る」
男が鼻で笑う。
「棒振り遊びではないか。辺境伯閣下の領地で、こんなものに何百人もの民が群れているとは。嘆かわしい」
ポケットの中で、スマホがぶるりと震えた。そっと画面をのぞくと、右上の数字が減っていく。九十八パーセント。九十七。九十五。
客席は、静まり返ったままだった。
* * *
「どちら様ですか」
拓海は柵の前まで歩いていく。少し震えている足に気づかれないよう、腹に力を入れる。
男は拓海を頭のてっぺんから靴の先まで眺めた。贔屓球団のレプリカユニフォームのところで、少し眉をひそめた。
「辺境伯閣下に仕える騎士、ヴァルター・フォン・グラーフだ。この町で、得体の知れない集会が開かれていると聞いて、閣下の命で様子を見に来た」
ヴァルターと名乗った騎士の目が、もう一度拓海の顔に戻る。
「お前が、この遊びを持ちこんだという異邦人か」
「異邦人……まあ、そうです。イッチって呼ばれてます」
「名などどうでもいい」
ヴァルターはグラウンドに目を戻す。マウンドの上では、リタがボールを握ったまま、じっとこちらを見ていた。
「あの娘が、球を投げる役か。娘の投げる球を、男どもが打てずに空を切る。それを見て、何百人もの大人が喜んでいる。……馬鹿馬鹿しい。剣の稽古をひと月もした者なら、あんな球は目をつぶっても打ち返せる」
その瞬間、拓海の中で何かがかちんと鳴った。怒りというより、もっと単純なものだ。日本で、テレビの前で、スタンドで、何度も耳にしてきた種類の言葉だった。野球なんて球を投げて打つだけやろ、あんなん誰でもできるわ、と。
「ほな、打ってみます?」
口が勝手に動いていた。ヴァルターの青い目が、ゆっくりと拓海に向く。
「……何だと」
「一打席だけ、勝負しましょう。リタが投げて、騎士様が打つ。前に飛ばしたら騎士様の勝ち。ストライクを三つ取ったら、こっちの勝ちです」
客席がどよめく。
「イッチ!」
マウンドからリタが駆けてくる。怒られるかと思ったが、違った。リタの目はきらきらと光っている。
「あたし、投げる」
「……ええんか」
「いいに決まってるでしょ。あんな言い方されて、黙ってられないもん」
駆け寄ってきたリタを見下ろして、ヴァルターが小さく笑う。
「よかろう。ただし、私が勝ったら、この遊びはここで終わりだ。閣下には、取るに足らぬ騒ぎだったが、私の手で止めさせたと報告する」
「こっちが勝ったら?」
「……今日のところは、黙って引き上げてやる」
割に合わない条件だ。それでも、拓海はそれを受け入れた。
* * *
騎士様が打席に立つ、という知らせは、あっという間に客席じゅうに広がった。見物席の裏で、町長の家の使用人が新しい木札の束を抱えて立ち上がるのが見えて、拓海は思わずそちらへ走った。
「すんません、それはやめてください」
「え、でも、町長様が、こういうときこそ――」
「これは試合ちゃいます。札は売らんといてください」
使用人は困った顔で、客席の一番上の段に座る町長を見上げる。少し考えてから、町長が仕方ないというふうに手を振る。使用人は札の束を抱えたまま腰を下ろした。
拓海が息をついて振り返ると、柵の向こうでヴァルターがこちらを見ていた。木札の束と、拓海の顔と、客席の町長を、ひと言も口にしないまま順番に見ていく。
ベンチ代わりの木箱の陰で、拓海はスマホを取り出した。電池は九十一パーセント。
『1:異世界イッチ:【緊急】異世界の騎士に野球を馬鹿にされたから一打席勝負する』
『2:異世界イッチ:辺境伯の騎士が来て「棒振り遊び」言うて馬鹿にしてきたから、リタと一打席勝負することになった 相手は剣の達人っぽい 野球は完全に初めて どう攻めたらええ?』
『3:風吹けば名無し:漫画みたいな展開で草』
『4:風吹けば名無し:剣士なら目と反射神経はええはず 舐めたらあかん』
『5:風吹けば名無し:でもバットの振り方は剣と違う 剣は縦に振る 野球は横に振る』
『6:風吹けば名無し:初見のやつは高めの速い球に絶対手出す インハイで起こせ』
『7:風吹けば名無し:最後は緩い球や 緩急つけたら初見はまず打てん』
『8:風吹けば名無し:看板娘チェンジアップ投げれるんか?』
チェンジアップ。その言葉の上で、親指が止まる。リタに変化球を教えたことはないし、肘のことを考えると、自分で投げてみせることもできない。
そのとき、ふと思い出した。毎朝、黄金のじゃがいも亭の厨房で見ている光景だった。
裏の貯蔵庫から、リタがじゃがいもを一個ずつ、竈の前のブルーノに投げて渡す。傷がつかないように、ふわりと、高く。じゃがいもは天井の梁すれすれまで上って、ゆっくりと落ちてきて、皮むきをするブルーノの手のひらに、音もなく収まる。一個も落とさない。毎朝、何十個でも。
『10:異世界イッチ:変化球はない でも毎朝厨房で、じゃがいもを親父さんに山なりで投げて渡しとる 傷つけんように、ふわっと高く上げて、狙ったとこにぴたっと落とすんや』
『11:風吹けば名無し:じゃがいもで草』
『12:風吹けば名無し:>>10 それや スローカーブの代わりになる』
『13:風吹けば名無し:速い球二つで追いこんで、最後にじゃがいもや』
『14:風吹けば名無し:イッチ、ワイらの配球で勝ってこい』
スマホをしまってマウンドへ走ると、キャッチャーの位置からゴルドも歩いてくる。
「リタ。最初の二球は、思いっきり速い球。高めの、体に近いとこ」
「うん」
「三球目で決める。……じゃがいもや」
リタは一瞬きょとんとして、それから、にやりと笑った。
「お父さんに渡すやつ? あれ、やっていいの?」
「ええ。一番高く、一番ゆっくりな、あれや」
ゴルドは黙ったまま、分厚い手袋をはめた手で、リタの肩をとん、と一度だけ叩いた。
* * *
ヴァルターはマントを外して部下に渡し、ボルグが差し出した白トネリコのバットを手に取った。重さを確かめるように何度か握り直してから、剣を構えるように両手でまっすぐ前に突き出す。
「打席では、騎士様も一人の打者です。構えはご自由に。ただし、打ったあとにバットを投げることは禁じられています」
本塁のうしろで、胸当てをつけたベアトリスが告げる。修道服の審判に、ヴァルターは少し驚いた顔を向けた。
「……シスターが、審判を?」
「わたしが、審判です」
それだけ言って、ベアトリスは腰を落とす。迷いのない声だった。ヴァルターはそれ以上何も言わなかった。
「プレイボール!」
客席がしんと静まり返った。三百人を超える人間が、一斉に息を止めている。
リタが振りかぶる。一球目は、ゴルドの構えたとおり、高めの、打者の胸もとへ。
ヴァルターの反応は速かった。球が手もとに来る前に、バットはもう動いている。ただ、その軌道は真上から真下だった。薪を割るように、敵の兜を叩き割るように振り下ろされたバットは、球が届く前に地面をえぐり、球はその上を悠々と通りすぎていった。
「ストライク!」
客席から、どっと笑い声が上がりかけて、すぐに消えた。ヴァルターが顔色ひとつ変えずにバットを持ち直したからだ。自分の振ったバットの先と、ゴルドの手袋に収まった球を交互に見て、ほんの少しだけ構えを変える。両手の位置が下がり、バットの先が背中のほうへ倒れた。見ていた拓海の背筋が、すっと冷たくなる。
――今の一球で、わかったんや。縦に振ったら当たらんって。
二球目。同じ高めの、さっきよりほんの少し外。今度は、横。風を切る音が拓海のいる場所まで聞こえてくる。
かつん、と乾いた音がして、球は一塁線の外へ、ものすごい勢いで転がっていった。客席の最前列の老人が、慌てて足を引っこめる。
「ファウル!」
どよめきが客席を揺らす。初めてバットを握った人間が、二球目で当てたのだ。それも、あの速さの球に。
バットを肩に担いで、ヴァルターがマウンドのリタを見る。その口もとに、初めて笑みらしきものが浮かんでいた。
「次は、前に飛ばす」
返事の代わりに、リタはゴルドから球を受け取り、マウンドの土を足でならして、深く息を吸った。
ポケットの中で、スマホが震えていた。たぶん、なんJ民が何か書いている。拓海は画面を見ない。見なくても、わかっていた。
リタが振りかぶった。さっきまでと同じ、大きく力強い腕の振りに、ヴァルターの体が速い球を待って、ぐっと沈む。
リタの指先から、ボールがふわりと離れた。高く、高く。
夕焼けの空に向かって、ボールはゆっくりと上っていく。客席の全員が首を上に向け、ヴァルターの青い目も、球を追って空を見上げた。速い球を待って沈んでいた体が、ほんの一瞬、行き場を失って固まる。
ボールは弧の頂点で、止まったように見えた。それから、ゆっくりと落ちてきた。まっすぐ、ゴルドの手袋に向かって。
ヴァルターが振った。振るしかなかったのだろう。待ちきれずに、ボールがまだ頭の上にあるうちに、その体は前へ出てしまっていた。バットは何もない空気を思いきり切り裂き、勢いあまって、ヴァルターは本塁の脇に片膝をつく。
一拍おいて、ボールが、ぽすん、とゴルドの手袋に落ちた。
「ストライク! バッターアウト!」
ベアトリスの拳が、空高く突き上げられた。
* * *
客席が爆発した。
帽子が飛ぶ。手ぬぐいが飛ぶ。子どもたちが柵によじ登り、ボルグがハンスを担ぎ上げ、ディルクが意味もなく雄叫びを上げる。ミーナの母親があの羊を呼ぶ節を歌い始めると、それはたちまち、三百人の大合唱になった。
「ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ! かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい!」
マウンドの上で、リタが両手を突き上げている。ゴルドはボールを握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
ポケットの中のスマホは、震えっぱなしだった。拓海はようやく画面に目を落とす。百パーセント。緑色の表示の下で、スレが、すごい速さで流れていた。
『31:風吹けば名無し:イッチ結果は!?』
『32:風吹けば名無し:はよ報告しろ』
『35:異世界イッチ:三振や 最後じゃがいもで空振りさせた』
『36:風吹けば名無し:うおおおおおおお』
『37:風吹けば名無し:じゃがいも最強! じゃがいも最強!』
『38:風吹けば名無し:看板娘、エースやんけ』
『39:風吹けば名無し:ワイらの配球や(何もしてない)』
拓海は声を出して笑った。笑いながら、膝から少し力が抜けていく。
ヴァルターはゆっくりと立ち上がった。膝についた土を払いもせず、しばらく、手の中のバットを見つめていた。それから、マウンドのリタに向かって、まっすぐ歩いていった。客席の歓声が、少しずつ小さくなっていく。
リタの前で、ヴァルターが立ち止まる。背の高い騎士と、赤茶色の髪をひとつに結んだ酒場の娘。リタは一歩も引かずに、その顔を見上げていた。
「……今の球は、何だ」
「じゃがいも」
「何?」
「じゃがいもを、お父さんに渡すときの投げ方。傷がつかないように、ふわって」
ヴァルターの顔が、みるみる赤くなった。怒っているのか、恥じているのか、拓海にはわからなかった。
騎士はリタに背を向け、ボルグにバットを突き返すと、木戸のほうへ大股で歩き出した。慌てて部下が差し出したマントをひったくるように受け取り、黒馬の手綱をつかんだところで、騎士は一度だけ振り返る。青い目が、まっすぐ拓海を射抜いた。
「異邦人。――後悔するぞ」
それだけ言って、ヴァルターは馬に飛び乗った。三騎は土煙を上げて、来た道を戻っていった。
騎士たちの土煙が見えなくなると、客席の一番上の段から、オットー町長が転がるように駆け下りてくる。
「イッチ君! 見たかね、あの騎士の顔! いや、痛快、痛快!」
町長は拓海の手を両手で握って上下にぶんぶん振ると、ふと声を落として、ため息をついた。
「しかし、惜しいことをした。あの勝負に札を出していれば、今日の木戸銭の三倍は――」
「町長」
「わかっておる、わかっておる。言ってみただけだ」
笑って肩を叩いてくる町長に、拓海はうまく笑い返せなかった。
* * *
その夜の黄金のじゃがいも亭は、前の興行の夜よりも、さらに騒がしかった。
リタは客という客に囲まれ、あの山なりの投げ方をせがまれては、厨房から本物のじゃがいもを持ってきて、店の端からカウンターの奥のブルーノの手もとまで、ふわりと投げてみせている。そのたびに拍手が起き、どこかのテーブルの酔っぱらいが「速いほうはやめてくれよ、また当てられる」と頭を抱えて、どっと笑いが起きる。ディルクはその隣で、なぜか自分のことのように胸を張っている。
ブルーノは厨房の奥で、黙々とじゃがいもを揚げ続けている。その晩の皿には、なぜか一本ずつ、焼いた腸詰めが添えられていた。
拓海は皿洗いの桶の前で、ぼんやりと手を動かしていた。勝った。リタが勝った。なんJ民の配球で、ゴルドの手袋で、ベアトリスの判定で、ハーケンのみんなの声で、勝った。うれしくないわけがない。
それなのに頭の片隅では、あの青い目がずっとこちらを見ている。後悔するぞ。
騎士は、辺境伯の命で来たと言っていた。閣下に報告する、とも。負けたあとで、彼は何を報告するのだろう。棒振り遊びに負けた、と正直に言うのだろうか。それとも。
思い出すのは、ヴァルターが木札の束を見ていたことだ。木札と、拓海の顔と、客席の町長を、順番に見ていたあの目。
「イッチ」
いつの間にか、リタが隣に来ていた。両手に、空になった皿を何枚も抱えている。
「なに難しい顔してんの。勝ったんだよ、あたしたち」
「……せやな」
「あの騎士様、もう来ないかな」
「どうやろな」
リタは皿を桶に沈めながら、少しだけ声を落とした。
「あたしはね、また来てほしいな」
「なんでや」
「だって、二球目、当てられたもん。あの人、たぶん、すっごく上手くなるよ」
拓海はリタの横顔を見た。悔しそうでも、怖がっているふうでもない、ただ次の勝負を楽しみにしている顔。ピッチャーの顔だ、と拓海は思った。
翌朝、皿洗いの水を汲みに井戸へ行くと、顔なじみの衛兵が門のほうから歩いてくるところだった。拓海を見つけるなり、面白そうに声をかけてくる。
「おい、イッチ。昨日の騎士様な、門を出る前に、馬を止めてたぞ」
「止めて?」
「ああ。馬から降りて、門の脇で、剣を抜いてな。こう、横に、何度も何度も振ってた。剣の稽古にしちゃ、妙な振り方だったなあ」
衛兵が両手で見えない棒を握り、横に振ってみせる。
それは、どう見ても、バットの素振りだった。
脚注
※¹黒い霧事件:現実で1970年前後に起きたプロ野球の八百長事件。




