第3話 人数が足りないンゴ
「野球? ああ、イッチがこないだ空き地で棒を振り回してたやつか」
荷運びのハンスは、ジョッキを片手に首をかしげた。黄金のじゃがいも亭の昼下がり。客はまばらで、窓から差しこむ夏の日差しの中を、細かな埃がゆっくりと漂っている。
「振り回してたんちゃう。打ってたんや。ほんで、打ったら走るねん」
「どこへ」
「一塁へ」
「いちるい?」
「……四角い場所の、角や。そこを順番に回って、最初のとこに戻ってきたら一点」
「戻ってくるなら、最初から動かなきゃいいだろう」
拓海はカウンターに額をつけた。リタに裏庭で投げてもらってから、五日が経つ。この五日間、皿洗いの合間に店の客という客をつかまえては野球の説明をしてきたのに、そろいもそろって、今のハンスと似たような顔をされた。
球を投げる。棒で打つ。走る。捕って、投げて、走る人に当てる――のではなく、塁を踏むか、球を持ったまま体に触れる。三回失敗したら攻守交代。九回やる。
言葉にすると、どれもひどく間抜けに聞こえる。日本で生まれ育った人間なら説明されなくても知っていることが、この世界の人間にとっては、決闘でも狩りでもない、意味のわからない遊びでしかなかった。
「イッチの説明が下手なんだよ」
カウンターの内側で芋の皮をむきながら、リタが言った。むいた皮は一本の細い帯になって、途切れずに桶へ落ちていく。
「じゃあリタが説明してみ」
「えー。あたしが投げて、イッチが捕るやつでしょ? 楽しいよ」
「それは野球のほんの一部や」
「一部でも楽しいならいいじゃん」
拓海は返事ができず、ポケットのスマホに触れた。電池は二十六パーセント。この五日、裏庭でリタの球を受けるたびに、少しずつ増えている。人のほうは、一人も増えていないのに。
* * *
その夜、拓海は屋根裏でスレを立てた。
『1:風吹けば名無し:【相談】異世界で野球の仲間集めたいけど誰も野球わかってくれへん 勧誘のポスター作るからええ文句くれ』
少し考えて、書き足す。
『2:風吹けば名無し:安価※¹で決める >>20の文句をそのまま書く』
送信してから、しまった、と思った。安価とは、指定した番号の書き込みに従うという、なんJの古い遊びだ。まともな案が来る保証はどこにもないが、自分で考えた勧誘の言葉が一つも通じなかった以上、もう誰かに決めてもらうしかない。
一時間後に画面をつけると、スレは二十を軽く越えていた。
『3:風吹けば名無し:イッチどれや 名無しばっかりでわからん コテつけろ』
『4:風吹けば名無し:異世界のやつ、でええやろ』
『5:風吹けば名無し:安価とか正気か』
『8:風吹けば名無し:安価は絶対やぞ』
『12:風吹けば名無し:君も白球を追いかけてみないか とかでええやろ』
『15:風吹けば名無し:まともな案出てて草』
『19:風吹けば名無し:20ならイッチ異世界でハーレム』
『20:風吹けば名無し:【急募】ワイと一緒に棒で球をしばき回す仲間 報酬:一生モノの思い出と、たまに勝利の美酒』
『21:風吹けば名無し:しばき回すは草』
『22:風吹けば名無し:言い方が物騒すぎる』
『23:風吹けば名無し:異世界の人怖がるやろ』
『24:風吹けば名無し:安価は絶対』
二十番の書き込みの上で、拓海の親指は長いこと止まっていた。しばき回す。異世界の言葉に直すと、どう読まれるのか。考えないことにした。安価は、絶対なのだ。
それから、三番の書き込みを思い出した。名前の欄に指を置き、少し考えてから打ちこむ。
『25:異世界イッチ:これでええか 安価は絶対やから、20で貼り紙作るわ』
『26:風吹けば名無し:ダサくて草』
『27:風吹けば名無し:まあ、わかりやすいからええわ』
* * *
翌朝、拓海は町の広場の掲示板に、一枚の紙を貼り出した。紙は教会でしか売っていない。インクも同じだ。皿洗いの給金代わりの小遣いを前借りして手に入れた、ごわごわした茶色い紙に、拓海はなんJの二十番の文句を炭とインクで大きく書き写して、その下にバットとボールの絵も描いた。ゴルドが見たら、黙って目をそらしそうな出来だ。
『急募 わたしと共に、棒で球を打ちのめし続ける仲間を求む。報酬は、一生の思い出と、ときどき勝利のうまい酒』
異世界の文字で書くと、なんJの書き込みよりさらに物騒になった気がする。昼までに、三つのことが起きた。
ひとつめ。広場で野菜を売っていた老婆が、貼り紙の前で祈りの言葉をつぶやきながら後ずさった。
ふたつめ。町の衛兵が二人やってきて、拓海に「これは何の結社だ」と尋ねた。拓海は三十分かけて「結社ではなく遊びです」と説明し、最後はリタが「うちの皿洗いだから大丈夫」と言って衛兵を帰らせた。
みっつめ。貼り紙の前に集まってきたのは、空き地で塀を越える球を見た子どもたちだった。
「あ、この絵! あの棒のやつだ!」
「打ちのめし続けるって、またあれやるの?」
「やるやる! おれ打ちたい!」
五、六人の子どもが、拓海の足もとに群がってくる。いちばん年上でも、十歳くらいだろう。
「……とりあえず、来てくれたのは君らだけやな」
拓海は空を仰ぐ。電池は、子どもたちのはしゃぐ声で、二十八パーセントになっていた。
『40:異世界イッチ:報告 貼り紙の結果、衛兵に職質されて子どもが六人集まった』
『41:風吹けば名無し:草』
『42:風吹けば名無し:少年野球チームできとるやんけ』
『43:風吹けば名無し:大人が来いや大人が』
『44:風吹けば名無し:安価のせいで草』
* * *
大人はその日の午後から、ぽつぽつと現れた。最初に来たのはボルグで、斧を肩にかついだまま空き地に入ってきて、「子どもらが騒いでるから見に来た」と言った。拓海がバットを渡すと、ボルグは両手で握りしめて、木を切り倒すときと同じ構えをとる。斜め上から膝ほどの高さめがけて、斧を打ちこむように振り下ろすと、バットの先が地面をえぐり、土くれが派手に飛び散った。
「……もっと水平に振るんや、水平に」
「水平? それじゃ刃が木に食いこまんぞ」
「木ちゃうねん」
次に来たのはハンスで、「ボルグが来てるなら負けられん」というのが理由だった。腕相撲で負けたことを、まだ根に持っているらしい。
三番目は、腰の曲がった老人。
「ほう。棒で球を打ち払うのか」
白いひげを胸まで垂らし、杖をついている。だが拓海を見上げた目は、驚くほど澄んでいた。
「わしはヨーゼフ。昔は辺境伯様の弓兵隊におった。目だけは、まだ若いもんに負けん」
試しにリタが空き地の端から球を投げると、ヨーゼフは杖を脇に置き、空を横切る白い球を最後まで目で追った。球が落ちる場所の三歩手前に、ひょこひょこと歩いていって両手を出すと、その手のひらに、球がすとんと収まる。
「……爺さん、今の、落ちる場所わかってたんか」
「矢の落ちる場所がわからんで、弓兵が務まるか」
得意げにひげをなでてから、ヨーゼフは腰を押さえてうずくまる。
「あいたた……走るのは、無理じゃ」
四番目と五番目は一緒に来た。粉屋の双子、ペーターとパウル。頭のてっぺんからつま先まで粉で白く、歩くたびにふわりと白い煙が立つ。二人は一言もしゃべらないまま目と目を合わせ、ほとんど同時に「やる」と言った。
双子にキャッチボールをさせてみると、二人は一度も相手を見ずに球を投げ合った。相手が次にどこに手を出すのか、見なくてもわかるらしい。
「お前ら、二遊間やな」
「にゆうかん?」
「……あとで説明する」
六番目は、ほっそりした少女だった。麦わら帽子の下で、日に焼けた頬が赤い。
「お、お母さんが、毛糸をたくさん買ってくれた人がいるって言うから……」
羊飼いの女房の娘、ミーナだ。ゴルドがボールの毛糸を買った家の子で、拓海が「走るのは得意?」と聞くと、麦わら帽子のつばを両手で引き下げて、こくりと顎を引いた。
「羊が逃げたら、追いかけるから」
空き地の端から端まで走らせてみると、ミーナは麦わら帽子を手で押さえたまま、風のように駆け抜けた。子どもたちが「はやい!」と歓声を上げる。拓海の目算では、日本の高校の陸上部と比べても見劣りしない速さだった。
七番目は、町役場の書記見習いのエミール。ひょろりと背が高く、袖口がインクで黒ずんでいる。貼り紙を見た役場の上司に「何の結社か調べてこい」と言われて来たのだと、正直に白状した。
「調べに来たんですけど……あの、さっきから気になってて。三回失敗したら交代で、それを九回、ということは、一つの試合で多ければ五十四回は失敗するってことですよね。それを全部、数えるんですか?」
「……数える。全部、記録する」
「全部」
エミールの目が、きらりと光る。
「それは、とても……数え甲斐がありますね」
この男がスコアブックを見たらどうなるのか、拓海は少し怖くなった。
日が傾きかけたころ、最後にゴルドが来た。抱えてきた布の包みをほどくと、新しい牛革のボールが三つ、転がり出た。どれも、赤い縫い目が同じ間隔できっちりと並んでいる。
「……頼まれていたやつだ」
ゴルドは空き地を見回して、ボルグの穴だらけの足もとと、粉まみれの双子と、腰を押さえたヨーゼフを順番に眺め、最後に、拓海が受け続けてすり切れかけた手袋へちらりと目をやって、短く言った。
「……捕る者がいるな」
そして自分の分厚い手のひらを、拓海の前に差し出す。リタの球を受けてやる、ということらしい。
* * *
その夜、店を閉めたあとの厨房で、拓海は遅い夕食をとった。リタの父が黙って皿を置く。いつものシチューの横に、焼いた腸詰めが一本、余分に載っていた。拓海が顔を上げると、リタの父は大きな手で竈の灰をならしながら、ぼそりと言った。
「……あの空き地な」
リタの父が自分に向かって話しかけてくるのは、これが初めてだった。低く、少しかすれた声だった。
「昔は、豊穣祭のたびに、あそこに舞台が立った。旅の楽団が来て、町じゅうが集まって、夜通し踊った」
「今は、やらへんのですか」
「祭りはある。だが、人が集まらなくなった。若いのは街へ出ていく。楽団も、もう来ない」
リタの父は灰をならす手を止める。
「今日、柵の外から子どもらの声が聞こえた。あの空き地で、あんな声がしたのは、久しぶりだ」
それだけ言うと、リタの父は竈の前を離れ、奥の部屋へ引っこんでいった。拓海は腸詰めをかじる。皮がぱりっと弾けて、肉汁と、香草の匂いが口に広がった。
屋根裏に上がってから、拓海は指を折って数えた。リタ。ゴルド。ボルグ。ハンス。ヨーゼフ。ペーター。パウル。ミーナ。エミール。
九人。一チームなら、ぎりぎり組める。ヨーゼフが走れないことと、エミールが打つより数えたがっていることを、見なかったことにすれば。
「十八人には、まだ遠いな……」
つぶやいたとき、はしごを上がってくる足音がした。屋根裏の床板の隙間から、赤茶色の頭がのぞく。
「イッチ、起きてる?」
「起きてる。どないした」
リタは屋根裏に上がりこんで膝を抱えて座り、月明かりの中で、右手を差し出してくる。人差し指と中指の先に、白っぽく膨らんだ水ぶくれができていた。
「投げてたら、ここが痛くなっちゃって」
「まめや。ボールの縫い目でこすれたんやな」
拓海は自分の指先に目を落とした。昔は同じところが硬く盛り上がっていたのに、今はもう、ほとんど平らになっている。
「潰したらあかんで。破けたらしばらく投げられへん」
「でも、明日もみんな来るんでしょ。投げたい」
拓海は少し迷ってから、スマホを取り出した。
『60:異世界イッチ:ピッチャーの指にまめできた 異世界やから薬局ないねん なんかええ手当てある?』
『61:風吹けば名無し:ワセリンや』
『62:風吹けば名無し:ないって言うとるやろ』
『63:風吹けば名無し:馬油とか?』
『64:風吹けば名無し:異世界に馬おるんか』
『65:風吹けば名無し:とりあえず冷やして、乾かさんようにせえ』
『68:風吹けば名無し:失礼します。町の北の小川沿いに、葉の裏が銀色をした、背の低い草が生えていると思います。その葉を軽く揉んで、水ぶくれに当てて布で巻いておくと、一晩で痛みが引きますよ。潰さないようにしてくださいね』
『69:風吹けば名無し:丁寧ニキまたおって草』
『70:風吹けば名無し:異世界の草に詳しすぎやろ』
『71:風吹けば名無し:丁寧ニキ異世界の人説』
拓海は六十八番の書き込みをじっと見た。前にも、草原から町の場所を言い当てた書き込みがあった。同じ人だろうか。名無しばかりのなんJで、確かめる方法はない。
『72:異世界イッチ:丁寧ニキ、なんでそんなん知ってるん』
しばらくして、返事が来る。
『75:風吹けば名無し:昔、そちらのほうに少しご縁がありまして。お大事に』
それきり、その書き込みの主は何も言わなかった。
「……ほんま、誰なんや」
思わず声に出ていた。リタが横から画面を覗きこむ。もちろん日本語の文字は読めない。
「誰って? その光る板、いつも見てるよね。イッチの国の魔道具?」
「……まあ、そんなもんや」
画面を消して、拓海はリタの指に目をやる。
「明日の朝、北の小川に行ってみよか。まめに効く草が生えとるらしい」
「らしいって、誰に聞いたの?」
「……知り合い、みたいなもんに」
翌朝、町の北の小川沿いには、本当に、葉の裏が銀色に光る草が群れて生えていた。指で揉むと、青い草の匂いに混じって、すっとする薄荷のような香りが立つ。リタの指に当てて布を巻くと、リタは「冷たくて気持ちいい」と目を細めた。昼には、水ぶくれの赤みは引いていた。
* * *
野球のルールを、この世界の言葉で書き残しておかなければならない。そう思ったのは、九人に何かを教えるたびに、一人ひとりが違う覚え方をするからだ。ボルグは「三回振ったら木こり交代」と覚え、ハンスは「一塁は荷物置き場」と覚えていた。
なんJ民は、拓海の頼みに応えて、野球規則を書き込んでくれた。ストライクゾーンの定義から、走者の進塁、反則投球の種類まで。途中から誰が正しいかで喧嘩が始まり、別の誰かが規則書の条文番号まで持ち出してきて、スレは三本目に入った。
紙とインクを買いに教会へ行くと、そこで写させてもらえることになった。奥の小部屋は昼間でもひんやりとして、古い羊皮紙と蝋燭の匂いがする。
机に向かい、スマホの画面を見ながら、条文を一つずつ異世界の文字に直して書き写していく。インクがペン先から垂れて、指が黒くなる。ずいぶん時間が経ったころ、背後から静かな声がした。
「……それは、何の戒律でしょうか」
振り返ると、修道服の女性が立っていた。灰色の服に、白い頭巾。頭巾の端から、亜麻色の髪がわずかにのぞいている。背筋が定規を当てたようにまっすぐ伸びている。
「この教会のシスター、ベアトリスと申します。あなたが、広場に物騒な貼り紙をなさった方ですね」
「……はい。すんません」
「かまいません。わたしが気になったのは、そちらです」
ベアトリスは拓海の手もとの紙を指さす。
「打者が打撃姿勢をとったとき、その肩の上部とズボンの上部の中間点に引いた水平の線を上限とし、膝頭の下部の線を下限とする、本塁上の空間」
拓海が書き写したばかりの一文を、彼女は読み上げた。声が、わずかに震えている。
「それが、ストライクゾーンの定義や」
「なんと……」
ベアトリスはその紙を両手で持ち上げ、窓からの光にかざした。まるで、聖典の写本を確かめるように。
「この世の争いごとの多くは、決まりが曖昧なことから起こります。どこからが侵入で、どこまでが自衛か。何をもって勝ちとするか。ですが、これは違う。球ひとつの高さまで、線で決めている」
紙をめくり、次の条文に目を走らせる。反則投球。走者の進塁。打球が審判に当たった場合。目の動きが、どんどん速くなっていく。
「これを、誰が裁くのですか」
「審判や。ストライクかボールか、セーフかアウトかを決める人。どんな判定でも、審判が言うたらそれが絶対や」
「絶対」
ベアトリスはゆっくりと紙を机に戻した。その目が、拓海をまっすぐに見下ろす。
「イッチさん。その役目、わたしに務めさせていただけませんか」
「……ええの?」
「この戒律を、正しく守らせる者が必要でしょう。それに」
ベアトリスはほんのわずかに口もとを緩めた。
「わたし、決まりを守らない人に注意するのが、何よりも好きなのです」
拓海は背筋が少し寒くなった。
* * *
次の日の夕方、空き地には、九人の選手と、一人の審判と、六人の子どもが集まっていた。拓海はベアトリスと一緒に書き上げた規則書の束を抱えて、空き地の真ん中に立つ。ゴルドが打ちこんでくれた四つの木の杭が、ダイヤモンドの形に地面に並んでいる。塁と塁のあいだは、二十七メートルと少し。なんJ民が何度も確かめてくれた数字だ。
「今日は、キャッチボールと、打つ練習と、走る練習をやる」
拓海の言葉に、ボルグが手を挙げた。
「試合はやらんのか」
「九人やと、一チームしか作れへんねん」
ボルグとハンスが、そろって口をとがらせる。
練習が始まると、空き地はすぐに騒がしくなった。ボルグの打球が畑のほうへ飛んでいき、ミーナがそれを追いかけて風のように走る。双子は無言でキャッチボールを続ける。ヨーゼフが座ったまま「右じゃ、もう少し右じゃ」と球の行方を指示し、エミールは地面に棒で何かの印をつけ続けている。ゴルドが黙ってリタの球を受けるたびに、手袋の中でばしん、ばしんと音が鳴り、子どもたちが「おおー」と声を上げた。ベアトリスは規則書を胸に抱えたまま、目を光らせている。
「ボルグさん。打った後に棒を投げ捨てるのは危険です。規則書の、安全についての項に反します」
「ハンスさん。一塁を踏んでいません。もう一度です」
「エミールさん、地面に何を書いているのですか。……失敗の数? よろしい、続けなさい」
夕日が傾くころ、拓海は、空き地の柵の外に大人たちの姿が増え始めていることに気づいた。最初は子どもたちの親で、夕飯に子どもを連れ戻しに来て、そのまま柵にもたれて見物を始めた。次に、仕事帰りの職人たち。荷車を引いた商人。いつの間にか、ゴルドの店の若い徒弟まで混じっている。
ボルグの打球が高く上がり、ミーナが背走して、ぎりぎりで捕る。柵の外から、どっと声が上がった。ポケットの中で、スマホが震え続けている。
そのとき、柵の向こうから赤ら顔の大男が身を乗り出した。前に、リタのじゃがいもで尻もちをついた男だ。
「おい、ボルグ! さっきから見てりゃ、お前ばっかり楽しそうじゃねえか!」
「なんだ、ディルク。文句があるなら、お前もやってみろ」
「言ったな!」
ディルクと呼ばれた男が、柵をまたいで入ってくる。それを見て、柵にもたれていた子どもの父親が「俺も」と言い、荷車の商人が「わしも」と続いて、ゴルドの徒弟が親方の顔色をうかがいながら「おれも……」と手を挙げた。気づけば、拓海の前に、八人の新しい顔が並んでいた。
「……イッチ」
リタがボールを握ったまま、拓海の袖を引いた。
「何人?」
拓海はもう一度、指を折って数える。数え間違えないように、ゆっくりと。最初の九人。それから、新しい八人。
「十七人や」
「あと一人?」
リタが首をかしげる。拓海は折った指をほどかないまま、柵の外を見回した。夕暮れの見物人たちの中に、杖をついた老人の姿がある。いや、ヨーゼフはもう数えている。そのとき、誰かが後ろから、拓海の肩をそっと叩いた。
「わたしは審判ですので、数に入りません」
ベアトリスだった。
「ですが、イッチさん。あなたは、数に入らないのですか」
拓海は口を開きかけて、閉じる。右の肘が、ずきりと痛んだ気がした。痛みなど、本当はもうないはずだった。
「……ワイは、監督やから」
「かんとく」
「選手を選んで、作戦を考える人や。投げたり打ったりはせえへん」
ベアトリスは拓海の顔からゆっくりと目を離して規則書をめくり、ある一文を指でなぞった。
「では、十八人目は、また探しましょう。規則には、選手が足りない場合は試合を始められない、と書いてありますから」
柵の外で、子どもの一人が手を挙げた。
「イッチ兄ちゃん! おれ、もうすぐ十一歳になるよ!」
見物人たちがどっと笑う。その笑い声の中で、拓海はスマホを取り出した。電池は、五十一パーセントになっていた。この世界に来てから、いちばん高い数字だった。
『90:異世界イッチ:報告 十七人集まった あと一人や』
『91:風吹けば名無し:おお』
『92:風吹けば名無し:急に増えて草』
『93:風吹けば名無し:イッチが出ればええやん』
『94:風吹けば名無し:それな』
『95:風吹けば名無し:監督兼任は無理なんか?』
拓海はその書き込みに返事をしないまま、画面を消して、ポケットにしまう。夕焼けの空き地では、十七人が、まだ思い思いにボールを追いかけていた。
脚注
※¹安価:アンカー(>>番号)を使ってスレッドの展開や行動を決定する遊び。




