第4話 ルールが難しすぎるンゴ
十八人目は翌朝、厨房に立っていた。
「……出る」
拓海が屋根裏から下りてくると、リタの父が竈の前で腕を組んでいた。いつもの前掛け姿のまま、なぜか右腕をぐるぐると回している。
「え」
「十八人目だ」
それだけ言うと、リタの父は鍋の蓋を開けた。立ちのぼる湯気の向こうで、熊のような背中が少しだけ誇らしげに見える。
カウンターで芋をむいていたリタは、包丁を持ったまま固まっている。
「お父さん、店はどうするの」
「夕方だろう。仕込みは昼に済ませる」
「お父さんが、野球……」
「ブルーノだ」
リタの父が拓海のほうへ向き直る。
「名前。言ってなかった」
この町に来て二週間以上、この人の名前を知らないまま過ごしていたことに、拓海は今さら気がついた。
「よろしくお願いします、ブルーノさん」
「……うむ」
ゴルドと同じ返事だ。この町の大きな男たちは、みんなこういう返事をするのかもしれない。
拓海はポケットの中のスマホを握りしめた。十八人。これで、試合ができる。
* * *
問題はルールだった。その夜、拓海は屋根裏でスレを立てた。
『1:異世界イッチ:【相談】十八人集まった 初めての試合やる前に、野球のルールをわかりやすく教えたいんやが どこまで教えたらええ?』
『3:風吹けば名無し:おめでとうやで』
『4:風吹けば名無し:とりあえずストライク、ボール、アウト、セーフ、一点の入り方だけでええやろ』
『6:風吹けば名無し:インフィールドフライは教えとけ あれ知らんと揉める』
『7:風吹けば名無し:振り逃げも』
『8:風吹けば名無し:ボークもや』
『9:風吹けば名無し:初心者にインフィールドフライ教えるとか鬼か』
『11:風吹けば名無し:振り逃げは、三つ目のストライクを捕手が捕れんかったら、打者が一塁に走れるやつや』
『12:風吹けば名無し:>>11 一塁に走者おったら走れんで』
『13:風吹けば名無し:>>12 二死なら走者おっても走れるやろ』
『14:風吹けば名無し:え、そうなん?』
『15:風吹けば名無し:そうやで ワイ審判やっとったからわかる』
『16:風吹けば名無し:>>15 ほんまか? 知らんかったわ』
画面を指でたどりながら、拓海は紙に書きとめていく。十一番は正しい。十二番は、十三番と合わせれば正しい。十四番以降はどうでもいい。
『25:風吹けば名無し:インフィールドフライは、ノーアウトかワンアウトで、一塁と二塁、または満塁のときに、内野にポーンと上がったフライを、審判が「アウト!」って先に言うやつや』
『26:風吹けば名無し:>>25 なんで先にアウトにするんや?』
『27:風吹けば名無し:わざと落として、走者を二人アウトにするのを防ぐためや』
『28:風吹けば名無し:異世界人にそれ伝わるんか?』
『29:風吹けば名無し:ワイらにも伝わってへんやろ』
『30:風吹けば名無し:草 それはそう 雰囲気で見てる』
書き足すたびに、紙の上の字はどんどん小さくなっていく。野球を知っている自分たちでさえ、細かいところでは意見が分かれるのだ。それを、球を棒で打つ意味すら知らなかった人たちに、一から教えなければならない。
紙を三枚使い切ったところで、拓海はペンを置いた。電池は四十八パーセントまで減っていた。
* * *
翌日の昼、教会の礼拝堂で、規則の講習会が開かれた。
場所を貸してくれたのはベアトリスで、「戒律を学ぶ場として、これ以上ふさわしい場所はありません」と言って、祭壇の前に黒板代わりの大きな石板を運び込ませた。長椅子には、十八人の選手と、なぜかついてきた子どもたちが並んで座っている。
礼拝堂の中は石の壁がひんやりしていて、高い窓から差しこむ光の筋の中を、埃がゆっくりと舞っていた。石板の前に立った拓海は、白墨で四角を一つ描いた。
「これが、ダイヤモンド。この角が本塁、ここが一塁、二塁、三塁」
「なぜ四角なのに、だいやもんどなのですか」
最前列から手を挙げたのは、ベアトリスだ。
「……そういう名前やねん」
「名前の由来は、規則書のどこにも書かれていませんでした」
「規則ちゃうからな」
少し不満そうに口を結んで、ベアトリスは手もとの帳面に何かを書きつける。
ストライクとボールについては、ベアトリスが先日読み上げた定義を、拓海がもう一度わかりやすく言い直した。打者の肩とズボンの間から、膝まで。本塁の上を通ったら、ストライク。三つでアウト。外れた球が四つで、打者は一塁へ歩いていい。
「歩いていい?」
ハンスが首をかしげる。
「投手が下手な球ばっかり投げたら、罰として、打者はただで一塁に行ける」
「おお、それは公平だ」
荷運びの男たちは、だいたい「公平」が好きだった。つまずいたのは、振り逃げからだ。
「三つ目のストライクで、捕手が球を捕りそこねたら、打者は一塁に走ってええ。捕手が一塁に投げてアウトにするまでは、まだ終わってへん」
ボルグが腕を組んだまま、眉をしかめる。
「三回振って、外したんだろう。なぜ終わらん」
「……捕手も失敗したからや」
「捕手が失敗したら、外した奴が許されるのか」
「許されるっていうか……」
「ただし」
拓海が言いよどんでいるあいだに、ベアトリスが帳面を開いて読み上げる。
「一塁に走者がいて、かつ二死でない場合は、この限りではありません。打者はその時点でアウトです」
「なぜだ」
「それは」
ベアトリスが拓海を見た。拓海はなんJの書き込みを思い出しながら答えた。
「捕手がわざと落として、走者と打者の両方をアウトにするのを防ぐため」
「わざと落とすのか」
ボルグの眉がさらに寄る。
「卑怯ではないか」
「卑怯やから、そうできんようにしてあるんや」
礼拝堂がしんと静まりかえった。木こりも荷運びも、粉屋の双子も、みんな眉間にしわを寄せて考えこんでいる。最前列では、ヨーゼフが腕を組んだまま、いつの間にか静かに寝息を立てていた。
ボークの説明になると、今度はベアトリスが立ち上がった。
「走者がいるとき、投手が打者や走者を欺くような動きをしたら、罰として、すべての走者が一つ進む。――欺く、とは、どういうことですか」
「投げるふりして投げへんとか、止まらなあかんところで止まらんとか」
「欺きの罪」
ベアトリスの声が、礼拝堂の高い天井に響く。
「それは、許されません。わたしが、一つ残らず見つけます」
リタがほんの少しだけ肩をすくめた。投手は彼女なのだ。
インフィールドフライにいたっては、拓海が説明を三回やり直し、エミール以外の全員が途中で考えるのをやめた。エミールだけが、熱心に帳面に書きこんでいる。
「つまり、条件が三つそろったときにだけ現れる、特別なアウトですね。無死か一死であること、走者が一二塁か満塁であること、内野に上がったフライであること」
「……そうや」
「美しいですね」
エミールの声は、うっとりとしていた。この世界で野球の規則に心を奪われる人間が、なぜ審判と記録係ばかりなのかを、拓海は少し考えてみる。
* * *
講習会から紅白戦までの三日間で、決めなければならないことが二つあった。審判の道具と、チーム分けだ。
審判の道具を作ったのはゴルドだ。捕手のうしろに立つ者は、ファウルになった球やすっぽ抜けた球を体で受けることになる。拓海がそう説明すると、ゴルドは黙って牛革を何枚も重ねて縫い合わせ、中に羊毛を詰めて、胸から腹までを覆う胸当てを仕立てた。
教会に届けると、ベアトリスは胸当てを両手で受け取り、縫い目を指先でゆっくりとなぞった。修道服の上にそれを着けて、礼拝堂の真ん中にすっと立つ。
「……重みがありますね」
「革を六枚重ねとるからな」
「いいえ。責任の重みです」
ベアトリスは祭壇に向き直って、小さく祈りの言葉をつぶやく。自分の作った胸当てが祈りの対象になったことに、ゴルドは少しだけ困った顔をしていた。
帰りぎわ、ベアトリスが規則書をめくって、ゴルドを呼び止めた。
「もう一つ、お願いがあります。規則書には、投手は『投手板』に足をかけて投げる、と書かれています。空き地には、まだありません」
ゴルドが黙って拓海に目を向ける。
「白い板を、マウンドの真ん中に埋めるんです。投げる人は、そこに足をかけて投げる。本塁までの距離も、反則の投げ方も、その板から決まります」
拓海は両手を広げて、だいたいの大きさを示してみせた。横に細長く、奥行きは手のひらほど。
「……うむ」
次の日の朝、マウンドの真ん中に、石灰で白く塗った樫の板が埋めこまれていた。板と本塁のあいだに縄を張って、規則書の数字どおりかどうか、ベアトリスは三度も測り直した。
チーム分けのほうは、なんJに頼んだ。
『40:異世界イッチ:【急募】紅白戦のチーム分け手伝ってくれ 十八人の特徴書くから二チームに分けてクレメンス』
拓海は一人ずつ特徴を書きこんでいく。看板娘、肩が強い、投手。鍛冶屋、無口、捕手。木こり、力だけはある、バットを斧みたいに振る。粉屋の双子、無口、見ずに投げ合える。羊飼いの娘、足がめちゃくちゃ速い。元弓兵の爺さん、目はいいが走れない。書記見習い、数えるのが好き。酒場の主人、熊、無口。
『43:風吹けば名無し:ドラフト会議やんけ!』
『44:風吹けば名無し:ドラフト会議スレ立てろ』
『45:風吹けば名無し:一位指名、看板娘』
『46:風吹けば名無し:一位指名、羊飼いの娘』
『47:風吹けば名無し:一位指名、元弓兵の爺さん』
『48:風吹けば名無し:>>47 走れん爺さん一位は草』
『49:風吹けば名無し:無口な鍛冶屋と無口な熊を同じチームにしたらサイン交換が成立せんやろ』
『50:風吹けば名無し:双子は絶対一緒にしろ 離したら二人とも死ぬ』
『51:風吹けば名無し:書記見習いはスコアラーにしとけ』
『52:風吹けば名無し:>>51 十八人しかおらんのにスコアラーに回したら一人足りんやろ』
『53:風吹けば名無し:右翼で兼任や 右翼はあんまり球飛んでこんから』
『54:風吹けば名無し:>>53 右翼をなめるな』
議論は百を超え、最後は『もうクジでええやろ』という書き込みで決着した。なんJ民がまとめてくれた組み合わせを紙に写しながら、拓海はほんの少し笑っていた。
自分たちが見たこともない十八人のために、日本のどこかで、名前も知らない誰かが、夜中に本気で揉めている。それが、妙に嬉しかった。
* * *
初めての紅白戦は、三日後の夕方に行われた。
空き地の周りには、柵にもたれた見物人が三十人ほど集まっている。子どもたちは柵の最前列に陣取り、その後ろに親たち、仕事帰りの職人たち、荷車を止めた商人たち。ゴルドの店の徒弟が、木の板に炭で「紅」「白」と書いて、柵に立てかけていた。
紅組の投手はリタ、捕手はゴルド。二塁と遊撃には粉屋の双子が並び、中堅にはミーナ。一塁に立つのは、走らなくていい場所を選んだヨーゼフだ。右翼のエミールは、帳面と炭を腰に下げている。
白組の投手はディルク、捕手はブルーノ。一塁にはボルグ、三塁にはハンス。残りは柵の外から入ってきた八人のうちの面々だ。
拓海は本塁のうしろ、少し離れた場所に立つ。監督兼、なんでも係だ。捕手のうしろに陣取ったベアトリスは、灰色の修道服の胸に、ゴルドが革で作った胸当てをつけていた。
「プレイボール!」
ベアトリスの声は、空き地の端まで通った。そしてすぐに、混乱が始まった。
一回の表、白組の先頭打者は子どもの父親だった。リタの初球に振り遅れながらもバットを当てると、ぼてぼての当たりが三塁線を転がっていく。
「走れ!」
拓海が叫ぶと、男はバットを放り投げ、三塁に向かって全力で走り出した。
「そっちちゃう! 一塁や! 右や右!」
三塁ベースの上で立ち止まった男が、自分がどこにいるのかわからない顔で振り返る。その背中に、ボールを拾った紅組の徒弟がそっと触れた。
「……アウト」
ベアトリスが静かに宣告する。
「さらに、打った後に棒を投げ捨てました。危険です。次にやったら、退場です」
柵の外から、どっと笑い声が上がった。
一回の裏、紅組の攻撃。先頭のミーナがディルクの暴投気味の球にバットを当てると、打球は一塁と二塁のあいだを抜けていった。麦わら帽子を押さえて走り出したミーナは、一塁を回り、二塁を回り、気がつけば三塁も回っている。
「止まれ止まれ! ミーナ、止まって!」
拓海が叫んだが、ミーナは羊を追いかけるときの顔のまま、本塁に飛びこんできた。捕手のブルーノが球を受け取ったのは、ミーナが本塁を踏んだ三歩あとだった。
「セーフ」
ベアトリスの声に、見物人が沸く。ポケットの中で、スマホが震えた。
試合はそんな調子で進んだ。ボルグは打つと必ず三塁に走ろうとし、そのたびに双子に無言で一塁を指さされた。ハンスは一塁を踏み忘れて二度アウトになり、三度目にようやく踏んで、両手を上げて喜んだ。ヨーゼフは一塁の上に立ったまま、飛んでくる送球をすべて捕る。足は一歩も動かないのに、手は一度も外さない。
白組の投手のディルクは、とにかく球が速い。そして、とにかくどこへ行くかわからない。打者の頭の上を越え、足もとで跳ね、一度はベアトリスの胸当てに真正面から当たった。ベアトリスは一歩も動かずに、胸当ての上で跳ねた球を静かに見下ろす。
「ボール。……良い胸当てです」
その球を受け損ねたブルーノは、熊のような体を丸めて土の上を転がり、球を拾って無言で立ち上がった。前掛けは泥だらけだ。それでも次の球からは、一つもこぼさない。腰を落とし、大きな手を広げて、ディルクのどんな荒れ球も体のどこかで止めてみせた。
「お父さん、すごい……」
つぶやいたのは、マウンドの上のリタだった。娘が父の背中をこんなふうに見るのは、たぶん初めてなのだろうと、拓海は思った。
柵の外では、子どもたちがいつの間にか自分たちで応援の掛け声を作っていた。「紅! 紅!」「白! 白!」と、空き地の両側から声が飛ぶ。どちらを応援しているのか途中でわからなくなった小さな子は、両方の名前を交互に叫んでいる。
右翼を守りながら、エミールは試合の出来事をすべて帳面に書きこんでいる。彼の頭の上を越えていく打球は三回あって、三回とも、彼は顔を上げずに書き続けていた。
「エミール! 球!」
「今、書いてます! すぐ追いかけます!」
四回の表、白組の打者が三振した。三つ目のストライクをゴルドが捕りそこね、球が足もとに転がる。
「振り逃げや!」
拓海が叫ぶと、打者は一瞬きょとんとしてから、一塁に向かって走り出した。ゴルドが球を拾い、一塁のヨーゼフに投げる。ヨーゼフが捕る。打者が一塁に滑りこむ。
「アウト!」
ベアトリスが拳を高く掲げる。その瞬間、柵の外から、ひときわ大きな歓声が上がった。誰も、今何が起きたのか完全には理解していなかったはずだ。ただ、打者が走り、球が飛び、間一髪のところで審判が拳を上げた。それだけで、見ている人たちの体が勝手に動いたのだ。拓海の胸の奥まで、じわりと熱くなってくる。
これだ。これが、観るということだ。
* * *
五回の表、白組に走者が出たところで、問題が起きた。
「ボーク」
ベアトリスがリタに向かって指を突きつける。
「投手は、走者がいるとき、構えたら一度止まらなければなりません。今、止まりませんでした。欺きの罪です。走者は一つ進みます」
「えー、止まったよ!」
「止まっていません」
「ちょっとは止まった!」
「ちょっとは、止まったうちに入りません」
助けを求めるようなリタの目が、拓海のほうを向く。拓海はため息をついてから、マウンドへ歩いていった。
「リタ、ちょっと貸して。見本見せるわ」
ボールを受け取る。マウンドといっても、ゴルドが土を盛っただけの低い小山で、拓海はその上に立って本塁のゴルドを見た。
足の裏に、土の感触。ボールを握る指に、縫い目の感触。
「ええか。走者がおるときは、こう構えて」
拓海はグラブ代わりの手袋を胸の前で合わせ、体を止める。
「ここで、一回ちゃんと止まる。一、二、と数えるくらい。それから、投げる」
ゆっくり投げるつもりだった。山なりの、見本の球を。だが、体が勝手に動いた。
左足が上がる。腰がひねられる。一年以上、意識して避けてきた動きを、体は全部覚えていた。肩が回る。腕がしなる。指先が縫い目を最後まで押しこむ。
ばしん、と、ゴルドの手袋が鳴った。空き地が一瞬静まりかえる。
それから、右肘の内側に、焼けた針を突き立てられたような痛みが走った。
「っ……」
拓海はマウンドの上にしゃがみこんだ。右腕を左手で抱えこむ。痛みは一拍遅れてやってきた。あの日と同じだ。ぶつり、という音こそしなかったが、肘の奥のほうで、何かが悲鳴を上げている。
「イッチ!」
リタが駆け寄ってくる。ゴルドが手袋を外して立ち上がり、ベアトリスは捕手のうしろから一歩踏み出したまま、動きを止めていた。
「大丈夫、大丈夫や。ちょっと、ひねっただけや」
嘘だった。でも、ひねっただけ、ということにしておきたかった。
柵の外の見物人たちが、ざわざわと顔を見合わせている。子どもたちは不安そうに柵を握りしめていた。
ベアトリスが空を見上げる。夕日はもう、町の塀の向こうに半分沈みかけていた。
「……日没です。規則書の、試合の打ち切りの項に従い、本日の試合はここで終了とします。四回までの得点により、七対六、紅組の勝ち」
その声は試合開始のときと同じように、空き地の端まで通った。ベアトリスはそれ以上何も言わなかった。それが、拓海にはありがたかった。
* * *
帰り道はリタと二人だった。
ゴルドがバットとボールを店に持って帰ると言い、ブルーノは夕方の店を開けるために先に戻って、ほかのみんなもそれぞれの家へ散っていった。空き地から黄金のじゃがいも亭までの道を、拓海は右腕を軽く抱えたまま歩いていく。
夕焼けが石畳を赤く染めている。どこかの家から、玉ねぎを炒める匂いがした。
「……痛い?」
前を向いたまま、リタが聞いた。
「もう、だいぶましや」
本当に、痛みは引きはじめていた。投げた直後の、焼けるような感じはもうない。鈍い重さだけが、肘の奥に残っている。
「さっきの球、すごかったね」
「……せやろか」
「ゴルドさん、受けたあと、しばらく手を振ってたよ。あんな顔、初めて見た」
拓海は何も言えなかった。しばらく、二人の足音だけが続く。
「ねえ、イッチ」
「なんや」
「なんで、自分で投げないの」
拓海は立ち止まった。半歩先で、リタも足を止めて振り返る。夕日を背にして、赤茶色の髪が、縁だけ金色に光っていた。
ごまかそうと思えば、ごまかせた。監督やから。見るほうが好きやから。ゴルドに言ったのと同じ言葉が、喉まで出かかっていた。でも、リタの目を見たら、言えなかった。
「……前の国でな。ワイ、投手やってん」
右肘を左手でさすりながら、拓海は話した。中学でエースだったこと。高校も野球で選んだこと。二年の夏、練習試合で、インコースへのまっすぐを投げた瞬間に、肘の中で何かが切れたこと。医者に、手術をすればまた投げられるかもしれない、でも元通りになる保証はないと言われたこと。手術を受けなかったこと。秋になる前に、野球部を辞めたこと。
「それからは、観るだけにしとった。観てるだけなら、痛ないから」
「……そっか」
リタが口にしたのは、それだけだった。でもその一言の中に、責める響きはひとつもない。
「さっきのは、体が勝手に動いてん。一年以上投げてへんかったのに、全部覚えとった。……アホやな」
「アホじゃないよ」
リタの声は、まっすぐだった。
「投げたかったんでしょ」
拓海は答えなかった。答えられなかった。夕日が町の塀の向こうに沈みきって、空が橙から紫に変わっていく。
「……なあ、リタ」
「うん」
「ワイの名前な、ほんまはイッチちゃうねん」
リタが目を瞬かせる。
「打越拓海。うちこし、たくみ。それが、ほんまの名前や。拓海のほうが名前な。ワイの国では、家の名前を先に言うねん」
「うちこし、たくみ」
一音ずつ確かめるように、リタは口の中で繰り返した。慣れない発音に、少しだけ舌がもつれる。
「じゃあ……たくみ」
「……おう」
名前を呼ばれたのは、この世界に来て初めてだった。胸の奥が妙にくすぐったい。
リタは少しのあいだ、その名前を噛みしめるように唇を結んでいた。やがて、ふっと笑う。
「でも、イッチはイッチでしょ」
「は?」
「だって、あたしが最初に聞いた名前、イッチだもん。みんなもそう呼んでるし。それに」
くるりと前を向いて、リタが歩き出す。
「たくみって呼ぶのは、なんか、もったいない気がする」
「もったいないって、なんやねん」
「わかんない。でも、とっておく」
その背中を見ながら、拓海も少し遅れて歩き出した。黄金のじゃがいも亭の窓から、明かりがこぼれていた。ブルーノが夕方の店を開けたのだろう。揚げじゃがいもの匂いが、通りまで漂ってくる。
右肘はまだ少し重かった。それでも、さっきまでより、ずっと軽くなった気がした。




