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【毎日更新】異世界J民〜やきうのおにいさんは、異世界でも野球観戦したいンゴ〜  作者: みどり葉
《第1章》【悲報】ワイ、異世界に転移してしまう
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第5話 町長、球団経営に目覚める

 夏の盛りがハーケンの町にやってきた。


 昼間の石畳は裸足で歩けないほど熱くなった。黄金のじゃがいも亭の厨房は竈の熱でうだるようで、拓海は皿洗いの桶の冷たい井戸水に、ときどき手首まで浸しては息をついた。


 右肘の痛みは三日ほどで引いて、今は重い鍋を持ち上げたときに奥のほうがかすかにきしむだけだ。あれから拓海は一球も投げていない。投げないかわりに、見ていた。


 紅白戦はあれから三度行われた。日の傾きかけた夕方、仕事を終えた十八人が空き地に集まって、ベアトリスの「プレイボール!」で始まる。そのたびに柵の外の見物人は増えていき、三十人が五十人になり、五十人が百人を超えた。柵にもたれきれなくなった人たちは空き地の脇の土手に腰を下ろし、そこからも溢れた人たちは、近くの家の屋根に登る。


 ミーナが本塁に滑りこむたびに、町じゅうが叫ぶ。ディルクの荒れ球がベアトリスの胸当てに当たるたびに、町じゅうが笑う。ヨーゼフが一歩も動かずに送球を捕るたびに、町じゅうが手を叩く。スマホの電池は、試合のある日の夕方にはいつも六十パーセントを超えるようになっていた。


 そして、あれから三度目の紅白戦の日。柵の外の見物人の中に、ひときわ目立つ男がいた。


 丸く突き出た腹を、上等な緑の上着で包んでいる。頭のてっぺんは薄く、そのぶん横の髪をきっちりと撫でつけていた。指には、親指ほどもある金の指輪。暑さで顔を真っ赤にしながら、男はミーナが三塁を回るたびに「おお」と声を上げ、ボルグが三塁へ走るたびに「違う、そっちではない!」と叫んでいる。


「……誰や、あのおっさん」


 拓海が隣のエミールに聞くと、エミールは帳面から顔を上げて、少し青ざめた。


「町長です。オットー町長。僕の、上司の、上司です」



* * *



 翌朝、拓海は町役場に呼び出された。


 町役場は広場に面した石造りの二階建てで、入り口の上にはハーケンの紋章が彫られている。じゃがいもと、交差した斧。この町の人たちのじゃがいもへの思い入れを、拓海は改めて感じた。


 二階の町長室は、壁一面に古い帳簿が並んでいた。窓から入る風が、乾いた紙とインクの匂いをかき混ぜている。大きな机の向こうで、オットー町長が両手を組んで待っていた。


「イッチ君。座りたまえ」

「はあ」

「昨日の、あの、棒で球を打つやつ。何と言ったかな」

「野球です」

「やきゅう。うむ、やきゅう」


 町長はその言葉を口の中で転がすように繰り返した。身を乗り出し、指輪の光る指で机をとん、と叩く。


「あれは、金になる」


 拓海の背筋が、思わず伸びる。


「昨日、柵の外に何人いたと思う。エミールに数えさせた。百十二人だ。この町の人間の、ざっと五人に一人だ」


 町長の目が、きらきらと輝いている。


「わしは町長になって十五年になるが、豊穣祭でさえ、ここ数年はそんなに集まらん。それが、ただの夕方の遊びに百十二人だ。わかるかね、イッチ君。人が集まるところには、金が落ちる。腹が減るから食い物が売れる。喉が渇くから酒が売れる。それに、隣町からも人が来るかもしれん」

「……つまり」

「つまり、やきゅうを、町の催しにする」


 立ち上がった町長が、窓の外の広場を指さす。


「わしが金を出して、ちゃんとした場所を整える。見物の席を作る。見物人からは少しばかり木戸銭※¹をもらう。そして、選手たちには町の名前を背負ってもらう。わしの、町の、やきゅうの、組だ」

「それって、球団ってことですか」

「きゅうだん?」

「野球の組のことを、ワイの国ではそう言うんです」

「きゅうだん。うむ、きゅうだん!」


 町長は突き出た腹を、満足げにぽんと叩いた。その顔を眺めているうちに、日本で見てきた球団の親会社のお偉いさんたちの顔が、拓海の頭に浮かんでくる。なぜか、ほとんど同じ顔をしている気がした。



* * *



 その日の夕方、練習の前に、拓海は空き地に集まった十八人に町長の話を伝えた。町が場所を整えること。見物席を作ること。見物人から木戸銭を取ること。そして、町の名前を背負ったチームになること。


 しばらく、誰も口をきかなかった。最初に声を上げたのは、杖に両手を重ねたヨーゼフだった。


「つまり、わしらに見世物になれと」

「まあ……そういうことですね」

「ふむ」


 ヨーゼフが白いひげをしごく。拓海は身構えたが、老人の口から出たのは意外な言葉だった。


「弓兵隊にいたころ、御前試合で的を射たことがある。辺境伯閣下の前でな。あのときは、膝が震えた。……あれをもう一度味わえるなら、見世物も悪くない」


 今度はハンスが勢いよく手を挙げる。


「木戸銭は、どう分けるんだ。紅組と白組で、公平に分けるのか」

「いや、たぶん、町長のとこに入るんやと思います。場所を作る金も、町長が出すんで」

「そうか。なら、公平だ」


 ハンスは満足そうに胸を反らす。この男の基準は、いつもよくわからない。


 ゴルドは腕を組んだまま、一言だけ口にした。


「ボールが、もっと要るな」


 それで終わりだった。この人にとって大事なのは、たぶん本当にそれだけなのだろう。


 ベアトリスは規則書の束を胸に抱えたまま、少し考えこむ顔をしていた。


「イッチさん。お金が動くのは、かまいません。教会も、祭りの日には屋台を出します。ただ――」

「ただ?」

「お金のために、勝ち負けが曲げられることがあってはなりません。審判として、それだけは申し上げておきます」

「そんなん、当たり前ですよ」


 拓海は笑って答えた。ベアトリスはそれ以上は言わずに、規則書の束を抱え直す。


 練習が終わってみんなが帰ったあと、リタが拓海の隣にやってきて、手の中でボールを転がす。


「ねえ、イッチ」

「ん」

「イッチは、うれしい?」


 拓海は空き地を見回した。ゴルドが打ちこんだ杭。ゴルドが土を盛った、低いマウンド。柵の向こうの土手。あそこに、見物席が建つ。


「めっちゃ、うれしい」

「そっか」


 リタがにっと笑う。


「じゃあ、あたしもうれしい」



* * *



「で、名前は何にするのだ」


 その朝、役場を出る間際に、町長はそう聞いていた。拓海は即答できず、「一晩考えさせてください」とだけ答えた。答えはもちろん、なんJに聞くつもりだった。その夜、屋根裏の藁の布団の上でスレを立てる。


『1:異世界イッチ:【朗報】異世界の町長、球団経営に目覚める』

『2:異世界イッチ:町の名前背負った球団作ることになった 名前決めたいからええ案くれ 町の名前はハーケン、名物はじゃがいも』

『4:風吹けば名無し:親会社が町役場とか市民球団やんけ』

『5:風吹けば名無し:ええ話や』

『7:風吹けば名無し:ハーケン・タイガース』

『8:風吹けば名無し:>>7 異世界に虎おるんか?』

『9:風吹けば名無し:ハーケン・ジャイアンツ』

『10:風吹けば名無し:>>9 やめろ』

『12:風吹けば名無し:じゃがいもが名物ならポテトーズやろ』

『13:風吹けば名無し:ハーケン・ポテトーズ かわいい』

『14:風吹けば名無し:弱そうで草』

『15:風吹けば名無し:安価で決めろ』

『16:風吹けば名無し:安価は絶対』


 少し迷ってから、打ちこむ。


『18:異世界イッチ:ほな>>25で』

『19:風吹けば名無し:ハーケン・ドラゴンズ』

『20:風吹けば名無し:ハーケン・ブレイブス』

『21:風吹けば名無し:ハーケン・ジャガーズ(じゃがいもとかけてる)』

『22:風吹けば名無し:>>21 天才か?』

『23:風吹けば名無し:25ならポテトーズ』

『24:風吹けば名無し:25ならポテトーズ』

『25:風吹けば名無し:ハーケン・ポテトーズ』

『26:風吹けば名無し:草』

『27:風吹けば名無し:決まったな』

『28:風吹けば名無し:ポテトーズ優勝』


 翌朝、拓海が「ハーケン・ポテトーズ」と書いた紙を町長に見せると、町長は一瞬きょとんとしてから、机を叩いて笑い出した。


「じゃがいも組か! いい、実にいい! この町らしい!」


 その日の昼には、黄金のじゃがいも亭でもその名前が広まっていた。リタは「うちのお店の名前みたい!」と両手を叩いて喜び、ブルーノは何も言わなかったが、その晩の揚げじゃがいもは、いつもより少しだけ山が高かった。



* * *



 町長の動きは驚くほど速かった。十日のうちに、空き地は様変わりした。町の大工たちが総出で一塁側と三塁側に組み上げたのは、木の段を五段重ねた、簡単な見物席だ。腰を下ろせば、削ったばかりの木の香りと松脂の匂いがする。柵は高く頑丈なものに建て替えられ、入り口には木戸が一つ。その脇にはエミールが帳面を抱えて座ることになった。


「木戸銭は、銅貨一枚。子どもはただ」


 町長がそう決めたのは、拓海の進言があったからだ。子どもたちが観に来なければ、十年後に球場を埋める大人がいなくなる。なんJの誰かがそう書いていたのを、そのまま伝えただけだった。


 食べ物の屋台も出ることになった。筆頭は黄金のじゃがいも亭の揚げじゃがいもだ。ブルーノは試合の日の午後になると、厨房の大鍋に新しい油を張り、皮つきのじゃがいもを櫛形に切って次々に放りこんだ。じゅわっと油が跳ねる音と香ばしい匂いが、通りの向こうまで流れていく。揚がったじゃがいもは、薄く削いだ木の皮を円錐形に丸めた器に山盛りにして、粗塩をぱらぱらとふる。


「これ、手で持って食べられるね!」


 リタが一つ受け取って、熱さに指を振りながら頬張る。


「試合を観ながら食えるもんがええねん。両手ふさがったら、拍手できへんやろ」


 拓海の言葉に、ブルーノは黙ったまま、器を片手で持てるように少しだけ細く巻き直した。


 売り子も決まった。客席を回って、揚げじゃがいもと、井戸で冷やした麦の酒を売り歩く役だ。手を挙げたのは、子どもたちの中にいたそばかすだらけの女の子だった。年は八つか九つ。ピアと名乗った。


「イッチさん! あたし、声大きいっす! やらせてくださいっす!」

「……その、っす、ってなんや」

「わかんないっす! でもこう言うと、元気出るっす!」


 拓海はそれ以上聞かなかった。ピアは小さな背中に、ゴルドが作ってくれた小さな木の樽を背負って、試合のない日にも一人で客席の通路を駆け回る練習を続けている。


 応援の歌も作られることになった。最初に頼ったのは、なんJだ。名前を決めたスレは、そのあとも細々と続いている。


『40:異世界イッチ:球団の応援歌作りたいんやけど、どんなんがええ? 異世界の人にも歌いやすいやつ』

『41:風吹けば名無し:とりあえず六甲のメロディで』

『42:風吹けば名無し:著作権どうなっとんねん』

『43:風吹けば名無し:異世界に著作権はない』

『44:風吹けば名無し:ないからええってもんでもないやろ』

『45:風吹けば名無し:ポテトーズ ポテトーズ ホイ ホイ ホイ』

『46:風吹けば名無し:>>45 これでええわ』

『47:風吹けば名無し:チャンステーマも作れ』


 いくつかの案を空き地で歌ってみせると、子どもたちはぽかんとした顔で拓海を見上げた。


「イッチ兄ちゃん、それ、呪文?」

「呪文ちゃう。歌や」

「お祈りの歌より、むずかしい」


 メロディがまるで伝わらない。この世界の歌は、拓海の知っている歌とは音の上がり下がりがどこか違うのだ。ホイホイホイだけは子どもたちに妙に受けたが、それも三日で飽きられた。


 結局、歌を作ったのは羊飼いの女房――ミーナの母親だった。羊を呼ぶときに歌う、昔からの節があるのだという。そこに子どもたちが言葉を乗せた。


「ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ


 かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい」


 歌詞はそれだけだ。単純ですぐに覚えられて、何度でも繰り返せる。


 子どもたちが初めてそれを歌ったとき、拓海は少しだけ鼻の奥がつんとした。日本の球場で聞いていた応援歌とは、似ても似つかない節だ。それでも、何かを応援するための歌は、どこの世界でもどこか同じ響きをしているらしかった。



* * *



 ハーケン・ポテトーズの最初の興行は、真夏の、よく晴れた夕方に行われた。ポテトーズの選手たちが紅白の二組に分かれて戦うのだから、やることはこれまでの紅白戦と同じだ。違うのは、木戸があり、見物席があり、屋台があり、売り子がいて、そして、人がいることだった。


 開始のずいぶん前から、木戸の前には列ができていた。受け取った銅貨を一枚ずつ数えては帳面に棒線を引いていくエミールの手が、途中から目に見えて速くなっていく。


「イッチさん、もう二百を超えました」

「マジか」

「隣町の人もいます。荷馬車で来た人たちが、三組」


 見物席は試合が始まる前に埋まった。木の段に座りきれなかった人たちは柵の外に立ち、土手に座り、やはり屋根に登っていく。


 本塁のうしろ、監督の定位置に立って、拓海はその光景を見回す。夕日に照らされた、何百もの顔。揚げじゃがいもの匂い。どこかの子どもが吹く、木の笛の音。ピアの「揚げじゃがいも、いかがっすかー!」という、本当に大きな声。


 ポケットの中で、スマホが、ずっと震え続けていた。取り出して、画面を見る。八十二パーセント。八十五。八十九。


 試合の前には、オットー町長の挨拶があった。本塁の前に置かれた木箱の上に町長が立って両手を広げると、指輪が夕日にきらりと光る。


「ハーケンの皆の衆! 今日という日は、わが町の歴史に残る日である! 思えば十五年前、わしが町長の座についたとき――」


 話は十五年前から始まった。十年前の大雨の話になり、七年前の橋の架け替えの話になり、去年の芋の出来の話になったところで、客席から「早くやれー!」という声が飛ぶ。続いて子どもたちが手を叩きながら「やきゅう! やきゅう!」と声をそろえた。


 ベアトリスがすっと町長の前に進み出る。


「町長。試合開始の時間です」

「いや、あと少しだけ――」

「時間です」


 町長はすごすごと木箱を降りた。客席から、この日いちばん最初の大きな笑い声が上がる。


「プレイボール!」


 ベアトリスの声が響いた瞬間、客席から、地鳴りのような歓声が上がった。九十四。九十七。


 一回の裏、ミーナが初球を叩いて一塁を蹴り、二塁へ滑りこむ。審判のベアトリスが両手を広げ、セーフを告げた。その瞬間、何百人もの声が、ひとつになった。


「ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ! かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい!」


 画面の右上の数字が、百になる。電池の表示が緑色に変わっていた。この世界に来てから、初めて見る色だった。


 拓海はしばらくその画面を見つめていた。それから、カメラを起動して、客席に向けた。夕日に照らされた見物席。立ち上がって腕を振る人々。土手の上の子どもたち。屋根の上の男たち。撮った写真を、スレに貼る。


『60:異世界イッチ:今日の客席や 二百人超えた 電池満タンになったで』

『61:風吹けば名無し:は?』

『62:風吹けば名無し:これはさすがにAIやろ』

『63:風吹けば名無し:AIにしては、手の指ちゃんと五本ある』

『64:風吹けば名無し:屋根の上に人おって草』

『65:風吹けば名無し:ほんまに球場やんけ』

『66:風吹けば名無し:イッチ、ようやった』

『67:風吹けば名無し:ワイ、ちょっと泣いた』

『68:風吹けば名無し:なんでワイら異世界の草野球に感動しとるんや』


 拓海は六十八番の書き込みに、声を出して笑った。そのまま、もう一度客席を見上げる。


 ほんのひと月あまり前、拓海は外野の自由席で、ひとりで負け試合を観ていた。周りにいる何万人もの誰とも口をきかずに、スマホの画面の中の名無したちとだけ、怒ったり笑ったりしながら。


 今、拓海の周りには名前を知っている人たちがいる。ミーナがいて、ベアトリスがいて、ブルーノがいて、リタがいる。客席には、毎朝パンを買う店の主人がいて、ボールの毛糸を売ってくれた羊飼いの女房がいて、貼り紙の前で後ずさった野菜売りの老婆までいた。


 画面の中の名無したちも、まだそこにいる。両方が一度に、ここにあった。



* * *



 試合は思いがけないところで荒れた。揚げじゃがいもが、三回の途中で売り切れたのだ。


 ピアが空の木の器を掲げて「売り切れっすー!」と叫ぶと、客席のあちこちから悲鳴のような声が上がる。本塁のうしろで立ち上がったブルーノが、無言で黄金のじゃがいも亭へ走っていき、白組の捕手は急遽ハンスが務めることになった。


「公平に、交代だ」


 ハンスはなぜか誇らしげだ。そして、一球目からディルクの荒れ球を顔で受け止めた。


 四回の裏、ブルーノが大鍋ごと揚げじゃがいもを抱えて戻ってくると、客席からこの日いちばんの拍手が起きた。ミーナの三塁打よりも、リタの三振よりも大きな拍手だ。ブルーノは何も言わずに鍋を屋台に置いて、また本塁のうしろにしゃがむ。その耳が、少し赤くなっていた。一部始終を、拓海はスマホに打ちこんだ。


『71:異世界イッチ:揚げじゃがいもが売り切れて、捕手が試合抜けて芋揚げに帰った 客席が今日いちばん沸いたのは芋が戻ってきた瞬間や』

『72:風吹けば名無し:草』

『73:風吹けば名無し:球場飯が主役の球場』

『74:風吹けば名無し:ポテトーズの名に恥じない』


 試合は九対八で紅組が勝った。最後の打者をリタが三振に打ち取った瞬間、客席から帽子や手ぬぐいが投げこまれ、子どもたちが柵を乗り越えてグラウンドになだれこむ。ベアトリスが「試合後のグラウンドへの立ち入りは――」と言いかけて、やめた。規則書のどこにも、それを禁じる条文はなかったからだ。


 片付けが終わったのは、二つの月が高く昇ったころだった。黄金のじゃがいも亭は、その夜、開店以来の満員だった。選手たちも見物人たちもみんなが店に押し寄せて、揚げじゃがいもと麦の酒が作るそばから消えていく。拓海は皿洗いの桶の前で、いつもの三倍の皿と格闘しながら、どこか夢の中にいるような気分だった。


 最後の客が帰り、店の灯りを半分落としたころ、裏口の戸が控えめに叩かれた。開けると、帳面を胸に抱えたエミールが立っていた。試合のときの興奮とは違う、どこか青ざめた顔をしている。


「イッチさん。少し、いいですか」

「どないしたん。木戸銭の計算、合わへんかったか」

「いえ、木戸銭は、合っています。二百三十七人。銅貨二百十九枚。子どもが十八人」


 エミールが帳面を開くと、几帳面な字で今日の試合の記録がびっしりと書きこまれていた。その最後のページを開いて、拓海に見せる。そこには、見慣れない数字が並んでいた。


「試合の前に、町長の家の使用人が、見物席の裏で木札を売っていたんです。紅か白か、どちらが勝つかを当てる札です。一枚、銅貨五枚」


 帳面の数字を、拓海は目で追う。


「紅の札が、百四十枚。白の札が、九十一枚。……勝ったのは、紅です」

「それって」

「当たった人には、札一枚につき銅貨七枚が戻ります。外れた人の銅貨は、全部、町長のものです。今日は、町長の手もとに銅貨百七十五枚が残りました。もし白が勝っていたら、五百十八枚」


 エミールの指が、帳面の数字をなぞる。


「どちらが勝っても、町長が損をしないように、戻す数が決めてあるんです。僕、三回数え直しました」


 言い終えると、エミールは帳面をそっと閉じた。


「僕は、数えるのが好きです。でも、これは、数えていて、あまり気持ちのいい数ではありませんでした」


 店の奥から、ブルーノが鍋を洗う音が聞こえてくる。拓海はポケットのスマホに触れた。電池はまだ満タンのままだった。


 満タンの電池が、なぜか、急に重たく感じられた。


脚注

※¹木戸銭:いわゆる入場料、見物料のこと。木製の戸の入口で支払っていたことが由来。

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