第2話 ボールもバットもないンゴ
朝の厨房は薪の爆ぜる音から始まった。
拓海が屋根裏から下りてくると、リタの父がもう竈に火を入れていた。大鍋には昨夜のシチューの残りが温め直されていて、玉ねぎと肉の甘い匂いが、まだ寝ぼけた頭に沁みこんでくる。
「おはよ、イッチ。朝ごはん食べたら、裏の桶に水汲んでおいて」
リタは片手でパンを切り分けながら、もう片方の手で拓海の皿にシチューをよそう。昨日は「銅貨八枚」と言われたものが、今朝は黙って出てくる。皿洗いの給金代わり、ということらしい。
「おおきに」
「それもイッチの国の言葉?」
「ありがとう、って意味や」
「ふうん。おおきに」
面白そうに繰り返しながら、リタは店の表へ出ていく。その背中を見送ってから、拓海は井戸と桶のあいだを十往復ほどして、腕がだるくなったところで厨房の裏の木箱に腰を下ろした。スマホをつける。十一パーセント。昨夜から変わっていない。
昨日、身に染みてわかったことがある。なんJはただ眺めているだけでも電池を食う。ここではむやみに画面をつけてはいけない。聞きたいことをまとめていっぺんに書き込み、返事が溜まったころにもう一度見る。それでいくしかない。頭の中で文章を組み立ててから、拓海は一気に打ち込んだ。
『1:風吹けば名無し:【相談】異世界で野球の道具作りたいんやが 硬式ボールとバットの作り方教えてクレメンス 電池やばいから一時間後にまとめて見る』
送信して、すぐに画面を消す。
* * *
一時間後、昼の仕込みの合間に画面をつけると、スレは思った以上に伸びていた。
『5:風吹けば名無し:まだ異世界設定続けとるんか』
『6:風吹けば名無し:ええやん付き合ったろ』
『9:風吹けば名無し:硬式球の芯はコルクとゴムや その周りに毛糸をぐるぐる巻く』
『10:風吹けば名無し:毛糸の上に綿糸も巻くんやで』
『11:風吹けば名無し:ほんで牛革を二枚、ひょうたんみたいな形に切って、8の字に合わせて縫う』
『12:風吹けば名無し:縫い目は108や 煩悩の数な』
『14:風吹けば名無し:>>12 108は縫い目の数ちゃうやろ 二重の縫い目が108や』
『15:風吹けば名無し:どっちでもええわ』
『17:風吹けば名無し:重さは145グラムくらい 周りが23センチくらいや』
『19:風吹けば名無し:異世界にグラムとかあるんか?』
『21:風吹けば名無し:毛糸の巻きが甘いと飛ばへんし、きつすぎると飛びすぎる ここが職人芸や』
『22:風吹けば名無し:飛ぶボールの話はやめろ』
『23:風吹けば名無し:飛ぶボールはやめろ』
『26:風吹けば名無し:バットはアオダモかホワイトアッシュかメイプルや』
『27:風吹けば名無し:>>26 異世界にアオダモあるんか?』
『28:風吹けば名無し:トネリコの仲間やからそれっぽい木探せ 硬くて、しなって、まっすぐな木目のやつ』
『30:風吹けば名無し:長さは85センチくらい 重さは900グラムくらいな』
『33:風吹けば名無し:てか道具作るより先に、鍛冶屋か職人探せや イッチ不器用そうやし』
「誰が不器用やねん」
小声で言い返してから、拓海は厨房の作業台に目をやる。朝、じゃがいもの皮むきを任されて、皮と一緒に実の半分を削り落とし、リタに笑われたばかりだった。反論できなかった。
竈の脇に落ちていた炭のかけらで、大事なところを木の板に書き写していく。コルク、ゴム、毛糸、綿糸、牛革二枚、8の字、二重の縫い目百八。重さ百四十五グラム、周り二十三センチ。トネリコっぽい木。長さ八十五センチ。書き終えて顔を上げると、リタが板を覗きこんでいた。
「何これ、呪文?」
「ちゃう。道具の作り方や」
「なんの道具?」
「……ボールとバット」
「ぼーる?」
説明しようとして、拓海は詰まった。ボールはわかる。球だ。でも、なぜその球を作りたいのかを話そうとすると、野球の全部を説明しなければならなくなる。
「手で握れるくらいの、硬い球を作りたいねん。牛の革で包んで、糸で縫ったやつ。あと、それを打つ棒」
「球を棒で打つの? なんで?」
「……遠くに飛ばすため」
「飛ばしてどうするの?」
「みんなで見て、喜ぶ」
首をかしげたまま、リタは板と拓海の顔を何度か見比べていたが、やがて「よくわかんないけど」と言って、板の文字を指でなぞった。
「ものを作るなら、ゴルドさんだね。通りの先の鍛冶屋さん。鍋の取っ手でも荷車の車輪でも、なんでも作ってくれるよ。ちょっと無口だけど」
ゴルドさん、と口の中で繰り返してから、拓海は板に目を落とした。並んでいるのは、見慣れた日本語だ。リタが呪文と言ったのも無理はなく、この世界の人にはただの模様にしか見えないのだろう。これを持っていっても、ゴルドには読めない。
ふと門の看板を思い出す。見たこともない文字なのに、「宿場町ハーケン」と読めた。読めるのなら、書けるのかもしれない。
板を裏返して炭を握り直し、看板の文字の形を思い浮かべながら、「コルク」と書こうとする。手が、勝手に動いた。
炭の先が描いたのは、習った覚えのない、くるりと丸まった線の連なりだった。それなのに、書いた本人には、ちゃんと「コルク」と読める。ゴム、毛糸、綿糸、牛革二枚。どれも同じように書けた。コルクやゴムのように、この世界にない言葉は、音のとおりに綴られているらしい。
想像でしかないが、理屈はさておき、この世界の文字の知識が頭に刷り込まれているのだろう。考えないほうがうまく書ける。考えて書こうとしたら、文字が少しずつゲシュタルト崩壊してきた。学んだ経歴の記憶がないのに、知識という結果だけが頭にあるせいで、こういうことになっているのではないか。考えながら、考察するが面倒になっているうちに、気づけば書き出しが終わっていた。
覗きこんだリタが、裏の文字を指でなぞる。
「こるく、ごむ……。こっちは読めるけど、やっぱり呪文みたい」
読めて、聞き取れて、書ける。なんJに繋がるのと同じで、考えても仕方がない。そう決めて、拓海は残りを書き写した。
* * *
鍛冶屋は通りのはずれにあった。
近づくにつれて、鉄を打つ音が大きくなる。カン、カン、と規則正しく響いて、ときどき、じゅっ、と水の跳ねる音が混じる。開け放たれた入り口から、むっとする熱気と、焦げた鉄の匂いが流れ出してきた。
中は薄暗く、炉の火だけが赤く燃えている。その前に、大きな背中があった。
腰のうしろで前掛けの革紐が固く結ばれ、短く刈った黒髪には灰色がまじっている。真っ赤に焼けた鉄の棒を金床に載せて、男は槌を振り下ろしていた。太い腕が持ち上がるたびに背中の肉が盛り上がり、ひと打ちごとに火花が散る。
「あの、すんません」
槌の音が止まり、男がゆっくりと振り返る。分厚い胸板を、煤で汚れた革の前掛けが覆っていた。眉が太く、目つきは鋭いが、怒っている顔ではない。単にそういう顔なのだと、拓海はあとで知った。
「ゴルドさん、ですか。酒場のリタに聞いてきたんですけど」
「……うむ」
「作ってほしいもんがあって」
抱えてきた木の板を差し出すと、ゴルドは手を前掛けで拭ってから受け取り、炉の明かりにかざした。炭で書き直した文字と、拓海が描いた下手くそな絵。8の字に組み合わさった二枚の革と、縫い目。板を明かりに傾けたまま、ゴルドは長いあいだ絵の上の縫い目を目でたどっていた。
「……革を、二枚」
「はい」
「この形で、球になるのか」
「なります。ほんまに。こう、ひょうたんみたいな形に切ったのを、互い違いに合わせると」
両手の指で、拓海は宙に8の字を描いてみせた。ゴルドは太い眉をわずかに動かすと、壁際の棚から端切れの革を一枚取ってきて、炉の脇の作業台に広げる。
ナイフが革の上を滑る。迷いがない。あっという間に切り出したひょうたん形の二枚を、ゴルドは手のひらの上で合わせ、ひねり、角度を変えて、何度も組み直していく。五度目くらいで、二枚の革はきれいな球の形に収まった。
「……うむ」
ゴルドの口もとがほんの少しだけ緩んだように見えた。
芯の話になると、ゴルドは店の奥から茶色い木の皮の塊を持ってきた。持つと驚くほど軽く、指で押せば少しへこんで、ゆっくり戻ってくる。
「浮き木の皮だ。漁師が網の浮きに使う」
「コルクっぽいやん……」
ゴムの代わりには、樹液を固めたものがあった。毛糸は町の羊飼いの女房から買えばいい。綿糸は仕立て屋にあり、牛革は肉屋の裏の皮なめし場で手に入る。
話がまとまるまでに拓海が言ったのは「それでええと思います」くらいで、ゴルドが言ったのは「……うむ」と「……三日」だけだった。
* * *
三日のあいだに、拓海は皿を五百枚ほど洗い、じゃがいもの皮むきが少しだけうまくなった。
バットのほうは、拓海が町の外の林を歩き回って探した。なんJの書き込みを思い出しながら、硬くて、しなって、木目のまっすぐな木。酒場で腕相撲をしていた、ボルグと呼ばれていた木こりに尋ねると、「斧の柄にする白トネリコがある」と教えてくれた。名前まで、そのものずばりだ。
ボルグが切り出してきた一本の若木を、ゴルドが削る。両手で持つ大きな削り刃で、乾かした木を薄く長く削っていくと、しゅっ、しゅっ、と音がして、白い削り屑がくるくると丸まって床に落ちた。木の青い匂いが鉄の匂いのなかに混じる。
二日目の夜、拓海は毛糸を巻く手伝いに鍛冶屋へ呼ばれた。炉の火を落とした店の中は、昼間の熱がまだ壁に残っていて、ほんのりと暖かい。作業台の上には、浮き木の皮を削って丸め、樹液を固めた黒っぽい層で薄く包んだ、親指の先くらいの芯がいくつも並んでいる。
ゴルドはその芯をひとつ取り、羊飼いの女房から買ってきた灰色の毛糸を、端から巻きつけ始めた。
巻き方は拓海が思っていたよりずっと細かい。同じところに糸が重ならないよう、一周ごとにほんの少しずつ角度を変えて、どの一周も同じ強さで引く。ゆるすぎれば芯が中で遊び、きつすぎれば糸が食いこんで形がいびつになる。
「……やってみろ」
渡された芯は手のひらの中で思ったより軽い。見よう見まねで三周ほど巻いたところで、ゴルドの太い指が、拓海の手の上から糸をつまんだ。
「……強すぎる」
「え、これで?」
「……指で引くな。手首で引け」
言われたとおりにすると、糸はすっと芯に沿った。不思議なもので、何十周も巻くうちに、指が勝手に加減を覚えてくる。しゅる、しゅる、と毛糸が芯をこする小さな音だけが静かな店に響いて、灰色の球が少しずつ大きくなっていく。
「……お前は」
しばらくして、ゴルドがぽつりと言った。
「これを、投げるのか」
拓海の手が止まった。
「……ワイは、ええわ。見るほうが好きやねん」
ゴルドは何も言わなかった。ただ、拓海の巻いた毛糸の球を手に取って指で押し、戻ってくる手ごたえを確かめる。
「……うむ。いい巻きだ」
それが、拓海がこの町に来て、初めて褒められた言葉だった。皿洗いでもじゃがいもの皮むきでもなく、野球の道具を作る手を。
帰り道、二つの月の下で、拓海は自分の右手を何度も握ったり開いたりした。指先には、毛糸のざらついた感触がまだ残っている。
* * *
四日目の朝、ゴルドの店の作業台に、それが並んでいた。
白っぽい木のバット。握りの部分は細く、先に向かってゆるやかに太くなり、表面はなめらかに磨かれている。そして、ボールが二つ。
どちらも少しくすんだ白の牛革で、赤く染めた糸の縫い目が二重に走っている。見た目では、まるで区別がつかない。
「……こっちは、お前が巻いた方だ」
片方を指さしてから、ゴルドはもう片方に指を移した。
「こっちは俺が、きつめに巻いたもの。……どっちがいい」
「打ってみな、わからへんな」
自分の巻いたほうを手に取ると、重さは記憶にあるより少しだけ軽い気がした。それでも、手のひらに吸いつくような感触は、まぎれもなく硬式球だ。指が勝手に縫い目を探す。
拓海はそっとボールを作業台に戻した。それから、スマホを取り出した。
『40:風吹けば名無し:報告 ボールとバットできた 鍛冶屋のおっさん有能すぎる』
『41:風吹けば名無し:はえーすっごい』
『42:風吹けば名無し:画像はよ』
『43:風吹けば名無し:(どうせAI)』
『44:風吹けば名無し:ほな試し打ちや』
試し打ちは町の外れの空き地ですることになった。拓海がバットを、ゴルドがボールを持つ。といっても、ゴルドに投げ方を教える余裕はなかったので、下からふわりと放ってもらうことにした。いわゆるトスバッティングだ。
構える。グリップを握る。木の感触が手のひらの皮にざらりと当たる。一年ぶりだった。
ゴルドが拓海の巻いたほうを下から放る。山なりの、ゆっくりした球。腰を回して、拓海はバットを振った。こん、と乾いた音がして、ボールは低く飛び、空き地の端の草むらに転がった。
「……おお」
思わず声が出た。手のひらに、打った瞬間の感触が残っている。少し鈍い。でも、悪くない。自分の巻きが、少し甘かったのかもしれない。それでも、ちゃんと、ボールだった。
いつの間にか、空き地の柵の向こうに町の子どもたちが集まっていた。五、六人が、不思議そうにこちらを見ている。
「次、そっちの」
返事の代わりに、ゴルドはきつく巻いたほうを同じように放った。さっきと同じように振ると、かぁん、と、まったく違う音がした。
ボールは空に吸いこまれた。低く飛ぶはずの角度で当てたのに、ぐんぐん伸びていく。空き地を越え、畑を越え、町を囲む石の塀を越えて、青空の向こうにぽつんと消えた。
拓海もゴルドも、柵の向こうの子どもたちも、ボールの消えたあたりの空を見たまま、しばらく声が出ない。それから、子どもたちが一斉に叫んだ。
「すげえええ!」
「見た? 見た? 塀の向こうまで行った!」
「もう一回! もう一回やって!」
巻きが甘いと飛ばへんし、きつすぎると飛びすぎる。拓海はなんJの書き込みを、ぼんやりと思い出していた。
ポケットの中で、スマホが震えた。拓海はぼうぜんとしたまま、それを取り出して打ち込んだ。
『50:風吹けば名無し:報告 毛糸をきつく巻いたボール、町の塀越えたンゴ 柵の外で見とった町の子どもらが「もう一回!」って大騒ぎや』
『51:風吹けば名無し:飛ぶボールやんけ!』
『52:風吹けば名無し:飛ぶボールやめろって言うたやろ』
『53:風吹けば名無し:異世界でも統一球問題勃発で草』
『54:風吹けば名無し:イッチがパワーあるだけちゃうんか』
『55:風吹けば名無し:イッチ元投手やろ? 打者としてはどうなん』
最後のレスに、拓海は少しだけ指を止めた。元投手、とは書いていないはずだ。過去のスレを読み返されたのかもしれない。あるいはなんとなく、そう見えたのか。画面の右上を見ると、電池は十九パーセントになっていた。子どもたちの歓声のぶんだ。
「……うむ」
塀の向こうの空を見上げたまま、ゴルドは腕を組んでいる。
「……どっちがいい」
「最初のほうがマシやな。きつく巻いたほうは、飛びすぎて試合が壊れる」
「……試合?」
拓海は答えに詰まった。ゴルドはそれ以上聞かずに、草むらから最初のボールを拾ってきて、拓海の手に載せる。
誰かがこれをちゃんと投げてくれないと、試すこともできない。手の中のボールを見下ろして、拓海はそう思った。
自分では、投げられないのだから。
* * *
その夜も黄金のじゃがいも亭は満席だった。
皿洗いの合間に、拓海は厨房の入り口から店の様子をうかがっていた。ボールはゴルドに頼んで、もう三つ作ってもらうことになっている。毛糸は、拓海の巻きより固く、ゴルドの巻きより少しだけ緩く。問題は投げる人間だった。
ボルグは力がありすぎて、ボールを握りつぶしそうだ。ハンスは肩こそ強そうだが、腕の振り方が完全に荷物を放り投げる人のそれだった。ゴルドはゴルドで、投げるより作るほうがいいと首を振った。
拓海が溜め息をついたとき、店の奥のテーブルで、椅子の倒れる音がした。
見ると、赤ら顔の男が立ち上がって、隣の旅人の胸ぐらをつかんでいた。誰かの肩がぶつかったとか、酒をこぼしたとか、そんなことらしい。周りの客が「やめとけ」と声をかけても男は聞かず、拳を振り上げる。
そのとき、拓海の横を何かが通り過ぎた。リタだった。
カウンターの端で、彼女はまだ皮のついたじゃがいもを一個、つかんでいた。拓海の目の前で、リタの左足がすっと前に出る。腰がひねられ、肩が回り、右腕が鞭のようにしなった。ひゅっ、と空気を裂く音がする。
じゃがいもは店の端から端まで、ほとんど山なりにならずに飛び、赤ら顔の男の額の真ん中に、ごつん、と命中した。男はぐらりと揺れ、振り上げた拳をそのままに、すとんと椅子に尻もちをつく。
「うちの店で喧嘩はなし! 次やったら二個いくからね!」
店じゅうがどっと沸いた。客たちが手を叩き、「出た、リタの一投!」「今日もど真ん中だ!」と笑う。どうやら、珍しいことではないらしい。
拓海は動けなかった。見えていた。全部、見えていた。
踏み出した足の位置。体の開きの遅さ。腕が遅れて、最後に鞭のように振られる、その順番。肘は肩より上がり、手首は最後まで返っていなかった。教えて身につくものではない。何年も薪を割り、樽を運び、毎晩のように酔っぱらいを黙らせてきた体が、勝手に覚えた投げ方だ。
店の歓声に合わせて、ポケットの中でスマホが震え続けていた。厨房の陰に引っこんで、拓海は震える指で打ち込む。
『60:風吹けば名無し:おった 投げられるやつ 酒場の看板娘 じゃがいもで酔っぱらい一撃や』
『61:風吹けば名無し:は?』
『62:風吹けば名無し:看板娘がエース候補とか属性盛りすぎやろ』
『63:風吹けば名無し:異世界のじゃがいも、何キロ出とるんや』
『64:風吹けば名無し:文面からでも興奮が伝わってくるの草』
『65:風吹けば名無し:はよスカウトしてこい』
『66:風吹けば名無し:ドラフト1位指名や』
店が閉まったあと、拓海が最後の皿を拭いていると、リタが厨房に入ってきた。手には、さっきの騒ぎで床に転がったじゃがいもを持っている。
「これ、もったいないから明日のスープに入れちゃおう」
リタが桶の水でじゃがいもの泥を落とし始める。その手もとを、拓海は布巾を持ったまま見ていた。
「なあ。さっきの、どこで覚えたん」
「さっきの? ああ、じゃがいも?」
リタは少し考えてから、濡れた手のまま肩をすくめた。
「覚えたっていうか、小さいころから、畑のカラスを石で追い払ってたの。お父さんが『当てるな、驚かすだけにしろ』って言うから、カラスのすぐ横の杭を狙うようにしてたら、そのうち、だいたい思ったところに行くようになった」
「杭に?」
「うん。杭に。あと、樽の栓を投げて戻すのとか。お客さんが酔っぱらって喧嘩しだしたら、手近なもので黙らせるのとか」
最後のは、普通の看板娘はしないと思う。喉もとまで出かかったその言葉を、拓海は黙って飲みこんだ。
「なんで? 変?」
「変ちゃう。……すごいと思っただけや」
リタは目を瞬かせてから、少しだけ照れたように笑った。
「イッチ、褒めるときだけ、声がちっちゃくなるね」
拓海は返事をせずに、拭き終えた皿を棚に戻した。
* * *
翌朝、店を開ける前の裏庭で、拓海はリタに牛革のボールを差し出した。
「これ、投げてみてくれへん?」
「これって、ゴルドさんに作ってもらってたやつ?」
ボールを受け取ったリタは、手のひらの上でそれを転がしながら、縫い目を指でなぞる。
「きれいだね。お守りみたい」
「何でもお守りになるやん。ちゃうで、投げるもんや。こう、この縫い目に指をかけて」
拓海は自分の右手で、ボールを持つふりをしてみせた。人差し指と中指を、縫い目に直角にかける。親指は下から添える。
見よう見まねで握ったリタの指は少しぎこちない。その手を取って、拓海が指の位置を直してやると、皿洗いと水仕事で荒れた指先は温かかった。
「で、あたしがこれを投げて、どうするの?」
「ワイが捕る」
ゴルドが革の端切れと綿で作ってくれた、分厚い手袋をはめる。グローブとは呼べない代物だが、素手よりはましだ。裏庭の端、井戸の脇に立ち、構える。距離はマウンドからホームくらいの、十八メートルと少し。測る道具はなかったが、身体が距離を覚えていた。
「ほんまに軽くでええから」
「軽くって、どれくらい?」
「酔っぱらいに投げるときの、半分くらい」
「えー、それ難しい」
リタは笑って、左足を上げた。昨夜と同じ、しなやかな流れ。腕が遅れて出てくる。
ばしん、と、手袋の中で音が弾けた。手のひらがじんと痺れて、見下ろすと、ボールはちゃんとそこにあった。構えたところから、ほとんど動いていない。
「……半分って言うたやん」
「半分だよ?」
リタはきょとんとしている。
拓海はボールを握りしめた。痺れた手のひらの中で、縫い目がかすかに指に食いこむ。その痛みがひどく懐かしい。
「もう一球」
「いいけど、イッチ、なんか顔が怖いよ」
「ええから」
それから二十球ほど、リタは投げた。最初のうちはあちこちに散らばっていたボールが、十球を過ぎたころから、拓海の構えた手袋に、すとん、すとんと収まり始める。教えたのは、握りと、狙う場所だけだ。最後の一球を捕ったとき、拓海の手のひらは真っ赤に腫れていた。
「ねえ、イッチ」
額の汗をぬぐいながら、リタが言った。
「これ、楽しいね。狙ったところに、ぴたって入るの。じゃがいもより、ずっといい」
拓海は何か言おうとして、うまい言葉が見つからないまま、腫れた手のひらをそっと握りこんだ。
「で、これ、どうやって遊ぶの? あたしが投げて、イッチが捕るだけ?」
「ちゃう。投げる人がおって、打つ人がおって、守る人がおって……」
「何人いるの?」
少し考えてから、拓海は答えた。
「一チーム九人。試合やるなら、二チームで十八人や」
目を丸くしたリタが裏庭を見回す。拓海と、自分と、井戸と、洗濯物の干された縄。
「……あと十六人?」
「あと十六人やな」
店の表から、リタの父の低い声が娘を呼んだ。リタは「はーい」と返事をして、ボールを拓海の手に返し、駆けていく。
ひとり残された裏庭で、腫れた手のひらの上のボールに目を落としてから、拓海はポケットからスマホを出した。二十四パーセント。リタが投げているあいだ、裏庭には誰もいなかったのに、それでも電池は少しだけ増えていた。
歓声ではない何かでも、増えるのかもしれない。
そのことを書き込もうとして、やめる。代わりに、こう打った。
『70:風吹けば名無し:エース見つけた あと十六人や』




